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ウッディー瓦版/コミュの★「OMEKO論」のカラ騒ぎ/本文編★

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以下の文章は、去年の春、2005年05月11日〜2005年05月13日の3日間、ウッディーがミクの「言霊(ことだま)」コミュにアップした“OMEKO論”を巡って巻き起こった小騒ぎである。「言霊」はいわゆる“言葉が好きな人達”が一年半前当時すでに約5,000人近くも集まった一大コミュニティであった。

(ウッディー:06-11/01)
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こないだのこと。「言霊」つーコミュに「言葉としてのOMEKO論〜」という、以下の雑文を載っけて、同コミュのみんなにえらく怒られる。一日で50程のレスがあり、その99%が批判。

前にも中バイのライブの告知を会員数の多い「くるりコミュ」や「オザケンコミュ」などに、ゲリラ的に掲載した際も数人に怒られ、皇室アルバム氏の話によると、その後2チャンで“ふとどきなやつがいる”とヤリ玉に上がっていたらしい。今回はもっとヤバイかも。

いやいや、ネチケットってやつぁ難しいね。しかし、これだけネットであらゆる情報が錯綜し、文章や画像が簡単にコピペ出来るって現状を見れば、インターネットなんて想像も出来なかった頃の社会や人間関係をそのまま移行させた、個人のプライバシーを守ろう、人に迷惑を掛けないようにしよう、といった従来の道徳を、自由なネット上だからという理屈で、さらに自主的に強化しましょうって風潮には無理があると思うけどな。時代に逆行してるっつーか。“いわゆるファシズムとは逆方向”での、個人の消滅(つまり個人の拡大、脱個人)、ニーチェ的に言えばつつましく、いじましい善人達の消滅も近いかも知れない、と思う今日コノゴロ。誰かが言ってたように、人間は波打ち際に描かれた文字のように、間もなく消え去るんじゃねえの。

まあ、「言霊」がよく言われるように言葉の持つ霊力のことであり、「言霊」コミュニティが、まさにその言葉の持つ霊力について発言し合うコミュであるならば、そのネタが「おめこ」という言葉であっても、何らコミュニティの趣旨から外れるものではないってのが僕の正直な感想だけどね。それどころか、その影響力の割には、一般的には“品がないから”“大声で言うべきでない”と、なかなか問題にされない言葉をピックアップしたという点はおもしろかったと思うよ。

しかしながら、あんまり怒られすぎて逆に何だか楽しくなってしまい、かと言って「言霊」コミュにはもういられない感じになったので、そこのトピックは削除依頼して、別に「オメコミュ」って新コミュを立ち上げ、トピ全体をそっちに移植して続行。さらに物言いがつき、結局面倒になって「オメコミュ」も即閉鎖してしまった。

まあ、僕としては大マジメに「おめこ」という言葉が持つ圧倒的な威力を語りたかったんだけど…5,000人近いコミュで臆面もなく「OMEKO」発言をしたらどういう反応が返って来るんだろう、てな興味やスケベ心があったことも事実。とはいえ、それがさほど許し難いことなのか。結局、図らずも「言霊」コミュにて逆説的に、未だ生き続ける“言霊”の威力を思い知ることになったつー訳だ。

それにしても、一般人が会社のデスクにいながら一瞬にして、日本中にちらばる何十人もを立腹させる、とまでいかなくても感情に対して訴えることのできるインターネットって、ある意味すごいよなあ。実感。オソロシクもオモシロイ時代になったもんだ。
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まあ、今回こうなった理由は、

1)相互のコミュニケーションを目的としたミクシーというサイトの中で、他と比べても参加者が多く、発言数や会話の多いアクティブなコミュニティにおいて、自己満足かつ自己完結的な文章を掲載したことが大きな違和感を生んだこと、場違い感、

2)論旨の中心であるにしろ、「おめこ」「おまんこ」「セックス」という一般的には卑猥とされ、放送禁止用語でもある言葉の、デリカシーを失した連発・乱発と、それにまつわる記述の個人的体験の執拗な引用と内容の俗っぽさ、さらに、トピのタイトル自体にその言葉が含まれてしまったこと(誰かがレスするたびに「OMEKO〜」の文字がトップに来るのは…)、

3)レスの中にもあったが、「うんこ!」と叫んで逃げていく子供的な、愉快犯的なお騒がせ効果のみを目的に、メンバー数の多いこのコミュを狙ったトピであるといった印象、

4)これは僕の文癖なのでどうしようもないし、どうこう言われる筋合いはないのであるが、文章自体が、こういう場に掲載するものとしては非常識に長いことに加えて、一見難解であること、過度な文章装飾や間違った言葉使いによる理解の混乱、

てなところか。まあ、こうして振り返って見るとお怒りもしかたねえか。
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以下に一部始終載っけておきます。
トピックにレスくれた各発言者の名前は個人情報保護のため(?)消しときました。
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「OMEKO論」(言葉としてのOMEKOとトラウマ)

僕が頻繁にツーショット・ダイヤルを利用していた90年代初頭、まだ“H(エッチ)する”という言葉は巷で使われていなかった(“〜みたいな”“〜系の”等の、とんねるず発の流行語が世を圧巻していた頃の話だ) 。当時ツーショット・ダイヤルを利用する女性陣の中で圧倒的多数を占めていた手錬れのオミズ達は、例外無く“セックスする”とズバリ言ってのけていたように記憶している。

最初に明記しておくが“H”とは“変態”の頭文字であるらしい。つまり“エッチする”と言う時、それは実は変態行為を前提としているのである。このことは“生殖を目的としない全ての性行為は変態的であらざるを得ない”と豪語する心理学者、岸田秀の言説とも合致している。

おそらく“H(エッチ)する”はツーショット・ダイヤル黎明期におけるオミズ達の短期台頭の後、入れ替わって大々的に君臨し、それを温床にして社会現象にまで登り詰めた女子高生達によって広く社会に浸透させられたと思われる(一説にはタレントの明石屋さんまが番組内で言い始めたのが最初であるといわれているが、僕が思うに彼もツーショット等で喋った女のコ達から、その言葉を教わったのであろう)。しかもそれは性行為そのものを指す言葉として、それまでに男性側の命名によって広く流通していた“オメコ”“オマンコ”“マンコ”“セックス”等に代わって女性の側から“積極的に”名付けられたもので、関西、関東圏にほぼ同時に無理なく(関西弁、関東弁等の地方言葉による差異は全く問題にならなかった)流通した。おそらく歴史的、文化的に観ても、女性が、何か文化的な事象に対してネーミングし、それが社会的に浸透したという例は珍しく、その意味でも画期的な出来事だったのではないか。しかも“オメコ”“オマンコ”“マンコ”等が行為と同時に女性器そのものを指していたという事実はやはり女性蔑視の一形態として理解しえ得るが彼女らはその永い呪縛をも解き放ったのであり、Hというシニフ?ンはもはやいわんや女性器というシニフェを表さない。また、“オメコ”“オマンコ”“マンコ”“セックス”等という旧言語が持つどこか後ろめたく陰惨なイメージを払拭し、それを日常会話において使用に耐えるものへとポップ・アイコン化したのみならず、いわゆる“放送禁止”の枠外に引っ張り出したのは、昨今のメディアの突端として我々が、すっぱい葡萄よろしく無理に憐れみ、中傷しようと虚しい努力を重ねてきたニーチェ的なコギャル達でもあろう。証拠となる資料を明示出来ないのは残念だが、“H(エッチ)する”という言葉が最初、女性が主体となって口にする(ツーショット回線内で交わされる会話が圧倒的に性的なものである以上、女のコ達には不可避的に、しかも早急にそれを口にする必要が生じた)ことの出来る、性行為を指す一種のスラングとして件の伝言ダイヤルやツーショット回線から自発的に生まれたことはほぼ間違いあるまい。

興味深い事実として、当時テレフォン・セックスの事を一部のオミズ系の女のコ達が“テレフォン・エッチ”又は“テレ・エッチ”などと称していたということがある。「今日はテレフォンエッチしよう言うオトコばっかりやねん」「お兄さんテレエッチしようよ」てな具合に使われていたのであるが、僕などはこの辺りが“エッチする”の語源になっているのではないかと推測する。すでに“テレエッチしようよ”という風に言葉の、半名詞・半動詞的な使われ方がされていて、現在の“エッチする”のニュアンスとほとんど変わらない。回線上の疑似行為の名称が実際の行為にも使われるようになったという浸透の仕方は、実際そうであればツーショット・ダイヤルから始まったと思われる昨今の女のコの性的開放の過程の雛型のようで面白い。ついでにもう一つ、何らかの関連がありそうな話を挙げておくが、今から十余年前、その頃知り合いだった博多在住の20歳の女のコは、関西なら“スケベな”とでも言うべき形容詞を“エッチ(H)イ(イにアクセント)”と表現していた。“スケベな人 ”のことなら“エッチイ人”と言う訳であるが、近年の博多っ子が使う博多弁は(武田鉄矢の「母バラ」に代表されるようなものとは違って)イントネーションが標準語に近く案外泥臭くない。博多が数多くのアーティストを世に送り出して来たエポックメーキングな土地柄であり常に文化の発信地であったことを考えると“H(エッチ)する”の語源はその頃にまで遡れるのかも知れない。

とまれ、ここに来てようやく性行為は“行為として(快楽として)”、しかも歴史上極めて異例な、男女間においては、それどころかどのような階級においても均質で大衆的な文化になったと言えるのではないか。つまり言葉としては存在しないかのように扱われていたもの(それは辞書に記載されるか否かと言ったレベルの問題ではなく)、ある共同体内で共通の、生き生きとした言語として呼吸しないものは文化ではあり得ない。“セックス”が極めて私的な密亊であったのに対して“H(エッチ)”は社会的な事象(=文化)なのだ。過去、我が国において性行為はそれ自体(の快楽)ではなく隠された不可避的エロスとしてのみしか存在価値、すなわち文学性を付加されなかった。これは断じて不幸なことであり、全てが白日の元に晒された時に消え去るエロス(肉体的快楽の保険としての消極的エロス)などは“オメコ”というどこかよそよそしくて恥ずかしい言語表現と同等の価値しか持ち得ないのである。新時代的な社会的セックスである“H(エッチ)”は、大真面目で私的な秘技としての“オメコ”を戯画化し、笑い尽くす威力を持っている。
 
ところで、女のコ達によって“H(エッチ)”と読み替えられた“オメコ”であるが(ここでは関西圏であることを考慮し“オマンコ”“マンコ”また隠語ではない“セックス”は度外視して話を進めることにする)、その言葉としての歴史は非常に特殊なものであったと言わざるを得ない。

僕の小学校時代、“オメコ”は一種の忌むべき、呪われた言葉として公言されることはまず無かった。問題の中心に根深い性のタブーが封印されていることは今更言うまでもないが、答を先に言うと僕はここに日本が敗戦後に押し付けられたアメリカの、キリスト教をベースにした小学校の初等教育の悪しき弊害を観るのである。要するに“オメコ”という自我の根底を揺さぶるような忌むべき言葉に対する当時の謂れ無き羞恥心、罪悪感とはキリスト教の“原罪”に対するそれと奇妙にシンクロしているように思えるのだ。

僕は最初にその言葉と意味を知った時のきまり悪さと憂鬱な感じを、今でもはっきりと覚えている。小学校3年の頃だったが、必ずクラスに一人は変にマセた奴が居るもので、ある時僕はそいつから「これ、逆に読んでみい」と言われ、一枚の紙を見せられたのであるが、そこには鉛筆書きの汚い字で、カタカナで一行、“トイヤノコメヲカイタイカイタイ(問屋の米を買いたい買いたい)”と書かれていた。逆に読むと“イタイカイタイカヲメコノヤイト(痛いか痛いかを[お]めこの灸[やいと])”となる。「えっ、何のこと?」と聞くと「お前知らんのか、オメコって女のアソコのことや」「!!!!!!」てな具合である。初めて知った“オメコ”という言葉とその意味もさることながら、件の文章の持つSM的なドギツさには頭がクラクラしたものだ。僕はその言葉が普段、到底口にすべきではない種類のものであることはどうにか理解出来たのだが、そう思うと逆に、どうしてもその三文字を人前で口にしてみたい衝動に駆られ、家の茶の間で小声で「オメコ…オメ此帖彭?箸弔屬笋い討い襪里鯤貎討法屬△鵑拭?晋世辰討鵑!?」と聞き咎められ、仕方なく部屋でノートに何十回も鉛筆で“おめこ、おめこ、おめこ”と書いては後が残らないように消しゴムで消したりしていた。また誰でも身に覚えがあると思うが、広辞苑で“おめこ”や“セックス”を熱心に引いてみたりした(“セックス”はともかく“おめこ”はみごとに割愛されている。“セックス”は種の保存を目的とした生殖行為、とか書いてあって、「エッ?せっ、せいしょく…こうい…???」などと訳も分からずコーフンしたりした)。フロイトに幼児多型倒錯というのがあるが、確かに子供時分の性的倒錯は限度を知らなかったようである。

そもそも小学生のガキにタブーなど無い。思ったことを臆面もなく、ところ構わず口にするのがガキのガキたる所以であり、ウンコ、小便は大好きだし(但し、ウンコの話題は大好きだが、男子トイレの個室にに篭って実際それをヒリ出すという行為自体は、何故か絶対的なタブーとされた) 、平気でコロシもやる(虫やカエル、しかし必要に駆られて殺すのではなく、あくまで趣味の範囲なのが怖い)。それゆえ初めて体験する“オメコ”のタブーはかなり息苦しく、その禁断症状は先述の通り半端ではなかった。

さて、問題は女性の誰もが持っている性器を指す言葉ごときが、小学生にとって何故これほどまでに重苦しいタブーになってしまったのか、ということだ。作家で故人の吉行淳之介は人前でごく自然に「おめこ」と口にできるには相当な鍛錬が必要だ、みたいなことをエッセイに書いていたが、何故この言葉は鍛錬を以てまで発言せねばならないほどの、克服し難い怪物になってしまったのか。僕はその原因は先にも述べた通り、小学校の初等教育にあると思う。つまり例のオシベとメシベに関する授業を、高学年になってやっと、それも初潮を迎える頃だからというだけの利用で女子のみにしか施さないというのがおかしいのだ(それにしたって所詮オシベ、メシベがウンヌンカンヌン…であるが)。つまり男子は、言ってみればかなり重要で最も興味深い事柄に対して目隠しをされたまま六年間を過ごすのである。その中で悪友から、何の前振りもなく突然聞かされる“オメコ”という核心的かつ悪魔的な記号の響きに病的に敏感になるのもしかたがあるまい。結局、我々は肉体を汚れたもの・諸悪の罪悪とし、軽蔑するように洗脳せんとするキリスト教をベースにした、占領軍から押し付けられた教育方針の哀れなる犠牲者という訳なのだ。もっともその後、数年もすれば逆に神無き我が国の中・高生となったガキ共は、その神無き故の奔放さにおいて激しく情熱的に姦淫しまくって疑問を一気に氷解させることにはなるのだが。

実は僕は“オメコ”という言葉を知ってからしばらくの間、性行為というものの存在を知らなかったので、この言葉をまず女性器そのものを指す言葉として理解したのであるが、おそらく他の殆どの男子もそうだったと思われる。つまり“オメコ”がそのものの名称であることを知る時点と、それが行為の名称も兼ねているのだということを理解する時点との時間的な距離が、この言葉を一層やっかいなものに感じさせたのかも知れない(例えば僕はそれが行為のネーミングでもあると知ってからも女のコに「オメコしよう」などとは断じて言ったことはない)。だから、かつて「花の応援団」なるコミックが一世を風靡し、主人公の青田赤道が一巻の第一話目で開口一番「おめこ〜!!」と叫んでくれた時、大層驚いたのと同時に何か肩の荷が降りたように感じたのは僕だけではあるまい。
 
混乱を避けるためにここで一度整理しておくが旧来の“オメコ”という言葉には“女性器そのもの”と“性行為”の二つの意味があり、先ほどから僕が述べているのはもっぱら前者の意味合いでの“オメコ”についてであった。ただ、重要なことは女のコ達が“エッチする”という風に読み替えたのはあくまで“行為としての”それであり、“女性器そのもの”にはまったく適用されていない。つまり現在においても性器そのものを声高に表現できる言葉を我々は持っていないのである。そのことを踏まえた上で、それについても同時に考察するという意味合いも含めて以下、もう暫く“女性器”を表すもとしての“オメコ”という言葉について考えてみたい。

さて、“女性器”を指す言葉として、これまで圧倒的に使われて来たのはやはり“オメコ”“アソコ”の二つであろう。但しこれらはやはり明らかに男性の側が一方的にネーミングしたものであり、その後暗く陰惨なイメージもあって共有化・社会化には程遠い。ただ男女共に、忌まれた言葉をあえて口にする事によって得られる、タブー破りの快感というものが確かにあって、唯一そこに価値を置く向きはあるようだ。例えばテレフォン・セックスにおいて男性側は執拗に「今、どこを触っているのか」と聞き、その言葉を言わせることによって快感を得たり、女性も絶頂の瞬間に自ら、ここぞとばかりに「オメコ!オメコ!オメコーーーーーッ!」と無意味に連呼すること等が間々ある(笑)。僕がツーショットで話したある人妻は“おめこ”という言葉を聞くだけで、子持ちになった今でも頭がクラクラし、濡れてしまうのだそうだ。彼女は公衆トイレなどの落書きの中にその言葉を見つけるとどうにもたまらなくなり、ついその場でオナってしまうらしい(女子トイレにも“おめこやりたい”とか“サセマン”のtel番号、ヒワイなイラストが落書きしてあるそうだ)。こういう話はいかにもエロ小説紛いではあるが、彼女がその時?嘘を言っていたとは思えない。件の三文字言葉は僕のような男ばかりでなく女性に対しても強度の性的トラウマを植えつけたようである。だから、女の子を持った母親が子供にその部分の呼称を教える場合、一連の隠語ではなく独自の、それらしい無邪気な呼び名を約束ごとにする場合が多い。例えば“オカイチョ(お貝ちょ?)”“オンナノコ(女の子?)”等の呼び名をを聞いたことがある。他に(これは母親言葉ではないが)、女性器の最も敏感な部分であるクリトリスは“クリちゃん”なる愛称で広く親しまれている。

男性器に関して言えば、これも長い間女性器の“アソコ”に対して“アレ”、また罪のない子供のモノ風に“オチンチン”“チンチン”、ダーティーなイメージでは“チンポ”“チンポコ”“チンコ”等と呼称された。近年ではビートたけしのラジオによって全国的に広まった“ポコチン”と言う呼び方があるが、これも男性の側からのみの“チン”と“ポコ”を逆に発音することによって一端その言葉の持っていた意味付けを解体し、“ポコ”“チン”という可愛らしい“音素”に擬態するという照れ隠しの域を出ない(同じような意味合いでたけしは“オマンコ”を“コーマン(コオマン)”と言い換えていた。もちろんたけしの場合はどちらも放送コードに引っかからぬようにとの配慮でもあっただろうが)。

“チンポ”の語源はおそらく“珍棒”であると思われるが、昔、僕が行ったとある露天風呂の湯舟の中に巨大な木製のチンポコのオブジェが立っていて、胴体に“腹を立てずに珍棒立てて家庭円満”等と掘り込んであったのを思い出す。珍しい棒と言うのは何ともご愛嬌であるが、自在に延び縮みする有名な尊吾空の“如意棒”などはまさに珍しい棒、“珍棒”のあからさまなメタファーであろう(もっとも己が珍棒はそうそう自在にはならないが)。また、男性器においても、男の子を持つ母親は独自に作り出した、子供が口にするのに相応しい呼び方をすることが多いようだ。ちなみに僕の母親は当時、まだまだ可愛らしい僕の一物を指して“ピンコチャン”と命名した。即座に絵が思い浮かぶような、何とも素晴らしいネーミングではないか。
 
この稿に於いて“女性器そのもの”としての“オメコ”が“行為”としてのそれよりはるかに多く語られるのは我々自身、行為を知る以前の三文字言葉の方に圧倒的に畏怖せしめられ、且つ大いなるトラウマをしょい込んだからであり、その記憶は実際の行為を知った今となっても少しも色褪せず、むしろ現実の行為自体があまりにも日常化され続けて行く中において、還ってより克明な、不思議極まりない感触として思い出されるからである。
 
さて、話を最初に戻すが“おめこ”“おまんこ”“まんこ”“セックス”等、一連の、性行為を指す比較的生々しい隠語(スラング)が、近年“H(エッチ)”と言い替えられた経緯には、言語というものが根本的に持つ特質、ベクトルが現われているように僕には思われる。つまり“言語は生々しい感情から逃避する方向へと進化する”ということだ。昨今流行のあらゆる“短縮語”はもとより、80年代中期から台頭し始めた女友達を名字で呼び捨てにするやり方(元祖は“ダブル浅野”辺りだったのではないか、と推察される。これを僕自身が、良くも悪くも感情的にならざるを得ない女のコに対して使い始めた時の、ある種の清々しさをよく覚えている)、片仮名混じりの新種の形容詞の発明(チョー〜、キショい、エロい、イケてる等)、かつてのトンネルズの生んだ流行言葉であり、現在においてもなお使われ続け、ほぼ全国的に定着した感のある“〜みたいな”等は、会話の中において、その都度まとわりつく感情の流れをいったん断ち切り会話自体の鮮度を回復させるという、言語というよりは一種のリズム・アクセント的な効果を持っていると思われる。

(文責:ウッディー/未完成)
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★「OMEKO論」のカラ騒ぎ/レス編★
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=12911171&comm_id=171451

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