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詩歌全般・日本古代史・たべものコミュの慈円僧正

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ブログ[北極星は北の空から〜ブログの中に] 小倉百人一首

感銘をうけた「名歌鑑賞」 28.
http://blogs.yahoo.co.jp/nissanr382rc/21403586.html



前大僧正慈円 ( さきのだいそうじょうじえん )95


おほけなく 憂き世の民に おほふかな、わが立つそまに すみぞめの袖


【歌の意味】
身のほど知らぬことではあるが、わが墨染めの袖を、私はうき世の民におおいかけるのだ。すべての人の上にあまねく御仏の冥加をあらせたまえと、比叡の開祖・伝教大師のみこころを慕いて・・・。

『千載集』・巻十七・雑中・「題知らず」として出ている。

僧職にある人の歌にふさわしい、堂々たる気概の歌である。宗教家の信念や抱負が、凛として示されているが、この歌の背後には、伝教大師・最澄の歌があり、それが借景となって歌もすがたがいっそう巨きくなり、格調高くなっている。

『慈鎮和尚自歌合』ではこの歌を俊成が評して「はじめの五文字より心おほきにこもりて、末の匂ひまでいみじくおかしく侍る」といっている。伝教大師の歌というのは、これも昔から名高い歌、

「あのくたら さんみゃくさんぼだいの 仏たち わが立つそまに 冥加あらせたまへ」 というもの

伝教大師は、比叡山延暦寺の根本中堂を建立するとき、この歌を詠んだという。「あのくたら さんみゃくさんぼだい」というのは、梵語で、最高の真理知恵ということだそうである。大師は中堂を建立しょうとして材木を切り出す山に立ち、仏の加護を念じている.

力強い情熱のみなぎる、意思的な歌である。慈円はそれをふまえて、衆生を救おうという理想に燃えているのである。慈円(1155〜1225)・・・この人もまた乱世に生きた人である。関白藤原忠通(76番「わたのはら・・・」の作者)の晩年の子で、十歳の時父と死別、十一歳で仏門に入った。

この歌はまだ若いころ、三十代の作である。『千載集』・巻十七・雑に「法印慈円」として見える。彼の一族の九条家の人々は、歌をよくする。慈円もまた『新古今集』の代表的歌人の一人であった。

若いころ西行に私淑したが、西行は慈円に「密教を学ばれるなら、和歌をお習いなさい。和歌をよまなければ、密教の奥深いことわりは会得できませぬぞ」とさとしたという。のちに大僧正となり、天台座主の座に昇ったが、政変にまきこまれて辞し、のちにまた復座し、四たび座主になったという。

九条家は親幕派であったので、倒幕の志しあった後鳥羽院のもとで当主兼実は失脚する。しかし後鳥羽院は慈円の歌才と飾りけのない剛直の人柄を愛されたようである。慈円も政治的な立場はともあれ、後鳥羽院にまことを捧げた。院の無謀な倒幕の志を知って慈円は、どんなに心をいためたであろう。

鎌倉幕府の情報が豊富に入手しやすく、かつ、独自の史観と見識を持っていた慈円は、世の流れ、人の心の動きから将来を見据え、皇室のあるべきすがたを『愚管抄』にまとめた。その書はそれとなく、後鳥羽院の叡覧に入れ、倒幕の企てを放棄していただきたい、という慈円の熱意から書かれたものであった。

こんにち、『愚管抄』の著者が慈円であること、その忌憚ない内容も、世間にはよく知られ、学生たちも遠慮することなく学校で教わっている。しかし戦前の教育では『愚管抄』の紹介など、とんでもないことであったのである。

皇国史観一本槍の時代であるから、後鳥羽院の統幕の志をほめそやし、悪玉は鎌倉幕府であると庶民は叩きこまれてきたのであった。『愚管抄』では率直に皇室批判をやっている。戦時中に声高に『愚管抄』なんか読み上げていたら、特高(特別高等警察)にたちまち引っ張られたであろう。

慈円は源平の騒乱で、三種の神器も安徳帝と共に壇ノ浦の海底に沈んだこと、神鏡神璽はのちに拾い上げられたが、神剣はついに入手できなかったことを明快に記す。なぜ、天(運命)は剣を皇室に返さなかったのか、今は武士が武力で国を治めるようになった時代、天皇は武を放棄し文で治められるべき時世のまわりあわせ、「今ハ宝剣モ無益ニナリヌルナリ」剣は武の象徴であれば。

戦争中に、純真な学生がこんな大胆な説を読んだら、さぞびっくりしたことであろう。国禁の書というものは舶来の社会主義思想関係ばかりではなかった。七百年昔の古典にもあったのである。もちろん私が知ったのは戦後50年くらいのころであろうか、今から二十年くらい昔のことである。

現代の世では、学生運動すら起こらないであろう。何せ軟弱で女子の尻ばかり追い掛け回しているのであるから、平和といえば平和しか,しどこか違っているように思えるのであるが・・・私たちの親の青春時代では、皇室にかかわることはおそれおおくて、うかつには言えなかったそうである。

この慈円は(坊さんのくせに歌に熱中しすぎる)と咎められて「たしかにそうだが、まあ、大目にみてくれ」と、歌を詠んだ。

「みな人の 一つの癖は あるぞとよ 我には許せ 敷島の道」

慈円は源頼朝とも親しく、歌を贈答している。頼朝はなかなかの歌人であったから実朝に歌才が伝わったのも当然であるし、頼朝はさすがに都育ちの男であったのだと今更のように思うわけである。慈円の歌は『新古今集』に多く入っているが、その中で私の好きな歌。

「わが恋は 松を時雨の 染めかねて 真葛が原に 風さわぐなり」

「有明の 月のゆくへを ながめてぞ 野寺の鐘は 聞くべかりける」

七十一歳で生涯を閉じた。「慈鎮」というのは死後のおくり名である。


【作者】
前大僧正慈円(1155〜1225)法性寺入道忠通の子。若年にして出家し天台座主大僧正になる。史書『愚管抄』を著したほか、歌人としても優れ、家集に『拾玉集』があり、四千六百十三首もの莫大な歌が収められている。勅撰集入集歌二百二十五首。

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