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詩歌全般・日本古代史・たべものコミュの小倉百人一首

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ブログ[北極星は北の空から〜ブログの中に] 小倉百人一首


左京太夫顕輔 ( さきょうだゆうあきすけ )79


秋風に たなびく雲の 絶えまより、もれ出づる月の 影のさやけさ


【歌の意味】
秋風が吹きわたって、大空にたなびく白雲の切れ間から、もれて姿を現す月の光の、なんと清らかな明るさであろう。さっとひとすじもれいずるもすぐに雲間に隠れてしまう。

『新古今集』・巻四・秋上・の詞書に「宗徳院に百首の歌奉りけるに」として出ている。

久安六年(1150)御百首の歌で、それには「ただよふ雲の」とあるが「たなびく雲の」と定家が歌の響きの良さを取って改定したのであろう。平明な歌である。訳すまでもなく、子供にも良く分かるけれど、この情景、現代の都会のまんなかでは味わえない。

都市の月光はネオンにかき消されてしまう。灯りのない田舎や山中では「もれ出ずる月の影のさやけさ」を実感することができるのであるが。そういう時、まことに月の光は明るくて「昼をあざむく」という形容詞がぴったりくる。田舎を旅していて、夜半ふと目覚めると窓の外は仄明るい。はて、もう夜明けかと窓を開けてみると白々とした月光である。

こういうとき、街っ子の私は、しばし月に見とれ子供のころが回想される。ススキを遠くの川まで刈りに行くのは私の役目で、母は昼過ぎからお団子を作りススキと共に供え一家御揃いでの月見、祖母が半切りの桶に月を写すのだと、桶を運んだり水を汲んだりした思い出が次から次へと脳裏をかすめ、時の経過を忘れてしまう。ほんと月光というものは人の心をときめかせ、郷愁を誘うものである。

藤原顕輔は84番の清輔の父。感じ四年(1090)生まれ、久寿二年(1155)六十六歳で死んでいる。父の顕季も有名な歌人で、人麿を尊崇し、人麿の絵像を祀って人麿影供を行った。息子は数人いたが、我が子といっても和歌に堪能なものでなければ、我が家の伝統と人麿の像は譲れないとは思った。

顕輔は末っ子だったが歌才があったので、父に見込まれた。顕輔は父の後をついで六条家歌学を興す。六条家というのは父の顕季以来、邸が六条烏丸にあったのでそう呼ばれたのである。この六条家は歌のお師匠さんの家柄として、のちの俊成・定家父子の「御子左家」と対抗したが、顕輔は俊成・定家父子以前の歌壇の大御所として、宗徳院の命により『詞花集』を撰進している。

顕輔の家集から少し抜いてみると

「むらむらに 咲ける垣根の 卯の花は この間の月の 心地こそすれ」

「さらぬだに 寝ざめがちなる 冬の夜を ならの枯葉に 霰ふるなり」

しっとりしたいい歌であるが、家集のなかでは「秋風に」が一番いいように思う。定家も近代秀歌これをあげている。月をめぐる歌や文章、私の好きなものをついでに抜いてみよう。

「風吹けば 玉散る萩の 下露に はかなく宿る 野べの月かな」。

これは法性寺入道前関白太政大臣、・・・そう、76番「わたの原 漕ぎ出でて見れば」の藤原忠道である。風にはらはらと萩の下葉の露が散る、その露の玉に月が宿っている。優艶な情趣である。
清少納言の『枕草子』から・・・

「月はありあけの、東の山際に、細くて出ずるほど、いとあはれなり」。

『左京太夫顕輔集』から引くと

「夜もすがら 富士の高嶺に 雲きえて 清見が関に 宿る月影」

「住之江に 宿れる月の 村雲は 松の下枝の 影にぞありける」

「朝まだき ふりさけみれば 白妙の 雪積もれるや 高宮の里」

「さ夜ふけて 筧の水の とまりしに 心は得てき けさの初雪」

「年経とも 越の白山 忘れずば かしらの雪を 哀れともみよ」。

一首の仕立ては単純で、描写が丁寧で、むしろ平板といえるが、しかし、秋の月光という自然を歌にそのまま写すというのには、旧風を脱した新しさが出ている。

だがこの新風は顕輔の場合、この「秋風に たなびく雲の・・・」一首にだけ見えて終わったのは残念であるしふしぎだ。穏健で常識的な作風である、地味なところはこころよい。定家がこの一首を取り上げたのは確かに卓抜した眼識といえるであろう。


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PCを打ち込んでいる後ろから、画面を覗き込んでいた、司書のお姉さんが突然聞く・・・


「○○さん、顕輔という人は、うつむいてこの歌を作ったのでしょうか?」

「エッどうして?」

「実はこの、『影』というのが、よく分かりませんね私は」

「影は光ですよ、月影は月の光」

「・・・???何故、影が光になるのですか、反対では!」

「いや、現代語でいえばそうですが」

「影という言葉は元々語源的に『カギロウ』『カガヨウ』などという古語と同じ根から出ているのですよ」

「ふ〜〜ん,そう、よくわからないわ・・・」と司書のお姉さんは納得いかない様子。

「現代語では、影は光の影であり、光り輝く発光体そのものと、それからそれによって起こる暗さ、物蔭の両方をさす、しかし古典では『月かげ』『日かげ』といえば、『月光』『日光』をいうのです」

「ほんとう・・・・・?」

「そうです、もっとも私も最初習った時は同じことを教師に尋ねましたが・・・」

「そう,そうなの、私はてっきり月に自分の影が地面にくっきり写っている、それをじっとうつむいて見て作った歌と思い感慨を持ったのですけど、違うのですね、ウ〜〜ンこれだから古典は難しい」

「どうして感慨を持つのですか?」

「だって今時、街で自分の影なんか見れませんよ深夜だって色々な照明で不夜城でしょう、自分の影なんかじ〜と見たことなんかありませんよ、だから・・・うつむいて・・・かと」

「確かにそういう一面はありますね」と私。


それでうつむいて作った歌だと思ったそうである。


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司書のお局様が「人の邪魔しないのよ」と声を掛けたので、それで司書嬢たちは書架の方へ去っていった。もう現代の人間には男女問わず古典は難解で読みにくいものとして敬遠されてゆくばかりであろう。どうしたものであろうか。


【作者】
左京太夫顕輔(1090〜1155)本名藤原顕輔。歌道六条家の始祖、修理太夫藤原顕季の子。
歌学者、清輔・顕昭の父。『詞花集』を撰上したほか家集に『左京太夫顕輔集』がある。
勅撰集入集歌八十四首ある。

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