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★親鸞聖人★コミュの●後生の一大事の解決

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●後生の一大事とは?

 地獄ということについて、質問を受けたことがあります。
 親鸞聖人の教えに、わたし達が死後に地獄に堕ちるという教えが
”ある”のか”ない”のか。というご質問でした。

 地獄と聞いただけで、そんなことは聞きたくないという思いを
 もたれる方もあるでしょうけれど、ちょっと辛抱して読んで頂ければ幸いです。

 その質問をなされたお方は、真面目に求めておられ、真剣に尋ねてこられました。
 色々な人の話を聞いておられる方で、お寺さんの言われることが
 人によって異なるようで、混乱なさっておられるようでした。

 確かに、人によって言われることが異なれば混乱するのは無理もありません。
 仏教は、そんないい加減なものではありません。
 同じ疑問をお持ちの方もあるかと思い、コメントさせて頂きたいと思います。


結論を先に申し上げますと、
わたしたちが死後に地獄に堕ちるという教えは、もちろん浄土真宗にあります。
地獄といいましても、虎の皮のフンドシの鬼とか、湯玉たぎるカマがあるとか
そういう世界が実在するということではなくて、
苦しみの世界に堕ちるということです。
それらの表現は、”喩解”といいまして、苦しみを現す表現として、
たとえて教えておられるものです。

死後、地獄に堕ちるという大事件を、「後生の一大事」と申します。

仏教は、
”後生の一大事”を知るところから始まり、
”後生の一大事”の解決で終わります。

”後生の一大事”とは、どんなことかを知らなければ、
仏教は何十年きいても、わかるものではありません。

そこで、”後生の一大事”ということについて、知って頂きたいと思います。

後生とは、一息切れたら後生です。
仏教ときくと、
”歳がいってから聞けばいいもの”
”若いからまだ聞く必要がない”という人があります。
後生は遠い先のことで、自分とは関係のないことだと思っていられるのでしょう。

しかし、何かのことで、
吸った息が吐き出せなければ、吐いた息が吸えなければ、
その時から後生なのです。
吸う息吐く息と触れ合っているのが、後生なのです。
いくら平均寿命が延びたといいましても
死ななくなったのではありません。
100%ぶちあたらねばならないのが後生です。
だから、後生と関係のない人は、一人もいないのです。

一大事とはとはどんなことか。
仏教にはこんな話しが伝えられています。

あるとき、お釈迦様が托鉢中、
大きな橋の上で、あたりをはばかりながら1人の娘が、
しきりと袂へ石を入れているのをご覧になられました。
”自殺の準備に違いない”と知られたお釈迦様はさっそく近寄られ、
優しく事情をたずねられると、相手がお釈迦様と分かった娘は、
心を開いて、こう打ち明けました。

”お釈迦様、お恥ずかしいことですが、
 ある人を愛して妊娠しましたが、今は捨てられてしまいました。
 世間の目は冷たく、お腹の子の将来などを考えますと、
 このまま死んだ方がどんなに楽だろうと苦しみます。
 どうかこのまま死なせてくださいませ”
と娘はよよと泣き崩れました。

その時、お釈迦様は、哀れに思われ、こうさとされております。

「愚かなそなたには、譬えをもって教えよう。
 あるところに、毎日、重荷を積んだ車を、
 朝から晩まで引かねばならぬ牛がいたのだ。
 その牛はつくづく思った。
 ”なぜ俺は毎日、こんなに苦しまねばならぬのか。
  俺を苦しめているものは一体何なのか”
 と考えた。
 ”そうだ、この車さえなければ、俺は苦しまなくてもよいのだ”
 と牛は、車を壊すことを決意した。
 ある日、猛然と走って、牛は、車を大きな石に打ち当てて、
 木っ端微塵に壊してしまったのだ。

 ところが、飼い主は、
 ”こんな乱暴な牛には、頑丈な車でなければまた壊される”
 と、今度は、鋼鉄製の車を造ってきた。
 その車は、壊した車の、何十倍、何百倍という重さであった。
 その車で、重荷を、同じように毎日引かせられ、
 今までの何百倍、何千倍苦しむようになった牛は、
 深く後悔したが、あとのまつりであった。
 牛が丁度、”この車さえ壊せば、苦しまなくてもよい”と思ったのと同じように、
 そなたは、”この肉体さえ壊せば、楽になれる”と思っているのだろう。

 そなたには、わからないだろうが、
 死ねば、もっと苦しい世界へ、飛び込まなければならないのだ。
 その苦しみは、この世のどんな苦しみよりも、
 おそろしい苦しみなのだよ」

と、教えておられます。

これは、すべての人に、死ねば取り返しのつかない一大事のあることを、
お釈迦様が教えられたものです。

これを後生の一大事といいます。
この後生の一大事の解決し、極楽往生を遂げることこそが、
仏教をきく目的なのです。

蓮如上人は、あの有名な白骨の章に
「誰の人もはやく、後生の一大事を心にかけて、
 阿弥陀仏を深くたのみまいらせて、
 念仏申すべきものなり」
とおっしゃっておられます。

すべての人々よ、はやく後生の一大事を心にかけよ、
といわれる”後生の一大事”とはどういうことかについて、
帖外御文には、

「後生という事は、ながき世まで地獄におつることなれば、
 いかにもいそぎ後生の一大事を思いとりて、
 弥陀の本願をたのみ、他力の信心を決定すべし。」

とも言われています。
読んで字の通り、死んだあと永い間、地獄で苦しむ地獄があると言われています。
それが、後生の一大事です。

祖師親鸞聖人ももちろん、教行信証という主著の中に、
大品般若経の以下の御文を引用なさって、同じことを教えておられます。

「五逆の罪人、阿鼻大地獄の中に堕してつぶさに一劫の重罪を受く。
 誹謗正法の人は阿鼻大地獄の中に堕して、この劫もし尽くれば
 また転じて他方の阿鼻大地獄の中に至る。
 かくの如く展転して百千の阿鼻大地獄を経。」

また、御和讃にも、

「念仏誹謗の有情は 阿鼻地獄に堕在して
 八万劫中大苦悩 ひまなく受くとぞ説きたもう」

と仰せです。

蓮如上人は、

「この信心を獲得せずば、極楽には往生せずして、
 無間地獄に堕在すべきものなり。」
              (御文章2帖目第2通)
とも言われています。

これについて、”堕在すべき”ものなり、というのは、
地獄に”堕ちる可能性がある”という意味だとおっしゃるお方があるようですが、それは間違いです。

浄土真宗3代目の善知識、覚如上人は、

「また殺生罪を造るとき地獄の定業を結ぶも、
 臨終にかさねて造らざれども、
 平生の業にひかれて地獄に必ず堕つべし。」(執持抄)

とおっしゃっています。
ここでは、「堕すべし」の前に、「必ず」と言われています。
可能性がある、という程度のことではございません。

他にも沢山ございますが、明らかに、
わたし達が死後に地獄に堕ちるということが説かれておりますね。

いずれもいずれも、誰かが脅しの為に言っていることではなく、
混乱させるために言っていることでもありません。
お釈迦様が仏智で知られた、人間の本当の姿を、教えておられるものです。
誰かのせいで地獄に堕ちるということではなく、
それだけ悪い行為(悪業)を造っているから、自業自得で堕ちるということなのです。

そして、そんなわたしたち、だからこそ、
弥陀が立ち上がってくだされ、
絶対に地獄に堕としはせぬぞ、救ってみせると
わたしたちを救う本願を建ててくださったのだと、
弥陀の大慈悲心をお釈迦様は説いてゆかれました。

ところがその弥陀の本願を耳できいて目で読んでも、
疑っている心(自力の心)があるうちは、
自分が地獄に堕ちるような者だとも分からず、
だからわたしの為の本願ともいただけず、
弥陀にうちまかせることができず、助からないので、
早く、自力の心がのぞかれる(信心決定する)ところまで、聞いてくださいよと
善知識の方々は、真剣な聴聞をお勧めになってゆかれました。


死んだあとにわたし達が地獄に堕ちるという教えがない、と言われる方は、
まだ本当の自分の姿が知らされていないということになります。

信心を獲得しなかったら地獄に堕ちる、と断言された蓮如上人の心境は、

二種深信といいまして、
自分の本当の姿(機)と、弥陀の本願(法)とに、
露塵の疑いもなくハッキリ知らされている世界です。
(弥陀の18願文に疑い晴れている状態)
これが他力の信心というものです。

だから、
”信心を獲得していなかったら、後生は100%地獄であった”とハッキリしているのです。
だから断言できることなのですね。

親鸞聖人様のお言葉で申しますと、

「もしまた、このたび疑網に覆蔽せられなば、
 かえりてまた曠劫を逕歴せん。」(教行信証)

「いずれの行も及び難き身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。」
                (歎異抄)

と言われています。

もしこの親鸞、今生で、信心獲得できずに死んでいたら
またしても流転を重ねて苦しみ続けていたことであったなあ、
と危ないところを救われたことを喜んでいられるのは、
本当の自分(機)がハッキリ知らされておられたからです。

ですから、御文章2帖目第2通の、”堕在すべき”ものなり、を
”堕ちる可能性がある”という意味だ、などと言われるお方の信仰は、
親鸞聖人や蓮如上人の信心とは全く異なっていることがわかります。

信心決定せずに臨終を迎えると地獄に堕ちるということに
疑いがある人は、
まだ機の真実(本当の自分の姿)が知らされていないということですから、
まだ弥陀に救われていないという証拠であります。
一刻も早く、まことの信心を頂くところまで、聞法しなければならないということですね。

★このように「地獄に堕ちる」ということを話しをすると、
それだけで、それはカルトの特徴だとレッテルを貼られる方もあるのですが、
よくよく気をつけないと、仏法を謗ることになりますね。
言われているのはこのように、お釈迦様をはじめ、善知識の方々なのですから。

たしかに、このツボを買わないと地獄に堕ちるぞとか、
あんたの家はお金をもっと布施しないと地獄に堕ちるぞとか、
そんなことを言うのは論外で、カルトでしょうけれど。


それに、地獄に堕ちると聞いて、脅されている人があるのでしょうか。
わたしは、そんな方はないように思うのです。
地獄と聞いて、驚くような方は、大変殊勝なお方だと思われます。
仏教では、涅槃経に、”闡提”(せんだい)という心について説かれています。
これがわたし達の心だと教えられています。
闡提とは、地獄と聞いても、皿1枚割ったほども驚かず、
極楽と聞いても、一万円もらったほども喜ばず、
因果の道理を撥ね付ける、真理に対して反応しない、屍のような心だから、
「死骸の如し」とも説かれています。
親鸞聖人はこれを「逆謗の屍」とも言われています。
仏縁深く、弥陀の救いを求めておられる方々の悩みは、
地獄と聞いても驚かない心に泣いておられます。
早く驚けと自分に鞭うっても、少しも驚かない。
それが悩みである人にとって、脅されているという感覚が全くないんですね。


●後生の一大事の解決

浄土真宗、弥陀の本願は、
地獄行き間違いない極悪人だからこそ、必ず救う
というものです。
後生の一大事を救ってくださるのが、弥陀の本願なのです。
本当に有難いことです。

その弥陀の本願に、生きているときにハッキリと救われます。
死んだらお助けではありません。
他力の信心を獲得すれば、明らかに、生きている今から、
大安心大満足の人生に転じます。
その人は死ぬと同時に、本当の極楽浄土に往生できます。
今、ハッキリしていないという人は、
まだ救われていないということですから、
極楽往生遂げることはできません。

だからこそ、ハッキリするところまで聞いてほしいとの一心で、
御説法に立ってくだされた善知識方に、心より感謝申し上げます。

仏様や聖人様のお言葉を頂くときには、
個人的な感情や私情を挟まないようにしなければ誤解してしまいますので、
よくよく注意が必要です。
部分的にしぼって判断したり、あるいは世間の文法を基準にしたりするのも
危険なことだと思われます。

仏教のお言葉は、全体を見なければ、正しい判断はむずかしいので、
僧侶という立場の方は、実に大変なお立場の方々だと本当にご苦労様ですと
申し上げたくなります。

御門徒の皆様を、責任もって極楽まで導かせて頂くという手次の任務は、
片手間に世間の他の仕事と兼ねて果たせるようなものではないと聞いたことがあ
りますが、
全くその通りだと実感します。
我が身の都合を捨てて、真実を説くということは、大変難しいことです。

長々と、つたない文章、申し訳ございません。

最後まで読んでくだされた方、どうもありがとうございました。

コメント(21)

後生の一大事については、紅楳英顕著『派外からの異説について』に詳しく書かれてありますので、引用します。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 「後生」とは、文字通りの意味は「今生」に対する「後生」であろうから、
必ずしも往生の意味だけではない。しかし、(中略)『大経』に、
  後生無量寿仏国
とあって、後生の一大事の「後生」という語は、この「後に無量寿仏国に生れ
る」が出拠と考えられる。蓮如上人も、
  されば、死出の山路のすえ三塗の大河を唯一人こそ行きなんずれ、これに
  よりて、ただ深く願うべきは後生なり、またたのむべきは弥陀如来なり。
  (『御文章』1の11)
  しかれば阿弥陀如来を何とようにたのみ、後生をばねがふべきぞというに
  ……(『御文章』5の10)
等と教示されているように「後生」を往生浄土の意味で語られているのである。
 また「一大事」についてであるが、「一大事」とか「大事」とかは、本来「転
迷開悟」「出離生死」についていわれるものである。したがって『法華経』出
世本懐の文には、
  一大事因縁(『大正大蔵経』第9・7a)
とあり『称讃浄土経』には、
  利益安楽の大事因縁
とある。また、法然上人は、
  往生程の大事をはげみて念仏申さん身をば、いかにもいかにもはぐくみた
  すくべし。(『和語灯録』)
といわれ、宗祖聖人は、
  往生極楽の大事(『拾遺真蹟御消息』)
と仰せられており、さらに覚如上人も、
  往生ほどの一大事をば如来にまかせたてまつり……(『口伝抄』)
  往生ほどの一大事凡夫のはからうべきことにはあらず……(『執持抄』)
等と述べられている。いずれも「一大事(大事)」を往生にかけて語られている。
 さらに蓮如上人も、
  もろともに今度の一大事の往生をよくよくとぐべきものなり。(『御文章』1の
  11)
  この他力の信心ということをくはしくしらずば、今度の一大事の往生極楽
  はまことにもてかなふべからず。(『御文章』2の10)
  いそぎてもいそぎてもねがうべきものは後生善所の一大事にすぎたるはな
  し。(『帖外御文章』50)
等と示されている。往生にかけて「一大事」を語っておられるのである。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

このように、後生の一大事とは往生の一大事のこと、もしくは往生できるかどうかの一大事ということです。言葉の定義から死後に地獄に堕ちる一大事という意味にはなりません。
こうへいさんが後生の一大事を地獄に堕ちる一大事とする根拠『帖外御文』の


後生という事は、ながき世まで地獄におつることなれば、 いかにもいそぎ後生の一大事を思いとりて、弥陀の本願をたのみ、他力の信心を決定すべし。


ですが、これは断章取義です。前も含めて紹介しておきます。


世間は一且の浮生、後生は永生の楽果なれば、今生はひさしくあるべき事にもあらず候。後生といふ事は、ながき世まで地獄にをつる事なれば、いかにもいそぎ後生の一大事を思ひとりて、弥陀の本願をたのみ、他力の信心を決定すべし。


「後生は永生の楽果なれば」というお言葉は、こうへいさんにとっては都合が悪いので隠されたのかも知れません。ここの部分は、『御文章』1帖目第10通の


まづ人間はただ夢幻のあひだのことなり、後生こそまことに永生の楽果なりとおもひとりて、人間は五十年百年のうちのたのしみなり、後生こそ一大事なりとおもひて、もろもろの雑行をこのむこころをすて、あるいはまた、もののいまはしくおもふこころをもすて、一心一向に弥陀をたのみたてまつりて、そのほか余の仏・菩薩・諸神等にもこころをかけずして、ただひとすぢに弥陀に帰して、このたびの往生は治定なるべし


あるいは、『御文章』2帖目第7通


人界の生はわづかに一旦の浮生なり、後生は永生の楽果なり。たとひまた栄華にほこり栄耀にあまるといふとも、盛者必衰会者定離のならひなれば、ひさしくたもつべきにあらず。ただ五十年・百年のあひだのことなり。それも老少不定ときくときは、まことにもつてたのみすくなし。これによりて、今の時の衆生は、他力の信心をえて浄土の往生をとげんとおもふべきなり。


と同じことを仰っています。そこに「後生といふ事は、ながき世まで地獄にをつる事なれば」と付け加えられただけです。

ここで蓮如上人は「後生」を「永生の楽果」と「ながき世まで地獄にをつる事」と2つの表現をされていますが、これは死後には、最高の「永生の楽果」と最低の「ながき世まで地獄にをつる事」という両極端があることを仰って、短い今生のことにとらわれずに、永い死後のことを考えなさいと誡められたものです。

ですから、「後生の一大事」は後の「弥陀の本願をたのみ、他力の信心を決定すべし」に続きますので、ここでの「後生の一大事」も、往生の一大事、もしくは往生できるかどうかの一大事、という紅楳英顕師の説明通りになります。

『御文章』80通を避けて、あえて『帖外御文』を引用されているところも作為的で問題ですが、断章取義されていることはもっと問題です。
また『歎異鈔』の


いずれの行も及び難き身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。


を死後に地獄に堕ちる根拠としていますが、『歎異鈔』第2章は、覚如上人の書かれた『執持鈔』と比較しなければ、親鸞聖人の真意は理解できません。


往生ほどの一大事、凡夫のはからふべきことにあらず、ひとすぢに如来にまかせたてまつるべし。すべて凡夫にかぎらず、補処の弥勒菩薩をはじめとして仏智の不思議をはからふべきにあらず、まして凡夫の浅智をや。かへすがへす如来の御ちかひにまかせたてまつるべきなり。これを他力に帰したる信心発得の行者といふなり。

さればわれとして浄土へまゐるべしとも、また地獄へゆくべしとも、定むべからず。故聖人(源空)の仰せに、「源空があらんところへゆかんとおもはるべし」と、たしかにうけたまはりしうへは、たとひ地獄なりとも故聖人のわたらせたまふところへまゐるべしとおもふなり。このたびもし善知識にあひたてまつらずは、われら凡夫かならず地獄におつべし。しかるにいま聖人の御化導にあづかりて、弥陀の本願をきき摂取不捨のことわりをむねにをさめ、生死のはなれがたきをはなれ、浄土の生れがたきを一定と期すること、さらにわたくしのちからにあらず。たとひ弥陀の仏智に帰して念仏するが地獄の業たるを、いつはりて往生浄土の業因ぞと聖人授けたまふにすかされまゐらせて、われ地獄におつといふとも、さらにくやしむおもひあるべからず。

そのゆゑは、明師にあひたてまつらでやみなましかば、決定悪道へゆくべかりつる身なるがゆゑにとなり。しかるに善知識にすかされたてまつりて悪道へゆかば、ひとりゆくべからず、師とともにおつべし。さればただ地獄なりといふとも、故聖人のわたらせたまふところへまゐらんとおもひかためたれば、善悪の生所、わたくしの定むるところにあらずといふなりと。これ自力をすてて他力に帰するすがたなり。

(石田瑞磨著『親鸞全集 別巻』による現代語訳)

浄土に生れるという、これほどの一大事について、愚かなものがさかしらな才覚をめぐらしてはならない、ただ一すじに如来におかませしなければならない。総じて愚かなひとに限らず、次の世に仏となってあらわれることが約束された弥勒菩薩をはじめとして、仏の智慧の不思議になまじいの才覚をしてはならない。まして愚かなひとの浅はかな智慧には、当然許されない。ねんごろに如来の智慧のお誓いにおまかせをしなければならない。これを、仏にすべてを託した、真実の信心をえたひとというのである。

だから自分から、浄土に行くことができそうだとも、また地獄に堕ちるかもしれないとも、決めてはならない。なくなられた上人<黒谷の源空、法然上人のことばである>の仰せられた言葉として、「源空の生れるところへ行こうとお考えになってください」ということをたしかにうけたまわったうえは、たとえ地獄であっても、なくなられた上人のおいでになるところへ行かなければならない、と思うのである。このたび、もし正しい教えの師にお会いしないならば、わたしたち愚かなものはかならず地獄に堕ちるはずである。ところがいま、上人のお導きにあずかって、阿弥陀仏の本願を聞き、救いとってお捨てにならない道理を胸に収め、離れにくい生死の迷いを離れて、生れにくい浄土にかならず生れようと、心に深くたのむのは、けっしてわたしの力によるものではない。たとい、阿弥陀仏の智慧にすべてを託して念仏することが地獄に堕ちる行為でしかないのに、それをいつわって、「浄土に生れるための行為なのだ」、と上人がお教えになることにだまされて、わたしが地獄に堕ちるとしても、けっしてくやしく思うはずはない。

その理由は、智慧の勝れた師にお逢いしないで終ってしまうならば、かならず悪道に行くはずの身だから、というのである。ところが、正しい教えの師にだまされて悪道に行くならば、そのときはひとりで行くはずがない。かならず師と一緒に堕ちて行くだろう。だから、ただ地獄に堕ちるほかない、といっても、なくなった上人のおいでになるところへ参ろうと決心したのであるから、生れるさきの善し悪しはわたしのきめるところではない、というのである。これが自力を捨てて他力にすべてをまかせる姿である。
死後のことについて親鸞聖人は

・往生ほどの一大事、凡夫のはからふべきことにあらず、ひとすぢに如来にまかせたてまつるべし
・われとして浄土へまゐるべしとも、また地獄へゆくべしとも、定むべからず
・善悪の生所、わたくしの定むるところにあらず

という言い方をされています。
死後にどこにいくかを自分ではからって決めてはならないということです。要するに、死後がわかるものではないということです。
捨自帰他については、

・如来の御ちかひにまかせたてまつるべきなり。これを他力に帰したる信心発得の行者といふなり。
・善悪の生所、わたくしの定むるところにあらずといふなりと。これ自力をすてて他力に帰するすがたなり。

と仰っています。「自分は地獄に堕ちたくないから、助けてください」では、阿弥陀仏に何もまかせていないのです。自分で地獄行きと決めつけ、浄土往きに変更してほしいと請求しているのです。阿弥陀仏にすべてをまかせるとは、死後にどこに行くかも完全にまかせることです。

救われるとき、あるいは救われたら、地獄一定と歴然と知らされる、極楽一定と歴然と知らされる、などと思っているのを自力というのです。それを捨てよです。


ここで、親鸞聖人のお言葉


このたびもし善知識にあひたてまつらずは、われら凡夫かならず地獄におつべし


をまた断章取義するかもりれませんが、全く同じことを


明師にあひたてまつらでやみなましかば、決定悪道へゆくべかりつる身


と仰っています。「地獄」が「悪道」になっています。この他にも、


善知識にすかされたてまつりて悪道へゆかば


とやはり、「地獄」が「悪道」に替っています。更に続いて


さればただ地獄なりといふとも


とありますので、親鸞聖人が仰っている「地獄」とは「悪道」の中で極論を仰っていることとわかります。
それでも、「地獄」に固執する人は、更に後にある親鸞聖人のお言葉を読んで下さい。

・おのれが悪業のちから、三悪・四趣の生をひくより
・かかるあさましきものが、六趣・四生よりほかはすみかもなくうかむべき期なき
・十悪・五逆・四重・謗法の悪因にひかれて三途・八難にこそしづむべけれ


とあります。仏教で教えられている通り、我々凡夫は死後に六趣、四趣、三悪道(三途)に行くのだ、と親鸞聖人はそのまま理解されて仰っています。従って、親鸞聖人御自身が地獄に堕ちるとはっきり知らされたというのではありません。

死後にどうなるかわからないことを一大事と決めつけるのはおかしなことです。仏教で教えられているから、死後は一般には六道輪廻であり、多くの人は三悪道であり、最悪地獄になるという理解で、親鸞聖人御自身の懺悔として「地獄一定」と仰っただけです。地獄行きがはっきりわかるというのではないのです。

救われてはっきりわかることは、自分の力では往生できない、成仏できない、だから阿弥陀仏にすべておまかせした、自力無功・他力全託ということです。
自力無功と罪悪感からくる懺悔との違いがわからないから、このような誤解が生じるのです。
同じくこうへいさんが挙げられています『教行信証』に引かれた曇鸞大師の『浄土論註』にある『大品般若経』の御文


五逆の罪人、阿鼻大地獄の中に堕してつぶさに一劫の重罪を受く。誹謗正法の人は阿鼻大地獄の中に堕して、この劫もし尽くればまた転じて他方の阿鼻大地獄の中に至る。かくの如く展転して百千の阿鼻大地獄を経。


も、阿鼻大地獄に堕ちる主語は、「五逆の罪人」と「誹謗正法の人」です。この後を読まれればわかりますが、曇鸞大師はすべての人が「五逆の罪人」「誹謗正法の人」とは仰っていませんので、すべての人の死後が「阿鼻大地獄に堕ちる」ことにはなりません。

また、御和讃の


念仏誹謗の有情は 阿鼻地獄に堕在して
 八万劫中大苦悩 ひまなく受くとぞ説きたもう


も主語は「念仏誹謗の有情は」です。もんちろんすべての人の事を仰ったのでないことは明らかです。


また親鸞聖人は『御消息』で次のように仰っています。


弥陀の御ちかひにまうあひがたくしてあひまゐらせて、仏恩を報じまゐらせんとこそおぼしめすべきに、念仏をとどめらるることに沙汰しなされて候ふらんこそ、かへすがへすこころえず候ふ。あさましきことに候ふ。ひとびとのひがざまに御こころえどもの候ふゆゑ、あるべくもなきことどもきこえ候ふ。申すばかりなく候ふ。
ただし念仏のひと、ひがことを申し候はば、その身ひとりこそ地獄にもおち、天魔ともなり候はめ。よろづの念仏者のとがになるべしとはおぼえず候ふ。


間違ったことを言っている人一人が地獄に堕ちるのであり、すべての念仏者が地獄に堕ちる罪になるのではないと仰っています。




蓮如上人は異安心、邪義の者に対して、地獄に堕ちると仰っています。


これについてちかごろは、この方の念仏者の坊主達、仏法の次第もってのほか相違す。そのゆえは、門徒のかたよりものをとるをよき弟子といい、これを信心のひとといえり。これおおきなるあやまりなり。また弟子は、坊主にものをだにもおおくまいらせば、わがちからかなはずとも、坊主のちからにてたすかるべきようにおもえり。これもあやまりなり。かくのごとく坊主と門徒のあいだにおいて、さらに当流の信心のこころえの分はひとつもなし。まことにあさましや。師・弟子ともに、極楽には往生せずして、むなしく地獄におちんことはうたがいなし。(1帖目第11通)

それ越前の国にひろまるところの秘事法門といえることは、さらに仏法にてはなし。あさましき外道の法なりこれを信ずるものは、ながく無間地獄にしずむべき業にて、いたずらごとなり。(2帖目第14通)


一方、一般の人の死後について


されば、死出の山路のすえ、三途の大河をば、ただひとりこそゆきなんずれ。(1帖目第11通)

はやめにみえてあだなる人間界の老少不定のさかいとしりながら、ただいま三途八難にしずまん事をば、つゆちりほども心にかけずして、(2帖目第1通)

されば、五道六道といえる悪趣に、すでにおもむくべきみちを、弥陀如来の願力の不思議として、これをふさぎたまうなり。(2帖目第4通)

と、一般論として死後は六道輪廻、あるいは三途(三悪道)に行くと仰っています。つまり、すべての人が死んで地獄に堕ちるという意味では仰っていないのです。

断章取義と曲解が多すぎます。
さて、一般の人が死後にどこに行くのかについて詳しく教えられたのが、道綽禅師の『安楽集』にあります。


無始劫よりこのかたここにありて、輪廻無窮にして身を受くること無数なることを明かすとは、『智度論』(意)にいふがごとし。「人中にありて、あるいは張家に死して王家に生じ、王家に死して李家に生ず。かくのごとく閻浮提の界を尽して、あるいはかさねて生じ、あるいは異家に生ず。あるいは南閻浮提に死して西拘耶尼に生ず。

閻浮提のごとく余の三天下もまたかくのごとし。四天下に死して四天王天に生ずることもまたかくのごとし。あるいは四天王天に死して?利天に生ず。?利天に死して余の上四天に生ずることもまたかくのごとし。色界に十八重天あり、無色界に四重天あり。ここに死してかしこに生ず。一々にみなあまねきことまたかくのごとし。あるいは色界に死して阿鼻地獄に生ず。阿鼻地獄のなかに死して余の軽繋地獄に生ず。軽繋地獄のなかに死して畜生のなかに生ず。畜生のなかに死して餓鬼道のなかに生ず。餓鬼道のなかに死してあるいは人天のなかに生ず。かくのごとく六道に輪廻して苦楽の二報を受け、生死窮まりなし。

胎生すでにしかなり。 余の三生もまたかくのごとし」と。

(中略)

問ひていはく、これらの衆生はすでに流転多劫なりといふ。しかるに三界のなかには、いづれの趣にか身を受くること多しとなす。

答へていはく、流転すといふといへども、しかも三悪道のなかにおいて身を受くることひとへに多し。

『経』(十住断結経・意)に説きてのたまふがごとし。「虚空のなかにおいて方円八肘を量り取りて、地より色究竟天に至る。この量内においてあらゆる可見の衆生は、すなはち三千大千世界の人天の身よりも多し」と。ゆゑに知りぬ、悪道の身多し。
なんがゆゑぞかくのごとしとならば、ただ悪法は起しやすく、善心は生じがたきがゆゑなり。いまの時ただ現在の衆生を看るに、もし富貴を得れば、ただ放逸・破戒を事とす。天のなかにはすなはちまた楽に着するもの多し。このゆゑに『経』(五苦章句経・意)にのたまはく、「衆生は等しくこれ流転してつねに三悪道を常の家となす。人天にはしばらく来りてすなはち去る。名づけて客舎となすがゆゑなり」と。

(現代語訳 意訳聖典より)

無始曠劫よりこのかた、三界にあって輪廻きわまりなく、身を受けることが、無数であることを明かすならば、《智度論》にいわれているとおりである。

人間界の中にあって、あるいは張姓の家に死んで、王姓の家に生まれ、王姓の家に死んで、李姓の家に生まれる。このように閻浮提の世界をことごとくつくして、あるいは同じ家に生まれ、あるいは異なった家に生まれる。あるいは南閻浮提に死んで西拘耶尼に生まれる。閻浮提におけるように、他の西拘耶尼・北鬱単越・東弗婆提の三天下もまたこのとおりである。四天下に死んで四天王天にうまれるようなものもまた同様である。あるいは四天王天に死んで?利天に生まれ、?利天に死んでその上の夜摩天・兜率天・変化天・他化自在天に生まれるのも、また同様である。色界に十八重の天があり、無色界に四重の天がある。ここに死んでかしこに生まれ、一々みなあまねくめぐることもかたこのとおりである。あるいは色界に死んで阿鼻地獄に生まれ、阿鼻地獄の中に死んでそのほかの軽繋地獄に生まれ、軽繋地獄の中に死んで畜生の中に生まれ、畜生の中に死んで餓鬼道の中に生まれ、餓鬼道の中に死んであるいは人天の中に生まれる。このように六道をめぐって苦楽の二報を受け、生死がきわまりない。胎生がすでにこのとおりであって、そのほかの卵生・湿生・化生もまた同様である。

(中略)

問うていう。これらの衆生は、すでに多劫のあいだ流転しているという。しかしながら、三界の中では、どの生に身を受けることが多いとするのか。

答えていう。流転しているというが、しかも三悪道の中で身をうけることが殊に多い。経に説かれているとおりである。

虚空の中において、八肘四方を量り取り、地面より色究竟天に至るまで、この中にいる衆生は、三千大千世界の人天の身の数よりも多い。

と。ゆえに悪道の身が多いことが知られる。なぜこのようであるかというと、すべて悪法は起こしやすく、善心は生じがたいからである。いま現にいる衆生を見ると、もし富貴を得ればただ放逸破戒を事としており、天上界にあっては、また楽しみに執着する者が多い。こういうわけで、経に説かれてある。

衆生はひとしく流転して、つねに三悪道を住家としている。人天の境界にしばらく来ても、すぐ去ってしまう。人天の境界を名づけて客舎とするからである。
道綽禅師は、死後は六道とはいいながらも、三悪道に行くものが多いことを教えられています。すべての人が地獄に堕ちるとは、どこにもありません。

地獄に堕ちる人もあり、畜生界、人間界に生まれる人もあるのです。


釈尊、七高僧、親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人の誰も、すべての人が死後に地獄に堕ちるとは教えておられません。それなのに、死後はすべての人が必ず地獄に堕ちるのが仏教の常識として強調すれば、カルトと非難されても仕方がないと思いますが、如何でしょうか。
横から失礼いたします。
自己紹介でのやりとりでは、どうも失礼いたしました。

EMS様は、「我々凡夫は死後に六趣、四趣、三悪道(三途)に行くのだ、と親鸞
聖人はそのまま理解されて仰っています。」と言われ、
「従って、親鸞聖人御自身が地獄に堕ちるとはっきり知らされたというのではありません。」と言われていますが、果たして如何でしょうか。
「我々凡夫は死後に六趣、四趣、三悪道(三途)に行くのだ、と親鸞聖人はそのまま理解されて仰っています。」というのはその通りだと思いますが、
この「死後」とは「次生のみ」ではなく「未来永遠」のことですから、「死後は六趣、四趣、三悪道に行く」ということと、「次の生は必ず地獄に堕ちる」ということとは矛盾いたしません。

仏教では、罪業に応じて六道が決まると厳しく因果が説かれていますが、宗祖様は、「三悪道」や「六趣」に行くと言われているのは、そのような悪業を現に持つ身であることを言われており、必然として、必ず未来においてその結果を免れられない道理で「三悪道」や「六趣」に行くと言われています。それは、次の生に限っておっしゃっているのではなく、未来永遠の輪廻をおっしゃっています。
その中で、宗祖は、「餓鬼一定」「畜生一定」とは言われず「地獄一定」と言わ
れています。これは地獄行きの業をもちける身を懺悔されてのことで、重い業にひかれる道理に則して、三悪道の中でも地獄一定とおっしゃったのではないでしょうか。

「道綽禅師は、死後は六道とはいいながらも、三悪道に行くものが多いことを教えられています。すべての人が地獄に堕ちるとは、どこにもありません。」
とありますが、これも同じことです。
道綽禅師が、死後は六道、特に三悪道に行くものが多いことを教えられていますが、それは、永遠の輪廻を言われているものですから、人間が次生に地獄に堕ちるということを否定するものではありません。

ですので、これらの御言葉は、人間の死後(次の生)が地獄であるということを
否定する御言葉にはならないと思いますが、その点はどう思われますでしょうか。

また、もし「親鸞聖人御自身が地獄に堕ちるとはっきり知らされたというのではありません。」ということが事実であれば、地獄に堕ちるということがぼんやりしたまま、ぼんやりしていることに対して「地獄一定」と懺悔されているということでしょうか。

御教示よろしくお願い致します。

いいえ、こちらこそ失礼しました。

確認ですが、次生に必ず地獄に堕ちると仰ったお言葉はないということですね。
つまり、次生に必ず地獄に堕ちると断言できる根拠はないということです。

もしあると仰るならば、教えてください。
EMS様
「我々凡夫は死後に地獄に堕ちる」というのは間違いで、「我々凡夫は死後に六趣、四趣、三悪道(三途)に行く」のは正しいとする場合、前者の間違いの根拠はどこにございますでしょうか。宗祖様が「おっしゃっておられない」というEMS様の御理解以外にございましたら、教えて頂けないでしょうか。よろしく御教示お願い致します。
サンガさん

5を読まれたのでしょうか?
覚如上人の伝聞では信憑性がないと仰るならば、次の御文をあげます。

もしまたこのたび疑網に覆蔽せられば、かへつてまた曠劫を経歴せん。(教行信証総序)
現にこれ生死の凡夫、罪障深重にして六道に輪廻せり。(教行信証行巻)
曠劫よりこのかた六道に流転して、ことごとくみな経たり。(教行信証証巻)
一念一時に造るところの業、足六道に繋がれ三塗に滞まる。(教行信証真仏土巻)

さて、六道輪廻するというのは、仏教の常識ですが、人間が死んだ後どうなるか。特別な世界と決まってはいませんので、そのまま六道です。これでは御不満なのでしょうか。

論理的な思考をするならば、

凡夫は六道輪廻する。死後に必ず地獄に堕ちると仰っていない
   ↓
死後は六道輪廻する。

これに異議を唱えられるのであれば、死後に必ず地獄に堕ちると仰った根拠を持ってしか覆すことができません。

議論を成立させたいのであれば、上記のことをご理解ください。
EMS様
御返事ありがとうございます。はい、5番目もすべて熟読いたしておりますので、まずはそれを申し上げておきたいと思います。その上で、申し上げていることでございます。
たしかにEMS様のおっしゃる通り「自分は地獄に堕ちたくないから、助けてください」では「阿弥陀仏に何もまかせていない」「請求している」とおっしゃる通りだと存じます。しかしEMS様が「阿弥陀仏にすべてをまかせるとは、死後にどこに行くかも完全にまかせることです。」とありますが、「弥陀をたのんだ」とは完全に自分でまかせたのではなく、完全に如来さまの方から一方的に引き受けてくだされたのでありまして、如来さまが私を摂取してわが往生を定めてくだされたことを「弥陀をたのんだ」とおっしゃっておられるのではないでしょうか。萬の事皆もって空ごとたわごとの中に、わが往生は一定と如来さまのみたのもしきという心と存じます。
EMS様の「死後にどこにいくかを自分ではからって決めてはならないということです。」とございますが、死後の行き先を「決めてよい」とか「決めてはならない」というのでは、まだ決める余地があるということのようにも聞こえます。死後どうなるのか、自分で計らう余地が完全になくなっているのが、如来さまに完全におまかせしているすがた、即ち弥陀をたのんだすがたではないでしょうか。「要するに、死後がわかるものではないということです。」とございますが、これは、この文章だけでは私には判然としないものがございまして、死後が「自分の計らいで」分かるものではない、とおっしゃっているならば誠にEMS様のおっしゃるその通りと存じます。しかし、他力に摂取されたならば、如来わが往生を定めたまいしことを知らされ、その御恩報謝のお念仏となるのでございますから、後世を知らざる者ではなく、後世を知る智者とならせて頂くのではないでしょうか。宗祖様が「往生ほどの一大事、凡夫のはからふべきことにあらず、ひとすぢに如来にまかせたてまつるべし」「われとして浄土へまゐるべしとも、また地獄へゆくべしとも、定むべからず」「善悪の生所、わたくしの定むるところにあらず」と言われていますのも、すべてそのことで、私の往生は、自分で計らえるようなことでは到底なく、計らい尽きて、間違いなく如来さまが為されるという決定心を言われているものだと思いますが、如何でしょうか。
自分で死後の行き先を地獄と決めつけて、如来さま御助けください、と言うのは無論、自力の信心に違いないと存じます。他力に摂取されますと、我が悪業を知らされ、宗祖様のおっしゃる通りその悪業の力によって後世はどうなるか必然と知らされるのでございまして、これもまた私の力による計らいではございません。
六道輪廻の中には、当然ながら三塗・地獄が含まれております。
「死後は必ず六道輪廻する」ということは、「死後に必ず地獄に堕ちる」ということと決して矛盾しないということは、誰もが判る話しではないでしょうか。
「死後に地獄に堕ちるというのは”間違い”」という御意見があれば、それこそ矛盾しているものだと存じます。
「死後に地獄に堕ちる」とは必ずしも「次の生に地獄に堕ちる」とは言えないのではないかとの問題に対しては、すでに述べられている通り、宗祖も、蓮師も、御自身や、どなたかに対して、懺悔やお叱りで、おっしゃっておられることですから、次の生が地獄に堕ちるということを間違いだとする御意見の方が、理に合わないように私は思うのですが、如何でしょうか。だからと申しましても、私は、誰に対してでも、お前は地獄行きだと、何の訳も説かず決めつけて言うようなことは、勿論あってはならないと思っております。ただ、次の生に地獄に堕ちるということを、肯定する御言葉はあれど、否定する御言葉はないものと思いますが、如何なものでしょうか。
EMS様
それと、どうしても気になることがございますので、追記させていただきたく存じます。
それは、12番目にて、EMS様が
「覚如上人の伝聞では信憑性がないと仰るならば、」とおっしゃっておられる表現についてでございます。私は、これでも宗祖様、蓮如上人様、覚如上人様の仰せに無条件にしたがう身と心得ている次第です。決して決して、信憑性がないなどというような思いは、ございませんので、そのような表現は、できましたら御遠慮頂けないでしょうか。聖人方の御言葉の理解が、お互いに相違している為に、あと、私の頭もにぶい為に、せっかくEMS様が根拠をお示しくださいましても、御希望の通りにこちらが思えないことも、それはお互い様で、当然あることと思います。しかしそのような場合には、聖人方の御言葉に対する信憑性がない、と結論付けるよりも、その御言葉のお互いの理解の問題として、やりとりをしていくべきではないでしょうか。御理解を頂ければ幸いに思います。以上失礼を申し上げます。
サンガさん

どうも話が噛み合いませんね。
阿弥陀仏にすべてをおまかせしたは、私のはからいがなくなったことです。阿弥陀仏の本願が間違いないのだから、お誓いの通りに往生間違いなしとなるということです。言葉にとらわれ過ぎて私の意図をくみ取られていないことを、残念に思います。

論点の「次の生に地獄に堕ちる」というお言葉がなければ、「次の生に地獄に堕ちる」と決定付けることができないのは、誰でもわかるところであると思います。それは他のお言葉と矛盾するとか以前の問題ですが、私のいうことを理解するお気持ちが本当にあるのでしょうか?
サンガさんの前提が「次の生に地獄に堕ちる」ですが、その前提が成り立つのかどうかの話をしているのです。

たとえを使えば、大学を卒業したら、いろいろの職業に就いて、会社員になったり、自営業を営んだり、教師になったり、会社を経営したり、何度も何度も転職を繰り返したりすることがある、と言われていることを、大学卒業した直後は、必ず会社員になる、というのと転職を繰り返すことと矛盾がありますか、と主張されているようなものです。大学卒業直後に、会社員に必ずなると決まっていないならば、この議論は全くナンセンスです。

これさえもご理解いただけないのならば、議論する以前のレベルです。

EMS様
話がかみ合わないとのこと、誠に申し訳なく思います。これでも私は精一杯、EMS様の御意見の理解につとめつつ、やりとりをしている所存です。
「阿弥陀仏にすべてをおまかせしたは、私のはからいがなくなったことです。」
その通りだと存じます。そうでありましたならば、
「往生ほどの一大事、凡夫のはからふべきことにあらず、ひとすぢに如来にまかせたてまつるべし」
「われとして浄土へまゐるべしとも、また地獄へゆくべしとも、定むべからず」
「善悪の生所、わたくしの定むるところにあらず」
この宗祖様の仰せを、EMS様が「死後にどこにいくかを自分ではからって決めてはならないということです。要するに、死後がわかるものではないということです。」
と解釈なされていることについて、不審に思われる点を13番目にて述べさせていただきましたが、それについては如何でしょうか。
お返事を頂けたら有り難く存じます。

「阿弥陀仏の本願が間違いないのだから、お誓いの通りに往生間違いなしとなるということです。」
とのことですが、
「阿弥陀仏の本願が間違いない」=「お誓いの通りに往生間違いなし」と私は領解致しておりますが、EMS様は如何でしょうか。
「阿弥陀仏の本願が間違いないのだから」の「だから」が我が計らいという可能性もある文章でございますので、確認をさせて頂きたく思います。
確かに言葉にとらわれ過ぎてはいけないと思いますので、EMS様の意図をくみ取らせて頂く為におたずねしていることを信じて頂きたいと思います。

「『次の生に地獄に堕ちる』というお言葉がなければ、『次の生に地獄に堕ちる』と決定付けることができない」
とおっしゃいますが、もし本当にそれだけで断定されるのでありましたならば、
「『次の生に地獄に堕ちるのは間違い』というお言葉がなければ、『次の生に地獄に堕ちるのは間違い』と決定付けることができない」
ということになります。
それどころか、
「次の生に地獄に堕ちる」というお言葉は、宗祖様も蓮師もおっしゃっていることですし、先哲も言われていることでございます。
そういう意味では、学卒直後のたとえ話しとは合わないように思いますが、如何でしょうか。
「私のいうことを理解するお気持ちが本当にあるのでしょうか?」とのお疑いのようですが、そのようにつとめております。私の文章の中で、理に合わないとこ
ろがございましたら、御遠慮なされずに御指摘頂ければと思います。
その上で、わたくしからの質問に答えて頂ければと思います。どうぞよろしくお願い申し上げます。
サンガさん

前半部分については、言葉にとらわれすぎと申した通りですし、論点はそこではなく、後半の「次の生に必ず地獄に堕ちる」が正しいのかどうかの話です。

すべての人が「次の生に必ず地獄に堕ちる」と仰った御言葉は、宗祖も蓮師にもないことは、これまで述べた通りです。もしあるなら、教えて下さい。

10で私が質問したことに答えて頂ければ結構です。
EMS様
お返事を読ませて頂きました。EMS様からの御質問につきましては、
「次生に必ず地獄に堕ちると仰ったお言葉はない」だから「次生に必ず地獄に堕ちるという解釈は間違い」
というEMS様の御主張自体が、これだけでは「次生に必ず地獄に堕ちるという解釈が間違い」という事の根拠がない
ということになるのではないでしょうか、と申し上げた通りでございます。
(根拠がございましたら、お示し頂きたく存じます)
「後生が必ず六道、必ず三塗、必ず地獄・餓鬼・畜生」ならば、
「後生は必ず地獄」と言って何の問題もございません。これは、誰でもわかることだと存じます。
いずれも、現在の業を照らされて確定している未来を知らされておっしゃったものだからです。
その点、EMS様の、大卒後の就職のお話しは、現在に確定しているというものではございませんので、
合わない喩え話しだと存じますが如何でしょうか。
「後生、地獄に必ず堕ちる」という言葉にとらわれ過ぎてもいけないのではないかと存じます。
たとえば以下は、法然上人の御言葉でございます。

『勅伝第二十一』
他力本願に、乗ずるに二つ有り、乗ぜざるに二つ有り。
乗ぜざるに、二つというは、一つには罪を作る時乗ぜず。
その故は、是の如く、罪を作れば、念仏を申すとも、往生不定なりと、思うとき乗ぜず。
二つには道心の起こるとき、乗ぜず。
その故は同じく念仏申すとも、是の如く、道心有りて、申すさんずる念仏にてこそ、往生はせんずれ。
無道心にては、念仏すとも、叶うべからずと、道心を、さきとして、本願を、次に、思うとき乗ぜざるなり。
次に、本願に乗ずるに、二つの様と云うは一つには罪を作る時乗ずるなり。
その故は、是の如く、罪を作れば、決定して地獄に墜つべし。
しかるに、本願の名号を、唱ふれば、決定往生せん事の、うれしさよと、喜ぶときに乗ずるなり。
二つには、道心起こるとき、乗ずるなり。
その故は、この道心にて、往生すべからず。これ程の道心は、無始よりこのかた、起これども、未だ生死を、離れず。
かるが故に、道心の有無を論ぜず、造罪の軽重を云わず、ただ本願の称名を、念々相続せん力によりてぞ、往生は遂ぐべきと、思う時に、他力本願に乗ずるなり。

この意味は、他力本願に乗じて往生することに二つのことがあり、乗じないことに二つのことがある。
他力本願に乗じない、二つのこととは、一つには罪をつくった時に乗じない。
その理由は、このような罪をつくったのでは、とても念仏を称えても往生できないのではないか、と思うておる時には他力本願に乗じないからである。
二つには仏道修行に精励する心を起こした時に乗じない。
その理由は同様に念仏を称えていても、このように仏道修行に精励する心があって称える念仏だからこそ往生できるのであって、
精励する心がなくては念仏を称えていても往生できない、というように、
精励する自分の心を第一に考え、如来さまの御本願を二の次に思っている時には他力本願に乗じないからである。
次に、他力本願に乗じて往生する二つのこととは、一つには罪をつくっている時に乗じる。
その理由は、このような罪をつくったのでは必ず地獄におちるに相違ない。だから本願念仏を称えれば、
必ず極楽往生ができる事の嬉しさを喜ぶ時に他力本願に乗じるからである。
二つには修行に精励する心を起こした時に乗じる。
その理由は、修行に精励したからといって、それによって往生することできない。
この程度のことならば無始より今まで何度起こしたかしれないのに、いまだに生死の世界から離れずに来たのである。
さればこのように努力する心の有る無しや、罪の軽重と無関係に、
ただ他力の本願念仏を念々に相続する弥陀の御力によって往生できる、と思った時に他力本願に乗じるのである。
法然上人も、如来さまの御本願が摂取の時について「必ず地獄に堕ちるに相違ない」と仰せられているようでございます。
サンガさん

こちらの質問にだけお答え頂ければ結構と申し上げた通りです。

それと
>「後生が必ず六道、必ず三塗、必ず地獄・餓鬼・畜生」ならば、
>「後生は必ず地獄」と言って何の問題もございません。これは、誰でもわかることだと存じます。

これは誰でも間違いだとわかることだと存じます。
たとえていえば、
1〜6までのカードがそれぞれたくさんあって、カードを引いたら必ず1〜6までのどれかの数字が出る、ということと、次にカードを引いたら必ず6が出るといううのが同じだという発想です。
くじを引いたことがないのでしょうか。

余分なことは仰る必要はありませんので、私が最初からしている質問にのみお答え下さい。
EMS様
御返事読ませて頂きました。EMS様は「余分なこと」とおっしゃる18番目のわたくしのコメントが、EMS様のご質問に対する答えとなっておりますので、法然上人の御言葉をご覧頂いた上で、御不明な点をおたずね頂ければ有り難く存じます。
サンガさん

何度も同じことを申しております。私の申していることは、難しい内容はありません。これでも御理解頂けないようであれば、議論は成立しません。
いろいろな方がいらっしゃいましたが、他の方とは議論が成立してきました。

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