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詩歌全般・日本古代史・たべものコミュの篤姫は中国人の子孫だったのか?

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≪リンク先の表題等転載≫

歴史徒然:日本の誕生・日本語のルーツ・ウバイド・ウワイト・遷都
http://blogs.yahoo.co.jp/matmkanehara
スメル八千年
http://blogs.yahoo.co.jp/matmkanehara/50410249.html
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・/
篤姫は中国人の子孫だったのか?
http://blogs.yahoo.co.jp/matmkanehara/50703706.html
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出典:篤姫を生んだ鹿児島こそ
    スメル八千年帝国の理想郷だった
   『言語復原史学会:加治木義博』
    KKロングセラーズ 73〜74頁

「3章 嶋津家の家系と施政哲学」

 話題が明治にまで飛躍してしまったが、時代を鎌倉に戻そう。
 十八歳の忠久が建久七年六月一日、鎌倉を立って南九州へ向かい、同八月一日三箇国に到着したという、その時よりはるか百五十五年前の長久二年(1041)に、前記のように大隅大介の惟宗(いそ)某が、台明寺山の雑木伐採を禁ずという布告を出した記録が『鹿児島県史年表』に載っている。
 忠久が、それ以後は存在さえわからないその惟宗氏の子孫だとすれば、大隅からはるばる鎌倉まで行って領地を認可してもらい、また南九州まで帰ったことになるが、そんな重大な記録が全然ない。
 また信頼できる『鹿児島外史』には「惟宗王氏は劉漢の霊帝に出づ」「応神帝の御宇、海を越えて日向宮郡に来たる」とある。
 中国人なら惟宗という当て字は中国流に音読みして「イソ」と読まなければいけない。
 それは天平時代に日向の守に任じられた、陽胡毘登玲珍は「ヤコビト・レイチン」と読むことからもわかる。
 漢字の国から来た人々は文字をよく知っていることを誇りとしていた。
 コレムネという名なら「孤礼無禰」というふうに書き、なんと読むのかわからない「惟宗」などとは絶対に書かないから、これはイソへの当て字なのである。
 だから忠久の時代には惟宗は地名だけになっていたのだ。
 仮に嶋津氏が中国人だったのなら、篤姫は中国人の子孫ということになる。
 どうしてもこれは正しく確認しておかねばならないが、以上で惟宗氏とは何の血縁関係もないことが確認できた。
 今後は、嶋津家は惟宗氏だなどというデタラメを口にする人はなくなると思う。
 篤姫の知性、品格、決断、行動がすべて優れたDNAによるもので、明治維新の大業が和宮との二人の女性君主によって平和裡に進行したのは、偶然ではなかったのである。
 しかし、惟宗という正体不明の中国移民の子孫だというのでは、我が国未曾有の国難の襲来に遭遇した彼女の辛苦と功績は、正しく評価できなくなり、せっかくの主題がまるで空しいものになってしまう。

 『参考』

 小林登志子『シュメル−人類最古の文明』:中公新書
 『メソポタミア世界』
 http://www.orient-matsudo.com/kobayashi-shumel.htm

 シュメル−人類最古の文明
 http://blogs.yahoo.co.jp/matmkanehara/folder/1602066.html

 ウワイト(倭人)ウバイド
 http://matmkanehara-momo.blogspot.com/

 歴史回廊(遷都)
 http://bloghistorygallary.blog10.fc2.com/


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