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詩歌全般・日本古代史・たべものコミュの心にも あらでうき世に ながらへば・・

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ブログ[北極星は北の空から〜ブログの中に] 小倉百人一首

感銘をうけた「名歌鑑賞」 23.
http://blogs.yahoo.co.jp/nissanr382rc/20679785.html


三条院 ( さんじょういん )68


心にも あらでうき世に ながらへば、恋しかるべき 夜半の月かな



【歌の意味】
いつまで私は生きながえるか、あまり永くは生きたいと思わぬが、不本意にも、この憂き世に生きながえるならば、そのとき今宵のこの月は、どんなに恋しく思い出されることだろう。もう眼の見えぬ身となった。私の心に・・・。

『後拾遺集』・巻十五・雑の詞書に「例ならずおはしまして、位など去らむとおぼしめしけるころ、月のあかかりけるを御覧じて」とあるのが出典。

御身体の調子が良くなく、退位を決意されたころ、月の明るいのを御覧になってよまれた。うすれゆく視力に月は美しく輝いている。

この三条院・・・三条天皇はお気の毒な方であった。在位四年のうちに内裏が、二度まで炎上するという不祥事が起こった。しかもご健康がすぐれずお眼を病んでいられた上に、時の権力者・道長との関係も円滑を欠いた。

道長は自分の孫にあたる先帝の皇子を一日も早く位につけたがって、何かといやがらせをし、早く退位すればよい、といわんばかりの仕打ちであった。政界の実力者にこんなあしらい方をされては、天皇はたまったものではない。。何しろ宮廷の廷臣はみな、天皇より道長の顔色をうかがっている有様なのだから・・・・・。

政治的苦境にあられる上に、お眼を悪くされた三条院のお心は暗澹たるものであったろう。可愛がっていられた幼い皇女の御髪を撫でつつ、「こんなに美しい黒髪でいられるものを、この眼で見られないのが残念だねえ・・・・・」と涙をぽろぽろとこぼされるさまを、おそばの人は拝見して悲しく辛く勿体ないことに思った、という。

花、月、雪、ご鍾愛の皇女・・・すべては三条院の視界から消え薄れようとする。三条院は「こころにも あらでうき世に ながらえば・・・」と、失意に打ちひしがれつつ、静かな伸吟をもらされる。この歌をよまれて一月後に退位、翌年、崩御された。

歌のしらべは王朝風に美しいが、陰々滅々たる口調に、ニセモノでない真実味がある。天皇の御製としては実に人間味あふれた存在感のあるお歌である。


この三条院の第一皇子・小一条院は皇太子の位にあられたが、道長の圧迫に堪えかねて辞退され、道長の宿願通り、その孫にあたる二皇子がつづけて皇位を踏まれる。後一条・後朱雀両帝である。後朱雀のあとを第一皇子の後冷泉帝が継がれたが、藤原系の王子はそこであとを絶った。

すでに道長は亡く、子の頼道の時代になっていたが、頼道が後宮に納れた藤原家の姫たちは、いずれも皇子を挙げることはできなかった。ついに第二皇子が皇統を継がれる。第二皇子の母君こそ、誰あろう、三条院が御髪を撫でて泣かれた後鐘愛の姫宮・禎子内親王であった。

こうして三条院女系の孫宮が帝位に即かれることになったのである。これが英明の聞こえたかい後三条天皇。お祖父様のお名を継がれている。道長は外孫の二皇子がつづけて帝位を踏んだのを目睹し、望月の欠けたるところなしと手放しで喜んだであろうが、長い歴史の波のうねりを見ると、人間の運命はめぐる小車、超越者の声ない微笑が感じられるようである

目前の一栄一落に、一喜一憂する人間は、悠遠の宇宙のいとなみからみると、まことに矮小な存在と気付かされる。しかし、それでいてなお、現世の穢土の利害愛憎に執着しないではいられないのが、われわれ人間の業というものであろう。


なお、この禎子内親王は、63番の道雅「今はただ 思ひ絶なむ とばかりを・・・」の歌の当子内親王の異母妹で、母は道長の娘研子である。四十二歳で崩御された彼の歌は高く評価され『古来風体抄』『後拾遺集』に八首入集された。政争はいつの時代にもあり、多くの優れた人材が葬られる。この歌はその嘆きを深くとどめる。


【作者】
三条院(976〜1017)第六十七代天皇。冷泉天皇の第一皇子で眼病の為、在位五年で院となる。悲劇の天皇であった。勅撰集入集歌八首。

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