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ミイラ・ミイラ・ミイラコミュのエジプト

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エジプト(・∀・)イイヨー!!

エジプトのミイラは有名なツタンカーメンのようなミイラ職人によって人工的にミイラに加工されたものがほとんどですな。

また、人工ミイラ開発のきっかけになった自然ミイラというのもありますね。

コメント(312)

>職人の腕の良さがうかがえますな
生前の姿が偲ばれますね。恰幅のいい男性だったんだろうなという(・∀・)
眉毛とか口ヒゲ、あごヒゲまで残ってるようにも見えます。
口の中に「黄金の舌」 2000年前のミイラ発見 エジプト
https://www.afpbb.com/articles/-/3329996

エジプト観光・考古省は3日、北部アレクサンドリア(Alexandria)近郊で、エジプトとドミニカの合同調査隊が口の中に舌の形をした黄金の護符が納められた約2000年前のミイラを発掘したと発表した。

同省によると調査団は、アレクサンドリア西方のタップ・オシリス・マグナ(Taposiris Magna)神殿で「岩に刻み込まれた16基の墓」を発見した。この埋葬形式は、古代ギリシャ・ローマ時代に広く用いられていたという。

墓の中には数体のミイラがあり、「保存状態は悪かった」が「金箔(きんぱく)の貼られた舌の形の護符」を持っていた。護符はミイラの口の中に納められ、死者が「死後の世界でも話せるように」との願いが込められているとみられる。

合同調査隊は、女性の埋葬用マスクや黄金の冠、彫刻がほどこされた大理石のマスクなども発見したという。


「この埋葬形式は、古代ギリシャ・ローマ時代に広く用いられていたという」とあるように、あまり古代エジプトっぽくない感じがしますな(・∀・)
画像がダブってました…(・∀・;)
セケンエンラー その8

3600年前のファラオの死因、先端技術でついに解明
https://www.afpbb.com/articles/-/3332341

紀元前1600年ごろにエジプト南部を統治したセケンエンラー2世(Seqenenre Tao II)は、ナイルデルタ(Nile Delta、ナイル川下流域)一帯を支配していた西アジア起源の異民族王朝ヒクソス(Hyksos)に対し、エジプト軍を率いて戦ったことで知られる。

1960年代に行われたX線調査で、セケンエンラー2世のミイラの頭部に傷があり、防腐処理の過程で隠されていたことが判明。戦死したか、宮殿内で暗殺されたとみられていた。

しかし、CTスキャンに基づき3D画像を作成した結果〜〜セケンエンラー2世は戦場で捕虜となり、その後「処刑式」で殺害されたと結論づけた。

「(ミイラは)手が変形しており、セケンエンラー2世が戦場で捕らえられた可能性を示している」と観光・考古省は説明。セケンエンラー2世は「後ろ手に縛られていて」頭部への「激しい攻撃を防ぐことができなかった」との見方を示している。

骨のスキャンにより、セケンエンラー2世の死亡時の年齢が40歳前後だったことも明らかになった。



処刑されたセケンエンラーの遺体がヒクソスからエジプト(ヒクソスもエジプトの王朝ではあるんですが…)に引き渡されて、エジプトでミイラ化されたということなんでしょうかね。
古代エジプト王や王妃のミイラ パレードで大移動(2021年4月4日 10時19分)
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210404/k10012955171000.html

エジプトの首都カイロで、古代エジプトの王や王妃のミイラが、古代の行列を模したパレードで市内の新しい博物館に移されました。

パレードは3日夜、カイロ中心部の考古学博物館で展示されていた古代エジプトの王や王妃のミイラ22体を、新たに完成した市内の国立文明博物館に移すために行われました。

3000年以上前に作られたミイラは、温度や湿度が管理されたケースに入れられ、ひつぎの装飾を施した特別な車に1体ずつ載せられました。

車列は、古代の王の行列を模して当時の衣装をまとった人たちに先導され、一般の車を締め出した中、5キロほどの距離をゆっくりと進み、新しい博物館ではシシ大統領が出迎えました。

新しい国立文明博物館ではおよそ2週間後にミイラの展示を始めるほか、カイロ近郊では日本が支援する大エジプト博物館の建設も進んでいて、ことし中のオープンを目指しています。

エジプト政府としては、新型コロナウイルスの感染拡大で観光産業が落ち込む中、国をあげてミイラの大移動を演出し、新たな観光名所をPRすることで観光客の誘致につなげたい考えです。


車はクフ王の船とかを模しているんでしょうかね(・∀・)
神戸市立博物館へ行ってまいりました
もうすぐ終わりかな
三ノ宮駅からアクセスも良し
CTスキャンは圧巻でした
カタコンベの再現も見事でした
最新のCTスキャンで撮影枚数が7倍だそうで、超高精細画像なんですな。
ミイラ実体が見られないしな〜と思って見に行ってなかったです(・∀・;)
六体だけでしたね
各ミイラ にCTスキャンの模様を紹介するモニターがありまして見応えありましたよ

ロビーに カタコンベを再現した通路があって
棺から人骨が飛び出してたりして泣き顔
怖かったです
私も包帯がなぁと思ってましたが行って正解でした
虫歯の膿が脳に回って死んだとか
動脈硬化が顕著であるとか
あんな時代の干からびたミイラから分かるなんて
終わっちゃいましたね泣き顔
公式サイトにミイラの簡単な説明があったですが、心臓と歯の病気が多い(・∀・;)
分析技術もすごいですが、血管やら何やらが数千年もしっかり保たれてるのもすごいですな。

アメンイリイレト:病名:癌、心血管疾患、歯科疾患、椎骨の病変
ネスペルエンネブウ:病名:心血管疾患、歯の強度な摩耗と歯科疾患
ペンアメンネブネスウトタウイ:病名:心血管疾患、歯科疾患、椎骨の病変

画像は、サッカラ遺跡で発見されたローマ支配時代(後1〜後2世紀)のカタコンベ(地下集団墓地)と、それのレプリカ展示。
ミイラ展の公式サイトが解説が充実していてとてもいいんですが、しばらくしたら削除されてしまうんでしょうかねぇ(・∀・;)

特別展「大英博物館ミイラ展 古代エジプト6つの物語」
https://daiei-miira.exhibit.jp/exhibition/

01 アメンイリイレト
02 ネスペルエンネブウ
03 ペンアメンネブネスウトタウイ
つづき

04 タケネメト
05 ハワラの子ども
06 グレコ・ローマン時代の若い男性
NHKの地球ドラマチックで、ツタンカーメンら、古代エジプトの王族のミイラの科学分析の成果を紹介する番組が放送されました。

「ツタンカーメン王〜先端科学が明かす真実」NHKEテレ1 5月23日(月)午前0:00~
古代エジプトの王として広く知られるツタンカーメン。その人物像を明らかにしようと研究が進む。先端の科学を駆使したミイラのスキャン・分析で明らかになった真実とは。(2021年イギリス)
https://www.nhk.jp/p/dramatic/ts/QJ6V6KJ3VZ/episode/te/YNK8X88GQ3/

番組では以下のような調査結果が紹介されました。

2010年の調査でツタンカーメンを含む古代の王族のミイラから遺伝子が抽出された。

「年少の女性」のミイラについて。
アメンヘテプ2世の墓で発見された数体の王族のミイラのうちの一体、「年少の女性」と名付けられたミイラ(画像のミイラ)、
この「年少の女性」がDNA鑑定の結果、ツタンカーメンの母親と判明。
20代半ばで、アクエンアテン(ツタンカーメンの父)の妻であり、きょうだいでもあった。
(アクエンアテンのもう一人の妻ネフェルティティではない。)

胴体などの傷は、墓荒らしが彼女が身に付けていた宝飾品などを奪った際に付けられたものと考えられるが、顔の外傷は生前に負ったもので、骨折に治癒の痕跡が無く、この顔の傷が致命傷になった可能性がある。事故ではなく暴行を受けたのではないか、とのこと。


「ツタンカーメン」のミイラについて。
ツタンカーメンの頭蓋骨は変形しており前後の方向に長かった。古代エジプトの王族で見られた近親婚の影響と見られる。

左足のつま先の骨の一部が感染症で壊死しており、杖をついていたと思われる。

「頭蓋骨の内側に内出血のような痕跡があって、そのことから、頭部を鈍器で殴られて殺された」とする説が有るが、
頭蓋骨表面に傷が無く、内出血の跡と考えられていたものはミイラ化の際に流し込まれた樹脂だった。

左足の膝の外側にひどい骨折の跡がある。治療の痕跡がないので、その負傷後すぐに亡くなったと見られる。

DNAの解析から、原虫のDNAが検出された。何度もマラリアに感染していたと見られる。


番組の内容はナショジオマガジン2010年9月号の記事とだいたい同じですな(・∀・)
https://natgeo.nikkeibp.co.jp/nng/magazine/1009/feature01/_04.shtml
グスタフ・リュプケ博物館のミイラ

ドイツ、ノルトライン=ヴェストファーレン州ハム市のグスタフ・リュプケ博物館(Gustav-Lübcke-Museum)のミイラ。

ハム市で、エジプトの研究者がエジプトのテーベ近郊で50体のエジプト王家のミイラが発見されたという報告を行い、それをきっかけにヴェストファーレン州でエジプトについての話題が盛り上がった。

一部のハムの著名人がエジプトのミイラを購入するというアイデアを思いつき、1886年6月にミイラ購入を目的とした「ハムミイラ協会」が設立され、資金調達のために株式が発行さた。
同年中にミイラが石棺とともにハムに到着、船から街に運ばれ、Juckenackレストランのサイドルームに展示された。パン屋はミイラの形をしたクッキーを販売した。

購入から1年後の1887年、協会は博物館にミイラを寄贈し、ミイラは長い間、最も重要な展示品になった。
しかしミイラは第二次世界大戦の終わりに戦災で焼失してしまい、博物館には白黒写真しか残っていない。



2017〜2018年にグスタフ・リュプケ博物館でミイラ展が開催され、それにあわせて、焼失したミイラの頭部のレプリカが制作されました。

白黒写真を元にして3Dプリンターで制作したとのことですが、白黒写真とはちょっと感じがちがうような…(・∀・;)
色も、エジプトミイラで肌色っていうのはあまり見かけないような…。

ちなみに、ミイラは「第22王朝のソルコン2世」(der 22. Dynastie von Sorkon II)と説明があったのですが、第22王朝にはソルコン2世というファラオの名は見当たらなくて、オソルコン2世のことなんでしょうかね?

さらにちなみに、購入された当時、ミイラは「魅力的なエジプトの王女」と紹介されたそうです。

画像1枚目は発行された株の証券、2枚目がミイラの白黒写真、3枚目が制作されたレプリカ。
グスタフ・リュプケ博物館の復元ミイラ頭部。
こどもミイラ

エジプト考古学博物館蔵。詳細は不明。
こどもミイラ

横からアングル。

タイに、金箔を貼った胎児のミイラ「クマントーン」というのがありましたが、さすがにこれは関係ないでしょうね。
トトメス1世

トトメス1世(Thutmose I、在位:紀元前1524年 - 1518年、あるいは紀元前1506年 - 1493年)は、古代エジプト第18王朝の第3代ファラオ。
優秀な軍人で、エジプトがオリエントの一大強国に飛躍する礎を築いた王として知られる。各方面に遠征を行って領土を拡大し第18王朝の最初の絶頂期を現出させた。

女性のファラオとして有名なハトシェプスはトトトメス1世の娘、ツタンカーメンは第18王朝後期のファラオ。
トトメス1世 その2

wikipediaによると、

この画像のミイラは盗掘を避けるために王家のミイラが集められていたデイル・エル・バハリ(墓番号DB320またはTT320)から発見された。

このミイラがトトメス1世のものかどうか、以下のような理由で疑問が持たれている。

・ミイラが王族の成人男性特有のポーズ(胸の前で腕をクロス)になっておらず、両手を下に下ろしている。両手は切り落とされ股間に置かれていた。(ただし、ミイラは18王朝の高級な作りであることから、王族の1人であることは間違いないと思われる)

・歯の摩耗具合などから、このミイラの死亡推定年齢は50歳ほどだが、このミイラの骨格はいくつか(50歳にしては)未発達な部分が多い。トトメス1世が身体障害や先天的病気を持っていたとする資料はないため、このミイラが彼のミイラと断定するのは難しいというもの。
(ちなみにトトメス1世の死亡推定年齢は50代半ば。)

・ミイラが本人のものでない理由は、再葬の際に取り違えたとする説が有力である。第21王朝のピネジェム1世と外見が良く似ており、取り違えた可能性が生じている。

また、「研究の結果、このミイラはヌビア人の外見的特徴を全て持っていることが判明した」とのこと。
トトメス1世はエジプトの南にあるヌビア地方に遠征してヌビア地方を支配・植民地化したファラオなので、ヌビア人のミイラがトトメス1世というのはおかしいということでしょうかね。
トトメス2世

トトメス2世(Thutmose II、在位:紀元前1518年 - 1504年、あるいは前1493年 - 1479年)は、古代エジプト第18王朝の第4代ファラオ。

トトメス1世の下位の王妃の子であったが、政治的手腕に優れ、正妃の第一王女であった異母姉妹のハトシェプストと結婚して王位を継承した。病弱で治世中特に大きな事績を残す事なく没したとされる。

多くの記念碑の名前が妻のハトシェプストや息子のトトメス3世に書き換えられていることや、大規模な建築事業を行っていないことなどから、トトメス2世の在位期間は3年程度とする説、ハトシェプスト女王葬祭殿などの建築事業をトトメス2世が着手していた可能性があることから示威期間を12〜14年程の比較的長期間とする説がある。
トトメス2世 その2

以下はwikipediaより。

トトメス2世の正確な埋葬場所は特定されていないが、そのミイラは盗掘を受けたミイラの避難場所であるデイル・エル・バハリの隠し場所から他の王たちのミイラと共に発見された。 王の身体には斑点や傷痕が多数見られる他、頭部にも脱毛の痕跡が見られる。これは直接的な死因になった感染症の痕と考えられている。また心臓の肥大や筋肉収縮の形跡も見られ、虚弱な体質であった事を示唆している。

死亡推定年齢は長らく30歳頃とされていたが、2007年の調査では歯の健康状態から40歳頃とする診断結果が得られた。そのためこのミイラをトトメス2世ではなく父のトトメス1世ではないかとする説も唱えられている。
ハトシェプスト

ハトシェプスト(Hatshepsut、在位:紀元前1479年頃 - 紀元前1458年頃 )は、エジプト第18王朝の王妃および第5代ファラオ。

父はトトメス1世、母はイアフメス。夫はトトメス2世。

以下はwikipediaより。
トトメス2世は遺言で妾腹の息子トトメス3世を後継者に指名したが、トトメス3世は幼かったため、以後22年間にわたり共治王を務めた。公的な場では男装し、あごに付け髭をつけていたと伝えられる。ハトシェプストの意味は「最も高貴なる女性」である。 即位については、トトメス3世を無視してファラオの地位まで登りつめるほどの野心家であったと見るか、夫の遺言を守るために幼い継子が成人するまでの「つなぎ」を果たそうとしたと見るかで、諸説ある。


「いろいろと…」トピックの>>18〜21あたりでも紹介しています。
ハトシェプスト その3

以下はwikipediaより。
2007年6月、エジプト政府はハワード・カーターらにより1903年に王家の谷「KV60」で発見された女性のミイラをハトシェプストと特定したと発表した[3]。特定の決め手は、長年ハトシェプストのミイラであるとされてきた身元不明女性のミイラの歯の一部が、ハトシェプストの名を刻んだカノプス壺から発見されたことによる。

KV60には、棺に入れたミイラと、そのまま横たえられたミイラが2つあり、この状況から1990年までは、このミイラは重要なものであるとは考えられておらず、KV60に葬られたままになっていた。


wikipediaでは歯がカノプス壺から発見されたとありますが、AFPBB Newsの記事だと『歯が収められていた箱には女王の名前が刻まれており、CTスキャナーで撮影したところ、「(箱の歯は)ミイラの臼歯が抜けた隙間と1ミリの狂いもなく一致した」』とあります。

画像は1枚目が「歯が収められていた箱」、2枚目がKV60で地べたに横たえられていたハトシェプストのミイラ。
ときどきハトシェプストのミイラとして別のミイラ(画像1枚目)が紹介されることがあるのですが、このミイラはハトシェプストのミイラが特定されたときにハトシェプストのミイラと同時に公開された3体のうちの1体でした。

画像2枚目の左端がそのミイラで、その隣の胸元にクッションが当てられてるのがハトシェプストのミイラ。
ハトシェプストのミイラ以外は詳細は不明。
ハトシェプストとして紹介されていた女性ミイラ。
トトメス3世

トトメス3世(Thutmose III、在位:紀元前1479年 - 紀元前1425年)は、エジプト第18王朝の第6代ファラオ。

父はトトメス2世、母はイシス。父のトトメス2世が亡くなったときトトメス3世は幼少だったため、トトメス2世の正妃であったハトシェプストが摂政となり、22年間トトメス3世とハトシェプストの共同統治が行われた。

以下はwikipediaより。
ハトシェプストの死後はエジプト唯一のファラオになり、トトメス3世はエジプト史上最大の帝国を築いた。東と南への大出兵は17回以上[注釈 3]にも及び、南はナイルの第四急流、東はメソポタミアの強国ミタンニ王国の領土拡張を阻み、同国をユーフラテス川の東に封じ込めた。

広く軍事の天才と見なされているトトメス3世は、20年間で少なくとも15回の周辺諸国への軍事攻勢を実施した。彼は拡張主義(expansionist)のファラオであり、「古代エジプトにおいて最も偉大な征服者」、またはジェームズ・ブレステッドによって「エジプトのナポレオン」と呼ばれた。
(ジェームズ・ブレステッドはアメリカ人でシカゴ大学のエジプト学者。エジプト〜パレスチナ〜メソポタミアを結んだ地域を「肥沃な三日月地帯」と呼称したことで有名だそう。)
トトメス3世 その2

>>303の白黒の頭部写真はカイロ博物館のカタログのもので、ミイラの状態が非常に悪かったために頭部のみ撮影されたとのこと。

トトメス3世のミイラは1881年にトトメス2世と同じくデイル・エル・バハリの隠し場所(ロイヤル・カシェ:王家の隠し場所)で発見された。
(他の第18王朝および第19王朝のアフメス1世、アメンホテプ1世、トトメス1世、トトメス2世、ラムセス1世、セティ1世、ラムセス2世、ラムセス9世、および21王朝のピネジェム1世、ピネジェム2世、シアムンのミイラもともに埋葬されていた。)

ミイラは1881年と1886年の2度、梱包が解かれた。頭部は首が折れて腕と足が切り離されており、両腕は肘の部分で折られ、足も折られていた。

画像2、3枚目は発見時のようす。
ミイラは第20王朝の終わり頃、強盗によって棺から引き出されて宝石を剥ぎ取られるなどされてダメージを受けた。その後再び埋葬(梱包)されたが、再埋葬の際に4枚の木の板で補強された。
(白く塗ったオール型の4枚の木片で、3枚を包装の内側に、1枚を包装の外側に当ててひもで固定していました。)


梱包されたミイラの胸の部分の布が破られて穴が開いているのは、心臓の部分に置かれたスカラベの護符を取り出すために開けられたとのこと。
トトメス3世のミイラはフランスの調査隊が発見する数年前にラスール一家という盗掘者によって荒らされていたのですが、胸の穴がラスール一家によるものかはよくわかりませんでした。

ちなみにミイラが隠されていたデイル・エル・バハリを発見したのはラスール一家だそう。
トトメス2世 その5

手の様子がわかる画像。
羊の頭のミイラ2000個発見 ラムセス2世への供物 エジプト
https://www.afpbb.com/articles/-/3457232

【(2023年)3月27日 AFP】エジプト観光・考古省は26日、南部アビドスでラムセス2世の神殿に供物としてささげられた2000頭分の羊の頭のミイラが、米考古学チームにより発見されたと発表した。

アビドスは首都カイロから南に435キロ離れたナイル川沿いに位置し、古代の神殿や墓が多数あることで知られる。

米チームの代表サメフ・イスカンダル氏によると、羊の頭は「供物」で、「ラムセス2世の死後1000年を記念する儀式が行われた」ことを示している。
妊娠した十代の女性のミイラ

1908年にエジプト南部のバガワット墓地で、骨盤腔内に胎児の一部が残された状態の女性のミイラが発見された。

女性は、後期王朝時代(紀元前712〜332年頃)とコプト時代(西暦395〜642年)の間の時期に古代エジプトに住んでいた14〜17歳の少女だった。
研究者らが女性の腹部を切開したところ、胎児の頭蓋骨が産道に引っかかっているのが発見された。
女性は胎児の頭が産道に詰まってしまい、出産中に死亡したとみられる。


2019年に骨盤の形態学の調査の一環でこの女性ミイラにCTスキャンが行われた際、第二の胎児が発見された。

第二の胎児は胸郭に押し込まれており、第二の胎児の遺体がどのようにして女性の胸に収まったのかは不明。
ミイラ化の過程で横隔膜や他の組織が溶解し、小さな体が上方に移動したのではないか、とのこと。
(この後期王朝時代では、ミイラ化の過程で臓器を取り出すことは珍しいことだったため、ミイラ化のときに発見されなかったと考えられるそう。)


女性の身長は約5フィート(1.52メートル)、体重は100〜120ポンド(45〜55キログラム)で、彼女の体が小さく年齢が若かったことが双子の出産が失敗した一因となった可能性がある。


現在、女性ミイラの頭部は欠落して行方不明とのこと。

画像1枚目、女性の足の間にあるのが胎児のミイラ。
画像2枚目、ミイラの切開された腹部と骨盤腔内の胎児の頭。
同じ画像がUPされてました…(・∀・;)

画像1枚目、女性の足の間にあるのが胎児のミイラ。
画像2枚目、ミイラの切開された腹部と骨盤腔内の胎児の頭。
画像3枚目、ミイラ発見時に撮影された頭部。

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