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詩歌全般・日本古代史・たべものコミュの名にし負はば 逢坂山の さねかづら 人に知られで くるよしもがな

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サネカズラ(実葛)  マツブサ科
学名:Kadsura japonica
 別名:ビナンカズラ(美男葛)
 花期:夏

 皮を剥いでつぶして水を加えるとネバネバした液体になります。これを髪につけて整髪料としたそうです。これが別名ビナンカズラ(美男葛)の由来です。テレビ朝日で日曜日午後 4 時 30 分から「探偵ナイトスクープ」という番組がありますが,ここで「ビナンカズラを探す」というのを放送したことがあります。その番組では,シャンプーの代わりに使っておりましたね。
花は,夏に咲きます。小さな花が葉の陰になっていて,ちょっと気づきにくいかもしれません。
秋にはおいしそうな和菓子のような実がぶら下がっていました。<植物園へようこそ!>より転載。
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ー25−

名にし負はば 逢坂山の さねかづら 人に知られで くるよしもがな  三条右大臣
 
<後撰集・巻十一・恋三・に詞書として「女のもとにつかわしける、三条右大臣」とあるのが出典。>
・・・・・・・・・・・・・・・・・
ねえ、きみ、逢坂山のさねかづららって、暗示的な名だと思わないかい?
 
きみに「逢う」の「逢坂山」、きみと「寝る」の「さ寝」なんて、

ああそういえば、さねかづらは蔓草さ、

蔓をくるくるたぐりよせるように、

人目につかず、きみのもとへ「くる」方法はないのかね
・・・・・・・・・・・・・・・・・
(「逢う」という言葉を、)名前として持っているのなら
逢坂山の、逢って寝ることの縁の「さ寝」に通じるさねかずらのつるを手繰るように
他人に知られないで
やって来る方法もあってほしいものだなあ
・・・・・・・・・・・・・・・・・

名にし負はば 逢坂山の さねかづら;

「かづら」のつるを「繰る」ことから、この三句で「来る」の序詞。
「名にしおはば」は名として負い持っているいるならばの意。名とは「逢坂山」の「逢う」の語をいう。
「に」は動作の対象を示す格助詞。
「し」は強調の副助詞。
「おは+ば」は仮定条件表現。
「逢坂山」は「逢う」を掛ける掛詞。
「さねかづら」は「さ寝」(共寝の意)を掛ける掛詞。つる性の潅木で今のびなんかずら。
「さ寝」は「逢う」の縁語。

人に知られで くるよしもがな;

「人」は第三者、他人。
「に」は受身の対象を示す格助詞。
「れ」は受身の助動詞「る」の未然形。
「で」は打消の接続助詞。
「来る」はカ行変格活用動詞「来」の連体形で「繰る」と掛詞。
「よし」は名詞で、方法の意。
「もがな」は願望の終助詞。

◇名にしおはば 「相坂山のさねかづら」という名を持っているからには。
◇相坂山 逢坂山とも。近江国の歌枕。東国との境をなす関所があった。「逢ふ」を響かせる。
◇さねかづら 真葛、または実葛と書く。蔓性植物。「さ寝」と掛詞になる。
◇人にしられで 人に知られずに。「さねかづら」は根のありかが知りにくいゆえにこの句を起こすか。◇くる 「繰る」「来る」の掛詞。「繰る」は「さねかづら」の縁語。なお、ここで「来る」と言うのは、相手の女の側に心を置いて言っているのであり、自分が女の家へ「行く」ことを意味する。今でも「私が行くまで待っていて」と「私が来るまで待っていて」とは同じ意味になる。それと同じである。
◇よしもがな 手立てがあってほしい。
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【主な派生歌】
さねかづら いまはたゆとや 逢坂の ゆふつけ鳥の くり返し鳴く
 (藤原家隆)
いかにせん 相坂山の さねかづら はぶきあまたに うつりはてなば
 (〃)
わくらばに あふ坂山の さねかづら くるをたえずと 誰か頼まん
 (九条道家「新勅撰」)
たえぬるか 相坂山の さねかづら 知られぬ程を 何嘆きけん
 (源兼康「新後撰」)
くる人を いかがいとはむ さねかづら たえずはすゑも 逢坂の関
 (蓮瑜)
相坂の 関路におふる さねかづら かれにし後は くる人もなし
 (宗良親王「続後拾遺」)
身にしらぬ 逢坂山の さねかづら 関をばこえて くる人もなし
 (源頼言「新後拾遺」)
さねかづら かけのたれをの 長路しる あふ坂山の 関の行末
 (正徹)
さねかづら 末葉にむすぶ 露かけて もとくる人の ありとしられじ
 (常縁)
あふさかや 夢にもさねん さねかづら くるよを人に せきなとどめそ
 (後柏原天皇)
霞たつ あふ坂山の さねかづら またくりかへし 春はきにけり
 (木下長嘯子)             
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・※さねかづら→ マツブサ科(モクレン科とも)の蔓性常緑低木。夏に黄白色の花が咲き秋に赤い実がなる。
茎の粘液は鬢付油の材料となり、美男葛(びなんかずら)とも呼ばれる。
実は薬用。

たいそう技巧的な歌で、このウイットには、受け手に等質の才気がないと理解されにくい。
だから 現代の私たちが読むと「そうですか」と、ただひとこと、いうのみで、お世辞にも面白いとはいえない。

かろうじて現代語訳を読んだ上で、もう一度よみ返し「ハハァ。いや、わかりました」と、いうが、だからといって特に興趣が増すわけでもない。
作者の三条右大臣にはわるいが「どうッちゅことない」と、いうような歌である。
そうして国語の勉強には、えてして、こういうつまらない作品を押しつけられるから、生徒はうんざりして古典嫌いになる。

しかしこの作者が生きていた頃は、この歌をもらった相手は、身も心も弾み思わずスキップを踏みたくなるようなくらい、とても面白く嬉しく思ったはずである。
その時代では気の利いた歌だった。

作者の三条右大臣は、藤原定方。父は内大臣・高藤(たかふじ)母は、身分は低いが山科の豪族の娘であった。
この高藤と娘のあいだには『今昔物語』に伝えられる奇しきロマンスがある。
高藤は若いころ鷹狩に出かけ、山科で雷雨にあい、そのあたりの邸で雨やどりした。
そうしてはからずもその邸の娘と一夜をすごした。
その娘を恋しく思いながら事情があって再会できなかった。
何年かしてやっと高遠が訪れてみると、娘はいよいよ美しくなり、そばに可愛い小さな女の子がまでいた。
雨やどりの一夜の契りにもうけた女の子だった。
高頭は純情な青年であったらしく思われる。
喜んで母子を邸へ引き取り、他に妻を持たず、生涯仲良く連れ添い、二人の男の子、定国、定方を持った。

「さねかづら」の歌の作者は、そんな両親のロマンスから生まれた人である。
父の高藤はさしたる業績も伝わらぬ貴族であるが、雨やどりの姫君が一家に幸運をもたらすこととなった。
この姫君が、年頃になって、父の高藤は源定省という官吏と結婚させた。
定省は光孝天皇の皇子であるが臣籍に降下していたのだった。

二人のあいだには早くも男の子が生まれていた。
光孝天皇の崩じられたとき、にわかに運命は変わった。
源定省は、再び皇族に復帰し皇位について宇多天皇となる。
姫君は女御とよばれ、その男の子は皇太子となった。

高藤は昇進し、皇太子が醍醐天皇となると、内大臣となった。
二人の息子、定国と定も立身出世を遂げた。
定国は政治家であったが、定方は、歌や管弦の道で名高い文化人となった。

醍醐天皇の御代の年号を延喜というが、延喜朝の歌壇では、定方は中心人物の一人である。
山科の村娘との恋の話を、醍醐天皇はその母君にでも聞かれることがあったのであろうか。
その故地を懐かしく思われ、「死後の陵はそのあたりへ」と遺勅があったという。

雨宿りした豪族の家を後に寺にしたのが勧修寺で高藤系の氏寺となった。
さて、定方はそんなわけで、右大臣にまで累進する。
邸が三条にあったので三条右大臣と呼ばれたがこの歌は若い頃の歌であろう。

男は人目を忍んで女のもとへ通うならわしであるが、追い追い人の噂も高くなり通うのがむつかしくなる。といって、まだおおぴっらに通うほど機が熟さない、日々悶々としてくる。
「困ったねえ、人に知られずに通う手だてはないものかしら」と、それだけのことをいうのに、手のこんだ技巧をこらしているところが、王朝らしい歌である。

「人に知られで くるよしもがな」の「くる」を女が男のもとへ来るという解釈もあるが、これは王朝では絶対、ありえない。
男が車を迎えに出し、それに女が乗ってくるといういうケースもないではないが、女が通うということはない。
通うのはもっぱら男で、女はひたすら待つのである。

この「くる」は、『古語大辞典』にあるように、「話し手の関心の地を中心にしている場合もある」。
ほんとは、「行くよしもがな」というところであるが、定方の心は女のもとにあるから、「くるよしもがな」になる。

「大和には 鳴きてか来らむ 呼子鳥 象の中山 呼びぞ越ゆなる」 
  「万葉集」・巻一・七十

この歌の「来」とおなじ。この作者も、身は吉野にあって、大和へ行くことを「くる」と言っている。

さねかずらは、「万葉集」にもよく詠まれている。その蔓をよく見ると、冬の日の中に、美しい珊瑚のような深紅の実をつけている。
蔓の中にネバネバの液があって、これは古代の男の整髪料ポマードであったから、さねかづらを別名、美男蔓ともいう。
「名にし負はば」という通り、「さねかづら」の名から、色っぽい歌の小道具に使われたようである。
他にさねかづらを詠んだ歌を紹介すると

「いかにせん 逢坂山の さねかづら はぶきあまたに うつりはてなば」  藤原家隆

「わくらばに 逢坂山の さねかづら くるをたえづと 誰か頼まん」 九条道家

「身にしらね 逢坂山の さねかづら 関おば越えて 来る人もなし」 源頼言 

等、多数詠まれている。


【作者】
三条右大臣、藤原定方(873〜931)内大臣、藤原高藤の子。醍醐天皇三条御息所、中納言朝忠の父
邸宅が三条にあった為三条右大臣と呼ばれた。
歌・管弦に優れ、家集に「三条右大臣集」がある。
勅撰集入集歌十六首。


出典・転載元;
<ブログ[北極星は北の空から〜ブログの中に]・小倉百人一首 注釈(千人万首) >等より。


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