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詩歌全般・日本古代史・たべものコミュのおほえ山 いく野の道の とほければ まだふみもみず 天の橋立

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おほえ山 いく野の道の とほければ まだふみもみず 天の橋立   小式部内侍

<和泉式部 保昌に具して丹後国に侍りけるころ 都に歌合のありけるに 小式部内侍歌よみにとられて侍りけるを 中納言定頼つぼねのかたにまうできて 唄はいかがせさせ給ふ 丹後に 人は遣わしけむや 使いはまうでこずや いかに心もとなくおぼすらむなど たわぶれて立つちけるを ひきとどめてよめる 金葉週・雑上>
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おほえ山 いく野の道の とほければ;

「おほえ山」 京都市西京区の大枝山。亀岡市との境をなす山々の総称。旧山城・丹波国境にあたる。
 酒呑童子伝説で名高い大江山(丹波・丹後国境)とよく混同される。
「いく野」 生野。京都府福知山市に地名が残る。「行く」を掛け、また「幾野」(いくつもの野)の意も掛かる。
「道の」 の格助詞「の」は主語を示す。
「とほけれ」は形容詞「遠し」の已然形で、順接の接続助詞「ば」を接して、必然的関係を示す確定条件。

まだふみもみず 天の橋立;

まだ行ってもいない意と、母の手紙を見てもいない両意。
「まだ」は副詞。
「ふみ」は踏みと「文」の掛詞。係助詞「も」は添加。「ず」は打消しの助動詞終止形。
「天の橋立」は、丹後国の歌枕。京都府宮津市の宮津湾に突き出した砂嘴。その名は「天にのぼるために立てた梯子」程の意。『丹後国風土記逸文』によれば、イザナギが天にのぼろうとして作った橋が倒れて天の橋立になったのだという。
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大枝山を越え生野を通り
幾つもの野を過ぎて行く道があまりに遠いので
まだ天の橋立を踏んでもおりませんし
丹後からの母の手紙も見ておりません。
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小式部内侍が歌合に呼ばれた時、藤原定頼が彼女の局にやって来て、
「丹後の国におられる母上(和泉式部)のもとへ人を遣わしましたか。まだ使者は来ませんか。
さぞ心細いでしょう」とからかった。
それに対して、
「母からは手紙さえもらっていません」と答えた歌。
「母の力を借りずとも大丈夫です」と言い返したものであろう。
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【主な派生歌】

大江山 こえていく野の 末とほみ 道ある世にも あひにけるかな
 (*藤原範兼[新古今])

ふみもみぬ いく野のよそに かへる雁 かすむ浪間の まつとつたへよ
 (藤原定家)

おほえ山 こかげもとほく なりにけり いく野のすゑの 夕立の空
 (*飛鳥井雅経)

おほえ山 いく野の道の 長き夜に 露をつくして やどる月かな
 (後鳥羽院)

夏草は 繁りにけりな 大江山 こえていく野の 道もなきまで
 (藤原忠定[新後拾遺])

草の原 いくのの末に しらるらん 秋風ぞ吹く 天の橋立
 (順徳院)

ふる雪に 生野の道の 末までは いかがふみみん 天の橋立
 (正親町院右京大夫[続拾遺])

思ふより いとどいく野の 道たえて まだふみもみず つもる雪かな
 (少将内侍)

おほえ山 いく野の道も まだ見ねば ただ恋ひわたる 天の橋立 
 (飛鳥井雅有)

大江山 過ぎしいく野の なぐさめに 日をわたるべき 天の橋立
 (後柏原院)

かけていはば 遠き道かは 人の世も 神代のままの 天の浮橋
 (三条西実隆)

大江山 とほしとみえし ほどもなく いく野のすゑに かかる夕立
 (中院通勝)

たよりありて 待たれし雲の 上人も けふふみそむる 天の橋立
 (細川幽斎)

恋ひわたる 天の橋立 ふみみても 猶つれなしや 与謝のうら松
 (松永貞徳)

浪の音に 聞きつたへても 思ふぞよ ふみ見ばいかに 天の橋立
 (後水尾院)

さらにその 天のはしだて ふみも見じ いく野の末に かすむ雁がね
 (契沖)

年をへて 思ひわたりし しるしにや 今日ふみ見たる 天の橋立
 (田捨女)

おほえ山 いくへかすみて 丹波路や いく野のすゑに 春風ぞふく
 (清水浜臣)
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小式部内侍 こしきぶのないし 生年未詳〜万寿二(1025)
橘道貞と和泉式部の間の子。
寛弘六年(1009)頃、母とともに上東門院彰子に仕える。はじめ堀河右大臣頼宗の愛人であったらしいが、その弟二条関白藤原教通の妾となって一子を生む(のちの静円)。また藤原範永との間に女子を生んだ(堀河右大臣家女房。「範永女」として後拾遺集に歌を載せる)。万寿二年(1025)十一月、藤原公成の子(のちの頼忍阿闍梨)を出産後、死亡した。二十八歳くらいか。歌人藤原定頼との親交も知られる。後拾遺集初出。勅撰入集は八首(金葉集は二度本で数える)。女房三十六歌仙。
<千人万首>より転載。
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母同様「恋多き女流歌人」として、藤原教通・藤原定頼・藤原範永
など多くの高貴な男性との交際で知られる。
教通との間には静円、範永との間には娘をもうけている。
万寿2年、藤原公成の子(頼忍阿闍梨)を出産した際に20代で死去し、
周囲を嘆かせた。この際母の和泉式部が詠んだ歌

「とどめおきて誰をあはれと思ふらむ 子はまさりけり子はまさるらむ」
(『後拾遺和歌集』哀傷) は、哀傷歌の傑作として有名である。


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