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詩歌全般・日本古代史・たべものコミュのかささぎの わたせる橋に おく霜の しろきを見れば 夜ぞふけにける  <百人一首・6>

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ー6−

かささぎの わたせる橋に おく霜の しろきを見れば 夜ぞふけにける   中納言家持
 
<『新古今集』・巻六・冬・に出ている。>
・・・・・・・・・・
天の川を眺めると

鵲(かささぎ)が翼を並べて渡すという橋に

あたかも霜が置いているかのように

星々が輝いている

その冴え冴えと白い光を見れば

夜もすっかり更けてしまったのだなあ
・・・・・・・・・・
かささぎが架けわたしている天上の橋

そのようにもいえる宮中の御橋に

白々と冴えた霜がおりているのを見ると

夜ももうかなり更けてしまったのだなあ
・・・・・・・・・・

かささぎの わたせる橋に;

中国の伝説(白孔六帖)に、七夕の夜、かささぎが翼を広げて天の川に橋を架け、織女を渡すとあることから、天上の橋を言うが、内裏を雲居の宮とも言うので、ここは宮中の御橋の意にてんじたもの。
「の」は修飾句内の主語表示の格助詞。
「渡せ」は四段活用動詞「渡す」の已然形・命令形。
「る」は存続の助動詞「り」の連体形。
「に」は場所を表す格助詞。

おく霜の しろきを見れば;

「おく霜」はおりている霜の意。
「の」は主語表示の格助詞。
「白き」は形容詞「白し」の連体形で、体言に準じる資格に立ち、「こと」「の」などを補って解する。
「見れば」は動詞已然形(見れ)に「ば」を接して偶然的関係を示す順接の確定条件(・・・ト、…トコロ)。

夜ぞふけにける;

「ぞ」は強意の係助詞で結びは詠嘆の助動詞「けり」の連体形「ける」。
「ふけ」は下二段活用動詞「ふく(更く)」の連用形。深くなる意。
「に」は完了の助動詞「ぬ」の連用形。

◇かささぎ 鵲。カラスに似るが、腹と翼の一部が白い。日本では九州北部の平野部に棲息するが、日本原産ではないらしく、『日本書紀』に新羅等からの献上品として見える。
◇かささぎのわたせる橋 七夕の夜、鵲が翼を並べて天の川に橋を架け、織女を渡すとの伝説に由る。「烏鵲(うじゃく)河を填(う)めて、橋を成して以て織女を渡す」(『淮南子』)。但し『大和物語』百二十五段の壬生忠岑の歌などから、宮中の御階(みはし)を暗喩すると解する説がある。「烏鵲橋は先大内の御橋を天にたとへいへり」(賀茂真淵)。
◇おく霜の しらじらと冴える天の川の光を、天上の霜になぞらえる。「月落ち烏鳴いて霜天に満つ」(張継「楓橋夜泊」)を踏まえることが古注以来指摘されている。橋を宮中の御階と解する説からすれば、階(きざはし)の欄干などに付いた霜を言うことになる。
・・・・・・・・・・・・・・
七夕の夜、カササギが翼を連ねて、織女を天の川の向う岸に渡すという天上の橋。今まさに冬、同じように宮中の御階(みはし)にもしろかねの霜がかがやいている。凛冽としたこの霜を見ていると、夜の深まりを覚える。

ところで、子供の頃の私は、この歌からカササギが橋の上でぽつんと立っている姿を連想したものだが、それは中国の七夕伝説を知らなかったからである。

カササギはカラス科の鳥、肩から胸腹にかけて白く尾は黒くて長い。
中国の伝説では翼を連ねて橋を架け織女を牽牛のもとへ渡すとされた。

その中国の七夕伝説は、七月七日、一年の一度、織女と牽牛が天の川を渡って逢う日、カササギが羽を並べて橋を造る。
牽牛(彦星)はカササギの橋をわたって織女に逢いに行くという伝説である。

この歌では、宮中の御階(みはし)をその橋に見立てる。宮中を天上界にならぞえることは多く「橋」と「階」が同音である所からも、この見立てができた。

この「はし」は、賀茂真淵以来、宮中の階段のことではないかといわれている。
しかし、子規のように天界の空想の橋とするもの、地上の橋とするもの、さまざまの説がある。

私は天と地の情景を一首のうちに詠んだものとして、地上の橋を指すのではないかと思う。
作者は天を仰いでカササギの橋を連想し、目を転じて地上の橋の霜をながめたのではなかろうか。
凛冽たる寒気に身もひき緊まる想いがする。

この見方から、作者は七夕の優雅な祭りを思い浮かべているのであるがまのあたりに仰ぎ見るのは、冬夜の晴天にさえざえとかかった天河であり、また、あたかも地上には天河にも似て降り敷く霜の白さであるこの天地を一つにして白一色で掃かれたような、見る目もひき緊まるこころよさに作者は感動したのだ。

正岡子規はこの歌の嘘が面白いという。

「全くないことを空想で現して見せたるゆえ面白く感ぜられ候。嘘を詠むなら全くないこととてつもなき嘘を詠むべし、しからざればありのままに正直に詠むのがよろしく候」 (歌よみに与たうる書) 

この「かささぎのわたせる橋」を虚構として面白がっているようである。

例により、国文学者のO氏によると百人一首に仕組まれたクロスワードパズルでいけば、この歌は「霜」や「白さ」や「天の橋」の一群で、やがて後鳥羽上皇の離宮のあった「水無瀬」を暗示し「天」から連座して、次の7番

「天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に いでし月かも」

をさそい出すという

大伴家持は『万葉集』編集にタッチしたのではないかといわれる歌人。
三十六歌仙の一人だが、おびただしい名歌を数多くのこしており、どう考えてみてもこの「かささぎの・・・」が歌歴を代表する作品とは思えない。

しかも、家持の作歌かどうか、断定しにくいような歌を、定家は何故採ったのであろうか。

それも私の素朴な疑問である。

中世の評価と現代の評価はもちろん異なるであろう、それとは違うといえばそれまでであるが、O氏のいわれるように、定家は百人一首で壮大なクロスワードパズルをもくろんだと説明されれば納得できる。

ちなみに「かささぎのわたせる橋」を材に採った歌は『家持集』に、

「かささぎの 橋のつくるより 天の川 みずもひななむ かちわたりせむ」

「かささぎの つばさにかけて わたす橋 またもこぼれぬ こころあるらし」

と二首がある。二首とも家持の七夕伝説に想像を働かせる風流な気持ちがよく出ている。
しかしこの三首をくらべてみれば百人一首歌の格調の高さがよくわかる。

風流な興趣よりも、日本の風土に根ざした季節的感動が真率に詠嘆されている。


【作者】
中納言家持、(718〜785)本名大伴家持、大伴旅人(たびと)の子。
晩年は大伴氏没落の命運を負った。
『万葉集』第四期の代表的大歌人。
歌風は繊細さに艶を加えて王朝和歌の先駆けとなる。
『万葉集』の最終的な編纂者で、歌数四百七十首余りは、歌集中最も多い。
とりわけ万葉第十七〜二十巻は家集の趣きさえある。
三十六歌仙の一人。
作者は古来万葉集の編者に擬せられ、同集に最も多くの歌を載せる歌人であって、和歌史上の最重要人物の一人と言える。勅撰集への入集は60首余りであるが、藤原公任の『三十六人撰』に撰入されるなど、平安時代から柿本人麻呂・山部赤人に次ぐ万葉歌人として重んじられた。

この歌を初めて秀歌と認定したのは、藤原俊成の『三十六人歌合』であったようだ。その後、新古今集に入り(有家・定家・家隆・雅経こぞって推薦)、さらに定家が『秀歌大躰』に、後鳥羽院が『時代不同歌合』に採るなどして、家持の代表作と見なされるようになった。冬の夜の悽愴な幻想美を詠み、七夕をめぐる伝説の浪漫性も備えたこの歌が、幽玄を好んだ千載・新古今時代に高く評価されたのは、尤もなことであった。
今日では、家持の代表作と言うと、いわゆる春愁三首、なかでも「うらうらに照れる春日にひばりあがり心悲しも独りし思へば」のような悲痛な叙情歌を思い浮かべる人が多いのではないか。しかしこれらの作が万葉集の傑作としてスポットライトを浴びるのは、家持没後実に一千年以上経った、近代も大正期以後のことである。平安時代から中世にかけて、家持の歌は主として、後人の編纂になる雑駁な『家持集』によって享受されていたのであり、家持の新古今入撰歌のほとんどはこの家集(と信じられた歌集)から採られているのである。百人一首の歌も『家持集』を典拠とする歌であり、作者が本当に家持かどうか、現在では疑問視されている。万葉集に見られる家持の歌風とも異なるが、浪漫的・幻想的な一面をもつこの歌人には、ふさわしい作と言えなくもない。たとえば若き日の家持には「独り天漢(あまのがは)を仰ぎて聊か懐を述ぶる歌」と題された「たなばたし船乗りすらし真澄鏡きよき月夜に雲たちわたる」のような作もある。家持が大きな影響を受けた先輩歌人である山上憶良なども、盛んに七夕の歌を詠んでいる。百人一首の家持詠は、大陸文化への憧憬がことさら強かった天平の時代を追想するのに恰好の歌と言えるのではないか。続く安倍仲麿の歌と共に味わえば、その感を一層深くするのである。



<出典・転載元等>
[北極星は北の空から〜ブログの中に] ・[千人万首]・[三木幸信・中川浩文著評解小倉百人一首]等より。



(コメント欄より)
アジア各地の七夕説話
http://www.asahi-net.or.jp/~nr8c-ab/ta77asia.htm

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