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幕末・明治の花魁コミュの明治末〜大正期の花魁

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このコミュニティのタイトルは、[幕末・明治の花魁]なのですが、
今年に入って、かなり大正期の新吉原の情報を見る機会があったため、
新規トピックといたします。


*基本のメモ

この時期の吉原で最も有名なイベントと言えば、大正三年の花魁道中ですが、
これは、あくまでイベント的な企画であり、この時代の遊女たちは、普段から
あんな格好をしていた訳ではない。

髪型も、歌舞伎などのカツラの要素が入っていると思われ、江戸後期〜明治初期
よりも、ずっとボリュームがアップされている。
(この時代は、女性の髪が強調されていた、という理由もある)

この時の写真や絵葉書等を、そのまま江戸後期や幕末の花魁の資料とするのは、
オススメしない。


*画像は、大正三年の春に新吉原で開催された花魁道中の模様を写した絵葉書より
「稲本楼 小紫」

コメント(36)

明治末から大正、昭和の初めくらいの吉原を語ったエッセイなどは、
多くは無いものの、ある程度の数は出てるので、古書店などをマメに回れば、
入手は可能です。もちろん図書館を回っても良いでしょう。

明治初年とは、吉原のルールのようなモノも変わっているようです。
先日、大正期の吉原に通っていたある人物の文章を読んでいたら、
妓楼の規模と店の作りに関して書いてありました。

大見世、中見世、という格式の違いは依然としてあり、登楼のルールの
違いもまだあったようです(大正初年頃の様子)。

大見世(大まがき)は、ご存知の通り茶屋経由で登り、中見世は、
格子の中で、遊女たちが座っていて、キセルをふかして前列の者が
順番に外を通る(覗く)お客に声をかけたりする、などの辺りは、
大正期でも、その様式が守られていたようです。

ただ、江戸期にあった、初会は顔だけ見て、三回目になってやっと
枕を共に、というルールは、さすがにもう無いような感じです。

稲本楼などの大見世でも、初回から花魁といきなり行為におよべて、
トップクラスの花魁でも、その人気に比例して、一晩で何人もの
お客さんをとらなければならなかった様子が、いくつかの文章から
伝わってきました。
(玉代を何重かに払えば、朝までその花魁を独占することも可能です)
大正三年の「花魁道中」に関してですが、このイベントは、同年に上野公園他で
催されていた「東京大正博覧会」に合わせて行われたモノです。

当時の新聞を、色々と読んでいると、上野の山の博覧会の賑わいは、
毎日のように新聞が報道していますが(現在の万博の報道と同じような感じです)、
吉原の花魁道中に関しては、あまり載っていません。

しかし、明治末などでも、新聞に花魁にまつわるニュースがちょくちょく
掲載されたり、関係者の連載があったりで、遊廓の存在を無視している、
という訳では無いようです。

吉原の情報は、依然、世の男性たちの注目を引き付けていたことは、
間違いなさそうです。
大正三年の花魁道中について、もう少し。

私は、これまでこのイベントに関してはあまり興味がありませんでした。
理由は、上記の通り、あくまでもイベントとして復活した道中に過ぎない、
ということと、花魁の髪形や化粧も、幕末や明治半ばまでの写真に残った
自然なボリュームが好みだからでした。

今で言う、コスプレのようなもの、なのかも、と思っていました。

でも調べていくと、確かにあの花魁道中は、イベントで作り物かもしれませんが、
花魁たちの生き様は、ある意味では幕末よりも過酷な環境の中で、大変
たくましく、そして様々な過去を背負って、人気花魁という役割をこなしている、
その辺りに惹かれました。

特に、依然書いたように、稲本楼の稲葉のその素性は、大変にドラマチックで、
明治維新から50年近く経った、明治末から大正の初めという微妙な
時代を象徴しています。

そして、ちょっとした仕草や作法、客とのやりとりの話が大変、いい感じなのです。

あらたに入手した資料では、道中の花魁たちの姿の感想も書かれていました。
「1人2人を除いたらバケもので見られた図ではなかった」

これはその前に、当時(こちらは昭和30年代はじめ)の京の島原の太夫の
化粧の厚塗りとカツラが、まるでオバケ、と書いていたことに対応したものです。
(観光客向けの太夫の道中などにも、否定的なことを書いてあった)

つまりイベントならではの、「やりすぎ」感が、あったのでしょう。
普段の花魁たちが好きな人なら、なおさらそう感じたと思います。

私も、コテコテに作られたものは好きではなく、そのためにあまり
大正期のことに興味が持てませんでした。
いろいろ否定的な意見などを書いてしまいましたが、それは未来の私の目から
見た「好み」の部分の結果論であって、あの花魁道中を開催してくれた
ことそのものには、大変感謝しています。

明治の初めの写真よりも、大正期のそれは精度がいいですし、震災と空襲で、
もうまったく変わってしまったと言っていい、吉原の街並みも背景にあって、
それも大変参考になります。

道中に参加させられた花魁たちは、かなり大変で、しかも様子が記録
されることによって、親戚などには吉原で遊女をやっていることを
内緒にしていた娘などは、今で言うところの「顔バレ」を心配せねば
ならなかったそうです。

一見、華やかに見えるイベントでも、その裏には色々な事情があったのでしょうね。
大正三年の花魁道中にも出ていた、稲本楼の稲葉(道中の時は、違う名だった)の件ですが、
現在、あちこち回って、資料を集めている最中で、ひと段落ついたら、まとめて公表しようと思います。

延びてしまっていて申し訳ありません。

今年は残念ながら、ちょうど多忙な時で早稲田の古書市に行けませんでした。
(1日だけ行く予定を組んであったのに、その日に急遽、埼玉の航空公園と言う場所に行くハメになってしまった)
しばらく忙しくて、国会図書館等にも行けなさそうです。

現時点では、資料を集めれば集めるほど、稲葉やその作家の事が解かってくる
非常に良い状態のため、手詰まり感が出てくる頃にならないと、なかなかまとめられなくて
脳の許容量もパンパンです。

早稲田の古書市に行って、ひと段落つけようと思っていたのですが、無理だったため、
次に国会図書館に行った時で、一度資料集めを落ち着けようと思います。
早くても十月末くらいになると思います。
なんだか毎年この時期はなぜか忙しくて、いろいろと遅れており、申し訳ありません。
今日しか行けそうに無かったので、小雨が降る中、国会図書館ではありませんが、
さくっと調査に行ってまいりました。

本当に、次に国会図書館に行った際には、大正三年の花魁道中に出ていた
花魁たちの、名前や年齢にたどり着けそうです!
当時の吉原細見は存在するし、昭和に発行された本にもけっこう引用されて画像が
載っているから、その細見を持っている人からすれば、なんてこと無い情報なのでしょうけど、
私は、まだ実物は見ても、中身を見れないような状況なので、いろいろと別の角度から攻めています。
(古書市で、明治末や大正初年の細見が出たりするのですが、たいていガラスケースの中に
厳重に入っていて、とても買える値段では無いので、中身を見れてません。私に経済力があればっ!)

とりあえず、大正三年の花魁道中の再現の仕組みや様子は、今日の調査である程度解かりました。
稲本楼の花魁「若妙」ほかの名前と年齢も解かりました。
後日、掲示いたします。お楽しみに。


来週にならないと国会図書館に行けません。すごくくやしいですが、仕事が休日にも入っているので
しょうがありません。とほほ…。
SARAさん、こんにちは。

とりあえず、若妙や各妓楼のかむろ達の名前が解かっていますので、先行して掲示
させていただきますね。

絵はがきにも何人かの花魁たちが姿を画像として残していますが、あれは実は1日で
いっぺんにあの人数が道中をしたのでは無く、日替わりであったことが解かりました。
何日間に渡って行われたのかは、現在調べ中ですが、とりあえず、初日は、各妓楼から
一組づつの花魁の道中だったようです。

初日は、稲本は「若妙」で、記録上の名前は「金井おたま」23歳、とのことです。
そしてあの可愛い禿(かむろ)の二人の名は、「きぬ子」と「花子」だそうです。
かむろのどちらの名がどっちなのかは、わからないのですが、年齢順だとすれば、頭巾を
かぶっている子の方が、「花子」でしょうか。あくまでも推測です。

大文字と角海老の花魁とかむろの名も解かっているのですが、そちらは後日。

花魁は、日替わりで交代するけど、かむろ達は、写真を見る限りはいつも一緒だから、
本当に大変だったのは、あの少女達(仮装のかむろ)だったのかもしれませんね。

明治初年までならば、かむろは各花魁たちに付いて養われている存在の子供たちですが、
大正のは、法律上は、本当に花魁予備軍のかむろという訳には行かないですから、
近所の子とか、知り合いの子とかに頼んだのかもしれません。
彼女たちの誰かが、今、生きていたとしたら、100歳ちかいですね。

道中も、ただ仲の町を歩くのでは無く、ちゃんと目的の引き手茶屋まで、の道中だったようです。
到着地点の引き手茶屋も、日によって変わったり変わらなかったり、だったようです。


次に国会図書館に行った時には、当然、見つかると思っていたことが、少し暗礁に
乗り上げまして、時間がかかりそうです。すいません。
国会図書館ならば、当然あるだろう、と考えていた当時の雑誌が、なぜか所蔵していない
ようなのです。まだウエブ上から検索をかけているだけだから、もしかしたら、実際に
行ってみたらあるのかもしれないけど、無かったら、もっと地方の図書館にあたらなければ
ならなさそうです。

それでも、稲本楼の稲葉に関する資料は、きっと行けば一段落するでしょう。
ここ数ヶ月、ありとあらゆる手を使って、資料を集めてきましたが、雑誌関係はさすがに
入手しにくいので、国会図書館だのみです。


とりあえず、大正三年の花魁道中に出た花魁で、稲本楼からは、

若妙、染之助、小紫、小太夫、福寿、○○、

が、今、記憶にある、面子です。○○は、稲葉の前の名です。
この時の道中に詳しい人ならば、もう消去法で解かるかもしれません。
他にも出ていた花魁がいた気もしますが、記憶だけで書いてますから、思い出したら
また補足します。

稲葉(の前の名)は、道中の後、一度、身請けされますが、いろいろとドラマチックな事情が
あって、また稲本楼に戻ってきて、数年後には、稲葉の名で人気花魁をやっていました。
「身請け」=「幸せな生活」、「苦界からの脱出」
というわけでも無さそうです。そんな単純なモノでも無いでしょう。
>彼女たちの誰かが、今、生きていたとしたら、100歳ちかいですね。

すいません、数字が苦手なので、間違えました。
今は、2007年だから、今、もしも存命だったら、100歳ちょっとくらいですね。

あと、今回の名前や年齢の参考にした資料は一種類なので、
これだけで信用してよいとは思っていません。
当時の記録は、けっこういいかげんだからです。
出来れば、何種類かの資料を参考にしていきたいと思います。
花魁の髪型は江戸の頃より立て兵庫か島田。

その辺を勘違いなさっているのではないでしょうか?

立て兵庫と島田はぜんぜん違いますから。

俗に言う太夫は全て立て兵庫でしたから、デフォルメしている
訳では御座いません。
本物の髪で立て兵庫は相当の長さを必要としますから。

花魁は花魁でも太夫は別格。
宝暦10年(1760)玉屋の花紫が吉原最後の太夫。

そんな感じです。
残念ながら、[10]の書き込みを見るかぎり、向日葵さんは、
吉原や花魁に関する、入門書を読みました的な知識しか無いようですので、
まったく話の主旨もずれてますし、書かれていることもここでの場合は
正しくありません。

断定形で書くくらいなら、
錦絵や古写真や吉原細見などの、当時の原史料をもっと見るべきだと思います。
こういった研究系のコミュで、書き込むにはまだあまりにも知識が足りない
感じがします。私もまだまだ知らないことだらけですが、上の書き込みには
正直、呆れてしまいました。

島田や立て兵庫以外にも、花魁たちは、いくつかの種類の髷を結っていました。
また、立て兵庫にも、さまざまなバリエーションがあります。
私がトップで書いたのは、ボリュームの話です。

この大正三年の花魁道中では、、つけ毛(しゃぐま)でかなりボリュームが
あるため、同じ立て兵庫でも、明治初年の写真に比べても、もう嘘みたいな
くらいに、でっかい、カツラのような髷になっています。

そして、島田や立て兵庫以外でも、遊女が時々結っていた、遊女下げ髪
(女官たちの髪に似ている感じ)、も前髪から頭頂部にかけて、大正時代らしい
おっきな膨らみがあります。

大正三年の花魁道中のハガキになった画像を見ていると、髷のバリエーションは
ずいぶんな種類を再現しているな、と感じます。
もちろん、大正時代らしいアレンジが入っているのですが、普段の彼女達は
この時代、あんな髷を結っていたわけでは無いようです。
あれは、イベントのために、かなり特殊な「再現」「仮装」だと言えると思います。

あと、「小太夫」の太夫は位ではなくて、小太夫、全体で名です。
明治半ばや大正の細見や古写真でも、当然のように名前に「太夫」が
入っている遊女は、けっこういますから、調べてみてください。

知識は別に無くてもあっても、かまわないと思うのですが、
断定形で書き込む以上、もうちょっと、いや、もっと、勉強した方が良いでしょう。

残念です。
そうですか。


太夫は位ではないんですね?
松の位の花魁を太夫というものだと思いましたが
あなたは私より知識があるようなので。

吉原では太夫は1760年にいなくなったと
古い吉原の人間にも聞いたのですが。
あなたがそこまで言うのならそうなのでしょう。

こんにちは、京都の美容師です。結髪師としても勉強しながら活動しています。
江戸吉原の花魁に非常に興味を持っており、資料等を色々物色しております。
時代の確定が困難であったり、吉原と嶋原がごちゃ混ぜになっていたり
不完全な資料に あいまいな記憶能力がさらに複雑さを増している状況ですが
これからも色々こちらで勉強させて頂きたいと思います。
よろしくお願いします。
私の師が 現存する京都嶋原の太夫の髪を結っていた関係上
私もその技術を色々教えて頂きました。
当然のように技術と共に色々規則、エピソード等を耳にする事も多く
それらを元にイメージし作品を創っています。

髪は現在の嶋原ではやはり軽い(楽である)という理由で「お福」という髪型が多いみたいですが、
「立兵庫」「男元禄」「女元禄」「割れしのぶ」「勝山」などなど結構多種に渡って結っています。
吉原と嶋原。例えば同じ「立兵庫」でも簪、笄、鹿の子の掛け方など
違う所も多々ありますが、ルーツが同じである事は容易に想像できます。
しかし、歌舞伎で見かける花魁の立兵庫の髪型とはかなり違う印象をもっていますが
あれはあれで舞台用なので理解は出来ますが。
後「太夫」ですが
ルーツをたどれば もとは中国に存在した官位だったとか 書物で読んだだ記憶もありますが、
基本的には室町の頃の「能太夫」 高貴な人の前で踊りを舞う為に一時的に官位を授かった事がはじまりで、後に技芸に長じた者にかぎって太夫号が公許された。
太夫とは五位の官人の別名で、松の位とした と聞いています。
また太夫が身につけている着物の赤色(緋色)はその証であったそうです。
その他色々 太夫が冬でも足袋をはかない理由とか
暗黙の了解で 太夫の中でも一番上の者にだけ許された髪型があったり。
吉原でも江戸の初期には太夫の名存在したらしいと聞いています。
しかし後には官位を得る事が困難となり、太夫の名は途中で消滅したみたいです。
今でも嶋原太夫は御所風を基本としているそうです。





ケイさん、お書き込み、御情報ありがとうございます。

私自身、自分が髷を結ったことがあるわけでも、着付けができるわけでもないので、
実践されている方からの御情報は、大変ありがたいです。

私は、京の太夫や芸者さんに関しては、ほとんど知識が無いに等しいのですが、
古写真を見て、吉原の遊女か、島原の遊女か、横浜の遊女か、丸山の遊女か、などは
だんだんと区別ができるようになってきました。でも、本当に「見えるモノ」を知っているだけで、見えない部分、口伝で伝わることなどは、
ほとんど知りません。ありがとうございます。

>軽い(楽である)という理由で「お福」という髪型が多い

まったく知りませんでした。ありがとうございます。
「お福」の名前の由来が知りたくなってしまいますね。

お書きになられている通り、資料は不確かだったり、年代で区別をちゃんとしてなかったりで
沢山読んでいるうちに、頭がごちゃごちゃになってきますね。

あと、位としての太夫に関しては、向日葵さんがお書きになられているように、江戸の中頃で
吉原からは消えてしまったようなのですが、私はそれは大前提だと思って、幕末明治、そして
大正の花魁に関して、書き込んできたので、誤解を与えるような書き方で申し訳ありませんでした。

私も、果たして正確に何時から江戸では位としての「太夫」が無くなったのかは調べていないので
知らないのですが、それでも、響き、としての太夫という言葉は、明治、大正、と使われてました。

たとえば、花魁では無いですが、伝説の女形、三世沢村田之助は、「田之太夫」なんて愛称で
呼ばれていたという話も伝わるし、上で書いたように、吉原細見でも、「○太夫」という名は、
「位」でなく存在します。


自分の書き込みで、足りないなぁ、と思ったのは、例えば、錦絵や歌舞伎の記録を当時の資料、
だとは一概には言えない時があるな、ということです。

例えば、同じ文久元年に描かれた錦絵があるとして、その時点での「現代」の花魁を描いたものと、
歴史上、伝説の遊女、例えば「高尾太夫」などを描いたものとでは、資料としての意味がまったく
違います。今でも行われるように、文久元年なりの、「現代風アレンジ」がされているわけで、
その場合、あまり資料としては役に立ちません。

「忠臣蔵」モノ、が幕末明治になっても歌舞伎でさんざん上演されて、錦絵にもなっていますが、
それはほとんど、江戸後期以降の姿で描かれているので、それを参考にして、現代の時代劇に
使うと、ハッキリ言って、どれも無茶苦茶な髷や着物の時代考証になってしまうわけです。

史実の忠臣蔵があった時代の女性の髷は、江戸後期のそれとは、まったく違いますから、
ひとえに「江戸時代」と言っても、長くて、時代によって風俗も違いますから、使う時には、
気をつけなければいかない言葉だな、と心底思います。
『大奥』などもそうなのですが、家光や綱吉の時代と、幕末の家茂や和宮の頃では、
髷や着物はけっこう違うはずなのですが、ドラマでは、スタジオに用意されているカツラの
都合などもあって、ほとんどが、江戸後期以降の風俗で再現されています。

以上から、向日葵さんが書き込まれた
>花魁の髪型は江戸の頃より立て兵庫か島田。

は、我々がイメージする「立て兵庫」は江戸後期以降のモノですから、正確には、
「江戸後期の頃より」、となるわけです。

文化文政期に江戸の文化は完成された、なんてよく言われますが、この頃の風俗の影響は、
歌舞伎や、それが映画、テレビ時代になって受け継がれた、時代劇にいたるまで、
確かに、大きな影響を及ぼしていて、つい我々が想像しがちな、「江戸時代」のビジュアルを
生み出しているのでしょうね。

以上、全部、自身の手で調べた独学ですから、興味がある方は、錦絵などを時代別に見比べて
見てください。
平野さんこんばんわ、
以前はすいません・・・


髪型の件に関して・・・
そうですね。
時代によって太夫・花魁も色々な髪型してますね。
立て兵庫や横兵庫、島田だけじゃないですね。
私が個人的に好きなのは下げ兵庫なんですけど、、
紫天神なんかも好きです。


あと、太夫は位じゃなくて
名前だけに太夫が着く方は江戸期以降でもいらっしゃいますね(細見参照)



平野さんの研究には本当感服です。

横からスイマセンでした・・・・
→桔梗←さん、こんばんは。

>私が個人的に好きなのは下げ兵庫なんですけど、、

私も、まだ下げ兵庫が、いったいどういう形の髷なのか、完全には確定できていないのですが、
高橋由一作と伝わる『美人〔花魁〕』(花魁図)が本物だとして、小稲がモデルで、あの絵の中で
描かれているのが、下げ兵庫なのだとしたら、私も好きな髪形になると思います。
大正三年の道中では、断言は出来ないものの、稲本楼の小紫が結っているのが「下げ兵庫」
という説がありますね。可能性はそれなりにある、と私も考えています。

錦絵の中で、いったいどれが「下げ兵庫」なのかが、まだ私も断言できるに至っていません。
同じ「下げ」でも、後ろから垂れている髪を、細くまとめている遊女「下げ髪」は、だいたいこれだ、と
断言できるのですが、上の画像の明治初年の品川楼の嘉志久のような髷は、
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=14690682&comm_id=1759435&page=all
下げ髪の可能性が高いものの、はっきり後ろ側が見えているわけではないから、もしかしたら、
これが下げ兵庫なのか、もしくはそれ以外の髷なのか、なんて迷っています。
(現在、最も可能性があると考えているのは、「花魁 小稲」HPで紹介している、三代小稲や花鳥
の髪型です)

このコミュで引用している画像ひとつとっても、花魁の髷が2種類だとは、とうてい思えない
のですが、今回は、ちょっと残念な気持ちになりました。

結髪史の本や、花魁や芸者の髷を紹介した資料なども、できる限り見つけては調べているのですが、
いまだに、「下げ兵庫」に関して、詳しく書かれたものを見たことがありません。
そういう意味では、高橋由一に下げ兵庫の記録を油画で残すことを依頼した、「さる粋人」は、
大変、未来を予知していたと思います。 このことがもし新聞に載らなかったなら、現代では、
誰も「下げ兵庫」という単語を知らなかったとしても、おかしく無いからです。

私は、現在、この依頼主にも興味があって、いろいろと推測しているのですが、まだ
決定打になる証拠は見つけていません。というよりも、まだ妄想のレベルです。

四代小稲が描かれた錦絵をもう数も忘れるほど、何種類も見ていますが、いまだに、
彼女が下げ兵庫らしい髷を結って描かれているモノを見てはいません。
小稲はそれほど、この髷を好きではなかったのかもしれません。花魁図で描かれた彼女も
引退間際で年齢がそれなりに行っていることもありますが、あまり似合ってない感じさえします。

***

とても藪蛇で、申し訳ないのですが、大正三年の稲本楼小紫が、白露を後に襲名した、という
情報の出所だけでも、お教えいただければ幸いです。正確な資料名はいらないのですが、
それが、本当なのかどうかだけでも、確かめたいのです。
(斎藤真一氏の画集を見て、勘違いされたなら、そのことをお知らせください。間違いや勘違いは
歴史を調べている上で、良くあることですので、ちゃんと訂正すれば、良いとおもいます)

その情報が頭に入っていると、どうしても、大正期の史料をナナメ読みする際に、キーワード
として、頭と眼に反映せねばならないため、できれば、一個でも不確かな単語は、減らしたいのです。
(私は、ものすごい勢いで、膨大な史料や資料をナナメ読みして、探している人物名や
団体名、事象などのキーワードを、眼にひっかからせるため、余分な情報が多くなるとその分、
精度が落ちてしまうのです。資料を漁る時は、ほとんどマシンと化します。)
よろしくお願いします。
大正三年の花魁道中に戻りますが、あの道中は、上記の通り、何日かに渡って
行われた、イベントであり、「27年ぶりに復活した」花魁道中、となうってはいますが、
どうも、見物人たちからも、見物料(席料)のようなものをとったようです。

1人いくら、という入場券方式ではないようで、今から見ると、ちょっと特殊な感じの
方式で、お金を集めたみたいです。
その辺りは、また私のほうで、もう少し調べてから、掲示したいと思います。

角海老や大文字のカムロの名前も、そのうちに書きます。
ほんとに、あのカムロ役の子たちは、毎日、大変だったでしょうね。
当時、10歳くらいだとして、今、ご存命だったら、やっぱり100歳ちょっとでしょうか。
「太夫」について
言葉足らずですみません。
私が書きました太夫のくだりは官許の遊女の世界での事です。
一般的には 浄瑠璃の義太夫や 能、などでもみられる呼び名で
芸事に秀でた者とかその世界で身分の高い人を形容する言葉として使われたみたいです。
太夫を名乗る為に色々な条件等が必要であった可能性も想像できます。
遊郭で多種多様の芸事に秀で、知識豊富な遊女。その中でも官位を授かった者を「太夫」と呼んだことが太夫=官位のような錯覚を起こさせたのでは無いでしょうか。
余談ですが「しまばら」もいわゆる通称で当時現在の場所に移築された時の騒動が天草の島原の乱のようだった為こう呼ばれたとか。
 
後、髪型の話ですが、嶋原で「下げ髪」と呼ばれる髪型は「傘止め」とよばれる道中の時の一番最後をつとめる太夫が結う髪型で、辞める前に結ったそうです。
私は飛鳥・奈良時代から江戸時代まで数十種類古典髪型を学びましたが
「下げ兵庫」は聞いた事がありません。
近い名前で 西川祐信筆「絵本常磐草」で描かれた吉原遊女の中に「根下がり兵庫」という髪型があります。
ケイさんさん、レスすごく遅くなってしまって、申し訳ありませんでした。

>言葉足らずですみません。
>私が書きました太夫のくだりは官許の遊女の世界での事です。

私も上手く書けなくて申し訳ありませんでした、ケイさんさんのお書き込みに対しては、
ちゃんと解りました。なんだかすいません。
知らないことばかりでしたので、大変ありがたく思いました。
お気遣いありがとうございました。

この前、輪違屋糸里のドラマを見て、初めて知ったこともたくさんあり、島原と吉原では
同じ用語でも、こんなに意味が違うんだ、と改めて思いました。

>近い名前で 西川祐信筆「絵本常磐草」で描かれた吉原遊女の中に「根下がり兵庫」という髪型があります。

またまったく知りませんでした! 本当にありがとうございます。

下げ兵庫は、いろいろな髪型の資料を見ているのですが、これまで一度も見つけられません。
国立公文書館のような場所にも、こういった風俗の記録に関しては、ほとんど残らないですし、
当時の和本に図解入りで書いているか、もしくはしっかりとした伝聞で残らない限り、
なかなかハッキリは解らないですね。

高橋由一に依頼した「さる粋人」は、本当に粋で急速に滅んで行く江戸期の風情が好きだった
のだな、と思います。
>角海老や大文字のカムロの名前

もう半年以上経過していましたが、続き書きます。

角海老の禿(かむろ)の二人の名前は、
「浦子」と「千代子」、だそうです。稲本と同じく、二人のうちのどちらが浦子で千代子
なのかは、解かりません。
続き


大文字の禿の二人の名前は、
「ひさ」と「みつ」、とのことです。

花魁は日替わりですけど、当時の古写真(ハガキ)を
見ても、かむろはずっと同じですから、連日で大変だったでしょうね。
大正三年の新吉原で行われた「花魁道中」について、ここで簡単にまとめて
みようと思います。
すべて私が個人で調べたことですので、間違いがあったら申し訳ありません。

***

・開催のきっかけ
同年に上野公園他で催されていた「東京大正博覧会」に合わせて、企画されたようです。

・見物人たちから、見物料(席料)をとったようです。

・花魁は日替わりで道中を行ったようです。
現在残っている絵葉書を見ると、なんとなく1日でいっぺんに行われたようにも
見えてしまいますが、実は数日間に渡って各見世から、少なくとも初日は、1人づつの
花魁が道中をしました。

・連れの禿(かむろ)は、当時の写真(絵葉書)を見る限り、毎日一緒のよう。
各見世から、二人づつ、記念写真では、花魁の左右に立っていますね。
花魁は日替わりだけど、禿は毎日で大変だったでしょうね。江戸期や明治初年のように
必ずしも将来の花魁候補ではないと思います(法律的にも大正時代はそれはまずいでしょう)。
もしかしたら、近所の子とか、楼主の親戚とかかもしれないですね。

・この時代の花魁たちは、普段から、道中のような着物や髷だったわけでは無い。
明治末〜大正期〜昭和初期、と、幕末〜明治初年の花魁とは、いろいろと条件も格好も
違いますので、当時の花魁たちが、普段からあんな姿だと思うのは、間違いです。

***

各妓楼の禿の名前の一覧(当時の報道による)

・稲本楼 → 「きぬ子」 「花子」

・角海老(紅髯楼) → 「浦子」 「千代子」

・大文字 → 「ひさ」 「みつ」
この画像は、
>同年に上野公園他で催されていた「東京大正博覧会」に合わせて、企画されたようです。
の「東京大正博覧会」の正門の版画です。ハデハデですね。

似たような名前の博覧会が、明治から昭和初期にかけて、何度も上野ほかで開催
されていますから、博覧会の写真の載った絵葉書とか当時の雑誌とかを
見る際、入手される際は、注意したほうがいいでしょう。

これは、本当に大正3年の「東京大正博覧会」の絵です。

あとで、写真(絵葉書)のほうも取り込んでアップします。

たぶん、上の版画と同じ場所を撮影した、と思われる写真から作られた絵葉書、
それをスキャナで取り込んだ画像です。

大正モダンって感じですね。

ずいぶん前に、ほかの戦前の絵葉書とまとめて入手したモノです。
二年くらい前かな? 一枚あたり、数十円だったと思います。
話は変わって、大正3年の花魁道中に出ていた、稲本楼の小紫(この画像の人)
についてですが、「白露を襲名した小紫」と言うのは、あちこちでそのことを
書き込みされていた御本人いわく、やはり斎藤真一氏の画集の「白露」を見て
勘違いされたのだそうです。

御本人に訂正していただくのが、本当は一番いいと思うのですが、このまま
間違っていると思われる情報が、流布されてしまうのは良くないと思いますので
私のほうからも報告させていただきます。

斎藤真一氏の明治中期の花魁に関する御研究は、本当に素晴らしく、大変な
情熱を感じます。作品も御本人の思いがこもったような素敵な絵が何点も
あると思います(全作品が好き、というわけじゃないですけど)。
でもあくまでも、作品は、「創作物」なんです。
たとえ史実を参考にしていて、すごい御研究に基づいていたとしても、
作品は創作物です。そこに史実性の責任を負う必要はありません。

斎藤氏の絵は、小説や映画、漫画などと同じく、そこに描かれている
人物が、必ずしも史実の本人である必要は無いのです。

明治中期の花魁の簡単な人物伝のようなモノは、当時、書籍になって
出ていましたから、それを読まれた斎藤氏が、すごい美女と言われた、
稲本楼の白露を描くにあたって、単に、この小紫の写真を参考に
しただけなのかもしれません。

斎藤氏が似たような構図と衣装で描いたからって、小紫と白露が、同一人物、
とは限らないわけです。
そもそも、生年が合わないわけで、この白露の写真は、どう見ても、40歳は
超えて無いでしょう。

歴史上の人物を調べる上で、間違うことがあって当然だと思います。
でも、最低限の辻褄は確認して、書き込みや発言を行ったほうが良いと思います。
「こう思う、こう感じた」をまるで本当のことのように、断言するのは、
良くない、と改めて思いました。自分も気を付けようと思います。

あと、疑問・質問トピックで別の方にご質問いただいた、
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=14617167&comm_id=1759435
横顔の花魁の写真が、「稲本楼の小紫か?」という件ですが、
やはりあの横顔の写真が、小紫とは、確定できないのではないか、
と思います。

髪型と着物が微妙に違う気がしますし、稲本楼の花魁ではあると思いますが、
私個人は、小紫とは別人の可能性がある、としておきたいと思います。
今、「稲本楼の小紫」で、ちょっくら検索かけたところ、
下記リンクのページで
http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=phistory&nid=76867
>この花魁は、吉原 稲本楼 の 小紫(白露)です、位は 呼び出し。

という一文があるのを見つけたのですが、、
“(白露)”の部分が間違いと思われる、としても、
大正初めでも、「呼び出し」という位というか花魁の格付け種類は
存在したのでしょうか?

私も、知識が無くて解らないのですが、たぶん、大正時代ですと、吉原の
ほとんどの遊女・娼妓たちが「花魁」という呼称で呼ばれていたようで、
その時点で、もう「花魁」という単語の意味が、江戸期や明治初年とは
違っているのですが、格付けみたいなものはどうだったのでしょう。

明治末の吉原の写真などを見ても、娼妓たちが格子の中にいる、張り見世は、
まだやっていたみたいなので、引き手茶屋もあったみたいだし、茶屋を
通して「呼び出し」という方式も残っていたかもしれないのですが、
格付けは本当にあったのかな?
どなたか御存知の方、お教えいただければ幸いです。
素朴な疑問でした。
→みやこ←さん、こんにちは。

勘違いは誰でもありますので、後でちゃんと訂正すれば、悪いことではないと思うのですが、
ネットでは、意外なほど早く情報が伝わってしまうこともあって、間違いが連鎖してしまい、
いつの間にか、勘違いから始まったことが、定説となってしまうのが怖い、ですね。

上記のとおり、斎藤氏が、明治時代の白露の伝聞を読んで、彼女を描くために、小紫の写真を
参考にした可能性は考えられると思います。
創作する人は、その元ネタ、引用先を公表する必要は無いのです。
研究本では無く、『吉原炎上』のような小説や、絵や漫画、映画も、創作物ですから、
史実性に作者は責任を負う必要が無いんです。
それは、読む側、受け取る側が気をつけねばなりません。

しかし、そういったフィクションもまじった創作物によって、その世界に魅かれて、
深く知りたい、調べたい、、と後に研究者になるような人々が育つのも事実です。
文化の伝承、連鎖、すごく好きな流れです。

まだまだ大正期の花魁に関しては、定番となるような研究本が出ていない
こともあり、むちゃくちゃな勘違いやデマがネット上でもまかり通っています。
手軽ではあるけれど、そこには嘘と適当が溢れている、ので受け手が、もっと
気をつける癖をつけていくべき、だと思います。

あと発表する人も、それが創作なのか、研究や知識であるのかを、もっとハッキリ
させなければいけないのでしょう。
簡単には断言せずに、「私はこう感じた」と正直に書けばいいのだと思います。
裏づけが無いことを断言してしまえば、それは歴史を捏造したことになってしまいますから。
>稲本ではあういう結髪が流行っていたんでしょうかね・・・・

実在した明治時代の白露が、ああいった下げ髪系の髷を結っていたかどうかは、私には
解らないのですが、大正三年の花魁道中では、髷は当時流の再現ではあるけれど、
たしかに、下げ髪系と思われる髷の率が高い気がします。

小紫も、小太夫も、現在の目から見ても、本当に綺麗な方々だと思いますし、
でっかい立て兵庫系の髷よりも、下げ髪系のほうが自然に見えて、普通に綺麗、
と感じやすい、理解しやすいですよね。

慶応年間以前、の十年、二十年間くらいは、錦絵を見る限り、ある程度のバランスで、
下げ髪系の花魁が描かれています。
流行っていた時代があったと、推測されます。

高橋由一に「下げ兵庫」を油画で描くことを依頼した「さる粋人」も、その時代の吉原や
花魁が好きだったのかもしれません。

このあたりのことは、また別トピックで書きたいと思います。
すいません、また書き間違えです。
[25]の真ん中より下のほうの段です。

>そもそも、生年が合わないわけで、この白露の写真は、どう見ても、40歳は
>超えて無いでしょう。

の「この白露の写真」が×です。すいません。
「この小紫の写真」、ですね。

斎藤真一氏の画集には、たしか白露の生年が書いてあったと思いますので、
参照ください。

白露や染之助は、稲本楼に古くからある名です。小稲の名は絶えてしまったようですけど、
ずっと残っていた名もあります。その辺の基準は、よく解らないです。
たぶん、永久欠番、的な扱いなのだと思います。
花魁道中やそのきっかけとなった東京大正博覧会が大正三年の春。そこから二年弱前の
明治45年の初夏に、当時の東京の遊郭、吉原や洲崎の娼妓の諸事情について、短期間ですが、
ある連載がありました。

前にコピーしておいて、今回、改めて読んだらなかなか興味深かったので、紹介していきたいと
思います。
花魁道中のイベントから、二年弱しか離れていませんから、ここに書かれていることは、道中に
出ていた花魁たちの事情と重なる部分が多いと思います。
ただ、大火のすぐ後、ということもあり、ちょうどいろいろと吉原が変わってきている頃、という
印象があります。
大火、ということを考えると、更に二年たった大正三年という時期の吉原は、復興がずっと進んで
いるでしょうね。

花魁たちが、だいたいいくらくらいの金額で、売られてきて、何年契約が多いのか、とか
洲崎との比較とか、そういうことを挙げてみたいと思います。
明治45年の花魁事情(吉原・洲崎)

かつては「おいらん」と言えば、幕府公認の遊郭である新吉原の遊女たちの
中でも、ある程度の格式を与えられた女性たちのことを指した言葉だったと
思うのですが、明治末や大正期ともなると、どうやら妓楼に属しているほとんど
すべての娼妓のことを、「おいらん」と呼んでいたようです。
(さすがに私娼の方々までは、花魁、と呼んではいなかったとは思うのですが、
私にはハッキリ解りません)

そんなこんなで、花魁、という言葉の意味も、幕末〜明治初年とは変わって
しまった時代ですが、それでも、当時の人々にとって、吉原や花魁の情報は
それなりに話題性を持っていて、やっぱり男性にとっては「一度は行ってみたい」
場所で、一度どころかズッポリはまってしまっていらっしゃる方々も大勢いて、
大企業の社長や、人気役者なども、普通に吉原に馴染みの花魁がいたりした
ようです。

これから書く、連載からの抜粋では無いのですが、張見世についてです。
当時の報道か何かを読んでいて見つけた記事だったと思うのですが、
明治16年だかそのくらいの時期に、吉原で「張見世」が復活した、という
一文がありました。

明治五年の娼妓開放令以降、いろいろ法の抜け穴を利用したり、都合の良い
解釈で(貸し座敷とか)、なんだかんだで楼主たちは、営業を続けた時代、
どうやら一度、張り見世は無くなっていたようです。

明治16年頃というと、大門が鉄製になったのが14年くらいだったと思うし、
角海老屋の濃紫が引退したと考えられるのも、15年ごろ。
芸者はともかく、花魁たちでは、そろそろ江戸の時代から、吉原に居た
ようま妓たちがいなくなってきた頃でしょう。

「花魁」の言葉の意味が変化してきたのも、この頃だったのかもしれません。
明治二十年代のはじめには、花魁道中は無くなったようで、大正三年のイベント的な
それ、で復活するまで、二十数年、行われなかったようです。

だから、大正三年の道中に出ていた花魁たちは、実際は誰も、本物の道中を
その目で見たことが無い世代なのかもしれません。
でっかい頭(しゃぐまで超ボリュームアップ)と重い衣装、普段は履かない
一尺を超える高さの下駄、変な歩き方、もう大変だったでしょうね。
〔28〕の自分の書き込みが、おかしいので、ここに訂正させてください。

>→みやこ←さん

→みやこ←さん、申し訳ありません。
書き込みいただいた、↓の一文を読み間違えてしまいました。
>実際に明治末か大正期の稲本楼の白露の絵葉書を偶然にも手にいれることができたんです。

みやこさんが新たに入手されたのは、白露の絵葉書だったのに、私はそれを「小紫」として
読んでしまっていました。
白露の写真の絵葉書が手に入ったのですね!おめでとうございます。
小紫と白露が別人ということが、ハッキリ解ったので、私も嬉しいです。
〔29〕の書き込みは、私なりに、「斎藤氏の絵が似ている以上、間違えてもしょうがないですよね」
的なフォローのつもりだったのですが、ぜんぜんフォローになってませんでした。
お恥ずかしい限りです。

前に書いたとおり、間違った情報が断言されてしまっていると、私が膨大な資料をナナメ読み
する「精度が落ちる」、と書いたのは、まさにこういうことで、パッと瞬間的に読んでいる時に
見間違えしやすくなってしまうのです。でも、間違いがハッキリ解ってよかったです。

ナナメ読みの習慣が抜けてなくて駄目ですね。すいませんでした。
人様の書き込みくらいは、ちゃんと読まなくては駄目ですね。

***

小紫の本名の件は、載っているであろう資料は解っているのですが、いまだに見に行って
いません。でも来月くらいには、ちゃんと調べてこようと思います。

稲本楼の当時のお職(その楼で一番人気の花魁。今のお水の世界で言う所の「ナンバーワン」)は、
道中の初日に出た、若妙らしいので、小紫は現在の目で見ると、多くの人が「綺麗」と感じると
思いますが、当時の人気は、それほどでもなかったのかもしれません。

数日間にわたって行われた大正三年の花魁道中イベントは、どうも初日に各楼のお職格の
花魁が出たようです。このあたり、もう少し調べたいです。まだ不正確な情報です。すいません。
明治45年の花魁事情(吉原・洲崎) の続き  玉代のはなし

大正三年の花魁道中の見物料の基本は、玉三つで四円五十銭で、ほかに
連れがあれば、一人あたり五十銭の追加で良かったようです。
玉みっつ、で四円五十銭だから、玉ひとつでは、一円五十銭、ということになります。
だから大正三年の大見世の基本料金は、一円五十銭であろうことが解ります。
このあたり、当時の細見が見られれば一発でわかることなのですが、経済的に
私には、買えないので(安くても五万円くらいします)、まだ読めてません。

それで、明治45年なのですが、やはり新吉原の大見世の玉代は、一円五十銭、
とのことです。まぁ二年しか経っていないので、そんなに物価も変わっていないのでしょう。

新吉原の、と書いたのは、実はこの頃、一番基本料金が高いのは、新吉原の大見世では
無く、もはや新興の洲崎の大見世のほうが、高級店になってしまっているのです。
これは、私もこの連載を読むまでは知らなかったことでした。

明治45年の時点では、新吉原の中で、一円五十銭の料金は、大文字と稲本と角海老の
大見世の三軒だけのようです。この三楼は、花魁道中に出た三楼ですね。
明治末から大正にかけては、この三軒がダントツ、とまではいかないで、少し下に
同じ大見世格でも少し料金が安い品川楼(一円二十銭)があるようです。

明治の半ばでは、五大楼なんて書かれたトップ5がリードしてしましたが、いろいろあって、
三楼に絞られていました。品川屋が少し下がって、宝来屋が廃業したためです。

それで洲崎ですが、大八幡楼が、別格で吉原よりも高い、玉代が二円だったようです。

私が読んだこの連載では、もっと別の書き方と順番で、更に細かく当時の妓楼の
ランク別の値段が書かれているのですが、また機会があれば、そちらも挙げたい
と思います。今回のは、私のほうで抜粋して、書き方もだいぶ変えてます。

この当時の玉代、基本の料金が解ったところで、次は、花魁たちが、いったいどれくらいの
借金と引き換えに妓楼に売られてくるのか、ということを書ければ、と思います。
速報です。

まだまだ忙しいですが、今日はたまたま新撰組関係の研究をされている方に会いにいった
関係で、以前から気になっていた、花魁道中の日程や、道中に参加した各楼の全花魁
のことを自分なり一覧にしたくて、史料のあるところで調べてきました。
とりあえず、道中に出た花魁全員の源氏名は解りました。
そして、全日程も解りました。あと、どの花魁がどの日に道中に出たか、も。
そこにめあての資料があるのは、解っていたのですが、やっと行けました。
数ヶ月かかりました。

日替わりなのは、以前に述べたとおりなのですが、花魁のメンツを考えても
数日で終了していたのかと思いきや、実は、吉原である病気が流行したため、
一時休止となり、半月ほどしてから、また道中が行われた、ということも知りました。

あと、面白いのは、土曜日曜は、道中をやらなかったっぽいです。
いまだったら、土日や祝祭日にやりそうなものなのに。
平日に何日も続けてやった後、次は月曜になってはじまっています。
それでまた何日かやった後、そして上記の通り病気のために休止になって
2週間ほどして再開。
休止前の最後に務めたのは、稲本楼は小紫だったと思います。

絵葉書等で私が見た事の無い花魁もいました。
いつも書きますが、かむろ役の子たちは、大変だったと思います。

道中参加の花魁の全リストと、日程は、一覧にしたら良い感じになりそうなので、
こちらには書き込まずに、何か別な形で発表したいと思います。
↑すいません、一部、間違いがありました。

土日が休みだったのは、正しい情報なのですが、その後、月曜に一度やって
(その時が、稲本は小紫だった)
すぐに、吉原で流行した病気のために一時中止となりました。
だから、上の、土日のあとまた何日かやって、は間違いです。

そして、全日程の最終日に道中に出た花魁のメンツは、まだ解っていませんでした。
全部判明した、のでは無く、最終日以外は判明した、です。

そして、確かに日替わりではあるのだけど、一時休止の後、いわば第二部は、
一部で出た花魁が、再び道中に出ていることもあったことが解りました。
これで、絵葉書によって、同じ花魁の服装や髷が違う場合がある理由が、解りました。
ある程度は予想をしていましたが。

今日は久々に休みだったので、お昼にファミレスで資料を片手に、簡単なリストを
作ってみました。他にもやらなければいけないことが、かなり貯まっているので、
一度、こちらの件に関しては、お休みしたいと思います。

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