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詩歌全般・日本古代史・たべものコミュの君がため 惜しからざりし 命さへ 長くもがなと 思ひぬるかな

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ー50ー 

君がため 惜しからざりし 命さへ 長くもがなと 思ひぬるかな   藤原義孝 

<後拾遺集巻十二(恋二)「をむなのもとよりかへりてつかはしける 少将藤原義孝」>
・・・・・・・・・・・・・
(後朝・きぬぎぬ)のふみ。

貴女を知る以前は惜しくもなかった我が命でしたが

それさえ貴女のためには永く保ちたいと思ったのです
・・・・・・・・・・・・・
君がため;あなたに逢うことのためには、の意。

「君」は名詞で、人を尊敬していう語。男女ともに用いる。
「が」は連体修飾語を作る格助詞。
「ため」は目的の意の名詞。

惜しからざりし 命さへ;

「惜しから」は形容詞「惜し」の未然形(カリ活用)
「ざり」は打消の助動詞「ず」の連用形(ず+あり)。
「し」は過去の助動詞「き」の連体形。
「さへ」は添加(・・マデモ)をしめす副助詞。

長くもがなと 思ひぬるかな;

「長く」は形容詞「長し」の連用形。
「もがな」は願望の終助詞。
「と」は「思ふ」の内容を引用する格助詞。
「ける」は詠嘆の助動詞「けり」のれんたいけい。
「かな」は詠嘆の終助詞。

◇君がため あなたのために。あなたのせいで。次の句「惜しからざりし」でなく下句「長くもがなと思ひぬるかな」にかかる。同様の例を挙げれば「君がため波の玉しくみつの浜ゆき過ぎがたしおりてひろはん」(貞数親王『新拾遺集』)。このように初句が中間の句を飛び越えて下句や結句にかかる例は和歌に少なくない。語順を歌意に沿って入れ替えれば、次のようになる。「惜しからざりし命さへ、君がため、長くもがなと思ひぬるかな」。
・・・・・・・・・・・・・
【他の代表歌】
秋はなほ 夕まぐれこそ ただならね 荻のうは風 はぎのした露
 (和漢朗詠集)
きてなれし ころもの袖も かわかぬに 別れし秋に なりにけるかな
 (後拾遺集)

【主な派生歌】
君がため 命をさへも 惜しまずは さらにつらさを 歎かざらまし
 (藤原定家)
をしからぬ 命も今は ながらへて おなじ世をだに 別れずもがな
 (〃「玉葉集」)
あへば先づ をしからざりし 命より ながくもがなと おもふ夜半かな
 (松永貞徳)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
<転載記事>『§姥ざかり§ 』より。
http://blogs.yahoo.co.jp/gthjb326/47562998.html
☆50番
 「君がため惜しからざりし命さえ 長くもがなと思ひけるかな」(藤原義孝)

 きみへの思いが実を結んだなら、
 この命を捨ててもいいと思っていた。 
 しかし、本当にそうなったら、
 気持ちは変わった。
 私は少しでも長く生きたいと思うようになった。)

 純情な恋の歌。
 二十一歳で夭逝した美青年貴族の歌。

 『後拾遺集』に
 「女のもとより帰りてつかはしける」とある。

 作者の義孝は、
 摂政・藤原伊尹(これただ)
 45番「あはれとも・・・」の作者・謙徳公の三男。
 伊尹は、円融天皇の伯父であり、
 東宮(のちの花山帝)の祖父にあたる。

 義孝の歌を集めた『義孝集』を見ると、
 いろんな女(ひと)と恋をしたらしい。

 義孝は歌詠みであり、美男であった。

 当時の人々には「今業平」のように
 思われていたのかも知れない。

 彼は他の貴族の子弟のように、
 浮ついたところはなく、
 端正な青年だった。

 義孝がその女(ひと)のために長く生きたい!
 と願った女(ひと)の名は不明。

 行成という男の子を得た
 正室の夫人であったかどうかもわからない。

 ただ、義孝は女性に人気があった。
 それも、仏道に心を寄せ、
 抹香くさいところもあったらしい。

 ある時、そんな彼が、
 女房のたまりへ寄り、雑談した。

 ・・・女房たちは
 「珍しいこと!」
 と歓待した。
 そのうち 義孝は席を立った。

 女房たちは、人をやって尾行させた。
 義孝は法華経を誦じつつ、
 氏寺の世尊寺に着いた・・・

 栄華に誇らぬ真摯で求道的な人柄で、
 法華経を常につぶやき、
 紫檀と水晶の数珠を袖のうちに
 隠すように持ち歩いていた。

 折りしも、974年、天下に
 「疱瘡の病ーー天然痘」がひろがった。

 義孝には一つ上の兄・挙賢(たかかた)があり、
 共に母は、
 代明(よあきら)親王のおん女(むすめ)であったから、
 母方の家柄も申し分ない。

 兄を前少将、弟の義孝は後少将と世人は呼んだ。

 美しき兄弟はその「厄」に倒れた。

 朝に兄が、夕方に弟の後少将・義孝は死んだ。
 二十一という短命が彼に道心を起こさせたのか。

 「長くもがな」と彼に思わせた
 女の悲しみも母君に劣らなかったであろう。

 子の行成は有名な書家である。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
藤原義孝ふぢはらのよしたか 
作者は45謙徳公の子。母は恵子女王。名筆行成は一人息子である。
 侍従・左兵衛佐を経て、天禄二年(971)、右少将。同三年、正五位下に叙せられたが、二年後の天延二年九月十六日、疱瘡により夭折した。享年二十一。兄挙賢(たかかた)は同日の朝に亡くなり、義孝は夕に亡くなったので、「夕少将」の名がある。死後、近親や知友の夢に現れて歌を詠んだことが記録されている。美貌で道心深かったことは『大鏡』『栄花物語』などの逸話に窺われる。その生涯は『今昔物語』などに説話化された。
 早熟の歌才に恵まれ、十三歳で連歌の座に加わり賞讃を得たとの逸話がある。家集『義孝集』がある。また日記一巻があったというが、伝存しない。拾遺集初出。勅撰入集二十四首。中古三十六歌仙。
 百人一首では50番、百人秀歌では49番目に位置するが、いずれも藤原実方の前に置かれている。早世した美貌の貴公子の恋の合せと言えようが、義孝のは純情率直、実方のは老練巧緻と、歌柄は対照的である。 (954〜974 )  [千人万首]より転載。

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