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喫茶古 万里一條鐡 石州流茶湯コミュの人物考証

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私のODNのブログがなくなったので新たに書き込みます。
町田先生が出版された石州の本は、当流の記載が滅茶苦茶でしたので… 全体は野村先生のパクリっぽいし。茶系譜も不可思議。それにやなのは茶会にて、偉い先生だからだか並ばすに水屋から入室するのはよいが、席が終わる前に都合で勝手に退出はやめてもらいたい。本当に茶をかじっているの?たんなる研究者?生意気いってすんません。
m(._.)m

コメント(30)

片桐直貞(なおさだ)

浅井長政の家臣。
肥後守。孫右衛門。
法名は一齋。

且元、貞隆の父。
片桐且元(かつもと)

直盛 助佐 東市正 従五位下。
歴史上有名な人物。
片桐孝利(たかとし)

元包 次郎助 出雲守 従五位下。

且元の次男。

法号は眞英宗誓祥雲院。
片桐為元(ためもと)

半之丞

先の孝利の弟。 且元の四男。

嫡男相続でなかったので四万五千石から一万石に減らされた。

法号は即應玄心法性院。
片桐為次(ためつぐ)

助作。

法号は如岳宗雲實相院。
十五歳でなくなり領地を召し上げられる。
片桐且昭(かつてる)

又七郎

先の為次の弟。為元の次男。
先祖の活躍を惜しみ家名を復活。三千石の旗本になる。

法号は、性海。
片桐貞就(さだなり)

岩之助

後述の栗原信明の子。(石州の孫)

且昭に後継ぎがなく養子となる。三千石の旗本。

法号は離薫。

貞就にも子がなく。断絶する。
ここに且元系片桐氏は絶える。
片桐貞隆(さだたか)

久盛 政盛 光長 駒千代 加兵衛 主膳正 従五位下
直貞の次男。且元の弟。

一万五千石の大名になる。
法号は入不法忍。
片桐貞昌(さだまさ)石州公 石州流の流祖。
大和郡山の小泉を本拠にする大名。
幼名は鶴千代。長三郎 貞俊 石見守 従五位下。

法号は三しゅく(宀に叔)宗関(關)

子孫の大名家の当主は代々従五位下を叙位され石見守か主膳正に任官され何人か石見守が存在し石州と呼ばれますがなにも記載がないときは流祖をさします。

徳川家康の娘が奥平信昌に嫁ぎ
その間に生まれた娘が大久保忠常に嫁ぎ
その間に生まれた娘が石州公に嫁ぎ
徳川家継とは義理のまたいとこという微妙な親戚になり江戸場内の詰め所も譜代扱いになっている。 そのため後述の相続に影響されてきます。


弟に勝七郎、長七郎がいる。二人は正妻の子供で(石州公は側室の子)
勝七郎に遺領のうち三千石を分地する。後述する片桐貞晴である。
長七郎は一色範親の養子になる一色範供である。

子供に信隆、信明、貞房、貞尚がいる。
信隆以外の三名には家康の血縁になる。

石州公の母親は今井宗薫の娘といわれています。寛政重修諸家譜によると「母は天野氏」となっています。
どちらが本当なんでしょうね?

※内容を一部訂正いたしました。
片桐信明(信明)
長十郎
石州の次男。母は家康の血をひく大久保忠常の娘。
最初は貞明(さだあきら)と名乗る。
兄がいるが嫡男として育つが多病により嫡子を辞して栗原丹齋と称する。
二女一男をもうける。
男子岩之助貞就が且元の子孫の且昭の養子になる。
石州に茶を師事する。
片桐貞房(さだふさ)

友之助 長七郎 三郎兵衛(さぶろびょうえ) 主膳正 従五位下
石州の三男。母は家康の血をひく大久保忠常の娘。
石州の後を継ぎ小泉藩の三代藩主となる。このとき長兄の信隆に千石を分ける。

法号は心叔宗鎮。

石州に茶を師事する。

この方、晩年の藤林宗源とは仲がよくなかったらしい。

貞寛、貞經の二人の跡取りにさきだたれてしまい。弟貞尚の次男貞起を養子にむかえる。

片桐(松田)貞尚(さだなお)
石州の四男。母は家康の血をひく大久保忠常の娘。
松田重政の養子にいく。



片桐貞起(さだおき)

鶴松 權之丞 内記 石見守 従五位下
松田權之丞貞尚の次男。母は松田重政の娘。
伯父貞房の養子になり四代小泉藩主となる。

法号は僊叔宗昇。

この方はどうも石州流の茶を習っていなかったようです。
片桐貞音(さだなり)

勝之助 主膳正 従五位下
貞起の次男。
兄満紀(糸へんに已。己ではない)(最初は貞因て名乗っていた)が病により嫡子を辞して嫡子になる。
五代藩主となる。

兄は藩主歴代にはならないが茶道流派としては代数に加えられている。
法号は宗因。

貞音以降は藩主と茶道家元(?)の代数は同じになります。

同族の片桐信與と交わりをたちし事、親族に謀らず卒爾なりとて出仕をとどめられる。

法号は省叔宗悟。

墓所は品川東海寺玄性院。なぜかこの方だけがここ。

八代貞信までこの家系は石州流の茶をたしなんでいなかったようです。

茶道としては数寄屋頭の伊佐、谷村、野村、家老職でもあった藤林、家臣の大西などと後述の信隆の家にながれていく。
片桐貞晴(さだはる)

勝七郎

貞隆の次男。石州公の弟。
母は正妻の武田一雲の娘。
父の死後三千石余を分地され旗本になる。

法号は宗眞。
墓所は高野山實光院。
片桐之晴(ゆきはる)

新丞 帯刀

貞晴の養子。
一色範親の次男。
母は貞隆の娘。
法号は義春。

資料によると貞晴には男子なく養子にむかえたのだが範親には貞晴の弟の長七郎範供が養子に行っているのに次男がいるなんて不思議ですね。

幕末まで家系は続くが茶系譜としては一子相伝ではないようです。
片桐為晴(ためはる)

平八郎

法号は、義光。
為晴以降は澁谷(広尾)の祥雲寺を葬地とする。
この寺は怡渓宗悦が住職をしていた。

茶はやっていたと記録はなし。
片桐友晴(ともはる)

孫太郎 内藏丞

為晴の嫡男。
法号は道輝。



片桐友從(ともゆき)

虎之助 民部 帯刀

法号は宗幽。
石州流を習っていた。
門人多数。
正妻は片桐貞音の娘。


片桐佑賢(すけかた)

鍋太郎 新丞
母は片桐貞音の娘。

片桐宗古と同一人物か?

読み返しましたら代数表記がなかったのでここで順番をかいときます。

清和源氏満快流

為基⇒為行⇒為遠⇒為長⇒為信⇒為家⇒為清⇒為祐⇒為頼⇒為眞⇒直重⇒直貞⇒且元、貞隆

且元の家系
且元⇒孝利⇒為元⇒為次⇒且昭⇒貞就⇒断絶

貞隆の家系(大名本家)
貞隆⇒貞昌(石州)⇒貞房⇒貞起⇒貞音⇒貞芳⇒貞彰⇒貞信⇒貞中⇒貞照⇒貞篤⇒明治維新をむかえ現在まで継承される。

貞晴の家系(三千石の旗本)
貞晴⇒之晴⇒為晴⇒友晴⇒友從⇒佑賢⇒これ以降は資料が断片的で虎之助、熊藏、久太郎、などの名が出てくる。幕末頃の古地図に貞幹の名前がある。


信隆の家系(千石の旗本)
信隆⇒信近⇒信與⇒信馮⇒信任⇒信方⇒幕末期に家系が絶えたか?

片桐貞信⇒下條信隆(のぶたか)
※大名本家八代とは別人。
貞昌(石州公)の長男。
幼名は鶴千代(父石州と同じ幼名)この時点では、正妻に男子がなく嫡男だったのか?
長兵衛(ちょうのびょうえ)貞信
母が側室なので弟が生まれた頃に次男に準じる。このとき嫡子につける「貞」をはずし信隆になる。
父の死後、遺領のうち千石を分地され旗本になる。

法号は、長入。
澁谷の祥雲寺に葬る。
代々の葬地となる。

石州に茶を師事する。
石州公は、子供でも長男と嫡男候補にしか茶の手ほどきをしなかった。貞尚にはどうも茶の手ほどきをしなかったようです。
下條信近(のぶちか)

先の信隆の養子。
大久保忠直の四男。
母は大久保包教の娘。

信隆には嫡子長五郎がいたが多病により継げなく。
石川信澄を一時養子にむかえたが信澄の兄の養子になるべく実家にもどる。

その後、信近が養子に入る。
忠利 萬三郎 主計 半兵衛(はんのひょうえ)

義父とは七十の年齢差がある。
義父に石州流を師事。

法号は義宝。

実父大久保忠直の直系の先祖は天下の御意見番の大久保彦左衛門の忠教。
忠教の父は大久保忠員。
忠員の直系本家は大久保忠常。
忠常の娘が石州の正妻。
ビミョーな親戚なんですね。


片桐信與(のぶとも)

下條信近の嫡男。

吉之丞 頼母 長兵衛
家系を継ぎ、その後家名を下條から片桐に改めた。
将軍の鷹狩のお供をしたとき白鳥を捕獲し献上した。将軍大いに喜んで褒美をうける。このときに白鳥を家紋にすることをゆるされるが図案は不明と公式記録にある。

本家の片桐貞音のむねにそむき、絶交したことで双方出仕を一時留められた。
反りが合わないのか貞音の葬儀にも出向かなかったのかも。
茶系の争いか?

法号は義閑。
父に石州流を師事。
片桐貞馮(のぶたか)

信與の嫡男。

内藏助 長兵衛

法号は、宗さん(漢字は鑽の金が言)

父に石州流を師事。





片桐信任(のぶとう)

信馮の嫡男。

正藏

法号は宗鵜。

父に石州流を師事する。
片桐信方(のぶかた)

信任の嫡男。

靱負。
法号は宗猿。こちらのほうが有名。

父片桐信任、祖父片桐信馮より石州流を伝授される。ここまで一子相伝で継承されてきた。石州系の他派は宗猿を本流と考えていた。

井伊直弼の師匠といわれているが、茶に関する質問を手紙のやり取りで添削して回答をかえしていただけのようで手ほどきをしたのではない。だが直弼が江戸での茶会を何回かひらいたが第一回の茶会に宗猿を正客にしたので師匠と考えていたのかもしれない。

茶道、華道、盆石と伝承されていた。
幕臣の近藤正好が嗣ごうとされたが宗猿にゆるされずに華道だけ石州流六世を嗣いだ。という記載が「茶人系譜」にありそれを野村先生の「石州流歴史と系譜」で引用され一般的に定説になっている。
だから宗猿は石州流五世か?ということになるが、謎です。

これだと
流祖 石州
一世 信隆
二世 信近
三世 信與
四世 信馮
で五世は信方(宗猿)で
父の信任からでなく祖父から伝授されたからか?
それとも華道と茶道は代数がちがうのか?

宗猿は直弼にあてた手紙の中に、貞起、貞音、貞信の三人を特に名指しで茶をたしなんでいないと書いているそうです。

茶道は同じく幕臣の梶金八が嗣いだ。

家系としては片桐宗牛なる人物がいるが調べましたらこの方は宗猿の妻でした。
直弼のまわりの女性たち(奥さんらやその側女や先代の未亡人ら)に石州流を指南していたようで宗猿も一目おくような数寄者だったらしい。

盆石はどうなったのかと心配していたら以前嘉順派のお弟子さんに継承された方がいらっしゃるとうかがいました。
茶会での書院飾で一度拝見しました。

明治以降の家系は不明です。
茶系のみ当流に継承されています。




梶宗龍(かじそうりゅう)

先代宗猿と次代宗和をつなぐ上で大事な人物だが資料らしい資料が不明。
ウィキペディアで検索しても載ってません。もっともウィキペディアの「石州流」以外の石州系の「伊佐」「嘉順」「林泉寺」と「宗猿系」を記載したのは、自分だから。それと宗猿までの信隆系片桐氏歴代や大久保忠教の子孫をも記載しました。その後にだれかが加筆されています。

てなわけで梶宗龍は調査中です。
天保五年生〜大正十二年没
幕臣 本名金八
梶金八で検索すると旧幕臣などの本に登場しています。
また寛政諸家譜に梶家が2家あり菩提寺までは突き止めましたがまだ調べていません。
次代の宗和先生が習ったのは事実だそうですが百年以上前のことですので関係者の聞き取りはむりです。

調査が続けたいとおもいます。
磯貝宗和(そうわ)

安政五年生〜昭和十五年没
宗龍より石州流茶系を継承する。
桃可菴と称する。石州公より九世にかぞえる。
今、宗猿からの系譜の茶家は(井伊宗観の系譜をのぞき)すべて宗和先生の一門である。
夫の磯貝一阿弥は華道の都古流の流祖で茶と華の両方を磯貝夫妻に師事した門人も多数いる。
鈴木宗仙
明治九年生〜昭和三十四年没

桃可菴磯貝宗和より茶系を継承。
また宗和先生の夫である磯貝一阿弥先生に都古流華道も師事する。華道でも頭角をあらわし教授になる。
女性ということもあり華道の家元職は継げず茶系のみを継承したのだが、あらたに「都古流鈴木派」の立ち上げを流祖より指示され創流する。

ちなみに都古流は同門の小林一阿弥先生が流祖二世を継承する。小林家の茶は、奥様の習っている千家に移行していく。


鈴木宗仙
明治三十五年生〜昭和四十四年没
一瞬「はてな?」と思われるかもしれません。
先代鈴木宗仙先生の娘さんになり庵号も茶名も同じになります。
先代より茶系十一世、華道二世を継承する。
親子だから便宜上「2世宗仙」と表記する資料もあるが、二世は華道のほうだけなんです。
しかし先生はお琴がメインでして家元職は高弟が代行していたようです。
茶系は先代の玉木宗春先生が、華道四世は同門の荒井一慶先生がそれぞれ継承しました。ちなみに華道三世は一時期2世宗仙先生のご主人が継承されていたためです。四世継承時にごたごたがあり先代の宗春先生の奔走で当時の都古流の流祖やそこから分派した他派の家元に承認を取り付け四世継承が実現できました。
玉木宗春
明治四十四年生〜平成五年没

私の先代の師匠。当代師匠のお母さん。
先々代より茶道教授を取得し皆伝す。
先代より十二世を継承。
鈴木家元とは別系統の華道「錦古流」を習っていてそちらも継承する。松峯斎四世一春と称す。
華道の先代より流儀名称を「錦春古流」と改名をすすめられる。また華号を「千晴(ちせい)」に改名。

昭和三十年代にはいり石州流が大名の片桐家の子孫の当主を家元に仰ぎ大同団結をはかる動きがあり、傘下協議の会に先代の代行で参加するも手前の相違で当流は独立したまま現在にいたります。

昭和四十年代頃に宗和先生の門人の孫弟子にあたる堀之内宗實、宗丘先生親子が「片桐宗猿系」を旗揚げしました。
(昭和四十七年発行の「さぬき美工」通巻77号という冊子に石州流の特集が掲載されています。讃岐清水派の野田弘之先生が資料を収集したものが記載されそのなかに「片桐宗猿系」なる流派が掲載されています。おそらくは資料提供は宗丘先生が提出されたのでしょうが、系譜がおもしろいのは、
石州→藤林宗源→藤林宗三→篠田松嶺→片桐帯刀→片桐宗古→片桐宗猿→梶宗龍…
とあります。当時はまだ下調べが杜撰だったのかな?)

当然のことだが師匠がクレームをだしました。
堀之内先生は非を認め流派名称を「片桐宗猿派」と変更しました。別派ならしかたがないかな…と。

でもなぜか「系」が「派」の格下に見られる傾向がありますね。あちらは「片桐」名称にいれているからかな。を

この件の前まではたんなる「石州流」だったのですが便宜上「石州流茶道宗猿系」と称することになります。
また家元職の免状発行権はあるが家元とは自称していませんでした。
以前師匠と親しい伊佐派、嘉順派の両家元にうかがいましたら家元と他流派から言われても自称はしていなかったようです。平成になり便宜上家元と自称するようになります。



2014年は宗猿没から百五十回忌をむかえます。一会流もふくめて合同の茶会が開けたらいいな。なんて願っています。
井伊宗観(そうかん)

幕末の大老井伊直弼。
チャカポン大名と異名がある。
チャカポンとは茶道、和歌、鼓の名手だから蔑称の意味合いもあるが本人は気に入りの様子だったとか。

すでに他流を皆伝されていたが、不昧を研究したりして当時は石州流が隆盛であり「石州にあらずは茶にあらず」というくらい将軍家はじめ席巻していた時代だった。
そこで宗猿に茶の質問状のやり取りを数十回手紙でやり取りしている。

宗観が江戸で開催した茶会(「東都水屋帳」にしるされた茶会)の第一回の正客が宗猿であったこと。
宗猿の妻宗牛を奥向けの茶湯指南にしていること。
片桐本家の貞信を石州の亜流としていること。
以上から宗観は「片桐宗猿ハ石州流茶事正伝之家」と記している。

宗観は自流を「我が流」として流派名を名乗らなかった。

宗観の孫弟子から皆伝された彦根の神野樹聖草舎先生が宗観の著書から「一会流」と命名されました。

一会流には、長板や献茶の点前で使用する柄杓に突き通しの柄杓が伝わってなかったそうです。
そこで当流の師匠が神野先生の奥様に突き通しの柄杓を贈られたことがありました。

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