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詩歌全般・日本古代史・たべものコミュの み吉野の 山の秋風 さ夜ふけて ふるさと寒く 衣うつなり

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ー94−

参議雅経

み吉野の 山の秋風 さ夜ふけて ふるさと寒く 衣うつなり 

    
<衣うつ心 新古今集・秋下>

・・・・・・・・・・・・・
作者はどこにいるのだろう

栄華ははるかに去って

今はうら寂しい夜の山里

「きぬた打つ」音だけが

その肌身に

寒々と響いているのだろうか
・・・・・・・・・・・・・

* み吉野の; 

「み」は美称接頭語。「吉野」は奈良県の吉野地方。山深く寒さはきびしい。

* 秋風; 
「秋」は陰暦七・八・九月。

* さ夜; 
「さ夜」は夜の意。「さ」は接頭語で語調を整える。

* ふけて;下二段j活用動詞「更く」の連用形。
「て」は順接の接続助詞。

* 古郷; 旧都・古跡等、由緒が多くあり、今はさびれている里。

吉野は応神天皇・雄略天皇の離宮が営まれた土地。天皇方の行幸も多くあった。

* 寒く; 形容詞「寒し」の連用形で、
「ふるさと」と主語述語をなし、「うつなり」に掛かる連用修飾語となる。(寒さを感じさせる)。

* 衣うつなり; 「衣うつ」とは、布に艷を出すため、砧の上で槌などによって衣を叩くこと。
「きぬた打つ」ともいう。女性の仕事であり、晩秋の風物。
布地の光沢を出したり、糊をやわらげたりするために、衣服を砧(きぬた)という木槌で叩く。粗末な繊維で出来た布地はそのままでは硬くて着用できないのです。冬の支度として、庶民の家で秋に行われた。
「うつ」は四段活用動詞終止形。
「なり」はいわゆる伝聞推定の助動詞。聞える音によって判断していることを示す。
詠嘆の助動詞終止形。

・・・・・・・・・・・・・・

作者;飛鳥井雅経 あすかいまさつね(-がけい)
嘉応二年〜承久三(1170-1221)

関白師実の玄孫。刑部卿頼輔の孫。従四位下刑部卿頼経の二男。
母は権大納言源顕雅の娘。刑部卿宗長の弟。
子に教雅・教定ほかがいる。
雅有・雅縁・雅世・雅親ほか、子孫は歌道家を継いで繁栄した。
飛鳥井と号し、同流蹴鞠の祖。

大江広元のむすめを妻とし、蹴鞠を好んだ源頼家に厚遇された。

建久八年(1197)二月、後鳥羽院の命により上洛。
同年十二月、侍従に任ぜられ、院の蹴鞠の師を務める。
同九年正月、従五位上。
建仁元年(1201)正月、右少将に任ぜられる(兼越前介)。
同二年正月、正五位下。
元久二年(1205)正月、加賀権介。
建永元年(1206)正月、従四位下に昇り、左少将に還任される。
承元二年(1208)十二月、左中将。
同三年正月、周防権介。
同四年正月、従四位上。
建保二年(1214)正月、正四位下に昇り、伊予介に任ぜられる。
同四年三月、右兵衛督。
建保六年(1218)正月、従三位。
承久二年(1220)十二月、参議。
承久三年(1221)三月十一日、薨。五十二歳。



【本歌】「古今集・冬・坂上是則」

みよしのの 山の白雪 つもるらし ふるさとさむく なりまさるなり


「山」と「里」を本歌から借りつつ、季を冬から秋へ移し、さ夜という頃に限定した。
また本歌における「寒さ」の体感を、「風」と「衣うつ」音という聴覚による把握に置き換えている。


【主な派生詩歌】

月の色も 山のはさむし みよし野の 故郷人や 衣うつらん  
 (順徳院)

みよし野の 山した風の さむきよを たれ故郷に 衣うつらん  
 (実朝)

故郷の 月をいくよか みよし野の 山風さむみ 衣うつらん  
 (藤原師信[続千載])

夜をさむみ 誰かはひとり みよし野の 山下風に 衣うつらん  
 (二条為定)

みよし野の すず吹く風は 夜さむにて ふもとの里に 衣うつなり  
 (源頼武)

衣うつ よし野のおくの 秋の風 身にしむ色や 花にふく声  
 (三条西公条)

碪打ちて 我にきかせよや 坊が妻  (芭蕉[野ざらし紀行])

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
飛鳥井 雅経(あすかい まさつね、嘉応2年(1170年) - 承久3年3月11日(1221年4月5日))は、鎌倉時代前期の公家・歌人。父は難波頼経。母は源顕雅の娘。飛鳥井家の祖。子に飛鳥井教定がいる。

治承4年(1180年)に授爵し、以後侍従などを歴任するが、源頼朝・義経兄弟が対立した際に義経と親しかった父が配流され、雅経も連座して鎌倉に護送される。だが、雅経は頼朝から和歌・蹴鞠の才能を高く評価され、頼朝の息子である頼家・実朝とも深く親交を結んだ。その結果、頼朝から猶子として迎えられ、更に鎌倉幕府政所別当大江広元の娘を妻とするなど重んじられた。建久8年(1197年)に罪を許されて帰京する際には、頼朝から様々な贈り物を与えられた。

その後、後鳥羽上皇の近臣として重んじられ、建保6年(1218年)には従三位に叙せられ、承久2年(1220年)には参議に任命された。また、院における歌壇でも活躍した。建仁元年(1201年)7月和歌所寄人となり、また同年11月には上古以来の和歌を撰進する。更にこれを機に始まった勅撰集『新古今和歌集』(元久2年(1205年)奏進)の撰者の一人となった。更に蹴鞠でも重んじられ、承元2年(1208年)に大炊御門頼実が後鳥羽上皇を招いて開いた鞠会で優れた才能を発揮して、上皇から「蹴鞠長者」の称号を与えられた。後に雅経は飛鳥井流蹴鞠の祖とされ、『蹴鞠(しゅうきく)略記』などを著した。また、鎌倉幕府の招きによって鎌倉へ度々下向し、3代将軍になった実朝と藤原定家・鴨長明との間を取り持っている。

日記に『雅経卿記』、家集に『明日香井集』があり、『新古今和歌集』以下にも入集している。

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