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詩歌全般・日本古代史・たべものコミュのわが庵は 都のたつみ しかぞすむ 世をうじ山と ひとはいふなり

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わが庵は 都のたつみ しかぞすむ 世をうじ山と ひとはいふなり    喜撰法師

<題しらず『古今集』・巻十八・雑下>

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わたしの草庵は都の東南の方角にあり
このように心静かに住んでいる
ところが 世をつらく思って侘び住まいする
その名も憂しの縁の宇治山にと
世間の人は言っているということであるそうな
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宇治山に「憂」をかけ「しかぞすむ」は「然ぞ住む」それに「澄む」もかけている。そのうえに「しか」は「鹿」も暗示しているとみるほうが自然であろう。たつみは十二支の方位でいうと東南(辰巳)である宇治はまさに京都の東南に当たる。
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わが庵は 都のたつみ しかぞすむ;

「わ」は自称代名詞。
「が」は連体修飾語をつくる格助詞。 
「庵」は草・木・竹などを編んで作った粗末な仮家。
「は」は他と区別して強調する係助詞。
「わが庵は」は「都のたつみ」の主語の句。
「都」は京都平安京。
「たつみ」は(辰巳)東南の方角で、下に「にて」(断定の助動詞「なり」の連用形+接続助詞)を補って解する。
「しか」は(然)、状態の副詞。このようにの意で、心静かな意。
「ぞ」は強調の係助詞で、動詞連体形「すむ」(住む)はその結び。
三句切。

世をうじ山と ひとはいふなり;

「世をう」と「うじ山」の「う」は掛詞。
「憂し」(語幹)「う」つらくおもう意と、「うじ(宇治)山」の「う」。
 宇治山は、現在の、京都喜撰山という。
「と」は引用(「いふ」の内容「世をうじ山」)を表す格助詞。
「は」は係助詞。
「なり」は動詞終止形「いふ」に接続して伝聞の助動詞終止形。・・・トイウコトダ。
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かるい諧謔の歌で、いかにも古今集的。ことさら名歌というのではないがこの軽みは『古今集』の尊重する一つの境地で洒脱な口ぶりが楽しい。・・・とまあ、喜撰法師のこの歌はそんな風に受け取られているのが大方である。

しかしある国文学者によるとこの歌はある種の謎が秘められていて、その一つは、十二支の遊びだといわれている。子・丑・寅・卯・辰・巳・午・・とつづく十二支のうち、宇治山の「卯」それに「辰」「巳」と入っている。当然あとへ「午」「未」とつづくべきところ「しか」を持ってきて人を意表外に笑わせる、といわれるのである。

この時代の人々はむろん、「馬」と「鹿」に関する故事・・・「鹿をさして馬となす」という中国のお話を良く知っていただろう。

秦の趙高という腹黒い権力者が、あるとき鹿をさして馬だと人々にいった。硬骨の人は、いやそれは鹿ではないかと反駁し、おべんちゃらをいう人は、ハイ、馬でございますなと追従した。真実を述べた人は趙高によって殺された。この故事から、間違ったことを人に押し付けて人を陥れることを「鹿をさして馬となす」というのである。

喜撰法師はそれをふまえつつ「うま」というところを「しか」とやって人を笑わせたのであろうといわれる。しかし故事はともかく喜撰がそこまで思考して歌を作ったかどうかは定かではない。

その二つは、この歌を定家が百人一首に採ったことについて「都のたつみ」に心そそられた。その方角が示唆するもの、それは後鳥羽院配流の地、隠岐からは、京都はまさに東南に当たる。隠岐を都とみれば、定家のいる小倉山荘、定家の「わが庵」は「都のたつみ」である。

定家は後鳥羽院の憎悪をひしひしと感じつつ、「憂し」とみて、せめて「百人一首」のクロスワードパズルをつくり、後鳥羽院のお怒りを鎮め、おのがまことをしめそうとした、そのため、京と隠岐の位置関係を暗示する「都のたつみ」の歌を採ったといわれる。

これは私にはたいそう説得力のある説である。この当時は風水とか、占いが大きな位置を占めていたしその分野の貴公子の活躍も文献や伝承されている芸能でも明らかであるから、あるいはそうかも知れないと思えてくるのである。

簡単に定家と後鳥羽院の関係を述べておく。なぜ、定家は後鳥羽院に憎まれたか・・・・・。
後鳥羽院というと、院政期の一大趣味人、どはずれ遊湯児で、好事家であった型破りの帝王、この後鳥羽院が、和歌に興味を持たれたのは正治元年(1199)のころ。まだ二十歳くらいであられた。

二十歳以上年の違うプロ歌人定家の歌を愛されて、二人の仲は急速に緊密になる。やがて『新古今集』撰進を定家らに命じられる。このころが二人の蜜月であった。定家はこの光栄をどんなに喜んだであろう寝食を忘れてその仕事に打ち込む。

しかし歌に生涯を賭けたプロ歌人と、帝王の趣味として歌を楽しむ後鳥羽院とは、芸術に対する信念がまるで違う。当然のことである。しかもどっちも個性が強く、片や狡介であり、片や一徹である。後鳥羽院は、専門歌人ら数人(藤原定家、源通具、藤原有家、家隆、雅経)が心を込めて撰んだ和歌を、あとから恣意的に自分の好みに「切り継ぎ」し、歌を捨てたり、入れたりされた。

プロの面目丸つぶれであると定家は憤り、しだいに後鳥羽院との間が疎ましくなった。院に疎まれるということは、社会的にも逼塞することであって、定家はこの時期、出世もできず、経済さえ立ち行かなくなってしまった。この時代、歌人はみな、有力な政治家のパトロンを持たないと、和歌の家としては存続できなかったのである。

ところが後鳥羽院はもともとエネルギッシュで、やる気満々のご気性であるから、政治に興味を持ち幕府を倒して天皇親政を実現しょうという大望を抱かれ承久三年(1221)兵を挙げて、あえなく敗退、隠岐に流される。あべこべに定家はそのころ、親幕派の親類のおかげで、メキメキと家運を盛り返していたが、幕府の目を恐れて隠岐の院とは文通もしなかった。

ほかの歌人は、手紙や歌のやりとりをしていたようであるが、定家は内心はともかく、うわべはぷっつりと交渉を断ったのである。後鳥羽院の憎しみは定家に向かって絶えることなかった。老いた定家はその誤解を解くよしもなく、わずかに百人一首で後鳥羽院への思いを託したのであろうか。

ところでこの作者、喜撰法師というのは不思議な坊さんである。作品として確かなのはこの一首しか伝わらないのに、六歌仙の一人として重んじられている。伝説的な人で、宇治山に隠れて仙人となって飛び去ったともいわれている。清元・長唄で歌われ、歌舞伎で踊られて、喜撰の名は、粋な、さばけた人のイメージがある。それこそ喜撰法師の持ち味であろう。

"紀貫之は、仮名序で「宇治山の僧喜撰法師は言葉かすかにして、始め終わり確かならず、いはば秋の月を見るに暁の雲にあへるがごとし」と評している。しかしこの「わが庵は・・・」の一首で歌人としてのその存在は確実である。隠遁生活であるだけに後世に文献その他の書面が残されていないのは残念である。

「隠遁生活」などという生き方を考え出したのは、島国である日本人だけなのであろうか。喜撰法師の隠遁した宇治山は峯高く形まどかにして、山中の水は清く四季枯れることなく、幽邃の地であったという。

宇治は早くの昔から世間の俗塵を離れた清遊の地とされ貴族の別荘も多かった十世紀後半以降、浄土宗が流行すると、それとともに西方浄土想像するに格好の地と思われるようになった。『源氏物語』では宇治十条の舞台となり、また藤原頼通は父道長の別荘を寺に改めて平等院鳳凰堂を建立している。

世を離れてここに籠もる人が後を絶たなかったともいう。現代になぞらえるならば箱根のような温泉のある保養地を連想するのが良いかもしれない。

情報技術が高度に発達し、様々な情報が我々の周りにあふれているのが今日の社会的特徴であろう。このように情報が多いと、何が必要で何が不必要かを選択する情報が必要になってくる。こうした時代に生きる我々は、自分たちが望んで開発し、発達させてそうなった事でも、一時的にその場から逃避してしまいたいという誘惑に駆られる人も少なくないであろう。
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【なぜこの人】作者は伝説的人物で、宇治山に隠棲した僧ということ以外、確かなことは判らない。歌は古今集の一首以外たしかなものは伝わらないが、紀貫之は六歌仙の一人として取り上げた。和歌史的には、後世の歌壇に大きな位置を占めることになる隠遁歌人(12遍昭、21素性、47恵慶、86西行…)の祖のような人物と言えよう。しかも王朝貴族たちにとって特別な意味合いを持った宇治という土地ゆかりの人物(上記【ゆかりの地】参照)として、定家の時代、喜撰法師のネーム・バリューはますます高まっていたに違いない。

【なぜこの一首】この歌の面白みは、リズミカルな調べもさることながら、自身の境遇を他人事のように飄々と軽やかに歌い上げているところにあろう。「世をうぢ山と人はいふ」と伝え聞いた事柄について、作者は肯定も否定もせず、世間(の噂)に対して超然たる態度を示している。「しかぞ住む」とは要するに、そのように俗世に対して恬淡(てんたん)たる心持で生きている、ということであろう。つかみどころのないこの伝説的隠者に如何にもふさわしい作であるが、「世をうぢ(憂し)山」の句には自身に対する苦い皮肉が含まれるようにも聞え、ただのライト・ヴァースには終らない、一癖ある歌である。「老来、中風で手足の不自由を嘆くことのひどかった定家の姿が、そこに見えるような気がする」との指摘(安東次男『百首通見』)は鋭い。百人秀歌で小野小町(「…我が身世にふる…」)と合せていることを考えれば尚更である。




【作者】
喜撰法師、生没年未詳。王朝初期の歌人僧であった外は伝記未詳。歌学書『喜撰式』の著者説もある。
勅撰集入集歌二首、六歌仙の一人。


出典・転載元;
<ブログ[北極星は北の空から〜ブログの中に]・小倉百人一首 注釈>他。 


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