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詩歌全般・日本古代史・たべものコミュのもっと優しい顔だった西郷(せご)どん

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≪リンク先の記事・表題等転載≫

歴史徒然:日本の誕生・日本語のルーツ・ウバイド・ウワイト・遷都
日本の建国&日本人のルーツ及び日本語のルーツについて
http://blogs.yahoo.co.jp/matmkanehara
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
もっと優しい顔だった西郷(せご)どん
http://blogs.yahoo.co.jp/matmkanehara/50541489.html

☆ 転載

出典:篤姫を生んだ鹿児島こそ
    スメル八千年帝国の理想郷だった
   『言語復原史学会:加治木義博』
    KKロングセラーズ
    27〜28頁

 「1章 なぜ日本の涯の田舎娘が大御臺所にまで」

 私の父は祖父やその友人たちから、西郷のことをよく聞いていて、普通、幾つかの銅像でイメージされている西郷隆盛はニセモノだと話していた。西郷の実物は、あんなに眼のギョロリとした怪物ではなく、もっと穏やかな常識的な顔立ちで、幾らか外人的なムードのある好男子だったという。
 その証拠は、新選組の上方歳三が京都で西郷をつけ狙い、話しかけて不意打ちに刺殺したのが別人の、徳島仲佑だったからである。この人は西郷が奄美の徳之島へ流されたとき、その身のまわりの世話をしながら教えをうけ、のちに西郷が京都と江戸を往復して活躍し始めたので、それを助けるために上京して活動中に、土方に西郷と間違われて殺された。
 西郷が、銅像や似顔絵に描かれて残っているような、特異な容貌の持主だったなら、土方ほどの達人が見間違えるはずがない。武士の掟に従って、後ろから話しかけて、振り向いた顔を見てから刺したのだから、西郷があんなに特徴のある顔立ちではなかったことが、はっきり立証されているのである。
 そういえば私の家にも西郷が写っている十人あまりの武士の写真があったが、その中の一番うしろの列に、少し傾いて映っている西郷は、むしろ近藤勇を思わせるような人だった。彼の銅像が初めて建てられたとき式典に招かれた西郷夫人が、銅像を覆っていた幕が引かれて顔が見えたら、驚いて思わず漏らした有名なひとこと、 「ンだ、も知たん?こは誰さあ、ごわんどかい?」
(エッーまあ何ということ!? このお方は、一体どなた様でございますか?)夫人は、夫、西郷隆盛の銅像ができたので、是非、ご臨席いただき、懐かしい故隆盛先生に再会のお喜びのお言葉を賜わりたい、という招待を受けて出席したので、それはてっきり亡き夫、吉之助の像だと胸をときめかしていたのだが、その像は見たこともない別人の像だった。だから慎み深い薩摩お御女(おごじょ)の西郷夫人も、余りのことに思わずお国言葉を口走ってしまったのである。それほどに西郷は、あんな顔ではなかったのだ。

 「写真」鹿児島市にある西郷隆盛像

 「西郷隆盛像 - Google 画像検索」
 http://images.google.co.jp/images?num=100&hl=ja&n...


 『参考』

 小林登志子『シュメル−人類最古の文明』:中公新書
 『メソポタミア世界』
 http://www.orient-matsudo.com/kobayashi-shumel.htm

 シュメル−人類最古の文明
 http://blogs.yahoo.co.jp/matmkanehara/folder/1602066.html

 ウワイト(倭人)ウバイド
 http://matmkanehara-momo.blogspot.com/

 歴史回廊(遷都)
 http://bloghistorygallary.blog10.fc2.com/

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語源:「ウオ」という日本語の語源
http://blogs.yahoo.co.jp/matmkanehara/49321104.html
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☆ 抜粋転載
出典:加治木義博・言語復原史学会:大学講義録9:7〜8頁

 またこの結論から、「青の国」が大国だったからこそ、「オオ」が「大」を意味する日本語として定着したこともわかる。その東の青の国は「倭国」だったのだから、倭国は新羅や高麗よりも大きく、クジラで表現される百済よりも大きかった。そのため倭国を意味する「オオ」は「大」の意味だけに使われて、魚の名前には転用されなかったのだとみると、「倭」の南中国音「ゥオー」も、またその日本訛りの「オオ」も、北中国音の「ウワイ」にも、その国名と共通する魚の名は、なくて当然だったこともわかる。そして魚そのものが「ウオ」と呼ばれているから、語源は、ほとんど同じ発音の南中国語=「倭=ゥオー」だったとみると、魚の「ウオ」という発音こそ「倭」だったのだと理解できる。 厳密に考えれば、<ゥオー>と<ウオ>は発音が違うが、発音は地域によってかなり変わる。外国語の発音やイントネーションを、そっくりに使えたと考えるほうがおかしい。鹿児島語なら長い発音や強いアクセントも、すべて短い発音に変えてしまうから、「ショウチュウ」は「ソツ」、「石灯籠=イシドウロウ」も「イヅロ」と大きく変わってしまう。
 卑弥呼のいた倭の首都大隅では、「ゥオー」は必然的に短く明瞭な「ウオ」に変化したはずである。倭は『魏志倭人章』に七万戸の大屋に老若男女が同居していたとある邪馬壹国の前身だから、三千戸の高句麗とは比較にならない大国だった。卑弥呼当時は南九州の東を占め、青の国であると同時に連邦そのものを支配し代表する大国だったし、政変による移動後も<倭国>という国名が当時の日本を代表する政権だったことは、魏書倭人章』から『新唐書』に至る中国の記録でも明らかである。間違いなく倭人五彩圏連邦の宗主国だったから、その国名は個々の魚の名としてではなく、当時水棲動物全体を意味した「魚」の総括名として、「ウオ=倭」が使われたのは、ごく当然で自然なことだったのである。

 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
 「高句麗」
  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%8F%A5%E9%BA%97

 「百済」
  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BE%E6%B8%88

 「新羅」
  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E7%BE%85

 「高麗」
  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E9%BA%97

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(マイ ブログ);http://blogs.yahoo.co.jp/kairouwait08
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