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★親鸞聖人★コミュの浄土真宗に多い、誤った信心について

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【十劫安心】

現在の浄土真宗の人たちの中には、
「阿弥陀仏が成仏された十劫の昔に、すでに我々は助かってしまっている。そのことを、ああそうだったのかと気付いた時が信心で、真剣に聞き求めることは必要ない」
と考えている人がいる。
 これを【十劫安心】といい、浄土真宗の、最も典型的な異安心(親鸞聖人の教えと異なる信心)の一つである。十劫秘事、十劫領解とも言う。
  蓮如上人の在世から、越前の国において、この十劫安心が広まっていたため、上人はご文章に

●「『十劫正覚の初めより、我らが往生を、弥陀如来の定めましましたまえることを忘れぬがすなわち信心のすがたなり』と言えり。
これ、さらに弥陀に帰命して、他力の信心を獲たる分はなし」

と何箇所も書かれ、「十劫の昔にみな助かっている」と考えるのは、断じて他力の信心ではないのだと断言なされ、その誤りを打ち破っておられる。

 「すでに皆助かってしまっている」と考える人達は、他力の信心を獲得したかどうか、弥陀に帰命(仰せに従うこと)したかどうかという、真宗の肝要である【信の一念】を無視するのが大きな特徴である。
だから【無帰命安心】(弥陀に帰命したかどうかを問題にしない異安心)とも言われる。かれらは共通して、次のように主張する。

 「救われてもそんなにハッキリするものではない」
 「この世で助かったということなどない」
 「阿弥陀さまの御心は、念仏となって今ここに届いて下されている」
 「一念を強調するのは、間違いだ」
 「一念が、凡夫にそんなにハッキリするものではない」
 「真剣に聞き求めることは必要ない」
 「なーんだ、十劫の昔に助かっていたのか」

これらは十劫安心の人達の典型的な主張である。

いかに十劫の昔に我々を助ける力のある薬(南無阿弥陀仏の名号)が成就しても、薬を飲まなければ助からない。薬を飲んだ時が、名号と私が一体になった時(信の一念)で、そのことを信心獲得とか信心決定と言われる。だからこそ、善知識方はいずれも「信をとれ」とか「弥陀をたのめ」とか、信心獲得をすすめられるのだ。みな助かっているならば、真剣な聞法を勧める必要は全くないはずである。

浄土真宗で、他力の信心かどうかの基準となる善知識は、開祖である親鸞聖人、3代目の覚如上人、8代目の蓮如上人であるが、いずれも【信の一念】を、あらゆるご著書にハッキリ教えておられる。一念を教えられた、これらのお言葉は枚挙にいとまがない。

●「一念とは、これ信楽開発の時尅の極促をあらわし、広大難思の慶心をあらわすなり」
                親鸞聖人(教行信証)
●「能く一念喜愛の心を発せば」 親鸞聖人(正信偈)
●「一念慶喜の真実信」     親鸞聖人(尊号真像銘文)
●「一念慶喜する人は往生必ず定まりぬ」
親鸞聖人(浄土和讃)

●「平生の一念によりて、往生の得否は定まれるものなり」
                覚如上人  (執持鈔)
●「生死流転の本源をつなぐ自力の迷情、共発金剛心の一念に破れて」
                覚如上人  (改邪鈔)
●「真宗の肝要、一念往生をもって淵源とす」
                覚如上人  (口伝鈔)
●「一念発起・入正定之聚とも釈し」
                蓮如上人  (御文章)
●「一念をもっては往生治定の時刻と定めて」
                蓮如上人  (御文章)
●「たのむ一念のところ肝要なり」
                蓮如上人(御一代記聞書)

親鸞聖人を始めとして、真宗の歴代の善知識方は、口をそろえて

「弥陀の救いには、今救われたという信の一念がある。
平生ただ今、弥陀の本願への疑いが晴れて、大満足し、ハッキリと浄土往生の身に定まるのだ」と教えておられる。

浄土真宗においては、真実の信心かどうかは3人の善知識方を基準にし、これらの方々の教えと異なる信心は全て異安心とおしえられる。

弥陀に帰命したかどうかの【信の一念】は浄土真宗の極意であり、肝要であり、淵源であるから、【信の一念】を説かない教えやこれを否定する人は、もはや浄土真宗でもなければ、親鸞聖人の教えでもないことは明々白々であり、この最も大事な【信の一念】をハッキリ説かない浄土真宗は衰退が必至である。

信の一念を説くということは、救われる前と救われた後の違いを明確にするということで、この一念の水際を鮮やかに説き切る方を善知識と言われる。親鸞聖人や蓮如上人のお言葉を出して、信前信後の水際、変わり目、信の一念をハッキリ説いて下さる方から、聴聞させていただくことが、他力の信心獲得するためには極めて重要である。

コメント(94)

>夢から覚めた時というのは、
>覚めたその時ですか?それとも覚めたと
>認識した時ですか?

覚めた時と覚めたと認識した時は同じでしょう。
覚めて初めて、覚めた事が認識できるのですから。

>他の人が信心決定しているかしていないかは、
>わかるんですね?

わかりません。
ただし、親鸞聖人や蓮如上人などの善智識が
信心決定しているかどうかには全く議論の余地が
ありません。
もしそれを疑うなら、いくら親鸞聖人のお言葉を
挙げても意味がないことになります。


>信心決定していない人が、信心を勧めることは
>ありますか?そして、その信心決定していない人に
>信心を勧められて、信心決定することはありますか?

もちろんあります。お聖教の通りに正しく教えを
説いている(信の一念を水際立てて説く)ならば、
それを聞く人が信心決定することはありえます。




>鏡のたとえはあまり信心のたとえとしては
>ふさわしくないように思いますが。

鏡のたとえが表していることは
「今まで見えなかった自分の姿が鏡に近付くにつれて
 見えてくる」
ということで、一念の信心を表すには
確かにふさわしくないと思います。
>以前ある本を読んだとき、「歓喜正因」という異安心が
>あると書いていましたが、これはどういうことですか

「歓喜正因」とは異安心の一つで、文字通り、
歓喜の心が起きたことをもって信心決定したと
判断することです。

信心決定したら必ず大驚喜の心が起きます。
これは「必ず」です。
正信偈に
「獲信見敬大驚喜」とあるとおりです。
お聖教にはこのようなお言葉は
山のようにあります。

しかし喜んでいるかどうかで、信心決定したかどうかを
判定することはできないと言うことです。
信心決定する前でも、喜びはいくらでもありますので。

浄土真宗で信心決定したかどうかは
【信疑決判】と言って、弥陀の本願に対する疑いが
晴れたかどうかのみで決します。

言葉を換えれば、【二種深信】
(「極楽行き間違いなし」と「地獄行き間違いなし」が
 一念同時に知らされること)
が立ったかどうかということです。

これが「信心(イコール二種深信)正因」の教えです。

>ハイジさん

>南無阿弥陀仏を受け取らせようとする心は、
>南無阿弥陀仏(仏の心)ではないのですね。
>とすると、南無阿弥陀仏を受け取らせようとする心と、
>南無阿弥陀仏(仏心)は別物ですか?

阿弥陀仏が私たちに与えるために
つくられたのが南無阿弥陀仏の名号です。
名号の中に仏心が収められているので、
この六字の中には大変な功徳が
おさめられています。

名号を与えようとするはたらきを
調熟の光明と言うのです。

その名号を信の一念に頂いた時が
他力の信心決定した時です。


>よく名号という言葉を聞きます。
>これは南無阿弥陀仏のことだと理解していますが、
>名号とは字の南無阿弥陀仏ですか?
>声の南無阿弥陀仏ですか?心の南無阿弥陀仏ですか?

南無阿弥陀仏の六字のことで、この六字の中に
仏心がおさめられています。
南無阿弥陀仏と一体になったときが信心決定で、
救われたご恩報謝に唱えるのが念仏です。
名号とは六字のことを指し、それが衆生と
一体になると「信心」になり、口から出れば
「念仏」になります。
>歓喜と大驚喜は、同じ意味ですか?

同じです。字は「大慶喜」でした。
失礼しました。

>信心決定する前でも、歓喜や大驚喜があるんですか?

親鸞聖人の本当の教えを聞かせていただけば、
信前でも喜びの心は当然起きます。

>知り合いに、「極楽行き間違いなし」と
>「地獄行き間違いなし」がハッキリしたという人が
>いましたが、この人のようなのが二種深信と
>いうのですね?

一念同時にその二つがツユチリの疑いもなく
はっきりすれば、二種深信であり、
信心決定したということになります。



>「今まで見えなかった自分の姿が鏡に近付くに
>つれて見えてくる」というのは、
>信心のことではないんですんね?


それはあくまで自力の信心のことで、
他力の信心決定したときに知らされる地獄一定の
己のすがたは段々知らされるものではなく、
信の一念で知らされます。
>ハイジさん

失礼ですが、あなたの質問は揚げ足とりのようなものが
大変多く、一体何を聞きたいのか、核心が一向に
見えてきません。

そもそも親鸞聖人が信心決定したかどうかが
疑わしいのなら、親鸞聖人のお言葉を出して
説明しても意味がないことだと思いますが。
>adacomさん

ご無沙汰しております。
いかがお過ごしでしょうか?

前回、貴方様に私が質問させて頂いてから、
四ヶ月が経過しましたが、未だに回答を頂いておりません。

貴方が説明責任を果たさ(せ)ないということは、
貴方の一切の発言が【捏造】された【虚偽】のものであると、
みなしてよいということでしょうか?


他宗を「自力の念仏」と批判した以上、
それに対して反論があった場合は、
回答する義務が発生するのではないかと思います。

それにも関わらず、何の回答もなく、
無視し続ける知的誠実さに欠ける態度は、
いかがなものかと思います。

顔の見えないネットとはいえ、
ここは浄土門の教えについて真剣に語る場なのですから、
最低限のマナーは守られては如何でしょう?
論証責任も果たさ(せ)ないまま、
一方的に特定の人や団体を「異安心」と断言する人がいますが、
知的誠実さに欠ける、非常に無責任な態度だと思います。

「異安心」認定は、確かなガイドラインに基づいて、
慎重に行われなければならないと思います。

さもないと、「俺が異安心だと思うからあいつは異安心だ!」
と言い出す人が次々と現れてくると思います。


専門外ではありますが、ガイドラインを作ってみましたので、
この「案」をたたき台にして、いろんな人に意見を頂いて、
より良いガイドラインが作成できればと思います。


【「異安心」を認定する際のガイドライン(案)】
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=26894810&comment_count=0&comm_id=2135313



> いとーさん
とりいそぎ携帯から、他宗が自力の念仏というより、他力の信心を獲得していないひとの念仏が自力と、いうことでしょう
> よねさんさん
はじめまして。

失礼ですが、私の書いた文章をきちんとお読みになっておられますでしょうか?

論証責任を果たさ(せ)ない虚偽の情報に基づき他を陥れ、
論拠に基づき抗議しても、謝罪も発言の撤回もない人物の、
知的誠実さの欠如を私は問題にしております。

勝手に、論点をスライドして頂いては困ります。
> いとーさん

はじめまして

アカデミックさんがなにをもって他宗を自力念仏というのかわたしにはわかりません、

ただ浄土宗の開祖の善恵房証空が諸行往生を三大じょう論のとき称えたのを根拠にそういった他宗の念仏だといったのではないかと思っただけです。

詳しい話しはパソコンで確認したいと思います。
> よねさんさん
まずは、私とA氏とのやり取りをきちんとお読みになった上で発言ください。

いろいろと申し上げたいことがありますが、
コメントを読ませて頂いた上で申し上げます。
> いとーさん

ガイドライン読むまでちょっと待ってください。
> よねさんさん
どうぞどうぞ。
ゆっくりで結構です。

ずっとA氏に無視されて、待つことに馴れてきましたしね。
>いとーさん

いとーさんの学問の深さ、理解の深さにおどろきます。

ガイドラインをみるといとーさんの主張として
浄土宗は念仏すればすくわれるという19、20願のおしえでなくて、
浄土宗も他力の信心を具足しなければ助からないと教えるということでいいでしょうか?

しかも信心を具足したときはあきらかな自覚があるとみとめているようですが・・

現在の浄土宗の他のかたがたもそのような理解をされているのでしょうか?

以上、よろしくお願いいたします。
> よねさんさん
コメントありがとうございます。

いろいろ申し挙げたいことがございますが、
その前に看過することができない明らかな虚偽の発言がありますので、まずは指摘させて頂きます。


>76

>浄土宗の開祖の善恵房証空

浄土宗の開祖は法然上人です。
以下、根拠となる資料を掲載します。


1)本人の証言

「我今浄土宗を立つる意趣は、凡夫の報土にむまるることを示さんがためなり」
(『勅伝』巻六、『一期物語』昭法全p.440、『浄土立宗の御詞』昭法全p.481)

と法然上人ご自身が述べておられます。

 法然上人が浄土宗を開宗するまで「浄土宗」というものはありませんでした。それまでなかった「浄土宗」を法然上人が新たに立てたのです。


2)同時代の批判

 法然上人が、それまで存在しなかった「浄土宗」を新たに立てたために、

「新宗を立つる失」
(貞慶『興福寺奏状』日本思想体系15「鎌倉旧仏教」pp.32-33)

「八宗九宗の外に浄土宗を立つる事、自由の条かな、と余宗の人の申し候をばいかが・・」
(「十二問答」聖典4巻p.433)

というように、法然上人は同時代の他宗の人から反発を受けています。


つづく
3)「宗」について

 貴方様の間違いは、「宗」というものが指し示す概念を理解していないことに起因します。

「宗」とは、「道理」「主張」「定説」を意味するもので、『倶舎論』においては「毘婆沙宗」(説一切有部の正統派)、「経部宗」(説一切有部の異端派)という形で使われます。

 最近は「教団」のことを「浄土宗」というように言う場合もありますが、本来「宗」は思想あるいは理論であって人の集団でも教団でもありませんでした、ただ「宗」を奉ずる集団や教団が「宗」に付随していたわけです。

 この「宗」(理論)および宗派(教団)の別れ目になったのが、「釈尊の教説をどう見るか」という聖典解釈です。

 釈尊は相手の能力に応じて、様々に教えを説いてこられました(対機説法)。これによって、八万四千の法門と呼ばれる様々な教えが出来きたのです。

 そして様々な教えがあるため、それぞれの教え同士に矛盾が出てきて、「どの教えが釈尊の真意であるか」ということが問題になったのです。

 部派仏教を例にするならば、「一切は皆苦なり」というのが真意だとするのが経部宗で、「受に三種あり。苦・楽・不苦不楽なり」というのが真意だとするのが毘婆沙宗でした。

 このように「宗」を立てるときには、「どの教えが釈尊の真意であるか」という「聖典解釈」がもっとも重要な別れ目となったわけです。

つづく
 釈尊亡きあと、その解釈は個々の仏教徒の手に委ねられることになり、それによって様々な宗派が立てられました。

 このことに関して法然上人は、「禅勝房に示されける御詞」において、

「宗を立つる事は更に仏説にはあらず、自ら学ぶ所の経論に付きて、その義を覚り極むるなり。諸宗の習い、皆もって此くの如し。」
(宗派を開くことは、もとより釈尊の教えにはない。その宗の祖師が自ら学んできた経典や論書についての理解を極めた結果である。それは各宗ともに開宗の常であり、いずれの宗派も皆、そのような由縁によっている。)
(昭法全p.697)

と述べ、「十二問答」においても、

「宗の名をたつることは仏説にはあらず、みずからこころざすところの経教につきて、存じたる義を学しきわめて、宗義を判ずることなり。諸宗のならい、みなかくのごとし。」
(昭法全p.632)

と述べておられます。


 膨大にある釈尊の教説の中で、

「すべては心であるとする説が真意」とする法相宗
「すべては空であるとする説が真意」とする三論宗
「華厳経の説が真意」とする華厳宗
「密教の教えが真意」とする真言宗
「法華経の説が真意」とする天台宗

これらと同じように、

「浄土三部経の説が真意である」とする浄土宗を、法然上人が初めて開かれたのです。

 わが国で、法然上人のような意味での「宗」を開いた人は他にはおらず、そこが法然上人の最も大きな思想史的意義であるとさえ仰る方もおられます。




4)「浄土宗」=「浄土真宗」

 以上を踏まえて以下の親鸞聖人の言葉をご覧いただきたいと思います。

「智慧光のちからより本師源空あらはれて浄土真宗をひらきつつ選択本願のべたまふ」
(『高僧和讃』浄土真宗聖典p.595)

 親鸞聖人は、法然上人がお立てになられた「宗」を「浄土真宗」と述べておられます。

 法然上人にとっての「浄土宗」と親鸞聖人にとっての「浄土真宗」は同じものであり、どちらも法然上人がお立てになられたものなのです。


つづく
さて、

>浄土宗の開祖の善恵房証空

貴方様のこの発言は、貴方の事実誤認に起因するものでしょうか?

それとも、どなたかの発言を検証することもなく鵜呑みにしたことに起因するものでしょうか?

貴方の事実誤認であれば、速やかに発言を撤回してください。
貴方に虚偽の情報を伝えた方がいるなれば、その発言を検証しなかったことを反省するとともに、
そのような虚偽の情報を貴方に伝えた方に抗議してください。


私に対する質問にお答えするのは、それからです。
> いとーさん

コメントありがとうございます。

浄土宗の開祖のことについては人づてに聞いたことでした。
法念上人が浄土宗の開祖ということは知ってはいたのですが
私は法然上人も親鸞聖人も同じ他力の信心に住していたかたと拝していましたので不体失往生をとなえた善恵房証空のながれがいまの浄土宗になったのだと理解してました。

深くお詫び申し上げます、
前言撤回させていただきます。
>よねさんさん
私に「お詫び」頂く必要はございませんが、
虚偽の情報を流布する害毒は看過できません。

貴方に聞かせた方も含めて、このような発言は今後は謹んで頂きたいと思います。



ついでなので、申し上げておきましょう。

>76

>善恵房証空が諸行往生を三大じょう論のとき称えた

>86

>不体失往生をとなえた善恵房証空のながれがいまの浄土宗になったのだと理解してました。
(※おそらく「体失往生をとなえた善恵房証空のながれが・・」とお書きになったつもりでしょうね。。)

この発言も、私に言わせれば「不当」でございます。

善恵房証空上人は、往生は平生に定まるという「即便往生」をお説きになられていることは、証空上人御本人の著作を御覧になれば明かです。

●三心発る時即便往生す、此時正しく仏も成仏し衆生も往生す。(『定散料簡義』)

しかも、この記述から「三心発る時」に「往生」が決定するという主張をされていることも明かです。

貴方の発言は、おそらく『口伝鈔』に基づく見解であると思いますが(※)、
ガイドラインを御覧になって頂いたならば、ご理解頂けると思いますが、
貴方の発言は、『口伝鈔』をお書きになった覚如上人に権威を認める範囲でしか通容しないものです。

このような限れた文化にしか通容しない「伝承」レベルの話を用いて、
他宗を陥れるようなやり方は、少なくとも私は絶対に認めることはできません。


この点も、ご理解頂けましたでしょうか?



(※)
 上人[親鸞]のたまはく、先師聖人[源空]の御とき、はかりなき法文諍論のことありき。善信(親鸞)は、「念仏往生の機は体失せずして往生をとぐ」といふ。小坂の善恵房[証空]は、「体失してこそ往生はとぐれ」と[云々]。この相論なり。
 ここに同朋のなかに勝劣を分別せんがために、あまた大師聖人[源空]の御前に参じて申されていはく、「善信御房と善恵御房と法文諍論のことはんべり」とて、かみくだんのおもむきを一々にのべまうさるるところに、大師聖人[源空]の仰せにのたまはく、善信房の体失せずして往生すとたてらるる条は、やがて「さぞ」と御証判あり。善恵房の体失してこそ往生はとぐれとたてらるるも、またやがて「さぞ」と仰せあり。
 これによりて両方の是非わきまへがたきあひだ、そのむねを衆中よりかさねてたづねまうすところに、仰せにのたまはく、「善恵房の体失して往生するよしのぶるは、諸行往生の機なればなり。善信房の体失せずして往生するよし申さるるは、念仏往生の機なればなり。〈如来教法元無二〉(法事讃・下)なれども、〈正為衆生機不同〉(同・下)なれば、わが根機にまかせて領解する条、宿善の厚薄によるなり。念仏往生は仏の本願なり、諸行往生は本願にあらず。念仏往生には臨終の善悪を沙汰せず、至心信楽の帰命の一心、他力より定まるとき、即得往生住不退転の道理を、善知識にあうて聞持する平生のきざみに治定するあひだ、この穢体亡失せずといへども、業事成弁すれば体失せずして往生すといはるるか。本願の文あきらかなり、かれをみるべし。つぎに諸行往生の機は臨終を期し、来迎をまちえずしては胎生辺地までも生るべからず。このゆゑにこの穢体亡失するときならでは、その期するところなきによりてそのむねをのぶるか。第十九の願にみえたり。勝劣の一段におきては、念仏往生は本願なるについて、あまねく十方衆生にわたる。諸行往生は、非本願なるによりて定散の機にかぎる。本願念仏の機の不体失往生と、非本願諸行往生の機の体失往生と、殿最懸隔にあらずや。いづれも文釈ことばにさきだちて歴然なり」。
>>いとーさん

ほんとに勉学熱心でおそれいります。

おっしゃるとおり口伝抄にあることばから体失往生をとなえたともうしました。

しかし、善恵房の主張は三心具足したときにたすかるとおおせですので
わたしもいちど善恵房証空の著作を時間の空いたときに読もうと思います。

ところで覚如上人の権威は特定の文化でしかつうようしないとおおせですが、
私は親鸞聖人と同じく他力の信心を頂いた方と拝します。

「われすでに本願の名号を持念す、往生の業すでに成弁することを喜ぶ」
 (執持抄)

覚如上人が親鸞聖人の教えと反するところがあるとおもわれればあげてください。
> よねさんさん
失礼ですが、私のガイドラインを本当に読まれたのでしょうか?

私は覚如上人の「信心」や「教え」について、何も申しておりません。
貴方が覚如上人の権威を認められるのは自由であり、
それに関してとやかく申しあげるつもりはございません。

私が申し上げていることを全く理解していない、
的ハズレな質問をして頂いても困ります。


仮に、私が所属している教団にのみ伝わる伝承でもって、
貴方が所属している教団を「異安心」扱いしたらどう思いますか?

おかしいでしょ?

私が申し上げているのはそういうことです。

教義云々の問題ではなく、それ以前の一般常識レベルの話です。


今回の貴方の発言には非常に失望しました。

今後は、あらかじめ脳内にある回路に基づいて思考するのではなく、
相手の意見を正確に読み取る訓練をされた方が、よろしいのではと思います。
>仮に、私が所属している教団にのみ伝わる伝承でもって、
>貴方が所属している教団を「異安心」扱いしたらどう思いますか?

>おかしいでしょ?

わたしはそうはおもいません。
「この法をば信ずる衆生もあり、そしる衆生もあり」

とありますように、そのようなことがおきて当然だと思います。

もし他の文化の価値判断で私を異安人扱いしたならば、どちらが
ただしい案心かを明らかにすればよいだけの話しです。
親鸞聖人の正意をあきらかにするチャンスと思っております。

私がもっとも知りたいのははたして浄土宗が親鸞聖人の開見する他力信心と自力信心の水際を浄土宗も明らかにしているかということです。

このことで覚如上人の口伝抄でのべていることと、善恵房房証空の著作で衝突がおきましたので、どちらが本当かあきらかにしたいだけであります。

覚如上人の権威をみとめるとは、どういういみなのか?
教え勧める安心が親鸞しょうにんとことなるということなのか?
それとも別の意味なのか?

もし安心が異なるというのならば、そう思っているすべての人に対して
もうしあげてくださいと、いいました。

そっちょくに、いとーさんは覚如上人の権威をみとめますか?
それともみとめませんか?
みとめないならばそれはどういう意味で認めないのかを御教授ねがいます。

もし安心が親鸞聖人と一味だけれども善恵房証空の教えと違うことが
覚如上人につたわったということならばわたしも善恵房殿の著作をよんで確かめたいと思う所存であります。
>89

話のわかる方かと思っておりましたが、
どうやら貴方を買いかぶり過ぎていたようですね。

遠回しに申し上げておりましたが、
貴方がわかるように、もう少しわかりやすく言いましょう。


●三心発る時即便往生す、此時正しく仏も成仏し衆生も往生す。(『定散料簡義』)
 ↑
これは証空上人【本人】(1177年-1247年)の著作による記述です。

一方、『口伝鈔』の成立は1331年です。

没後百年近くに成立した著作に基づく「伝承」が、
【本人】の発言と抵触した場合に、その「伝承」を「史実」として扱うことが可能でしょうか?

私は「学問的な観点」から、それが「不可能」であると申し上げているのです。



>>覚如上人の口伝抄でのべていることと、善恵房房証空の著作で衝突がおきましたので、どちらが本当かあきらかにしたいだけであります。

「学問的な観点」からは、衝突などおきていないのです。
衝突がおきているのは、貴方の脳内だけです。


ただし、貴方が覚如上人の書かれた『口伝鈔』に書かれた記述を「史実」であると信じることに関して、私がとやかく申し上げることはございません。

これを「文化の違い」と申し上げているのです。
私が作製したガイドラインを、どうやら貴方は御覧になっていなかったようですので、
もう一度こちらに引用させて頂きます。


http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=26894810&comm_id=2135313

(中略)

★事前に準備するもの

ある特定の個人や団体を「異安心」と認定するために、
事前に準備しておかなければならないものを、
列挙しておきますので、まずはこれを入手しましょう。

a)「異安心」疑惑のある個人や団体の著書や公式HPなどの資料

 どのような「信心」であるかを知らなければ、
「異安心」かどうかは、わかりませんので、
 必ずきちんとした資料を収集しましょう。

 所謂「うわさ話」や、批判サイトや批判書での発言等は、
 事実誤認があったり、捏造された資料である可能性がありますので、
 資料としては認められません。

b)正しい「安心」の基準となるテキスト

 「異安心」であることを認定するするためには、
 正しい「安心」がいかなるものであるかを知らなければなりません。
 これらの資料が浄土真宗における正しい「信心」の判定基準になりますので、
 必ず用意しましょう。

 ただしこのテキストは、a)の立ち位置に応じて、
 以下のように使い分けられます。

 (b-1)浄土真宗内で、異安心を論じる場合は、
  「浄土三部経・七高祖・親鸞聖人」までを基準にする。
 (b-2)東西本願寺派における覚如上人・蓮如上人、高田派における真慧上人など、
  浄土真宗でも、特定の派にのみ権威を認められている文献は、
  判定基準としては、参照程度の扱いであり、(b-1)に抵触しない場合のみ、
  参照することができる。
 (b-3)親鸞聖人を宗祖と仰ぐ「浄土真宗」以外の、
  法然上人を宗祖と仰ぐ浄土門の教義を判定する際は、
 「浄土三部経・善導大師・法然上人」を基準とする。

(以下略)
繰り返します。

私は「異安心かどうか」を問題にしているのはありません。
「本人の発言に抵触する伝承を史実として扱う」ことを問題にしているのです。

ある人物の信心や教義を論じる際には、
「本人の発言」に基づくべきであると申し上げているだけです。
【地獄秘事】
『真宗大辞典』 第三巻 1528頁(永田文昌堂刊 ISBN4-8162-0101-7 C1515)より


真宗の異安心の一種。
我が身は地獄必定なりと思いつめるを信心なりと主張するを以て、この名を得たのである。
寛政の頃近江国(滋賀県)に東本願寺末寺なる光常寺(同県坂田郡息長村大字新庄に在り)、その外、春道、兵左衛門、次右衛門、彌惣治、丹蔵の5人が主として之を唱え、寛政11年(1799)2月彼等は本山に招致せられて、嗣講鳳嶺の調査を受け、遂にその教諭に服従して局を結びしと云う。
この秘事の徒の主張せし要点は、

一に二種深信は謂ゆる信機と信法との二種にして、二種は同時に起こるに非ず、前後に起こるのであって信機は前なり、信法は後なり。故にまず機を信ぜねばならぬ。既に蓮如上人の御文に「我が身はわろきいたづらものなりと思ひつめて」とあるによりて、我が身はいよいよ地獄ゆきに必定の者なりと落ちきらねばならぬ。かく落ちきれば助くる法は仏の手許に存するを以て、之を眺むるに及ばない。若し誤って法を眺めんとすれば、是れ本願に手をかくるものにして自力である。眺めざるは是れ実に深く法を信じたるなりとして、地獄必定の者なりと信ずるのみを以て信心となした。

二に南無阿弥陀仏の六字の意は機と法の二である。若し阿弥陀仏のみを信ずるときは、遂に南無の二字を信ぜざることゝなる。然るに南無の機を深く信ずるときは、自ら法にもとづくなりとなした。是れ南無の二字と阿弥陀仏の四字とを引き離して、機のみを信ずる説を助成せんとしたのである。

又彼の徒は、御文は一往の説にて月を指す所の指の如くなれば、深く拘泥すべきにあらずと云い、

又、決定心は行者に求むべからず、然るに今時決定したと思い、或いは頼みしと思い、或いは信じたと思うは悉く自力心にして、本願に手をかけたのであると云い、

又絵像木像は虚仮にして、実の仏体は名号なりとして、仏像を軽視したと云う。

江州異安心御教誡と題する調査書に出づ。
 

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