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詩歌全般・日本古代史・たべものコミュのもろともに あはれと思へ 山桜 花よりほかに しる人もなし

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もろともに あはれと思へ 山桜 花よりほかに しる人もなし  前大僧正行尊 
 
<大峰にて思ひもかけず桜の咲きたりけるをみてよめる 金葉集・雑>
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やあ しみじみと懐かしい

わたくしを知る友 山桜よ

思いもかけず会えたのだなあ

心ゆくまで語り明かそう

(酒もある)

どうやら二人共孤独の身同士
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深山にひとり咲いている山桜よ

私と共にあわれを感じてくれ

山奥でひとり修行をしている私にとって、

花のおまえ以外に知っている人は誰もいないのだから
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* ヤマザクラ(山桜、学名:Cerasus jamasakura)はバラ科サクラ属の落葉高木。
日本の野生の桜の代表的な種で、和歌にも数多く詠まれている

都では春も逝ったというのに、この奥深い山中では可憐な山桜がひっそりと、人に知られず咲いているではないか。桜よ、桜、おれもひとりだ。
天地寂寞の山中、おまえよりほかになつかしむものはない。おまえより私の心を知っているものはいないのだから・・・。
大峰山は大和の吉野の主峰、修験道の聖地で、今も女人禁制である。行尊はこの山できびしい修行中、ふと山中にひとり咲く桜を見つけたのである。
この歌は、つまり修行中の経験が詠まれているので、一首に讃える詩情は作者の真の孤独と、孤独から山桜に呼びかけた人間の温かい気持ちの上にたたえられている。
出家して俗世を捨てていながら、なお、人恋しい熱い血があり、その情熱を自然との同化、自然への賛美に託してうたう。この歌はさながら西行のようである。
大峰山の修験道というのは、ずいぶん古い。国文のK教授によると仏教公伝以来の、民間レベルでの大陸交流から、密教や陰陽道が日本にもたらさられ、これが日本古来の民族宗教と融合して、修験道をつくりあげたと推定されるといわれる。
もともと修験道というのは、燃焼度のたかい、かなり野性的な、荒あらしい宗教であったようである。
行尊は、大峰の峰々を踏破して、死にもぐるいの苦行をつづけていたのかもしれない。そういう修験者が、一瞬、ふと見た桜の花。それは美しくて典雅で、生きるよろこび、生の肯定そのものであったのだ。それに感動する行尊は、なかなか、スジのいいお坊さんではなかったかと思われる。修行を積んだ行尊の験力は、きっと強いものであっただろう。
『源氏物語』にも「御嶽精進」という言葉が出てくる。「夕顔」の巻きに、下町の老人が明け方、五体投地の礼拝をしているのが聞こえたとある。御嶽は、いまの大峰山の山上ヶ岳である。この山伏修行の聖地へ詣いる人は、入山に先立って精進潔斎をしないといけない。王朝の頃は、三七日・五十日・百日と精進する。これが「御嶽潔斎」である。
『蜻蛉日記』にも『枕草子』にも出てくる。毎日、夜明け前に、庭に出て、大峰山のほうへ向かって、五体投地の礼拝を百回繰り返さねばならない。。東大寺二月堂のお水取りの五体投地も、ずいぶん烈しく、荒々しい。男っぽい礼拝である。
入山する準備さえこのありさまである。きびしい参詣は、神仏をおそれつつしむ、緊張した行であろう。『枕草子』には、藤原宣孝という男は、この御嶽詣りに、決められた粗末な白衣をまとわず、派手な衣装でキンキラに着飾っていって世間をビックリさせた、ということが書いてある。
バチが当たるだろうと人々が思っていたら、安に相違して昇進したから、二度、人々はびっくりしたという。この宣孝は紫式部の夫であるが、いかにも派手好きな伊達男ではないか。
しかしこれは本来の趣旨に反する。修験者はもともと、巌窟に寝て葛不を被、松を喰らい、水垢離をとって俗界の垢をそそぎ、人間と世の中の罪や穢れを除くべく苦行するのである。
華美な王朝の世にも、真摯で剛直な修験者はいたであろう。そんなことを思いつつ、この歌をよむと、また格別のおもむきがある。

「大峰 行ふ聖こそ
 あはれに尊きものあれ
 法華経 誦する声はして
 確かの正体 まだ見えず」

これは『梁塵秘抄』巻ニ。民衆の、修験者に対する素朴な信仰がある。

松尾芭蕉は、『奥の細道』に、夏の羽黒山で、「春を忘れぬ遅い桜」を見て「行尊僧正の歌のあはれもここに思ひ出でて、なほまさりておぼゆ」と書いている。
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もろともに あはれと思へ 山桜; 

「もろともに」は副詞。どちらもあい共に。
「あはれ」は名詞、しみじみと心にしみてなつかしい意。
「と」は引用を示す格助詞。
「思へ」は四段活用動詞「思ふ」の命令形。
「山桜」は呼びかけ文節、独立語。
  「山桜」の対語は「里桜」。

花よりほかに しる人もなし; 

「より」は比較の基準を示す用法から派生した、一定の事がら、範囲を示す格助詞。
「ほか」は名詞。
「に」は動作の対象を示す格助詞。
「しる人」は私の心を知ってくれる人の意。知友。「しる」は四段活用動詞「しる」の連体形。
「も」は感動を含む強意の係助詞。
「なし」は形容詞終止形。
擬人法。
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行尊 ぎょうそん 天喜三〜長承四(1055-1135)
敦明親王(小一条院)の孫。参議従二位侍従源基平の息子。
母は権中納言良頼の娘。
兄に季宗・権大僧都頼基・同覚意、
弟に権大僧都厳覚・大蔵卿行宗ほか、
姉に後三条天皇女御基子(実仁親王・輔仁親王の母)がいる。
康平七年(1064)、十歳で父を亡くす。麗景殿女御延子(後朱雀天皇女御)の猶子となり、厚い庇護を受けたという(『古今著聞集』)。
十二歳で三井寺で出家、頼豪阿闍梨に師事し、密教を学ぶ。
十七歳、園城寺を出、大峰・葛城・熊野など各地の霊場で修行に打ち込む。
後に 白川・鳥羽・崇徳の三天皇の護持僧として厚い尊信を受け、延暦寺の天台座主に着いた。護持僧というのは加持祈祷によって病や災難を癒し、払うものである。
承暦三年(1079)、頼豪より三部大法灌頂を受ける。
永保元年(1081)、園城寺はかねて対立していた延暦寺の襲撃を受け、堂塔僧坊の殆どを焼失した。
応徳二年(1085)十一月、甥にあたる皇太子実仁親王が疱瘡に罹り薨去(十五歳)。帰洛して喪に服し、多くの哀傷歌を詠んだ。
その後再び山林修行に入るが、一時なんらかの冤罪事件に巻き込まれることがあったらしい(行尊大僧正集)。
修行を終えて山を下る。この頃すでに歌人としての名が立ち、
寛治三年(1089)八月の太皇太后宮寛子扇歌合、
寛治五年(1091)八月の右近衛中将宗通朝臣歌合に出詠している。
嘉承二年(1107)五月、東宮祈祷の効験により法眼和尚位権少僧都に任ぜられる。
同年十二月、鳥羽天皇(五歳)が即位すると直ちに護持僧の宣下を受けた。
以後天皇のみならず白河院や待賢門院の病気平癒、また物怪調伏などに数々の功績あり、験力無双の高僧として朝廷の尊崇を受けた。
天永二年(1111)八月、護持賞により権大僧都に進む。この時五十七歳。
永久四年(1116)正月、増誉大僧正が入寂し、後継者として園城寺長吏に指名される。
同年五月、権僧正に任ぜられる。
保安二年(1121)には園城寺が再度の焼き打ちにあう。
同年、僧正に昇る。
同四年、天台座主となったが、拝命直後辞任。
天治二年(1125)五月、大僧正覚助入寂の跡を嗣ぎ大僧正となる。
大治二年(1127)、白河院・鳥羽院の熊野臨幸に供奉。
同三年八月、広田社西宮歌合・同南宮歌合に参加(後者では判者も務める)。同年九月、住吉社歌合に出詠。
長承三年(1134)八月には再建なった園城寺金堂の落慶供養が営まれ、年来の宿願を果した。
同四年二月五日、病により入滅。「僧正阿弥陀仏に向ひ、一手に五色の五孤を持ち、念仏を唱へ、開眼しつつ、居ながらに死すと云々」(『長秋記』)。八十一歳。

歌壇的な活動は少なかったが、藤原仲実・加賀左衛門ほかとの交流が知られる。主に修行時代の歌を集めた家集『行尊大僧正集』がある(以下「大僧正集」と略す)。金葉集初出。勅撰入集49首(金葉集は二度本で計算)。
小倉百人一首に「もろともに…」の歌を採られている。
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ブログ[§姥ざかり§ ]より抜粋転載。

行尊(1057〜1135)は、
 三条天皇の皇子・小一条院敦明親王の孫。

 敦明親王は後一条天皇の御代の
 皇太子であったが、道長の圧迫で
 辞して小一条院となられた
 悲劇のプリンス。

 その親王の子、
 参議・源基平の三男が行尊。

 十歳で父と死別。
 十二歳で近江園城寺で出家。

 十七歳で寺を出、諸国修行。
 山伏修験者としてほまれ高い。

 白河、鳥羽、崇徳、三帝の護持僧として
 尊崇があつかった。

 のち、延暦寺の座主、大僧正となった。

 護持僧とは、
 加持祈祷によって病や災難を祓うもの。

 修験道というのは、
 かなり野性的な荒々しい宗教であった。

 行尊は大峰の峰々を踏破して苦行を続けていた。

 そういう修験者がふと見た
 「桜の花」それは美しく、
 生の肯定そのものであった。

 この山伏修行の聖地へ詣でる人は、
 入山に先立って清新潔斎をしないといけない。

『蜻蛉日記』『枕草子』にも出てくる。

 毎日、夜明け前に庭へ出て、
 大峰山のほうに向かって、
 五体投地の礼拝を百回繰り返す。

 東大寺二月堂の「お水取り」の五体投地も荒々しい。

 『枕草子』には、藤原宣考という男は、
 この詣でに決められた白衣をまとわず、
 派手な衣装で着飾って世間をびっくりさせた。

 バチが当るだろうと人々は思っていたら、
 昇進したので
 人々は二度びっくりしたと書いてある。

 この宣考は紫式部の夫である。

 いかにも派手好きな伊達男である。
 華美な王朝にも
 行尊のような修験者はいたであろう。

 『梁塵秘抄』・巻二

 ★「大峰行ふ聖こそあはれに尊きものはあれ 
   法華経誦する声はして確かの正体まだ見えず」

 芭蕉は『奥の細道』に、
 夏の羽黒山で
 「春を忘れぬ遅桜」を見て

 ★「行尊僧正の歌のあはれもここに思ひ出でて
   なほまさりておぼゆ」
 と書いている。
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出典・転載元;<ブログ[北極星は北の空から〜ブログの中に]・小倉百人一首 注釈(千人万首) >等より。


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