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詩歌全般・日本古代史・たべものコミュの人もをし 人もうらめし あぢきなく 世を思ふゆゑに 物思ふ身は

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百人一首ー99−

人もをし 人もうらめし あぢきなく 世を思ふゆゑに 物思ふ身は   後鳥羽院 

   <題しらず 続後撰集・雑中>

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ある時には人をいとおしく思い

またある時には人を恨めしく思う

意にそわずつまらないと世の中を思うゆえに

あれこれと思い悩むわたしは

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世の人への愛憎の交錯ゆえに思い悩みつつ乱世に生きる帝王の嘆き。



鎌倉幕府との抗争が、ようやく激しくなった後鳥羽院の晩年の心境を嘆かれた一首である。

院政をしいていた院には、幕府の横暴に対して、単に憂き世とばかり言っておられない世情が、身にしみて感じとられていたにちがいない。

「あぢきなく世を思ふゆゑに」と、院みずからの口から洩らさざるをえない嘆きの内容は、院としての公的な面と個人的な面との二つが絡み合ってのことであろうから、容易にうかがい知ることはできないとしても、少なくとも歌として「あぢきなく」と表現されたとき、人間的な苦悩としてうけとることができる。

「人もをし 人もうらめし」と、わが心さえとらえかね、ことごとに思うにまかせない悲しみは、帝王の心の中にもある人間の悲しみとしてひびいてくる。

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人もをし 人もうらめし; 

ある時は人もいとおしい。またある時は人も恨めしい。
「人」を特別な忠臣・逆臣ととる考えもあるが、それに限らず、
いとおしくなる人もあるし、恨めしくなる人もあるという、
愛憎の心の変わるものとして、かかわりのある人々と考えておく。
「も」は並列を表わす係助詞。
「をし」はいとしい・かわいい。
「をし・うらめし」ともに形容詞終止形で、初句切・二句切。


あぢきなく 世を思ふゆゑに; 

「あぢきなく」は形容詞「あぢきなし」の連用形、意にそわず、
つまらない、おもしろくないの意で、「思う」を修飾。
「を」は動作の対象を示す格助詞。
「に」は原因・理由を示す格助詞。


物思ふ身は; 

「物思ふ」は四段活用動詞「物思ふ」の連体形、
心にかかることがあって思い悩む意。
「身」はこの身、私自身。
「は」は係助詞。

この一首は、倒置法として考えると歌意が理解しやすい。

* とうち‐ほう〔タウチハフ〕【倒置法】
「とうちほう」を大辞林でも検索
文などにおいてその成分をなす語や文節を、普通の順序とは逆にする表現法。語勢を強めたり、語調をととのえたりするために用いられる。「どこに行くのか、君は」「起きろよ、早く」など。



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交野八郎という強盗がいました。今津にいると聞いては武士たちが捕らえようと出立していくのですが、院もこれをご覧になりたい、と船を仕立ててしまわれるのですよ。
 それだけでも驚天動地の出来事ですが、さらにとんでもないことが待っています。
 八郎は何しろ豪胆にして技量も素晴らしいものですから中々武士たちに捕まえることは出来ません。船を飛び交っては逃れているうちに院はなんと、ご自身で櫂を取ってははっしとご命令になりました。それで八郎はたちまち捕らえられた、と言うことです。
 その後、捕らえた八郎に院はお訊ねになります。お前ほど名の聞こえた者がなぜああも易々と捕まったのか、と。八郎の答えがまたふるっています。
「武士の捕り手など何ほどの事もございません。が、行幸なされまして御自ら櫂を取ってのご命令。それだけでも畏れ多いことでございますのに、船の櫂などというあのように重たい物をまるで扇でもお持ちになるかに軽々と片手に取られましては、とてもとても。これで我が運尽きたり、とへなへな力も抜けましてございまする」
 こう聞けば院も中々ご機嫌悪しくはならなかったようで、八郎を許し以後、召し使ったと言うことです。(水野琥珀著一節)
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われこそは新島守よ隠岐の海のあらき波かぜ心してふけ

なびかずは又やは神に手向くべき思へば悲し和歌の浦浪
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後鳥羽院 ごとばのいん 治承四〜延応一(1180〜1239) 諱:尊成(たかひら)

治承四年七月十四日(一説に十五日)、源平争乱のさなか、高倉天皇の第四皇子として生まれる。
母は藤原信隆女、七条院殖子。
子に昇子内親王・為仁親王(土御門天皇)・道助法親王・守成親王(順徳天皇)・覚仁親王・雅成親王・礼子内親王・道覚法親王・尊快法親王。

寿永二年(1183)、平氏は安徳天皇を奉じて西国へ下り、玉座が空白となると、祖父後白河院の院宣により践祚。
翌元暦元年(1184)七月二十八日、五歳にして即位(第八十二代後鳥羽天皇)。
翌文治元年三月、安徳天皇は西海に入水し、平氏は滅亡。
文治二年(1186)、九条兼実を摂政太政大臣とする。
建久元年(1190)、元服。兼実の息女任子が入内し、中宮となる(のち宜秋門院を号す)。
同三年三月、後白河院は崩御。
   七月、源頼朝は鎌倉に幕府を開いた。
建久九年(十九歳)一月、為仁親王に譲位し、以後は院政を布く。
同年八月、最初の熊野御幸。

翌正治元年(1199)、源頼朝が死去すると、鎌倉の実権は北条氏に移り、幕府との関係は次第に軋轢を増してゆく。またこの頃から和歌に執心し、たびたび歌会や歌合を催す。

正治二年(1200)七月、初度百首和歌を召す(作者は院のほか式子内親王・良経・俊成・慈円・寂蓮・定家・家隆ら)。
同年八月以降には第二度百首和歌を召す(作者は院のほか雅経・具親・家長・長明・宮内卿ら)。

建仁元年(1201)七月、院御所に和歌所を再興。またこれ以前に「千五百番歌合」の百首歌を召し、詠進が始まる。
同年十一月、藤原定家・同有家・源通具・藤原家隆・同雅経・寂蓮を選者とし、『新古今和歌集』撰進を命ずる。同歌集の編纂には自ら深く関与し、
四年後の元久二年(1205)に一応の完成をみたのちも、「切継」と呼ばれる改訂作業を続けた。
同二年十二月、良経を摂政とする。

元久二年(1205)、白河に最勝四天王院を造営する。
承久元年(1219)、三代将軍源実朝が暗殺され、幕府との対立は荘園をめぐる紛争などを契機として尖鋭化し、
承久三年五月、院はついに北条義時追討の兵を挙げるに至るが(承久の変)、上京した鎌倉軍に敗北、七月に出家して隠岐に配流された。以後、崩御までの十九年間を配所に過ごす。この間、隠岐本新古今集を選定し、「詠五百首和歌」「遠島御百首」「時代不同歌合」などを残した。
また嘉禄二年(1226)には自歌合を編み、家隆に判を請う。
嘉禎二年(1236)、遠島御歌合を催し、在京の歌人の歌を召して自ら判詞を書く。
延応元年(1239)二月二十二日、隠岐国海部郡刈田郷の御所にて崩御。六十歳。刈田山中で火葬に付された。御骨は藤原能茂が京都に持ち帰り、大原西林院に安置した。
同年五月顕徳院の号が奉られたが、
仁治三年(1242)七月、後鳥羽院に改められた。

歌論書に「後鳥羽院御口伝」がある。新古今集初出。(千人万首)
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出典: フリー引用句集『ウィキクォート(Wikiquote)』

後鳥羽天皇 (ごとばてんのう、1180年 - 1239年)は、平安末期から鎌倉初期にかけて在位した第82代の天皇。諱は尊成親王。明治以前には後鳥羽院(ごとば-(の)-いん)を称号とする。

高倉天皇の第4皇子で、平家没落の後に、都落ちした安徳天皇に代わり後白河法皇の院宣により即位した。歌道他諸学に通じ、同時代の文化の中心となった。建久9年(1198年)1月11日、土御門天皇に譲位し、以後、土御門、順徳、仲恭と承久三年(1221年)まで、3代23年間に渡り上皇として院政を引くも、承久の乱に敗れ、隠岐に流罪。同所で没した。

歌人としては、和歌所を再興、『新古今和歌集』撰進の勅を下し、また自らも実質的に関与した。

西行は……生得の歌人とおぼゆ。これによりて、おぼろげの人のまねびなどすべき歌にあらず。不可説の上手なり。--『後鳥羽院御口伝』
寂蓮は、なほざりならず歌詠みしものなり。 --『後鳥羽院御口伝』
定家はさうなきものなり。--『後鳥羽院御口伝』
俊頼が後には、釈阿・西行なり。--『後鳥羽院御口伝』
俊頼は源俊頼、釈阿は藤原俊成。
釈阿・西行などが最上の秀歌は、詞も優にやさしきうへ、心ことにふかくいはれもある故に、人の口にある歌勝計(しょうけい)すべからず。--『後鳥羽院御口伝』
勝計(しょうけい、あげてかぞふ)とは数の多いこと。あまり優れている歌は、かえって広くは広まらないと後鳥羽院は論じる。

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