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詩歌全般・日本古代史・たべものコミュの日本の古代史を白日のもとに 1.

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全てがパーリ語、卑弥呼陵と断定できた可愛(エ)山陵
http://blogs.yahoo.co.jp/matmkanehara/33173506.html
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ブログ[歴史徒然:日本の誕生・日本語のルーツ・ウバイド・ウワイト・遷 
http://blogs.yahoo.co.jp/matmkanehara
文献史学:『言語復原史学会:加治木義博』
http://blogs.yahoo.co.jp/matmkanehara/29012292.html
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☆ 転載

※参考:古事記行:可愛山陵
     http://jpad.net/kojiki.html

 ●全てがパーリ語、卑弥呼陵と断定できた可愛(エ)山陵
 ここで、「愛」の発音が、なぜ?「エ」になるのか?、その語源が重要な大問題だというお話しをしよう。
 それが南九州語の特徴であることは、もうよくご存じだが、それはなぜなのかまで、理解しておく必要がある。
 チベットの聖山・カイラーサ山という名はサンスクリット語で、パーリ語ではケラーサと呼ぶ。 Kaiとkeの差がある。
 アイとエの違いだとおわかりになるはずだ。
 南九州語の特徴であるアイをエと発音するクセは、パーリ語の発音だとわかるのである。
 奈良地方の発音は愛はアイである。
 パーリ語とも、卑弥呼とも全くつながりがない。
 3世紀に奈良に卑弥呼がいて、パーリ語が使われていたのなら、今の南九州と同じく愛はエと発音されていなければならないが。そんな伝承も形跡もまったくない。卑弥呼を示すものは痕跡すらない。
 卑弥呼と当て字された名は、パーリ語の愛を意味するぺマカの沖縄発音だったのであり、彼女はパーリ語を話すアソカ王統を継ぐ仏教倭人が戴く女王だった。
 彼女パーリの名をもつ国・巴利国(隼人町)に都し、そこで死んだ。
 いま鹿児島県川内市に、神代三山陵(じんだいさんさんりょう)のーつと呼ばれるエの山陵がある。
 埃(エ)山陵または可愛(エ)山陵と書かれるが、彼女の墓なのか記念ストゥパなのかはおいて、その名と年代と位置とサイズから卑弥呼陵だと断定できる。

 ●「卑弥呼の半島仏伝」が神功皇后の三韓支配
 この<カイ>を<ケ>と発音するパーリ語の特徴は、朝鮮半島にも分布している。
 のちに高麗王朝の首都になった<開城>は、私たちなら<カイジョウ>と発音するが、地元では<ケソン>と発音する。
 明かに<カイ>を<ケ>と発音しているし、<ジョウ>を<ソン>と発音している。
 南九州語も<ショウチュウ>(焼酎)を<ソツ>と発音する。
 だから<ジョウ>は清音で<ショウ>、それが<ソ>になり、語尾の<ン>は、南九州語の助詞「ン=の」だとわかる。
 「ケソの町」という意味で<ケソン>なのである。

 <陳寿>の『魏書』東夷の項には、朝鮮半島に<韓人>・<穢(ワイ)人>・<倭人>が混任していることを書くし、三韓の小国名の大半が日本語であることは、加治木義博著でも繰り返し指摘してあるが、このパーリ語系発音の実在は、卑弥呼時代には南九州から高句麗までが一体化した卑弥呼政権下にあり、彼女が高句麗を名乗りにもつ孝霊天皇家の出であるという『記・紀』の記録が正しいことも明確に確認できる。
 このことは<日本の仏教>は、欽明天皇のとき百済聖明王が日本へ伝えたというのが最初の伝来だとして、中国から朝鮮半島経由で入ったものだとして来た在来の定説が明かに間違っていたことを示す。
 それよりはるか前に、<卑弥呼仏教>が南九州から朝鮮半島に入って広がっていた。それが神功皇后による三韓征伐として記録に残った部分なのである。

 ●卑弥呼系政権の東遷、それを追った仁徳天皇だが『大隈正八幡縁起』は、これも神功皇后であるオオヒルメが北へ遠征して北部九州に祭られたが、八幡は大隅に残って南九州を治め、北へは行かなかったと記録している。
 ところが北の大分県に宇佐八幡が実在する。
 『記・紀』はこれを応神天皇の「名替え」で説明しているが、最初の八幡とは別人の幼児が、もう一人、八幡を名乗ったことは動かない。
 宇佐八幡のウサは大山祇(オオヤマツミ)をウサンギと読み、阿波・讃岐を大讃岐と書いたものをウサンギと読んだものに一致し、『三国史記』の同じ時代の新羅・百済の王名が直岐(トッキ)王などと、やはりウサギを意味する名になっている。
 これらは全て一人の仁徳天皇に集中するから、宇佐八幡は仁徳天皇を祭る社である。
 これを見ると景行天皇の倭(ウワイ)政権が取った九州北東部は仁徳天皇=倭王・讃に奪われ、倭政府は愛媛に渡って卑弥呼系政権を愛娘の名で強調し、宇和の名を残したが、これまた奪われて壹與を意味する伊豫と呼ばれるようになり、東端の阿波・讃岐まで仁徳天皇領になってしまった。

 もう倭は完全に自分のものになったと自負した仁徳は、宋への名乗りに「倭王(ウワイ)」を使用したのである。このとき彼は高知を手に入れた。
有名な彼の皇居・高津の宮に該当するのは、ここ以外にはない。
大阪の高津の宮は、のちの興の皇居なのである。
 この讃が掌握した勢力圏をウサギの名を使って整理してみよう。

 ●ウサギの足跡(そくせき)と神道と卑弥呼仏教の真相
ウサギは倭王・讃=仁徳天皇 宇佐八幡=宇佐王=ウサギ→大山祇=ウサンギ→大三島神社=ウサン之国(シマ)神社→阿波・讃岐=大・讃岐=ウサンギ→淡(オオ)(淡路島)佐野・王=ウサノギ→大(阪府)佐野・王=ウサノギ→尾崎(オサキ)→大山陵=ウサ・ン(の)陵(堺市の仁徳天皇陵)。

 このように、讃は大分県から四国を経て大阪府に至るまで、その名乗りに一致する地名を残している。
 しかし現実の支配地は阿波・讃岐止まりで、大分の宇佐八幡はその出発点にその功績を讃えて建てられた神社であり、大阪府の大古墳は子孫である興が、後世になってから建造した仏教式ストゥパだったこともまた明かである。
 このことで彼が、一人で神社と古墳の二つをもっていることがわかる。
 それはどんなことを物語っているのであろうか?。
九州の出発点にいた彼等は当然、壹與政権のシーラ・バッガ派で、厳重な戒律に縛られた簡素、清潔を至上命令とする仏教徒だった。
 それが八幡大菩薩と呼ばれた真意である。
彼等はその教義に合わせて白衣を者たので、白着(しらぎ)人=新羅人と呼ばれた。これが『三国史記』が書く、壹與を赫居世(赫居世国(カゴシマ))と呼び、新羅始祖王とする理由である。

 これが神道と呼ばれる宗教の実態で、それはチベットやブータン仏教に今も見る打太鼓(だだいこ)などを使う。
 これらは今、日本でみる中国様式の仏教とは似ていないが、卑弥呼仏教の姿を伝えているのである。

 ※出典:加治木義博「言語復原史学会・大学院講義録6:15〜18頁」
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(マイ ブログ);http://blogs.yahoo.co.jp/kairouwait08
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