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詩歌全般・日本古代史・たべものコミュのながらへば またこのごろや しのばれむ 憂しと見し世ぞ 今は恋しき

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ながらへば またこのごろや しのばれむ 憂しと見し世ぞ 今は恋しき   藤原清輔朝臣

<題しらず 新古今集・雑下>

・・・・・・・・・・・・・
生き長らえていたなら

今この時もまた懐かしく思いだされるのだろうか

かつて 辛いと思った頃のことが

今では恋しく思われるから
・・・・・・・・・・・・・
<心中に居直るつらい思い出。しかし今は「思い出」である。過去を、現在の心の支えにしている。>
当時は平安末期。武家の台頭と戦乱の世、末法の世である。そうした時代背景も感じさせる。

比する一首;

心にも あらで憂き世に ながらへば 恋しかるべき 夜はの月かな   
 三条院「後拾遺集」


【主な派生歌】

月みても 雲井へだつと 恨みこし その世の秋ぞ 今は恋しき  
 (惟宗光吉)

おのづから つてに通ひし 言の葉に つらかりし世ぞ 今は恋しき  
 (千種有光)

数しらぬ 昔をきけば 見しほども すたれたる世の 今は恋しき  
 (正徹)

忘れずよ 憂しと見しよの 春をさへ 又このごろの 花にしのびて  
 (有賀長伯)

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ながらへば; 

下二段活用動詞「ながらふ」の未然形に、順接の接続助詞「ば」を接して仮定表現。


またこのごろや しのばれむ; 

「また」は副詞、やはりまた。
「このごろ」は複合名詞。
「しのば」は未然形。
「れ」は自発の助動詞「る」の未然形。
「む」は推量の助動詞「む」の連体形で、疑問の係助詞「や」の結び。
三句切。


憂しと見し世ぞ 今は恋しき; 

「憂し」は形容詞終止形、つらく苦しい意。
「と」は引用を示す格助詞。
「見」は上一段活用動詞「見る」の連用形、見て理解する。
「し」は過去の助動詞「き」の連体形。
係助詞「ぞ」の結びは形容詞「恋し」の連体形「恋しき」。

・・・・・・・・・・・・・
百人一首の始まりというのは
それは嘉禎元年(1235)の夏のある日、七十四歳の定家は、息子為家の嫁の父である宇都宮入道蓮生に、「別荘の襖に、和歌の色紙を張りたいと思いますが、ひとつ撰歌して揮毫して下さらぬか」と頼まれた。 
 蓮生は、もと関東の豪族であったが、京の嵯峨、小倉山に中院山荘とよばれる別荘を持っていた。
定家の「小倉山荘」もその近くにあった。
定家は二年前に出家していたが、息子の為家は定家より順調に出世していて歌人として世に出て活躍している。
 嫁の父は勢力家で定家一家のパトロンでもあったが、「撰歌はともかく、揮毫とは・・・私は書家ではありませんので見苦しいだけ」とことわったが蓮生は切にと懇願するのでやむなく定家は書いて贈った。 日記『明月記』の五月二十七日のくだりにこう書かれている。
「予、本より文字を書くことを知らず、嵯峨中院障子の色紙形、故に予書くべき由、彼の入道懇切、極めて見苦しき事と雖も、憖に染筆して之を贈る。古来人の歌各一首。天智天皇自り以来、家隆雅経に及ぶ」
これが定家が書き記した文章である。
 百首あったとは明記されていない。
文学者としての定家は、たぐい稀な歌人、後鳥羽院のお歌を、さらに土御門・順徳両院のお歌をそこに入れたかったが、政治的配慮から鎌倉幕府の意向を恐れた。何しろ、後鳥羽院と順徳院はまだ配流中でいられたのだから(土御門院はお気の毒にも四年前に報じられていた) 
「そうだ。公的な勅撰集にこそ幕府の忌避する歌人は入れられないにしても、私的な別荘の襖に貼る色紙には思いの歌人を撰んだとて、何の不都合があろう」定家は躊躇なく後鳥羽・順徳両院の御作を入れた。
 更に暮夜、百枚の色紙を按配しているうちに、定家はこれをパズルのように組み合わせて暗喩をこめることを思いついたのであろう。このことについては多くの研究者の意見の一致を見ることができる。しかし確かとは解明されていない。こうあるのではと推論の域を出ないのが現状である。
 ともあれ、定家・為家と受け継がれて百人一首は完成したものと思われる。むろん定家が撰んだには違いないが、作者名が嘉禎元年のものでなく後の呼び名もあるので、息子為家が手を加えた点もあるであろう。為家も後鳥羽院の近習の一人であったから、もとより院に心を寄せる身とて、父定家の意を受けて百人一首の形をととのえたのであろう。

・・・・・・・・・・・
藤原清輔 ふじわらのきよすけ 長治一〜治承一(1104-1177)

六条藤家顕輔の次男。
母は能登守高階能遠女。

初め隆長と名のった。顕方は同母兄、顕昭・重家・季経は異母弟。
父顕輔は崇徳院の命をうけ、
天養元年(1144)より『詞花集』の撰集に着手。この時清輔は父より助力を請われたが、かねて父とは不和が続き、結局清輔の意見は採られなかったという(『袋草紙』)。
四十代後半に至るまで従五位下の地位に留まったのも、父からの後援を得られなかったためと推測されている(『和歌文学辞典』)。

しかし歌人としての名声は次第に高まり、
久安六年、崇徳院主催の『久安百首』に参加。同じ頃、歌学書『奥義抄』を崇徳院に献上した。

また仁平三年(1153)頃、『人丸勘文』を著し、類題和歌集『和歌一字抄』を編集。
久寿二年(1155)、父より人麿影と破子硯を授けられ、歌道師範家六条家を引き継ぐ。(千人万首)

 藤原定家の場合は、父俊成が49歳のときの子である。人生50年と言われた当時からすれば、晩年の子であり、清輔と定家の好対照な部分であるだろう。こちらは、御子左歌学であり、そして二条歌学につながっていく。
 歌学・歌道で六条家といえば、顕輔・清輔親子から始まるのを六条藤家と言い、経信・俊頼親子に始まるのを六条源家と言う。

清輔は、六条家歌学の祖である、六条修理大夫・顕季の孫になり、鳥羽天皇の皇后であり、近衛天皇の生母の美福門院・得子は従妹である。

 清輔の青年期の事跡はほとんど不明であって、四十四歳の仁平元年(一一五一)になり従五位上に叙せられ、
承安二年(一一七二)六十五歳で正四位下・太皇大后宮大進に叙任されたといい、白河・鳥羽・後白河の院政期に、鳥羽・崇徳・近衛・後白河・二条・六条と移り代わる天皇のもと、七十四年の生を受け、
治承元年(一一七七)六月二十日没す。



出典・転載元;<ブログ[北極星は北の空から〜ブログの中に]・小倉百人一首 注釈(千人万首) >等より。

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