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★親鸞聖人★コミュの信心決定すると何が変わるのか

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他力の信心を獲得(決定)すると、何がどう変わると

親鸞聖人は教えておられるのかを

紹介するトピックです。

コメント(48)

あつしさんへ

あつしさんが抱かれている疑問点は実に的をえていると思います。
宿善、善行、念仏についても、大変誤解されて一世を風靡されてしまっているので大変です。
親鸞聖人や蓮如上人が信前信後を通じて生涯、善行につき進まれたお姿と、今日の浄土真宗とは対照的に思えるのは少なくないようですね。

あの私のコメントには重要な聖人の教えの根基が含まれていますので、繰り返し読んで頂ければ幸いです。

以上、失礼いたしました。
<はらりんさん

ありがとうございます。
くりかえし、拝読させていただきたく存じます。

もしご存知でしたら教えていただきたいのですが、
法座などの情報は、どうすればわかるのでしょうか?

私は福岡県に住んでおります。
法座に連なり、聴聞したいとは思うのですが、
今までそうした縁がなく、どこで聞けるかもよくわかりません。
福岡別院というのが、本願寺からあるようなのですが、インターネットで調べてもよく行事の日程なども載っておりません。
もし、ご存知の方や、調べるのに良い方法などありましたら、教えていただければ本当にありがたく思います。
よろしくお願いします。
>>あつしさんへ

そうですね。インターネットでも調べる方法もありますね。

色んな人から聞いてみて、いい情報があったら後でメッセいたします^^
>はらりんさんへ

はじめまして!
最近このコミュで学ばせていただいている者です。
信心獲得のため、いろいろ過去のトピックを見させてもらっていたのですが、はらりんさんの次のお言葉が非常にインパクトがあったので質問させていただきました。


>信心獲得に向かって、
> 法座で真剣に仏法をきく
> 朝晩の勤行をする
> 廃悪修善の生活態度をとる
>これらすべてが大切です

ここまではっきりと道程を話していただいたことがなかったのでびっくりいたしました。
特に三番目の「廃悪修善」が必要ということは初めて教えていただきました。

お念仏が大事ということは親鸞聖人も幾度となく仰られていて大切にされていたのはわかるのですが、廃悪修善についてはどこで明示されているのかお教えください。

あれほどまでに長々と化身土巻を書かれておられるのでそこにポイントがあるようにも思っていますが見つけられなかったもので・・・

よろしくお願いします。
かんがえちゅうさん、どうもはじめまして!

> 信心獲得のため、
> いろいろ過去のトピックを見させてもらっていたのですが、

信心獲得を目的となさっておられるとのこと、
尊い仏縁に合掌せずにおれません。



> >信心獲得に向かって、
> > 法座で真剣に仏法をきく
> > 朝晩の勤行をする
> > 廃悪修善の生活態度をとる
> >これらすべてが大切です
>
> ここまではっきりと道程を話していただいたことがなかったので
> びっくりいたしました。
> 特に三番目の「廃悪修善」が必要ということは
> 初めて教えていただきました。

かんがえちゅうさんは、「必要」と書き換えておられますが、
私は「大切」と書いてございますので、お間違えのないように。


> お念仏が大事ということは親鸞聖人も幾度となく
> 仰られていて大切にされていたのはわかるのですが、
> 廃悪修善についてはどこで明示されているのかお教えください。

 至心発願欲生と
 十方衆生を方便し
 衆善の仮門ひらきてぞ
 現其人前と願じける

 臨終現前の願により
 釈迦は諸善をことごとく
 観経一部にあらわして
 定散諸機をすすめけり

 諸善万行ことごとく
 至心発願せるゆえに
 往生浄土の方便の
 善とならぬはなかりけり

これら浄土和讃のお言葉で明らかであります。


かんがえちゅうさんにお尋ねいたしますが、
親鸞聖人の教えに、善の勧めはないと思われますか?

 合掌
>はらりんさんへ

ありがとうございます!

まずはじめに
>かんがえちゅうさんは、「必要」と書き換えておられますが、
>私は「大切」と書いてございますので、お間違えのないように。

申し訳ございません。勝手に読み替えていくことは非常に危険かつ失礼なことですね。以後気をつけますので、もしまたそのようなことがございましたらご指摘お願いいたします。



>かんがえちゅうさんにお尋ねいたしますが、
>親鸞聖人の教えに、善の勧めはないと思われますか?

とのご質問ですが善の勧めはないとは思いません。
はらりんさんが示してくだっさった和讃をよくよく読んでみたのですがはっきりと「方便の善」ということを仰られています。間違いなく釈迦仏が勧める諸善を大切にされていたと思います。

ただ、今現在はっきりと親鸞聖人が善を勧めておられるかどうかは私にはまだわかりません。
今私にはっきりとしたことは親鸞聖人は諸善も大切にしていたということまでです。その諸善を信心獲得のために必要なものとして勧めていたかどうかはまだわかりません。

そこではらりんさんにお伺いしたいのですが、親鸞聖人はどのような善を勧め、どのような悪を廃すように勧められていたのですか。

また以上のような私の了解で思い違いをしている部分がございましたらそちらもご指摘いただけるとありがたいです。
>かんがえちゅうさんへ


> 申し訳ございません。
> 勝手に読み替えていくことは非常に危険かつ失礼なことですね。
> 以後気をつけますので、もしまたそのようなことがございましたら
> ご指摘お願いいたします。

早速ですが、

「その諸善を信心獲得のために必要なものとして
 勧めていたかどうかはまだわかりません。」

と言われていますが、
私はそのようには一切、申しておりませんからね。

信心獲得の為に必要という言い方は、致しません。

諸善が信心獲得に役立つという意味に聞こえるからです。

我々の修善は、一切、信心獲得に役立つものではありません。
しかし勧められるのです。
我々の信前における修善は、信心獲得に役立つのではありません。
しかし、宿善になります。
すなわち、信心獲得に無関係ではありません。
役立つわけではないのに無関係でもない。
これが答えです。
難しいですね。
方便を方便と知ることは、大変なことですからね。
観念だけでは理解はできないところです。


親鸞聖人が勧めておられることは、
弥陀が勧めておられることです。

弥陀が十方衆生相手に建立された本願は、3つございます。
第18願、第19願、第20願です。

弥陀は、十方衆生を相手に、第18願に本心を誓っておられます。
その後の19願では、
「十方衆生」を相手に、
「諸善」を勧めておられますね。

ご存知でしょうか。
それは何の為でしょうか。
18願と無関係でしょうか。
18願に転入させるための御方便として、
弥陀が私達を救済するのに必要なものだから建立されたものですね。
不要なものは建立される道理はございませんからね。

弥陀が勧めておられることを、
釈迦も勧められ、
如来の教法を御自らも信じ、私達にも教え聞かしむるばかりなりと
仰せの親鸞聖人ですから、当然ながら親鸞聖人の教えにも、
善の勧めがございます。

合掌
>はらりんさん
ありがとうございます。この短時間でいろいろと教えられているのを感じうれしく思っております。

(私の発言の頭には●をつけさせてもらいます。)


>はらりんさん
「その諸善を信心獲得のために必要なものとして
 勧めていたかどうかはまだわかりません。」

と言われていますが、
私はそのようには一切、申しておりませんからね。


●すいません、またやってしまいました。
 仰られたことをそのままに聞くことは本当に難しいですね。

>はらりんさん
信心獲得の為に必要という言い方は、致しません。

諸善が信心獲得に役立つという意味に聞こえるからです。

我々の修善は、一切、信心獲得に役立つものではありません。
しかし勧められるのです。
我々の信前における修善は、信心獲得に役立つのではありません。
しかし、宿善になります。
すなわち、信心獲得に無関係ではありません。
役立つわけではないのに無関係でもない。
これが答えです。
難しいですね。
方便を方便と知ることは、大変なことですからね。
観念だけでは理解はできないところです。


●この文を読んでなぜ私が二度もはらりんさんのお言葉を「必要」という言葉に書き換えてしまったか教えられました。
 私は「役立つ」という意味で「必要」という言葉を使っておりません。
 「必要」を「なくてはならないもの」というような意味で使っております。辞書の意味もこちらだと思います。
 親鸞聖人が勧められるものは全て、「役立つ」のように「あったほうがいい」というものではなく、往生に「なくてはならないもの」だと私は思っています。
 その意味での「必要」ならばはらりんさんの言わんとしていることに合うような気がするのですがいかがでしょうか。


>はらりんさん 
それは何の為でしょうか。
18願と無関係でしょうか。
18願に転入させるための御方便として、
弥陀が私達を救済するのに必要なものだから建立されたものですね。
不要なものは建立される道理はございませんからね。

●ここではらりんさんがお使いになられている「必要」はどういった意味でしょうか。

●本当にむずかしいことなので慎重に聞いてまいりたいと思います。

かんがえちゅうさんへ

いま夜行で移動中のため携帯から短文にて失礼します。

我々の修善は往生の役にはたちませんが、それでも勧められているのです。
ですから、我々の修善がなければ往生できないというのは間違いなので、往生に必要とは言いません。

弥陀が私達を救済するのに、十九の願の善の勧めの教えが必要だということです。
十九願も二十願も、なければ私達は十八願の世界に救われることはないという意味で、必要なのです。

弥陀に救われるのに、我々の修善が必要なのではなく、十九願の善の勧めの教えが必要なのです。
これを方便と申します。
慎重にきき分けてくださいね。

合掌
>はらりんさんへ

本当にお忙しい中で丁寧に教えてくださってありがとうございます。差し出がましいようですがご無理をなさらないようにと念じています。


>弥陀に救われるのに、我々の修善が必要なのではなく、
>十九願の善の勧めの教えが必要なのです。

この「必要」はどちらも「なくてはならない」という意味ですよね。

我々の修善が必要なのでなく、善の勧めの教えが必要。確かにお聞きしました。
弥陀の本願の中に確かに善の勧めの教えがございます。五劫思惟して建てられた本願に不必要な教えはないと思います。


そこで、もともとの私の問いに戻りたいのですが

一つに
>信心獲得に向かって、
> 法座で真剣に仏法をきく
> 朝晩の勤行をする
> 廃悪修善の生活態度をとる
>これらすべてが大切です

ここではらりんさんが言われる「大切」とはどのような意味でしょうか。
今までの書き込みの中ですでにお示しいただいているようでしたら恐縮ですが、私は勝手な言葉の解釈が多いことを痛感いたしましたので確認させていただきたいと思います。


二つに、
>法座が開かれていないときには、どのような実践が
>教え勧められているのかと申しますと、
>(中略)
>そして、それ以外の時間も、日常生活全般において、
>仏教の根幹である因果の道理を深く信じ、
>廃悪修善の生活を実践しなさいと、勧められています。

ということを7で仰られていますが、親鸞聖人のお言葉の中で廃悪修善の生活の実践を勧める教えはどこにありますか。

浄土和讃のお言葉は「修善の勧めの教え」(十九願)を親鸞聖人が大切にされていらっしゃったことをはっきりと表していますが、だからといって親鸞聖人が「修善を勧めて」いらっしゃったとは私には読み取れません。ましてや廃悪についてはここでは言葉すら出てきません。
廃悪修善の生活の実践をはっきりと勧める教えをお示しいただけたらと思います。
かんがえちゅうさんへ

携帯から短文にて失礼します。

まず、信前においても我々の修善が大事だと申している意味は、
弥陀の仰せに従うことが大事だということです。
弥陀が必要不可欠なプロセスとして建立なされた十九願の道なればこそ、
われわれはそこを通らずしては絶対に救われることはありませんね。
必ず通らねばならない道だから、これを要門と申します。
信前は自分の力で頑張って弥陀に従いプロセスを通れるという自覚ですが、
実際は、
我々の力で通れるわけでもなく
我々の努力が報われて往生するのでもなく
弥陀が私達に菩提心をおこさせ修善を実行させ
弥陀がこのプロセスを通らせたご苦労が実って
弥陀の独用で往生しますから、
あくまでも我々の努力が往生に必要とは言いませんが、
弥陀が私達をこのプロセスを通らせる必要があるのですから、
私達にとって必ず通らせられる道ですから、
修善は大切だと言うのであります。無論ですね。

また、ご存知かもしれませんが、
善の勧めは悪の抑制と同時なのですからね。
観念だけでは別々に思えるかもしれませんが、
実行の段階で同時であることは明かです。

ですから親鸞聖人は、
どんな極悪人でも救う本願だからと言って
どれだけ悪をしても構わないという馬鹿な考えを
正していらっしゃいますよね。
有名なので、かんがえちゅうさんならご存知だと思います。

それに親鸞聖人の教えは仏教そのもの。
仏教の山全体が、悪を慎め、善を励めというものであることは、
七仏通戒偈に明かです。

諸の悪を作すことなかれ
衆の善を行じ奉れ
自らそのこころをきよめて
これが諸仏の教えである。

これに反するものは仏教ではないのですから、
親鸞聖人の教えもこれを教えておられるのは当然であります。

悪を廃しているお言葉は勿論既述の通りありますが、
いまさらその根拠を探すまでもなく、
因果の道理を信じたら、悪をやめようと思うのは無論でありますね。
これは信前信後を問わず、大事であります。
仏教なのですから当然ですね。
因果の道理を無視している人ならば、大事とは思えないでしょうが、かんがえちゅうさんならお分かりだと思いますよ。

合掌
>はらりんさんへ

こんなに遅くまで本当にありがとうございます。


>信前においても我々の修善が大事だと申している意味は、
>弥陀の仰せに従うことが大事だということです。

仰られる通りです。弥陀の仰せにに従うことがなければ弥陀に救われることはありえないと思っております。




>信前は自分の力で頑張って弥陀に従いプロセスを通れるという自覚ですが、
>実際は、
>我々の力で通れるわけでもなく
>我々の努力が報われて往生するのでもなく
>弥陀が私達に菩提心をおこさせ修善を実行させ
>弥陀がこのプロセスを通らせたご苦労が実って
>弥陀の独用で往生しますから、
>あくまでも我々の努力が往生に必要とは言いませんが、
>弥陀が私達をこのプロセスを通らせる必要があるのですから、
>私達にとって必ず通らせられる道ですから、
>修善は大切だと言うのであります。無論ですね。

すいません。非常に大切なところなのですがここの意味がいまいちつかめません。
私の解釈では
信前の衆生ががんばって修善に励むことが必要なのではなく、
救われた(信心獲得した)衆生が、今までの道のりは弥陀の方便だったことを自覚して、そのような方便である「修善の教え」を大切にする。
ということでよろしかったでしょうか。


>どんな極悪人でも救う本願だからと言って
>どれだけ悪をしても構わないという馬鹿な考えを
>正していらっしゃいますよね。
>有名なので、かんがえちゅうさんならご存知だと思います。

すいません。どの言葉かこれだけでは断定できません。
「くすりあればとて毒をこのむべからず」でしょうか?
歎異抄に書かれている文は知っているのですが、消息のどこにあるかは知りません。よろしければお教えくださるとありがたいです。


>因果の道理を信じたら、悪をやめようと思うのは無論でありますね。
>これは信前信後を問わず、大事であります。
>仏教なのですから当然ですね。
>因果の道理を無視している人ならば、大事とは思えないでしょうが、かんがえちゅうさん>ならお分かりだと思いますよ。

これもすいません。分かりません。
まず因果の道理がわかりません。聞けばなるほどと思いますが因果の道理の本当のところが私にはわかりません。
それゆえ何をすれば悪で、何をすれば善かもわかりません。
七仏通戒偈も存知あげておりますが、とてもこれに従って生きることはできません。
だから私には修善が何かわからないのです。
親鸞聖人が全ての人に修善を勧められたのならばその言葉をはっきりと示して欲しいとお願いしましたのも、修善の生活の実践がどういうものなのかわからないためです。

このような私はどうすれば救われますか?


感情的な乱文になってすいませんでした。


>はらりんさんへ

眠気でなかなか正しくはらりんさんの言葉を聞き取れそうもないので、今日はこのあたりでご無礼いたします。

このような時間までありがとうございました。
>かんがえちゅうさんへ

かんがえちゅうさんこそ、随分遅くまで起きておられて、
お身体は大丈夫でしょうか。
あまり御無理なさいませんように。


> 弥陀の仰せにに従うことがなければ
> 弥陀に救われることはありえないと思っております。

そうですね。
そして「十方衆生」が相手の仰せは、
18願のみならず、
19願も、20願も、「十方衆生」が相手の仰せであります。
十方衆生は、この三願があったなればこそ弥陀に救われます。
親鸞聖人も、この三願によって救われたのだと、
教行信証の化土巻の「三願転入の御文」に仰せであります。


>信前は自分の力で頑張って弥陀に従いプロセスを通れるという自覚ですが、
>実際は、
>我々の力で通れるわけでもなく
>我々の努力が報われて往生するのでもなく
>弥陀が私達に菩提心をおこさせ修善を実行させ
>弥陀がこのプロセスを通らせたご苦労が実って
>弥陀の独用で往生しますから、
>あくまでも我々の努力が往生に必要とは言いませんが、
>弥陀が私達をこのプロセスを通らせる必要があるのですから、
>私達にとって必ず通らせられる道ですから、
>修善は大切だと言うのであります。無論ですね。

> 私の解釈では
> 信前の衆生ががんばって修善に励むことが必要なのではなく、

信心獲得の為に我々の修善が必要とは言わない、というのは
すでに述べたとおりですが、
信前において信仰が進むということに対しては、
19願の教えの通りの実践を試みなければ信仰は進みません。
未だ信心決定できずに迷っているすべての人に対して
19願は、弥陀が、
18願の世界へ転入させるために誓っておられること。
未信の人はすべて、信心獲得に向かう上で、
この19願の仰せに無関係ではありませんね。
善導大師はそのことを、
 身業や口業に賢善精進の相を現しなさい、
 そして意業にも虚仮を抱きなさるな、
と厳しくこの重要なプロセスをお示しであります。
かんがえちゅうさんにとっては、
信前における19願の意義は何でしょうか。


> 救われた(信心獲得した)衆生が、
> 今までの道のりは弥陀の方便だったことを自覚して、
> そのような方便である「修善の教え」を大切にする。
> ということでよろしかったでしょうか。

自分で大切にする、ということとはニュアンスが異なります。
18願に転入(一念で入ること)したら、他力によって、
信前の途方もなく遠い過去世から今までの弥陀のお育てが
ハッキリと知らされ、それを慶び感謝せずにおれないのであります。
親鸞聖人は、三恒河沙の諸仏の御もとにおられたときから、
大菩提心をおこしてきたが自力がかなわず流転してきた、とか、
遠く宿縁を慶ばずにおれないともおっしゃっていますように、
信心獲得して18願の世界に転入した人は、
今生のみならず、遠い遠い途方もなく遠い過去世からの、
弥陀のお育てが、他力によってハッキリ知らされます。
その弥陀とのご縁を慶び感謝があふれているのが他力の世界です。
自分が思いめぐらす力では、そんな過去世の因縁までを
自覚することは不可能でありますから、
自分の智慧で方便を自覚して大切にするということではありません。
弥陀のお力によって、他力の信心の世界(真実)も、
遠い過去世からの弥陀のお育て(方便)も同時に知らされます。
真実を獲得するまでは、真実も方便もどちらとも判りません。
凡夫の智慧では知る由も力もないのであります。
信一念で満入してくだされた仏智によって悟らされることであります。

>どんな極悪人でも救う本願だからと言って
>どれだけ悪をしても構わないという馬鹿な考えを
>正していらっしゃいますよね。
>有名なので、かんがえちゅうさんならご存知だと思います。

> 歎異抄に書かれている文は知っているのですが、
> 消息のどこにあるかは知りません。
> よろしければお教えくださるとありがたいです。

末灯抄15通「放逸を慎むべきこと」
   18通「我意にまかすまじきこと」
   20通「三毒を慎むべきこと」
   21通「放逸無漸なるまじきこと」

などがございます。まずは御一読くださいませ。

(つづく)
>かんがえちゅうさんへ



>因果の道理を信じたら、悪をやめようと思うのは無論でありますね。
>これは信前信後を問わず、大事であります。
>仏教なのですから当然ですね。
>因果の道理を無視している人ならば、大事とは思えないでしょうが、
>かんがえちゅうさんならお分かりだと思いますよ。

> これもすいません。分かりません。
> まず因果の道理がわかりません。
> 聞けばなるほどと思いますが因果の道理の本当のところが
> 私にはわかりません。
> それゆえ何をすれば悪で、何をすれば善かもわかりません。
> 七仏通戒偈も存知あげておりますが、
> とてもこれに従って生きることはできません。
> だから私には修善が何かわからないのです。
> 親鸞聖人が全ての人に修善を勧められたのならば
> その言葉をはっきりと示して欲しいとお願いしましたのも、
> 修善の生活の実践がどういうものなのかわからないためです。
>
> このような私はどうすれば救われますか?

かんがえちゅうさんは、とても真面目なお方だと思います。
ご自分の心を見つめられれば、欲や怒りや愚痴の心が
それなりに見えるのではないでしょうか。
その心のままに生きるのではなく、
それを慎みなさいと、親鸞聖人は仰せであります。
そして、お釈迦様は、
どんな善をすればよいか判らない私のために、
六度万行を教えておられます。
どれでも、自分がやりたいと思うもの一つを選び、
それだけでも徹底的に行えば、
他のものもやったことになる、
という分け方が為されています。

<六度万行>
●布施(ケチな欲を貪る心と闘って
    かわいそうな人や尊敬すべき人や恩のある人に親切する)
●持戒(言行を一致させる。した約束を守る)
●忍辱(怒りの心を抑えてグッと堪える)
●精進(怠けたい心と闘って精を出して努力する)
●禅定(散り乱れる心を静めて自分の三業を省みる)
●智慧(因果律を信じていく)


真実の弥陀の御心を正しく説かれる先生から
弥陀の御心をお聞かせ頂く聴聞が大事なのは無論ですが、
なんと言っても毎日の朝晩の勤行が大事です。
親鸞聖人がお書きくだされた正信偈を拝読するということは、
親鸞聖人の生きた御説法をお聞きすることです。
意味が分からなければ勿体ないので、意味を知るべきですが、
毎日の朝晩のお勤めは、365日が求道となります。
浄土の教えを求めるということは、
ともすればせちがらい世の中で、
死を忘れ、罪悪を忘れ、今日を生きることで心奪われて
忽ちのうちに人生が儚く過ぎて終ってしまう、
この一瞬の如き人生で、
永久の地獄行きの生命の流れを、
永久に迷わぬ極楽行きに転じようとしているのです。
毎日の朝晩の勤行は、心を静めて御仏前にひざまづき、
念仏を称え、弥陀の御心をお聞きし、
何のために生きているのかを教えて頂く尊いご縁でありますから
獲難い仏縁となります。
そして、それ以外の時間も、煩悩と格闘して生きているのが
すべての人と言えますが、
弥陀の仰せにしたがいつつ、煩悩と格闘すれば、
どんな小さな善であろうとも、弥陀がそれを宿善にしてくださいます。
弥陀の救いを求めて、弥陀の仰せに従おうとしてのことならば、
諸善万行ことごとく、宿善とならないものは一つもないと、
親鸞聖人が仰せの御和讃は、すでに示した通りでございます。

合掌
>はらりんさんへ


>かんがえちゅうさんこそ、随分遅くまで起きておられて、
>お身体は大丈夫でしょうか。
>あまり御無理なさいませんように。

ありがとうございます。
とても大切な時間を過ごしているように感じ、つい夜更かしをしてしまいました。
今はよく眠ったので頭もはっきりしているはずです(笑)



>かんがえちゅうさんにとっては、
>信前における19願の意義は何でしょうか。

とのご質問ですが、非常に難しいご質問です。
信前におけるとは、迷いの衆生にとってということだと思いますが、この「意義」とは誰が考える意義でしょうか?
迷っている私には、はらりんさんも仰せのように真実も方便もどちらとも判りません。そのような私には如来の本願の意義はわかりません。

逃げているように聞こえるかもしれませんが、よくよく考えてみてもわからないのです。
親鸞聖人のお言葉を聞き、そこからはっきりと知らされることしか言えません。

それゆえご和讃に示されたお言葉を聞くと、
弥陀は19願により衆生を方便し18願に導いておられることがわかり、その意味で親鸞聖人も19願を大切にされていたことはわかります。

しかし、はらりんさんの言われるような
>19願の教えの通りの実践を試みなければ信仰は進みません。
ということまではわかりません。

はらりんさんも親鸞聖人のお言葉を大切に話をされる方ですから、先ほどのような断言をなさるのでしたらかならずその根拠となるお言葉があるはずです。

何度も聞いて申しわけないのですが、どうか今一度はっきりと「修善の実践を勧める」親鸞聖人のお言葉をお示しください。



>自分で大切にする、ということとはニュアンスが異なります。

たしかにその通りです。私のように「大切にする」というのと、はらりんさんが「大切だ」と表現されたことは字面は似てますが意味することは異なりますね。教えていただきました。
ありがとうございました。



>真実を獲得するまでは、真実も方便もどちらとも判りません。
>凡夫の智慧では知る由も力もないのであります。
>信一念で満入してくだされた仏智によって悟らされることであります

そうですよね。私は真実も方便も教えられなければ何もわからずにいます。



>ご自分の心を見つめられれば、欲や怒りや愚痴の心が
>それなりに見えるのではないでしょうか。
>その心のままに生きるのではなく、
>それを慎みなさいと、親鸞聖人は仰せであります。

親鸞聖人の
凡夫というは、無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおおく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおおく、ひまなくして臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえずと、水火二河のたとえにあらわれたり。

というお言葉を見た時は、それなりに欲や怒りや愚痴の心が見えたのですが、それ以降何をやっても欲や怒りや愚痴の心にとらわれている自分に気づかされています。
それでもまだ心のどこかで親鸞聖人が仰られるほどひどくはないと思っているのですが。

ところで、ここではらりんさんが言われる「それ」とは煩悩のままに生きることでしょうか?



>そして、お釈迦様は、
>どんな善をすればよいか判らない私のために、
>六度万行を教えておられます。
>どれでも、自分がやりたいと思うもの一つを選び、
>それだけでも徹底的に行えば、
>他のものもやったことになる、
>という分け方が為されています。

この万行は徹底的に行うことが大事なのでしょうか?
それとも私が思う程度に行うことが大事なのでしょうか?
釈尊はどのようなことを求めておられるのかお教えください。


>それ以外の時間も、煩悩と格闘して生きているのが
>すべての人と言えますが、

このお言葉は非常に印象深いです。
これは聖人のお言葉ですか?

>弥陀の仰せにしたがいつつ、煩悩と格闘すれば、
>どんな小さな善であろうとも、弥陀がそれを宿善にしてくだ>さいます。
>弥陀の救いを求めて、弥陀の仰せに従おうとしてのことならば、
>諸善万行ことごとく、宿善とならないものは一つもないと、
>親鸞聖人が仰せの御和讃は、すでに示した通りでございます。

ここに一つ訂正していただきたい点がございます。
親鸞聖人のご和讃では、
諸善万行ことごとく【至心発願せるゆえに】
往生浄土の方便の善とはならぬなかりけり
です。
はらりんさんの仰られることでは、
【弥陀の仰せにしたがいつつ煩悩と格闘すれば】諸善万行が諸善となる
というように聞こえます。

どうかもう一度ご確認ください。 

かんがえちゅうさんへ

今は時間が充分にとれませんので、一点のみにて失礼します。


>弥陀の仰せにしたがいつつ、煩悩と格闘すれば、
>どんな小さな善であろうとも、弥陀がそれを宿善にしてくだ>さいます。
>弥陀の救いを求めて、弥陀の仰せに従おうとしてのことならば、
>諸善万行ことごとく、宿善とならないものは一つもないと、
>親鸞聖人が仰せの御和讃は、すでに示した通りでございます。

>ここに一つ訂正していただきたい点がございます。
>親鸞聖人のご和讃では、
>諸善万行ことごとく【至心発願せるゆえに】
>往生浄土の方便の善とはならぬなかりけり
>です。
>はらりんさんの仰られることでは、
>【弥陀の仰せにしたがいつつ煩悩と格闘すれば】
>諸善万行が諸善となるというように聞こえます。

かんがえちゅうさんのお考えでは、
具体的に、どのように違うと考えられ、
どのように訂正してほしいという意味でしょうか。

確認させて頂きます。

>はらりんさんへ

お忙しい中ありがとうございます。

「訂正」といいましたが、もちろん私が正しいという保障はないので、じっくりお考えになられたはらりんさんのご意見を伺いたいと思います。


まず、はらりんさんは
>弥陀の救いを求めて、弥陀の仰せに従おうとしてのことならば、
>諸善万行ことごとく、宿善とならないものは一つもないと、

「親鸞聖人が」仰せになられていると言われます。そして、そのことは「先のご和讃」に示されていると言われます。


そこでまず先のご和讃を見てみます。

諸善万行ことごとく 至心発願せるゆえに
往生浄土の方便の  善とはならぬなかりけり

私にはこのご和讃は、
【至心発願せるゆえに】諸善万行が往生浄土の方便の善と
なる
と聞こえます。

それに対してはらりんさんは、
【弥陀の仰せにしたがいつつ、煩悩と格闘すれば、】
どんな小さな善であろうとも、弥陀がそれを宿善にしてくださいます。
と、このご和讃をお聞きになられているように私には思えます。
 
(ここまでかいて、私のミスに気づきました。23の文中はらりんさんが「宿善」と書かれているところを、24で私は「諸善」と打ち間違えました。
まったく意味のわからない文章を書いてしまい申し訳ございません。)


ここで、二点確認しなければならないことがあります。
一つに、
「弥陀の救いを求めて、弥陀の仰せに従おうとしてのことならば」と、その直前の文章の「弥陀の仰せにしたがいつつ、煩悩と格闘すれば」は同じものでしょうか?

二つに、
ご和讃中の「往生浄土の方便の善」とはらりんさんの仰る「宿善」とは同じものでしょうか?

私は同じものと解釈して、24で訂正を求めたのでとりあえずここは同じものとして話を進めさせていただきます。

親鸞聖人のご和讃について、私が聞いたものとはらりんさんがお聞きになられたと思われるものを見比べていただければお分かりいただけると思いますが、
【至心発願せる】と【弥陀の仰せにしたがいつつ煩悩と格闘する】とは、それぞれまったく異なったものを示していると思われます。
そのため私は親鸞聖人の仰せと異なると思い、訂正を求めました。

ただ、はらりんさんが直接親鸞の仰せと言われた文中の、
【弥陀の救いを求めて、弥陀の仰せに従おうとしてのことならば】と【至心発願せるゆえに】はほぼ同じものとして見てとれるようにも見えます。


いくつかの仮定のもとで偉そうに訂正を求めたことを深くおわび申し上げます。
まずは、二つの確認点にお答えいただいた後、はらりんさんのお考えを伺いたいと思っております。
>かんがえちゅうさんへ

大変長らくお待たせ致しております。

最近、ますます大勢の方々を相手に話をしておりまして、
非常なる多忙さゆえ、優先順位の関係で遅れており申し訳ございません。

ここで今、一旦返信いたしますが、
7月の半ばぐらいまでは、ミクシーの書き込み自体が難しい状況です。

一段落ついた暁には、時間をとって、
一つ一つ、徹底的にさせて頂きたいと思っておりますので、
何卒ご了承くださいませ。


以下、今回の返答であります。

> まず、はらりんさんは
> >弥陀の救いを求めて、弥陀の仰せに従おうとしてのことならば、
> >諸善万行ことごとく、宿善とならないものは一つもないと、
>
> 「親鸞聖人が」仰せになられていると言われます。
> そして、そのことは「先のご和讃」に示されていると言われます。
>
>
> そこでまず先のご和讃を見てみます。
>
> 諸善万行ことごとく 至心発願せるゆえに
> 往生浄土の方便の  善とはならぬなかりけり
>
> 私にはこのご和讃は、
> 【至心発願せるゆえに】諸善万行が
> 往生浄土の方便の善となると聞こえます。

→その通りであります。
 【至心発願せるゆえに】がなければ、宿善にはなりません。


> それに対してはらりんさんは、
> 【弥陀の仰せにしたがいつつ、煩悩と格闘すれば、】
> どんな小さな善であろうとも、弥陀がそれを宿善にしてくださいます。
> と、このご和讃をお聞きになられているように私には思えます。
>  

→あとでかんがえちゅうさんも書いておられますように、
 私は
「弥陀の救いを求めて、弥陀の仰せに従おうとしてのことならば」
 と明記してございます。
 これは、獲信してはじめて知らされることであります。
 信前に弥陀の救いを求めて、
 弥陀の19願に従おうとして奮発心をおこし、
 ど真剣に、真面目に、心からの善をしようと励んできたことも、
 信前には、「自分の力で」しているという思いが抜けませんが、
 信一念で、
 すべては弥陀のお力によってそのように思わされていたのであり、
 その諸善もことごとく、弥陀が宿善にしてくださり、
 宿善開発まで育んでいてくだされていた、弥陀の独用であったと、
 信知させられるのであります。


> (ここまでかいて、私のミスに気づきました。
>  23の文中はらりんさんが「宿善」と書かれているところを、
>  24で私は「諸善」と打ち間違えました。
>  まったく意味のわからない文章を書いてしまい申し訳ございません。)

→はじめからそのように理解しておりましたので意味は分かりました。

 (つづく)

>かんがえちゅうさんへ


> ここで、二点確認しなければならないことがあります。
> 一つに、
>
> 「弥陀の救いを求めて、
>  弥陀の仰せに従おうとしてのことならば」と、
>
> その直前の文章の
>
> 「弥陀の仰せにしたがいつつ、煩悩と格闘すれば」
>
> は同じものでしょうか?
>
> 二つに、
> ご和讃中の
> 「往生浄土の方便の善」とは
> らりんさんの仰る「宿善」とは同じものでしょうか?
>
> 私は同じものと解釈して、
> 24で訂正を求めたので
> とりあえずここは同じものとして話を進めさせていただきます。
>
> 親鸞聖人のご和讃について、
> 私が聞いたものと
> はらりんさんがお聞きになられたと思われるものを
> 見比べていただければお分かりいただけると思いますが、
>
> 【至心発願せる】と【弥陀の仰せにしたがいつつ煩悩と格闘する】とは、
> それぞれまったく異なったものを示していると思われます。
>

→かんがえちゅうさんが、修善をなさるときにどうかわかりませんが、
 わたくしは、煩悩深きゆえ、、
 毒入りの善でさえ、
 ケチな欲と闘わずしては親切ができず、
 怒りの心と闘わずしては忍耐もできず、
 愚痴と闘わずしては修養もならず、
 楽したい怠惰な心と闘わずしては精進もできなければ、
 飛び回る心をおさえつける努力をしなければ反省もできません。
 猛毒をもった、どんな小さな善であろうと、
 私には100%、煩悩と闘ってのことでございます。
 私にとっての修善は、煩悩との格闘以外にありえません。

 信前に、弥陀の救いを求めて、
 弥陀の19願の仰せをお聞きしてそれに従おうと励んだ修善は、
 選択の願海に転入した一念ではじめて、
 そのすべてを弥陀の御計らいで宿善にしてくだされていたと、
 ツユちりの疑いもなく、ハッキリと、
 弥陀が信知させてくださいます。
 まあだいたい、そうであった、といういい加減なものではなく、
 遠い過去世からの宿善、弥陀のお育てを知らされます。
 聖人が「遠く宿縁を慶べ」と仰せのとおりです。

 親鸞聖人も、信後に、信前を振り返り、
 宿善を慶んでおられるのです。
 信前の修善を、宿善にしてくだされていたのだと
 信前には知ることはできませんが、
 信前の修善を、宿善にしてくだされているのは、
 間違いのない事実であります。
 それがハッキリ知らされるのが信一念。
 その弥陀のお育てに、疑い晴れているのが他力の信心であります。

 果たして、
 弥陀の救いを求めて修善を勧めることを
 否定する学者さんがいらっしゃいますが、
 獲信といい関係にある修善を否定するお言葉がございますでしょうか。

 本願寺でも、「因果の道理を深く信じて」とうたわれていますように、
 因果の道理を弁えて生きていくのは人間として当然のこと。
 しかもこの人生、往生に向かうものであります。
 信前にも、極楽往生を願うべきであり、
 他力の信心は無論、往相であり欲生我国とも言われる通りであります。
 されば、人生は、往生に向かうものであり、
 その人生において、修善を励むことは、仏法者として当然のこと。
 信前は宿善としてくださり、
 信後は御恩報謝となってくだされるのです。

 むしろ、修善を勧めておられるお言葉があるかどうかという
 意見そのものを、不思議に思っております。

 それでは、次にお返事できるのは、かなり遅くなりますことを
 改めてご了承いただきたく、よろしくお願い申し上げます。

 合掌
>はらりんさんへ
(●が私の言葉です)

>>かんがえちゅうさんへ

>大変長らくお待たせ致しております。

>最近、ますます大勢の方々を相手に話をしておりまして、
>非常なる多忙さゆえ、優先順位の関係で遅れており申し訳ございません。

>ここで今、一旦返信いたしますが、
>7月の半ばぐらいまでは、ミクシーの書き込み自体が難しい状況です。

>一段落ついた暁には、時間をとって、
>一つ一つ、徹底的にさせて頂きたいと思っておりますので、
>何卒ご了承くださいませ。

●かしこまりました。
 多忙な中、丁寧に答えてくださるはらりんさんに本当に感謝いたします。
 はらりんさんが一段落つかれて、余裕をもってmixiに戻ってきてくださる日をゆっくり待ちたいと思います。

 今回の書き込みは、自分の中の疑問点をはっきりさせ忘れないようにするためのものですので、とりあえずはスルーしてください。


>信前に弥陀の救いを求めて、
> 弥陀の19願に従おうとして奮発心をおこし、
> ど真剣に、真面目に、心からの善をしようと励んできたことも、

●信前に弥陀の救いを求める時に19願に従おうと奮発心をおこす修善に励むということは誰にでも起こることなのでしょうか?

はらりんさんは
> 信前には、「自分の力で」しているという思いが抜けませんが、
> 信一念で、
> すべては弥陀のお力によってそのように思わされていたのであり、

●と仰りますが、弥陀のお力によってそう思うのですか?
「弥陀の仰せに従う」といっても、皆がすぐ修善を積もうとするわけではないでしょう。
私は誰かに教えていただかなければわざわざ修善を積もうとはしないと思います。
また、ここでいう奮発心とは自分の努力でどうにかできるものなのでしょうか?



>かんがえちゅうさんが、修善をなさるときにどうかわかりませんが、
> わたくしは、煩悩深きゆえ、、
> 毒入りの善でさえ、
> ケチな欲と闘わずしては親切ができず、
> 怒りの心と闘わずしては忍耐もできず、
> 愚痴と闘わずしては修養もならず、
> 楽したい怠惰な心と闘わずしては精進もできなければ、
> 飛び回る心をおさえつける努力をしなければ反省もできません。
> 猛毒をもった、どんな小さな善であろうと、
> 私には100%、煩悩と闘ってのことでございます。
> 私にとっての修善は、煩悩との格闘以外にありえません。

●はらりんさんは本当に力強い方なんだなと思いました。
はらりんさんは煩悩と必死で格闘してみせかけではない人生を生きようとされているのだと感じました。

ただ、私ははらりんさんのようには生きられません。
修善ということが今の私には不可能なのです。
まず何が善で何が悪かわかりません。
また、仏教の戒律や修行、世間で言われる親孝行などの良いことが善だと思ってもやり遂げることはできません。
親切も忍耐も修養も精進も反省もうわべだけならできますが本当に行うことはできません。
たぶん私は煩悩に勝てない人間なのです。
根性なしといわれればその通りなのですが、煩悩に勝って善を修めることができるのならば私は救いなんて求めてはいないと思います。

修善を語る本願はあります。
修善が大切だということもわかります。
しかし、煩悩具足の私には修善に励む奮発心も起こらず、修善する力もないのです。
いかに修善を励むことが仏法者の当然のことだとしても、その当然のことができないのが私です。
そんな私でも救いを求めている、自分勝手な話です。

親鸞聖人は弥陀の本願は一切の衆生を救う願だと仰りました。
その親鸞聖人が勧められることは私が救われる道を示してくださったものだと思います。
その中で修善を勧めておられるお言葉があるならば、このような私でもそのお言葉に従うことで善を修め、救われていくことがあるのかもしれません。

それゆえ、しつこく何度でも親鸞聖人のお言葉を求めるのです。


しばらく時間もありそうなので自分でも親鸞聖人のお言葉をさがしてみようと思います。

はらりんさん、お忙しい中で難しいことだとは思いますがどうかご自身のお身体にもやさしく、ご無理をなさらないようにと念じております。
またお会いできる日を楽しみにしております。
>かんがえちゅうさんへ

 大変、長らくお待たせしております。
 如何お過ごしでしょうか?

 わたくしはと言いますと、想像以上に過密な日程で、
 ほぼ毎日、朝昼晩と話をしており、合間にも様々なことがあり、
 ミクシーの時間はとりにくい現状ですが、
 少しずつ増やしていきたいと思います。

 早速ですが、前回の返答です。



>信前に弥陀の救いを求めて、
> 弥陀の19願に従おうとして奮発心をおこし、
> ど真剣に、真面目に、心からの善をしようと励んできたことも、

> ●信前に弥陀の救いを求める時に
>  19願に従おうと奮発心をおこす修善に励むということは
>  誰にでも起こることなのでしょうか?

弥陀が十方衆生を相手に誓っておられる
19願も20願も18願もまことなるが故に、
おたずねの奮発心は19願力によって必ず起こされます。
それらもすべて弥陀のお力による、ということに
疑いがスッキリなくなるのは、
18願力によって選択の願海に転入させられたときです。


> はらりんさんは
> > 信前には、「自分の力で」しているという思いが抜けませんが、
> > 信一念で、
> > すべては弥陀のお力によってそのように思わされていたのであり、
>
> ●と仰りますが、弥陀のお力によってそう思うのですか?

それが弥陀のお力によるものであったことに疑いが晴れるのです。

<つづく>
>かんがえちゅうさんへ

> 「弥陀の仰せに従う」といっても、
> 皆がすぐ修善を積もうとするわけではないでしょう。

 その通りです。宿善はひとりひとり、浅深がございます。
 これは蓮如上人の御一代記聞書にもかかれている通りです。

 そして覚如上人は唯信抄に、
 
 「宿善の厚きものは今生も善根を修し悪業をおそる。
  宿善少きものは今生に悪業をこのみ善根をつくらず。」

  宿善の厚い人は、この人生において、
  積極的に善に励むし、悪い行為をおそれる。
  宿善の薄い人は、この人生において、
  平気で悪い行為をして、善には消極的である

 と、宿善の厚い人と薄い人の違いを明示なさっておられます。

 でありますから、かんがえちゅうさんが言われる

> 私は誰かに教えていただかなければわざわざ
> 修善を積もうとはしないと思います。

 という方も当然おられます。
 勧められても善をしようとされない人だっておられるでしょう。
 宿善は、弥陀のお力によって、
 今は薄い人でもやがて厚く育てられ、
 宿善開発まで誘引されるのですから、
 かんがえちゅうさんが言われるように、
 また、かんがえちゅうさんご自身がそうであられると告白されたように
 はじめから皆がすぐ修善を積もうとするわけではありません。
 そんな私達が、
 弥陀のお力によって必ずやがて
 宿善が厚くなり、善はせずにおれなくなってくるのです。

 そのことは、
 弥陀のお力によって宿善は厚くなるということと、
 上記の唯信抄のお言葉でハッキリします。


> また、ここでいう奮発心とは
> 自分の努力でどうにかできるものなのでしょうか?

 自分の努力でどうにかできるものかどうか、
 計らわずに本気でやってみなさいというのが
 「発菩提心 修諸功徳 至心発願 欲生我国」
 という19願の弥陀の仰せでございます。


<つづく>
>かんがえちゅうさんへ


> >かんがえちゅうさんが、修善をなさるときにどうかわかりませんが、
> > わたくしは、煩悩深きゆえ、、
> > 毒入りの善でさえ、
> > ケチな欲と闘わずしては親切ができず、
> > 怒りの心と闘わずしては忍耐もできず、
> > 愚痴と闘わずしては修養もならず、
> > 楽したい怠惰な心と闘わずしては精進もできなければ、
> > 飛び回る心をおさえつける努力をしなければ反省もできません。
> > 猛毒をもった、どんな小さな善であろうと、
> > 私には100%、煩悩と闘ってのことでございます。
> > 私にとっての修善は、煩悩との格闘以外にありえません。

> 私ははらりんさんのようには生きられません。
> 修善ということが今の私には不可能なのです。
> まず何が善で何が悪かわかりません。
> また、仏教の戒律や修行、世間で言われる親孝行などの良いことが
> 善だと思ってもやり遂げることはできません。
> 親切も忍耐も修養も精進も反省もうわべだけならできますが
> 本当に行うことはできません。
> たぶん私は煩悩に勝てない人間なのです。
> 根性なしといわれればその通りなのですが、
> 煩悩に勝って善を修めることができるのならば
> 私は救いなんて求めてはいないと思います。

親鸞聖人は、

「いずれの行も及び難ければ 地獄は一定住みか」
「善悪の二つ 総じてもって存知せざるなり」

と言われています。

これは、
本気で善に取り組んだことのない人が、
単に面倒くさいから、或いはさしてやる気が起きないから、
どうせ欲が一杯だから、根性無しだからとあきらめモードで、
何が本当の善か本当の悪か大して考えたわけでもないのに

「私には善なんてできません」
「何が善で何が悪か分かりません」

と言っているのとは、
言葉は似ていても「天地の開きがある」のですが
それを知るのは大変です。


親鸞聖人が
「私は一切の善ができず、善のカケラも出来ないものでありました、
 地獄行きの親鸞でありました」
と言われたのは、
一切の善をやろうと、真実の善をやろうと必死で取り組まれたからです。
真実の善をやろうとしたことのない人に、
真実の善ができなかったという体験はありません。

「善悪の二つ 総じてもって存知せざるなり」

と言われているのは、法律や倫理道徳やボランティアレベルの
善悪のことでは当然ありません。
そんな善悪が分からないと言っていたら、
人間としてまともに生きていくことさえも出来ません。

ここで仰せなのは、
「何が本当の善で、何が本当の悪か、一切分からない親鸞です」
と言われているのです。、
いつでもどこでも変わらぬ善。いつでもどこでも変わらぬ悪。
真実の善と、真実の悪。
それが分からないとおっしゃっているのです。
善と言われていることが、本当に善なのか。
徹底的に考え抜かれた末、徹底的に合点しようと取り組まれた末、
真実の善も真実の悪も全く分からぬ親鸞であったと、
弥陀のお力によって、信一念で知らされたのです。

本当の善とは何か、本当の悪とは何か、
さして考えたこともない人が言う言葉とは、
そもそも「善」「悪」の内容自体も異なるのです。

このお言葉は、
宿善が深まり、後生が問題になり、
因果律を深く信じられ、善悪が問題になり、
善知識に値われ、弥陀の御心を聴かれ、
後生の一大事を解決する為に、悪をおそれ、善を求め、
真実の善を本気で求められた末に、
弥陀の破闇の光明に照らし抜かれた信一念に、
真実の悪の塊である実機が知らされ、
同時に真実の善も知らされられた、
不可称不可説不可思議の信心獲得の体験の上の、
機の深信の告白のお言葉なのです。

<つづく>
>かんがえちゅうさんへ


> 修善を語る本願はあります。

それが19願であり、方便願であります。
方便とは、弥陀が私を真実の世界に転入させるのに
「絶対に必要なもの」です。
あってもなくてもいい、というものではありません。
なければならないものなのです。

また、弥陀が直々に仰せの通り「十方衆生」が相手でありますから、
これに無関係な人、通らなくても救われるという人は、
ただの一人もありません。例外は無しでございます。

> 修善が大切だということもわかります。
> しかし、煩悩具足の私には修善に励む奮発心も起こらず、
> 修善する力もないのです。
> いかに修善を励むことが仏法者の当然のことだとしても、
> その当然のことができないのが私です。
> そんな私でも救いを求めている、自分勝手な話です。

かんがえちゅうさんのみならず、
はじめはみんな、そうであります。
そんな私達だからこそ、
弥陀は五劫兆載永劫のご苦労をせられねばならなかったのだと、
18願に転入した一念でハッキリ致します。

> 親鸞聖人は弥陀の本願は一切の衆生を救う願だと仰りました。
> その親鸞聖人が勧められることは私が救われる道を
> 示してくださったものだと思います。

その通りであります。
十方衆生を救う本願は弥陀の本願のみ。
中でも「十方衆生」と誓われているのは、
19願、20願、18願の三願のみ。
この三願転入を体験なされ、根基となされ、
親鸞聖人は教行信証をお書きになられましたので、
三願転入がわかりませんと親鸞聖人の教えは絶対に知ることはできません。

十方衆生を例外なく、
19願から20願、20願から18願と誘引され、
浄土往生させてくださるのが弥陀の本願力であります。

十方衆生が相手の御本願だから、
親鸞聖人もそのままお伝えくだされたのです。

18願に入りさえすれば19願20願の道程を振り返ることが出来るが
18願に入るまでは19願20願は知らなくてもいい
などとは、どこにも仰せではありません。
18願に入れて頂くまで(信前)は、19願20願の道を通ることを
勧められているのが親鸞聖人の教えなのです。

<つづく>
>かんがえちゅうさんへ


> その中で修善を勧めておられるお言葉があるならば、
> このような私でもそのお言葉に従うことで善を修め、
> 救われていくことがあるのかもしれません。
> それゆえ、しつこく何度でも親鸞聖人のお言葉を求めるのです。

宿善が厚くなれば、勧められずとも
善をせずにおれなくなるということはすでに述べた通りです。

宿善が薄い人は、勧められてもなかなか善をやろうとは思いません。
親鸞聖人が善を勧められれば善をやる、
とおっしゃるかんがえちゅうさんは、
きっと宿善が薄い方ではないと拝します。

宿善が薄いままでは弥陀に救われるとはどこにも言われていません。
宿善は厚くなるように求めるべきものだと、蓮如上人も仰せです。
弥陀の仰せに従おうと、努力するのですが、
宿善が厚くなるのは、私達の力によるのではなく弥陀のご苦労によります。
そのご苦労が報われて弥陀に摂取されるという道程を通るのです。
その道程がハッキリ知らされるのは、18願に転入したときに、
他力によって知らされることです。

そんな道程を通ったことのない人が、
勝手に18願に入ったつもりになって、
過去はそういうところを通ったんだろうと自分で考えていることとは
全く異なります。

親鸞聖人の教えに、善の勧めがあることは、
まず仏教全体が、因果の道理を根幹として説かれているものであることを
知れば明らかなことです。
親鸞聖人は、如来の教法を我も信じ、人にも教え聞かしむるばかりなり
と仰せですが、如来の教法の中に、因果律がないと思われますか。
当然のことで、善の勧めは、一切の仏教において常識なのです。

悪人が救われるということを曲解して、
善をする必要はないと安楽イスに腰掛ける人は、
歴史上の事実として真宗に頻発しております。
それらは邪義であります。

少しでもわずかでも善をしなければ、いい結果はきませんね。

また、聖人が勧めておられるお言葉は、すでに御和讃でも示した通りです。

  諸善万行ことごとく
  至心発願せるゆえに
  往生浄土の方便の
  善とはならぬなかりけり (親鸞聖人)


 逆に、
 弥陀の救いを求めて修善を勧めることを
 否定するお言葉はありません。
 獲信といい関係にある修善を否定する親鸞聖人のお言葉は
 一切ございません。

 修善は、信前・信後を問わず、あるべき姿であります。


 合掌
>はらりんさんへ

お久しぶりです。はらりんさんは相変わらずお忙しいようでお体が心配ですが、精力的に活動されておいででありがたいことだなと思っております。
私の質問にもここまで丁寧に答えていただいて本当にありがとうございます。私も精一杯自身の疑問に取り組みたいと思っておりますのでよろしくお願いいたします。



>親鸞聖人は、

>「いずれの行も及び難ければ 地獄は一定住みか」
>「善悪の二つ 総じてもって存知せざるなり」

>と言われています。

>これは、
>本気で善に取り組んだことのない人が、
>単に面倒くさいから、或いはさしてやる気が起きないから、
>どうせ欲が一杯だから、根性無しだからとあきらめモードで、
>何が本当の善か本当の悪か大して考えたわけでもないのに

>「私には善なんてできません」
>「何が善で何が悪か分かりません」

>と言っているのとは、
>言葉は似ていても「天地の開きがある」のですが
>それを知るのは大変です。


>親鸞聖人が
>「私は一切の善ができず、善のカケラも出来ないものでありました、
> 地獄行きの親鸞でありました」
>と言われたのは、
>一切の善をやろうと、真実の善をやろうと必死で取り組まれたからです。
>真実の善をやろうとしたことのない人に、
>真実の善ができなかったという体験はありません。

>「善悪の二つ 総じてもって存知せざるなり」

>と言われているのは、法律や倫理道徳やボランティアレベルの
>善悪のことでは当然ありません。
>そんな善悪が分からないと言っていたら、
>人間としてまともに生きていくことさえも出来ません。

>ここで仰せなのは、
>「何が本当の善で、何が本当の悪か、一切分からない親鸞です」
>と言われているのです。、
>いつでもどこでも変わらぬ善。いつでもどこでも変わらぬ悪。
>真実の善と、真実の悪。
>それが分からないとおっしゃっているのです。
>善と言われていることが、本当に善なのか。
>徹底的に考え抜かれた末、徹底的に合点しようと取り組まれた末、
>真実の善も真実の悪も全く分からぬ親鸞であったと、
>弥陀のお力によって、信一念で知らされたのです。

>本当の善とは何か、本当の悪とは何か、
>さして考えたこともない人が言う言葉とは、
>そもそも「善」「悪」の内容自体も異なるのです。


このはらりんさんのお言葉、非常に大切なことだと感じました。
親鸞聖人のお言葉を自分の勝手な立場で解釈するのは危険ですね。
親鸞聖人が一言仰られる背景にどれほどのご苦労があったのかをかみ締めながら聞いていきたいと思います。






>はらりんさんへ

>宿善が厚くなれば、勧められずとも
>善をせずにおれなくなるということはすでに述べた通りです。

>宿善が薄い人は、勧められてもなかなか善をやろうとは思いません。
>親鸞聖人が善を勧められれば善をやる、
>とおっしゃるかんがえちゅうさんは、
>きっと宿善が薄い方ではないと拝します。

何度か繰り返しはらりんさんのお言葉を読みましたが、はらりんさんご指摘のとおり私は宿善とやらが薄いようです。
はらりんさんは、宿善が厚くならないと弥陀の救いもないということを仰られますが、いまいち私にはそのあたりのことが理解できないのでもう少し詳しくお聞かせ願いたいと思います。

とりあえず、はらりんさんのお言葉の私の受けとめを書きます。少し混乱しているので、はらりんさんのお心と違うことがございましたらご指摘ください。

>宿善が薄いままでは弥陀に救われるとはどこにも言われていません。
>宿善は厚くなるように求めるべきものだと、蓮如上人も仰せです。
>弥陀の仰せに従おうと、努力するのですが、
>宿善が厚くなるのは、私達の力によるのではなく弥陀のご苦労によります。
>そのご苦労が報われて弥陀に摂取されるという道程を通るのです。
>その道程がハッキリ知らされるのは、18願に転入したときに、
>他力によって知らされることです。

と仰られているように、宿善が厚くなるのは弥陀のお力によるものであるということですね。
それでも、他力だからといって「何もしないで勝手に宿善が厚くなる」というのではなく、弥陀の仰せに従おうとすることが大事だということですね。この「弥陀の仰せに従おうと努力する」ということがはらりんさんの仰られる修善ということで間違いないでしょうか?


>宿善が深まり、後生が問題になり、
>因果律を深く信じられ、善悪が問題になり、
>善知識に値われ、弥陀の御心を聴かれ、
>後生の一大事を解決する為に、悪をおそれ、善を求め、
>真実の善を本気で求められた末に、
>弥陀の破闇の光明に照らし抜かれた信一念に、
>真実の悪の塊である実機が知らされ、
>同時に真実の善も知らされられた、
>不可称不可説不可思議の信心獲得の体験の上の、
>機の深信の告白のお言葉なのです。

このお言葉を見ると、親鸞聖人は修善をいつ積まれていたのでしょうか。始めに「宿善が深まり」と仰られているので弥陀が聖人の宿善を深める前に親鸞聖人は修善を積んでおられたのですね。
でも、善知識に遇われてから弥陀の遠心を聴かれて「悪を恐れ、善を求め」られたというとそのあたりの順序がどのようになっているのかがよく分からないので、教えていただきたいと思います。
 
>はらりんさんへ


親鸞聖人は何を一番大切にされておられたのかはらりんさんのお考えをお聞かせください。

如来回向の念仏と信心を大切にされておられたことは、一つ一つ確認するまでもないことだと思います。しかし、私たちが善を積むということを、ことさらに強調された聖人のお言葉に私はまだ出遇っておりません。


はらりんさんが何度もお示しくださる

  諸善万行ことごとく
  至心発願せるゆえに
  往生浄土の方便の
  善とはならぬなかりけり (親鸞聖人)

というご和讃も、私にはどうしても善を勧めておられるお言葉とは受け取れません。
このご和讃は、

諸善万行という修善も「至心発願の願」(19願)が既に起こされていたからこそ、むなしいものにならずに往生浄土の方便の善としていただいていた

という如来の恩徳を讃える詩であると思います。つまりこれは、仏恩報謝のお言葉だと思います。この親鸞聖人のご和讃も信一念に立ってのものでしょう。
何度読み返しても、私にはこのご和讃が修善を勧めているようには聞こえないのです。

真剣な求道のすえ、弥陀の本願に遇い、
「いずれの行も及び難ければ 地獄は一定住みか」
「善悪の二つ 総じてもって存知せざるなり」
という自己に目覚められた親鸞聖人が何故、真理に暗く真実の善悪を知らない私たちに修善を勧めるのかわかりません。

確かに親鸞聖人は、善行を(または善と思うことを)行ってはならないとは言っていないと思います。しかし、弥陀の救いにわれわれの修善を要とするとは言っていないと思います。

親鸞聖人は何を一番に大切にされているのかお教えください。

善のすすめの根拠として出されている御和讃についてみてみましょう。これは
「十九の願のこころ、諸行往生なり」と頭註のある『浄土和讃』大経讃で、前の二首と併せて読まないとわかりません。

至心・発願・欲生と 十方衆生を方便し
 衆善の仮門ひらきてぞ 現其人前と願じける

(現代語訳 聖典セミナーより)

第十九願には、 自力をたよりに自分の心を真実にして、 往生を願い、 浄土に生まれたいと思えと、 十方衆生を方便誘引し、
どのような善を修めてでも浄土往生を願えと、 諸善万行によって往生を願う方便仮門を開き、 この人々の臨終にはその人の前に来迎すると誓われた。

 
臨終現前の願により 釈迦は諸善をことごとく
 『観経』一部にあらはして 定散諸機をすすめけり

(現代語訳 聖典セミナーより)

阿弥陀如来の第十九願の意をうけて、 釈尊は聖道自力の人を誘引するため、 諸善万行はみな浄土往生に導く善根であるとして、
『観経』一部に定善の行、 散善の行を説き、 定善に縁のある人、 散善に縁のある人に、 それぞれに自力の行による往生をお勧めくださった。


諸善万行ことごとく 至心発願せるゆゑに
 往生浄土の方便の 善とならぬはなかりけり

(現代語訳 聖典セミナーより)

諸善万行は、 本来、 聖道門の行である。 けれども、 この行によって浄土往生を願わせたいと、 阿弥陀如来が至心発願の誓いをお立てくださったので、
浄土往生のための方便の善とならないものはなかったのである。


第1首目は19願の直訳に近い解説をされたものです。
第2首目は19願から釈尊が『観無量寿経』を説かれて「定散諸機」を浄土門へ誘引されたことの解説です。
第3首目は諸善万行も阿弥陀仏に回向すれば、19願の方便の善となる、つまり欣慕浄土の善の解説です。


「方便の善」については、『教行信証』化土巻・三経隠顕問答で


釈家(善導)の意によりて『無量寿仏観経』を案ずれば、顕彰隠密の義あり。顕といふは、すなはち定散諸善を顕し、三輩・三心を開く。しかるに二善・三福は報土の真因にあらず。諸機の三心は自利各別にして、利他の一心にあらず。如来の異の方便、欣慕浄土の善根なり。これはこの経の意なり。


と仰っています。「浄土の方便の善」=「欣慕浄土の善根」です。

これは『散善義』深心釈に二種深信を含めた七深信を教えられてその第三深信に


また決定して深く、釈迦仏、この『観経』の三福・九品・定散二善を説きて、かの仏の依正二報を証讃して、人をして欣慕せしめたまふと信ず。


とあることを指しています。
聖道門の人を「欣慕浄土の善根」により浄土門に誘引するのが要門19願です。
従ってすでに浄土門に入っている人を「欣慕浄土の善根」により要門19願に導くという意味ではありません。

三願転入トピックで、散々議論し尽くされた内容です。
なお、行信が「浄土の方便の善」ですから、その利益は、「方便化土への往生」となります。
方便の行信では、方便の浄土にしか往けないことを、誡疑讃などで何度も教えられています。

結論として、真実の浄土に往ける真実の行信が勧められているのです。
方便の行信を親鸞聖人が勧められているというのは、大変な誤りです。
>>[040] 僕は無学なので、なんの説得力もありませんが、ネットだったら「飛雲」というブログをググってみてください。参考になると思います。聞法だったら、Bobさんは大阪の方みたいなので津村別院をおすすめします。特に一味会は良いと思います。個人的には、信心という言葉にとらわれないで、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、と念仏をとなえる事をおすすめします。
>>[40]

私はまだまだ学びの最中の者だという自覚にとどまる者に過ぎませんが、如来と一つになったなあという喜びと確信はそれが真実である限り、もちろん本人においてしっかりと味わわれるものだと思います。

また、蓮如上人の引用されたお言葉については、どういう意図のものか、私は学びの足りない者ですが、
そこまで至るべきものを怠惰や放縦によって無下にするなら無間地獄に堕ちたって構わないというほどの熱烈な意欲を歌ったものかなあと思いました。

さらなる善友のお導きをお願い申し上げます。

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