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Meditation 『 瞑想 』コミュの バガヴァッド・ギーター

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「 神の歌 」を意味する 『 バガヴァッド・ギーター 』は、

叙事詩 〈 マハーバーラタ 〉 中の一部であり、
 最も感動的挿話であり、インドの人々が古来愛誦してきました。

「 私利私欲を離れ、執着なく、なすべき行為を遂たせ 」 と
 神への献身的愛を語り、今日なお、多くの人の心に深い感銘を与えています。


『 バガヴァッド・ギーター 』の中から、
 瞑想における とても重要な部分を 紹介させていただきます。

危険・警告日本語に訳されたものから、
 一部を引用して 解釈させていただいております。

 故に、原文とは、異なります。


コメント(19)


これ 瞑想においては、
 いかなる努力も 無駄にはならず、いかなる障害も 存在しない。

この瞑想においては、確固とした理知が一点に集中している。

しかし、優柔不断な者たちの知識は、多岐に分かれて限りなく多様である。

享楽や 権力に深く執着している者、
華やかな言葉に想いが囚われている者の心には、
 理知の確固とした状態が生じることはない。

元性を脱し、常に純粋性にとどまり、所有にとらわれず、真我を保つのだ。

自分の中にも 外にも、あらゆるところに
 智慧という水があふれていれば、小さな井戸である知識は無用となる。

それと同様に、悟りを得た瞑想者にとって、知識は すべて無用となる。

行動のみを制御すべきであって、決してその結果を制御すべきではない。

行動のために生きるべきではなく、また、無活動にとらわれるべきでもない。

執着を捨て、成功や失敗の中にも平静を保ち、
 純粋なる心、正しき理知にのみ従い、瞑想に立脚して行動せよ。

 なぜなら、心の平静こそが 瞑想であるのだから。

純粋なる心、正しき理知を よりどころとせよ。

哀れむべきは(行動の)成果のために生きる者である。

理知が(真我と)結合した者は、
 この世においてさえ、善と 悪とを ともに捨て去る。

理知が 真我にしっかりと結合した者たちは、行動から生じる成果を放棄し、
 誕生の束縛から開放され、苦しみのない状態に到達する。

理知が 迷いの泥沼を渡り終えるとき、あなたは、すでに聞いたことにも、
 これから聞くであろうことにも、無関心となるであろう。


心に(深く)染み込んだ すべての要求を完全に捨て去るとき、

真我のみによって 真我の中に満足するとき、
 そのような人は 安定した理知をもつ者と呼ばれる。

悲しみの中にあっても心が動揺せず、

喜びの中にあっても渇望を抱かない人、

執着と恐れと怒りを離れている人、

そのような人は 安定した理知をもつ賢者と呼ばれる。

何ものにも過度の愛着を抱かず、良いものを得ても狂喜せず、
 悪いものを得てもひるまない人、そのような人の理知は安定している。

亀が手足をあらゆる方向から引き入れるように、

そのような人が五感をその対象から退けるとき、

 その人の理知は安定している。

五感の対象は、それを楽しまない人から離れるが、その味わいは残存する。

 しかし、至高なるものを見れば、その味わいすらも消えうせる。

荒れ狂う五感は、それを制御しようと努力する
 賢明な人の心さえも、力ずくで運び去ってしまうのだ。

五感の対象に思いを巡らせば、それらへの執着が増大する。

 執着から欲求が起こり、欲求から怒りが生じる。

怒りから迷いが生じ、迷いから記憶の混乱が生じる。

 記憶の混乱から理知が崩壊し、理知の崩壊によって人は滅びる。

しかし、自分自身を律した人、

執着や嫌悪から五感を開放し、
 自らが制御できる五感をもって、五感の対象の中を動く人、

 そのような人は「恩寵(おんちょう)」を得る。

「恩寵」の中で、すべての悲しみが終わる。

 実に、高い意識に達した人の理知は、速やかに安定する。


確立した状態にない人には、理知もなく、安定した想念もない。

安定した想念のない人には平安がない。

平安のない人にどうして幸福があるだろうか・・・

心が、さまよう五感に支配されるとき、
 その人の理知は五感によって奪い取られてしまう。

 あたかも、水面の舟が風に運ばれるがごとくに・・・

したがって、五感のすべてを、
 その対象より退かせた人は、その理知が安定している。

万物にとっての夜においても、自己を制する者は目覚めている。

万物が目覚めているときであっても、
 賢者(見る者)にとっては、それは夜に等しい。

川が永遠に満ちた不動の海に流れ込むように、
 すべての欲求がその中に流れ込む人、そのような人は平安へと至る。

しかし、欲求に固執する人は平安を得られない。

一切の欲求を捨て、「私が」とか「私のもの」という思いなしに、
 渇望することなく行動するとき、その人は平安へと至る。

 これがブラフマンの状態である。

これに至った人は迷うことがない 。

そこに立脚するならば、たとえ臨終の時であろうと、
 人は、神聖なる意識における永遠の自由を獲得する。


この肉体に宿るものは、
 少年期、青年期、老年期へと移っていくのと同じように、次の肉体へ移っていく。

 賢者は これに惑わされはしない。

(五感の)対象との接触から、寒さや暑さ、喜びや苦しみ(の経験)が生じる。

 それらは、来ては去っていく無常のものだ。 

 それらを 耐え忍べ・・・

これら(の接触)に悩まされず、喜びや苦しみの中でも、
 心の平静を保ち揺るがぬ者、実にそのような人が不死を得るにふさわしい。

実在でないものが存在することはないし、
 実存であるものが存在しなくなることもない。

究極の「実在」を見る人たちは、
 これら二つのものの最終的な真理を、このように認識する。

これら一切に浸透する「それ」は、実に破壊することができない。

だれも、この不変の「存在」を破壊することはできない。

これらの肉体には終わりがあると知られているが、
 肉体に宿るものは、永遠であり、不滅であり、無限である。


 五感と 心と 理知とは、欲求の座であると言われる。

欲求は これらによって英知を覆い、肉体に宿るものを惑わせる。

したがって、まず第一に 五感を整えて、
 理知と 悟りの破壊者である この悪を振るい落とせ。

五感は 精妙であると人は言う。

五感よりさらに精妙なのは 心であり、心よりさらに精妙なのは 理知である。

しかし、理知でさえも超えているのが 「 真我 」 である。

このように、理知を超えた 「 真我 」 を知り、
その 「 真我 」 によって自己を静めて、
武勇すぐれた者よ、
欲求という形をとった征服しがたい敵を打ち倒せ。


「真我」にのみ喜び
「真我」にのみ満足し
「真我」にのみ楽しむ人

このような人にとっては、なすべき行動は何もない。

このような人には、すでになした行動からも、
 まだなしていない行動からも、この世で受け取るべき利益は何もない。

また、いかなる目的のためにも、何ものにも頼る必要がない。

それゆえ、執着のない状態にとどまり、常に、なすに値する行動をせよ。

まことに、執着なく行動に従事する人は、 「 宇宙根源の意思 」 に到達する。

偉大な人が 何かをすれば、他の人々も同じことをする。

偉大な人が 何か規範を示せば、世間の人々もそれに従う。

「 真我 」 にとって、過去・現在・未来の三界においてなすべき行動は何もない。

また、得るに値するもので、まだ得ていないものも何もない。

それでも、 「 真我 」 は行動に従事している。

 愚か者は 行動に執着して行動する。

賢者は、行動に執着している無知な人たちの心を混乱させてはならない。

賢者は、「 存在 」 に立脚し、正しく行動に従事しながら、
 無知な人々が あらゆる行動をするように、彼らを導くべきである。

行動は、いかなる場合にも、「 自然本性 」 によってなされる。

『 私が 』 という思いによって
 心が惑わされている者は、 『 私が行為者である 』 と考える。

「 自然本性 」 に惑わされた人たちは、行動に執着する。

全体を知る人は、部分のみを知る無知な人たちを混乱させるべきではない。


執着と 恐れと 怒りから離れ、
「 真我 」に 溶け込み、
「 真我 」の中に 安住の地を見いだし、
英知の苦行で 清められて、
 多くの人は 「 真我 」 の 「 存在 」 に達した。

人々が 「 真我 」 の元にやってくれば、
 「 宇宙根源の意思 」 はその人々に恩寵を与える。

いずれの道を通っても、人々は 「 真我 」 の道をたどる。

行動は 「 真我 」 を巻き込まない。

また、 「 真我 」 には 行動の成果に対する切望はない。

「 真我 」 を このように真に知る人は、行動に束縛されない。

これを知って、開放を求めた古代の求道者たちでさえ行動した。

それゆえ、古代の先人たちと同じように、あなたも行動せよ。


実に、行動について理解すべきである。


誤った行動についても理解すべきである。


また、無行動についても理解すべきである。

 ・・・行動の道のりは 計りしれない。

行動の中に無行動を見、
 無行動の中に行動を見る人は、人間の中の賢者である。

そのような人は 統一されており、一切の行動を 成し遂げている。


あらゆる企てが、
欲求とその誘因から 自由になっている人、
行動が 知識の火で焼き尽くされた人、
そのような人を 「 実在 」 を知る人たちは 賢者と呼ぶ。

行動の成果への執着を捨て、常に満足しており、何ものにも依存しない人は、
 たとえ 行動に完全に従事していようとも、まったく行動していない。

何も期待せず、情の心と理性の心を調え、あらゆる所有を放棄して、
 肉体のみによって行動をなすとき、その人は罪を犯さない。

何であれ 求めずして来るものに満足し、
相対するものを 越え、
ねたみから 自由になり、
成功にも 失敗にも 平静を保つ人は、行動しても束縛されることはない。

執着から自由になり、解放され、
 心が英知に確立し、行動する人、そのような人の行動は 完全に消滅する。

敬意、問い続けること、そして奉仕によって、
 「 実在 」 を経験した知識の人は、あなたに智慧を授けると・・・

これを知れば、あなたは万物をあなたの 「 真我 」 の中に、
 そしてまた、 「 自然本性 」 の中に見るであろう。


信頼を抱き、目的に専念し、五感を制する人は、知識を得る。

知識を得て、その人は速やかに最高の平安に達する。

しかし、知識なく、信頼を持たず、疑い深い性質の人は滅びる。

疑い深い人にとっては、
 この世も 他の世界も、また、いかなる幸福もない。

瞑想によって 行動を放棄し、智慧によって 疑いを打ち砕いて、
「 真我 」 を所有している人、そのような人は 行動に束縛されることはない。

それゆえ、無知から生じて情の心に根を下ろした
 あなたの この疑いを、智慧の剣で断ち切って、自身をよりどころとせよ。

実に、この世には純粋な心、正しき智慧ほど 浄化力のあるものはない。

瞑想を完成した人は、やがて自ら、自己の中にこれを見いだす。


瞑想に専念し、精神が純粋で、自己を完全に支配し、五感を征服した人、
自己が 万物の 「 真我 」 となった人、
そのような人は、行動の最中にあっても、それに巻き込まれることはない。

「 神聖なるもの 」 と 「 合一 」 し、真理を知る人は、
 「 私は何もしていない 」 と言う。

見、聞き、触れ、嗅ぎ、食べ、歩き、眠り、呼吸し、話し、排泄し、つかむとき、また、目を開き、目を閉じるときでさえも、ただ五感が五感の対象の中で活動しているにすぎないと考える。

すべての行動を普遍の 「 存在 」 にゆだね、
 執着を捨てて行動する人は、罪に汚れることがない。

あたかも、蓮(はす)の葉が水に濡れることがないように。

身体により、心により、理知により、あるいは、単に五感のみにより、
 瞑想者たちは、執着を捨て、自己浄化のために行動する。

「 神聖なるもの 」 と統一された人は、
 行動の成果を捨てて、永遠の平安に達する。

「 神聖なるもの 」 と統一されていない人は、
 欲求に駆られ、行動の成果に執着し、堅く束縛されている。

一切の行動を心によって放棄して、
 身体に宿るものは、九門の都において幸福の中に安らぐ。

 行動することも、行動を引き起こすこともなく。

尊主は、行為者としての立場も 万物の行動も 創造することはない。

また、(行為者と)行動と その成果との間の 結び付きも創造しない。

 「 自然本性 」 がそれをなしている。

地上のこの生命においてさえも、
 宇宙は、心が平静に確立された人たちによって征服される。

実に、欠如なく、いたるところに平等に存在するのは 宇宙根源の意思である。

それゆえ、彼らは 宇宙根源の意思に立脚している。

好ましいものを得ても 過度には喜ばず、
好ましくないものを得ても 深くは悲しまない人、
理知が安定し、迷いから開放された人、
彼は 宇宙根源の意思を知る人であり、
宇宙根源の意思に立脚している。

自己が外界との接触に影響されない人は、
 「真我」の中のあの幸福を知っている。

宇宙根源の意思との「合一」に
 自己がつながっている人は、永遠の幸福を楽しむ。

接触により生じる喜びは、すべて悲しみの元になるにすぎない。

それらには始まりがあり、終わりがある。

悟りを得た人は、それらに喜ぶことはない・・・

肉体から開放される前の、ここにおいてさえ、
欲求や 怒りから生じる興奮に耐えられる人は、
「 神聖なるもの 」 と統一されている。

 彼は 幸福な人である。

内側に幸福があり、

内側に満足があり、

内側すべてに光がある人、

そのような瞑想者は、宇宙根源の意思と一体であり、
 神聖なる意識における永遠の自由に到達する。

罪を破壊し、疑いを打ち払い、自己を制御し、
万物に対し善をなすことを喜ぶ見者(真理を洞察した賢者)たちは、
神聖なる意識における永遠の自由に到達する。

欲求や怒りから自由になり、想念を調え、「真我」を悟り自らを律した人は、
 あらゆるところに、神聖なる意識における永遠の自由を見いだす。

外界との接触を外側に残し、視線をまゆの内側に保ち、鼻孔を流れる入息と出息のバランスをとり、
五感と心と理知を制御し、解放を目指し、欲求と恐れと怒りが去ったそのような賢者は、まさに永遠に自由である。


五感の対象と行動に執着せず、
 欲求の誘因をすべて捨て去ったとき、そのとき初めて、人は 瞑想者と言われる。

「 真我 」 によって自己を 高めるべきである。

自己によって 「 真我 」 を低めてはならない。

実に、自己のみが 自己の友であり、自己のみが 自己の敵である。

自己を 「 真我 」 によって征服した人だけが、自己を 自分の友とする。

しかし、自己を 征服していない人の 「 真我 」 は、敵のように対立する。

自己を征服し深い平安の中にある人にとって、
 超越的な 「 真我 」 は、暑さにも寒さにも、喜びにも苦しみにも、名誉にも不名誉にも動じない。

智慧と経験に満足しており、揺るぎなく、五感を支配し、
土も石も黄金も平等視できる瞑想者は、統一されていると言われる。

好意ある人や友人や敵に対して、
無関係な人や中立的な人に対して、
憎むべき人や親族に対して、
また、聖者や罪人に対して、偏りのない安定した理知を保つ人は優れている。


瞑想者は 常に 自分自身を落ち着かせるべきである。

静かな所で、ただ一人、心身を制して、何も期待せず、所有を離れて・・・

清らかな場所に、高すぎず、低すぎず、
 堅固な座を設けて、聖なる草と鹿皮と布とを敷き重ねて・・・

そこに座し、心を一点に向け、五感と想念の活動を制して、
 自己浄化のために、瞑想を実践すべきである。

しっかりと、体と頭と首とをまっすぐに静かに保ち、
 鼻の前方に視線を向け、どの方向も見ることもなく・・・

自らの存在を深く平安に導き、

恐怖を離れ、

純潔の誓いに安定し、

心を制し、

想念を、” すべてと 同一となっている 真我 ” にゆだねて、
統一の状態に座し、「 私 」 は、「 真我 」 と悟るべきである。

このように常に自分自身を落ち着かせ、
 心を調えた瞑想者は、平安に達し、「私」の中にある最高の解放に達する。


実に 瞑想は、過度に食べる人のものでも、まったく食べない人のものでもない。

過度の睡眠を習慣とする人のものでも、目覚めたままでいる人のものでもない。

食物と休養を適度にとり、行動において適度に努力し、
眠りと目覚めを適度に保つ人、悲しみを破壊する瞑想は、そのような人の為にある。

心が完全に静まり、「真我」のみに確立されているとき、人が一切の喜びへの
 渇望から離れているとき、そのとき、彼は統一されていると言われる。

「風のない所の揺るがない灯火」想念を制し、
 「真我」との「合一」を実践する瞑想者は、このように例えられる。

想念が 瞑想の実践により静まって退き、人が「真我」のみにより
 「真我」を見て、「真我」の中に満足を見いだす、その瞬間・・・

限りない喜びであるそれ、
五感を超えたところにあり、
理知によって得られるそれを知り、
それに確立されれば、まことに揺らぐことなく、

それを得れば、
それに勝る利益はなく、
それに確立されれば、
大きな悲しみにも動かされない。

悲しみとの合一からのそのような分離が、「合一」という名で呼ばれると知れ。

堅い決意とふるむことのない心をもって、この瞑想を実践すべきである。

誘因を生み出す欲求を、すべて残らず放棄して、
 心のみによって、あらゆる方面で五感の集落を制御して、

忍耐を備えた理知を通して、徐々に退くべきである。

心を「真我」に確立して、何も考えるべきでない。

気まぐれで不安定な心が、いかなる理由でさまよい出ようとも、
 そこから退いて、「真我」のみの支配下に心を導くべきである。

なぜなら、最高の幸福は、
心が深い平安の中にあり、
活動への刺激が静められ、
汚れがなく、
宇宙根源の意思と一体になった真我に訪れるから。

このように常に自分自身を落ち着かせ、汚れ(けがれ)を離れた瞑想者は、
 宇宙根源の意思との接触を容易に達成する。

 それは無限の喜びである・・・

自己を瞑想に確立し、
あらゆるところに平等な見方をする人は、
万物の中に「真我」を見、「真我」の中に万物を見る。

「真我」に匹敵するものとして、喜びであれ、苦しみであれ、
 すべてに対して平等な見方をする人は、最高の瞑想者であると見なされる。


疑いなく、武勇すぐれた者よ・・・

心は動揺し、制御し難い。

しかし、実践と無執着とによって、それはとらえられる。

瞑想は、自分自身を律しない人にとっては達成し難い、と「私」は考える。

しかし、自分自身を律した努力の人は、
 適切な手段を通してそれを達成することができる。

瞑想は、苦行者よりも優れ、
 さらに知識をもった人よりも優れているとされている。

また、瞑想者は、行動の人よりも優れている。

 ・・・それゆえ、瞑想者であれ・・・


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