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幕末・明治の花魁コミュの花魁の髷、髪型について

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花魁の衣装や髷、化粧などについては、正直、私には最も調べるのが難しい、
と感じている分野です。
自分で髷を結ったり、女性向けの着物を着たり、とかをしたことが無いので、
実感として、その文化や伝統を味わったことが無いからです。

情けない話ですが、当時の錦絵や古写真を見て感じたこと、推測できること、などを
ここでは書き込みたいと思います。


髷の分類表記などは、現在、髪型の研究所などで一般的に用いられている表現を
使うと思いますが、幕末や明治に、実際にその髷がどういう名で、花魁たちに
呼ばれていたかは、正直、解りません。

コメント(7)

幕末から明治のはじめ(十年代くらいまでか)頃に流行した、錦絵のスタイルで、
三枚続きで、妓楼の内部にいる数人から十数人の花魁を一同に描いたモノがあります。

歌麿の時代のように、これぞ浮世絵、って感じの美人の大首絵は、どうも法で規制されて
いたのか、幕末や明治初年にはあまり発行されていないようです。
(役者絵の一枚モノの大首絵は禁止だった時代があると記憶していますので、美人絵も
同様だったのかもしれません)

花魁がいっぺんにたくさん描かれているから、着物などのファッションはもちろん、
髷もある程度バリエーションを持たせて、画面に変化をつけている気がします。

もちろん、実際にその花魁が好んでその髷を結っていた、ということもあるのかも
しれませんが、私個人としては、今のアイドルのグラビアとかポスターとかと一緒で、
服や髪型を、メンバーそれぞれ変えて、変化をつけている、キャラを立たせている、
という効果と同じ匂いを感じています。

花魁は、今のファッションモデルでもあった、という風に、江戸のことを紹介した本に
解説されたりしていますが、私も本当にそうだったと思います。
彼女たちが着ている服は、オートクチュールのようなモノで、一般人がまず着ることは
無いような、派手で高価なモノでしょう。

対して、芸者さんの錦絵は、たいていは髪の飾りも着物もシンプルで、今で言うなら、
ワイシャツとジーパンをカッコよく着こなしている、とか、仕事着であるスーツをビシッと
決めている、とかそういう感じでしょうか。
こんにちは
京都嶋原太夫の髪型として、現在でも20種類以上の型が現存しています。
太夫自体の人数の減少、環境の大きな変化に伴い 髪型の持つ意味も薄れてきた事は事実です。
しかしほんの最近までは 最もポピュラーな「お初」から、
また複数の太夫の中において最高位の太夫だけが許される「吉野髷」
道中時に一番最後の太夫が結う「下げ髪」など
ある種の規律があったことは間違いないと思います。
嶋原太夫の髪型は文化・文政の頃からあまり大きな変化が見られないそうです。
太夫の特徴的な髪飾りの一つである 前に2本 後ろに2本 さしたビラビラ簪あ(ながさき、えりすり)などは
明治以降ということで 飾りなどにも その時代を裏付ける根拠になるのでしょう。
吉原にも同様のきまりがあったのかも知れませんね。

残念ながら江戸に比べて京都は資料も少なく解らない事ばかりですが。



ケイさん、こんにちは。
新トピックにさっそくの御書き込みありがとうございます。

>京都嶋原太夫の髪型として、現在でも20種類以上の型が現存しています。

まだそんなに多くの髪型が受け継がれているのですね!知りませんでした。
さらに、芸妓さんや舞妓さんなどの髪型も合わせたら、本当にすごい数になって
しまいますね。 美容師さんや、その他、女性の髪や装飾具に関わられている方々が
覚えなければならないことは、きっと無限に感じられるほど多くのことなのでしょうね。

>ある種の規律があったことは間違いないと思います。

花魁にそういった規律、トップ花魁にしか結えないような髷があったのかな、ということを
私も調べたくなりました。御情報ありがとうございます!
遊郭としての吉原のスタートは、完全に嶋原を手本にしていると、私は考えているのですが、
江戸時代の後期まで、文化の伝わる流れは、西→東、であることがずっと多かったとして、
遊女の衣装や化粧法、髪型も、そのかなりを嶋原の太夫たちを参考にしていたのではないか、
と思っています。
そういった意味では、嶋原で髪型に格式の違いが明確にあるのならば、吉原でそれがあった
としても、まったくおかしく無いですね。

文化文政期あたりになると、だいぶ江戸ならでは、で展開した風俗が定着してきたのかな、と
錦絵などを見ていても、感じます。現代の我々が時代劇で見る衣装やカツラも、この時代以降
の形容であることが多いですよね。

江戸時代の特徴として、長期間大きな戦乱が無かった、ということと、日本全国を結ぶ交通網が
発達した、ということも、遊郭、遊女、芸能の文化へ影響が当然あるだろうな、と思っています。
実際、島田髷なども、元は東海道の宿場町の遊女が結っていた髷、なんて伝わってますし、
他の土地で流行っていた髪形や、服の柄、アクセサリー、などが、吉原などの大きめの遊郭で
受け入れられ、その後、更に展開して、変化して、幕末や明治では、同じ名称でも、
まったく違う形になってしまっていた、なんてきっと良くある話ですね。

>残念ながら江戸に比べて京都は資料も少なく解らない事ばかりですが。

たしかに、錦絵や当時の出版物で考えると、江戸後期〜明治まで、比較的豊富に吉原関係の
モノは目にすることができるとは思うのですが、やはり一度完全に絶えてしまった文化ですので
花魁に関しては、ほとんどのことが引き継がれていない、技術や実感、として伝えられていない、
という絶望的な状況があります。 私のような幕末明治史に興味があった人間がオタク的に
花魁たちのことを調べるのにちょっと手を出してみたり、もしくは昭和の浮世絵ブームの際に、
そのモデルとなった江戸後期の遊女たちや楼主たちが研究されたり、もしくは斎藤真一氏の
ように、親族に元・花魁がいらして、大変な情熱を持って明治中期のことを調べられたり、
など、正統でない、変化球的なスタンスの方が調べられている場合が多いな、と思います。

それに比べると、京ではいまだ引き継がれていることも多いと聞きますので、携わられている
方々の御苦労を外部のモノが想像するのは難しいですが、“伝える、伝わっている”、ことが
本当に特別なことである、と感じさせられます。
滅んでいくこと、絶えていくことのほうが、ずっと多いな、と文化史を調べているといつも思うからです。

御情報ありがとうございました!
先日、東銀座の歌舞伎座のすぐ近くにある、歌舞伎関係専門の古書店さんで、思わず長い時間、
たくさんの資料をナナメ読みで、拝見させていただいたしまいました(早い話が「立ち読み」!)。

それで、片っ端から、、まず手をつけるのが、幕末から明治にかけて活躍した歌舞伎役者
の自伝や評伝などです。
公文書館などの公的な史料よりも、役者のような芸能に関わる人々の昔語りに、吉原の花魁が
登場するほうが、ずっと多いからです。
以前に、市川団蔵の自伝で、小稲(三代右近のことと推測される)のことが出てきて、非常に
感激した経験があり、それ以来、役者はかなりマークしています。

その後に、ナナメ読みするのは、歌舞伎の髪型、つまりカツラ関係の本です。
その日に初めて見た本で、かなり多くのカツラが、図解入りで紹介されていて、髪の
部分部分の名称まで書かれていて、残念ながらメモができなかったのですが、花魁たちの
あの髷の、ハネたり、回ったり、している部分にも、それぞれ(当然といえば当然ですが)
呼称があって、それが大変面白かったのです。

そういった芸能、舞台などの世界での、カツラ、髪型の呼称と、遊郭の中で実際に用いられていた
それとは、少し違うかもしれないのですが、それでも、いろいろと参考になりそうです。

総じて髪型関係の専門書、古書は高額の場合が多いですので、私には買えそうに無いのですが、
今度、立ち●みさせていただいた際は、記憶を忘れないうちにメモしてこようと思います。
↑、もちろんただ長時間の立ち●みをさせていただいてしまったわけではなく、
他の古書を、ちゃんと購入していますよ。
いくらなんでも、何も買わずに●ち読みだけしてるんじゃないですよ。

私は、古書店が大好きです。とにかく好きで、店によっては何時間でも居られる
迷惑な客です。

国会図書館や公文書館など、ほとんどの資料が閉架となってしまっている場所と
違い、棚から棚を片っ端からナナメ読みしていく中で、思わぬ発見、自分でも
予期していなかったコトを見つけられるのが、古書店の良いところだと思います。
お金があれば、発掘したその資料を買って、家に持って帰っていくこともできるし。

ネットオークションなども上記と同様の理由で、ナナメ読み、試し読みができないのが、
欠点だと思います。たとえ売価は安くても、表紙や題名に騙されて、まったく必要の無い
モノを購入してしまうのは、厳しいです。

古書店、は素晴らしいです。 この前、NHKか何かで外国人の学者さんが、よその国を
訪れた時に、まずその国の古書店に行く、その国の文化、何を大事にしているかが、
解るから、とかなんとかおっしゃっていましたが(神田を訪れていた)、とっても良い話だ、
と思いました。 私も知らない街を訪れると、まず古書店を探します。

初めて訪れた古書店の店内に入る瞬間とか、通いなれた地元の古書店の百円均一棚に
探していた本、探していなかったけど思わずストライクだった本を見つけた瞬間とか、
とっても幸せな時間です。

思わず雑談で書くような話になってしまいました。

古書店、古本屋、古書市、古本まつり、もうなんでも好き好きです。
ずっと前に花魁・吉原関係の資料をコピーしたもの中から、髪型・髷について解説されて
いるモノを見つけました。
残念ながら、書名をメモし忘れたのですが、内容からたぶん歌舞伎役者の 中村芝鶴氏の
著した『遊廓の世界』だと思います。芝鶴氏は大見世・大文字屋の御親戚だったと記憶しています。
(引用するので、本来なら正確に書籍名を明記せねばならないのですが、申し訳ありませんが、
後日の確認とさせてください)

この本は、花魁を調べている方々には非常にメジャーなモノですから、ご存知の方も多いと思います。
(大正三年の道中にでた花魁で、救世軍に駆け込んだ白縫が、稲本楼の抱え、と書かれている辺りは、
逆に内部の人間だからこその間違いかな、と思います。たぶん正しくは角海老の所属です。)

その本の中で、「傾城のさげ髪(第一公式の結髪)」が図解入りで紹介されていますが、その
「第一公式の結髪」に関して、少し気になったので、じっくり読んでみました。
「仲の町の桜が植って以後の道中には必ず結ったものである。」と書かれているのですが、
髪型が、時期やイベント、シチュエーションによっても、結える髷と結えない髷がある、という
ことなのかな、と読めました。

道中の意味も、時代によって変わりますから、いつの時代からかは、解らないですが、
普段、部屋でお客をもてなすだけの時の髷と、道中などの人前に出る時の髷や頭の飾りつけが
どうやら違う場合、使い分けがあるようです。
当然といえば当然かもしれません。

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