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Meditation 『 瞑想 』コミュの 摩訶般若心経 ( 空の三諦 )

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般若心経は 紀元300年から400年の間に成立した経典です。

釈尊は 原始経典 『 ダンマパダ 』 という経の中で、
 「 一切の形成されたものは空である(一切皆空) 」 と説かれました。

般若経典の手引きである龍樹 ( 紀元150〜250 ) の
 『 中論 』 の ” 空の三諦 ” について お話しさせていただきます。

 〜 空性 (空=涅槃)について 〜

釈尊は、私たちが 迷いの生存(輪廻転生)の根本に 無明を覚知しました。

無明とは、自分と他人、あるいは、世界にあるいろいろなものを
 分別して捉えようとする先天的な心の働きのことをいいます。

自己と他者、善と悪、正と邪、
 今、私たちが生きている世界を 『 二元対立的思考 』で 捉える働きです。

釈尊、龍樹、般若波羅蜜の修行者は、禅定の修行により、
 この分別の働きを止滅させ、『 二元対立的 』 なこころの働きを
 深く理解することによって、涅槃 ( 寂静 ) の境地に 達したのです。

『 中論 』 には 自らの達した境地について
 「心の対境が滅したときには、言語で表されるものもなくなる。
 というのも法性は不生・不滅であり、涅槃の境地のようだからである。」
 ・・・と説かれます。

般若経には、「 心の本性は 清く輝いている 」 と説かれています。

この 「 清く輝く心 」 という涅槃の境地から説かれた教えが
 般若心経であり、それは、私たちのこころの真実相でもあるのです。

涅槃の境地では、自分と対立させて捉えるのは何もありません。

この境地から観れば、
 すべてのものが ” 無である ” ということになるのです。

『 無 』 ということは、すべてのものと一体なので、
 真実の平等を観じ、何ものも自分と対立させて捉えることができない。
 という意味なのです。

死後の世界等に なんら捉われることなく、
 三世 ( 過去・現在・未来 ) を 自由自在に闊歩する境地といえます。

 〜 空義 (空=縁起)について 〜

空性の境地から 世界をもう一度見ると、すべての存在が、
 相拠って 相互に関係しあいながら 存在していることがわかります。

般若における縁起とは、
 「 あらゆるものは 相互に連関し、依存しあっている 」
 ・・・という縁起を意味しています。

私の生命が、時間的にも、空間的にも、
 あらゆる生命と 存在との結びつき、相互依存的に存在しているのです。

自分というものは、ひとりで生存することはできず、
 宇宙の中で、すべての存在に支えられ生きているのであり、
 また私という存在が、すべての他者の幸福の因とも縁ともなっているのです。

 〜 空用 (空=無限の慈悲) 〜

龍樹は 大智度論において
 慈悲には、「 衆生を縁とする慈悲 」
 自然の法則に回帰する 「 法を縁とする慈悲 」
 諸法実相である空を観じて行なう 「 無縁の慈悲 」
 の三種があることを 明かしています。

「 無縁の慈悲 」 にあっては、空観による有無の対立をはじめ
 一切の対立を離れた境地から、ありとあらゆるものを見ることになります。

縁起 = 空の関係性に目覚め、他者に対して 慈しみの心を起こす時、
 我執は 根絶され、他者の真実の心を 見ることができ、
 それは、自身の心を さらに清浄にすることになります。

摩訶般若心経は、
 すべての問題を 根底から解決する教えなのです。


コメント(4)


きのう、覚醒ワークにて、
 『 空 』 についての お話が出たのですが、
 『 空 』 について書かれている文献は、般若心経くらいしかないのです。

般若心経を 詳しく勉強され、文献に残してくれた方が
 龍樹 ( 紀元150〜250 )という人なんです・・・

般若心経は、残念ながら・・・
 『 二元対立的思考 』 では、真の意味を読み解くことはできません。

『 二元対立的 』 なこころの働きを 深く理解することによって、
 体験や 経験のなかで、真実の実在を明確にしてゆくことで
 ようやく分かってくる智慧 ( 般若 ) なのです。

 観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空 度一切苦厄

この部分で、般若心経については、すべてが書かれています。

最後に書いてある真言が、もっとも重要だ! といっている人達は、
 残念ながら、まだまだ、般若心経の本当の意味を知りません・・・

最後に書かれてある真言は、
 「 さ〜!無を求め、無の境地に向かいましょう! 」 という
 意思表明なのですから、そんなものを唱和しても、無にはなれないのです。


さてさて・・・
 では、とても重要な部分を 解説してゆきましょう・・・

「摩訶」という言葉は、
 「偉大な」「大いなる」「優れている」という意味があります。

「般若」とは、一般には ” 智慧 ” のことをいい、
 いろいろな修行の結果として得られた 「 気づき 」 のことをいいます。

「波羅蜜」とは、菩薩の基本的な実践徳目
  実践徳目には、六波羅蜜(ろくはらみつ)十波羅蜜(じっぱらみつ)
 などがありますが、全体としての徳目は六波羅蜜であるように思います。

また、『 仏説五十頌聖般若波羅蜜経 』 においては、
 般若波羅蜜と 八正道等の実践が ひとつだと説かれ、
 簡潔に 仏教の実践項目や 倫理が説かれています。

龍樹は『宝行王正論』においてこの6項目を
 布施・持戒 -「利他」
 忍辱・精進 -「自利」
 禅定・智慧 -「解脱」
 ・・・というように、三つの事柄にまとめて説明しています。

故に、八正道を行ってゆくうえで、気づいた偉大な智慧である!
 ・・・ということが、般若心経には書かれているんですね!


そんでもって、お釈迦様の弟子の一人 舎利弗 ( しゃりほつ ) が、
 菩薩に、「 その教えをぜひ! わたしに説いてください! 」 といって、
 菩薩は、「 うん! いいよ! 教えてあげるから、よく聞いてね! 」
 ・・・と言ったか、言わないかは 定かではありませんが・・・

観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空 度一切苦厄
 ・・・というように説いたのでした・・・

 ではでは、本題に戻ります・・・

菩薩というのは、上記でも述べたように、
 菩薩の基本的な 実践徳目を修養することにより、
 真実の実在を 明瞭にした者のことをいっています。

「 観る 」 ことによって 「 自在 」 になった 修養者ということですね!

「 自在 」 という言葉には、解脱という意味があります。

縛り付けて居る者は、自身のなかにある
「〜したい」「〜なりたい」「〜するべきだ」「〜しなければならない」
 というものですので、自身から解放されたことを 「 自在 」 といいます。

「 観る 」 とは、なにを観るのか? というのも、
 縛っている自身、縛られている自身に気づくということになります。

木彫りのお人形さんに、手を合わせていても、
 残念ながら、菩薩に 救われることはありません。

菩薩というのは、実践することにより、
 自身のなかに、見出してゆかなければならないものなのです。


さてさて、どんどん次に進んでゆきます・・・

 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空 度一切苦厄

「 行 」 というのは、「 生きてきた様 」
 「 いま現在生きていること 」 を意味しています。

いままで、生きてきた様、いま現在生きていることを
 深く見つめることによって、気づきを得たことによって
 真理を見つけることができちゃいました! ということをいっています。

『 空 』 というのは、
 すべてと一体なので、比べるものがありませんので、その実証は、
 消去法によって、「 ○○ではないもの 」 というように書かれています。

「 照見 」 というのは、
 はっきり照らして見る、はっきりと分かるということです。

「 五蘊 」の蘊とは、「 集まり 」 という意味があり、
 人間の肉体と 精神を 五つの集まりに分けて説かれています。

・色蘊 肉体を含む「物質的」構成要素。目に見えるものの世界。
・受蘊 見る、聞く、触るといった感受作用。
・想蘊 心に想う表象作用(受け取ったものに対して何かを想う)
・行蘊 能動的な働きである意思作用
・識蘊 分別や判断などの認識、概念作用

「 皆空 」 すべては、「 空 」 である 
「 度 」 渡る、乗り越える
 
「 一切苦厄 」 すべての苦しみ、悩み

自身のなかにある 五蘊への執着、こだわり、わだかまりを理解して、
 それもあるが、特に、そこにはとらわれずに、よくよく観てみれば、
 すべての苦しみや、悩みは、そんなところにあったことが分かる・・・

そこからは、消去法によって、
 その境涯は、「 ○○ではない・・・ 」 「 ○○ではない・・・ 」
 というように、いろいろな方向から、その境涯を書いているのです。

 

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