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東淀川ウォーカーコミュの近代の淡路

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淡路の近代
大正10年4月1日「淡路増島駅」 今の「淡路駅」がつくられました。
 西中島村増島地区の百戸ばかりの人家が点在する田園の真ん中にできました。
 旧東海道線の一部を利用して、十三、淡路、豊津間に北大阪電鉄線が敷設され今の2、3号線ホームの位置が乗降場所、電車は「トンボ電車」と言われたP1型、小型の単車で3台が往復していました。
 乗降客は300人前後でした。
 大正14年、大阪市に編入し、新淀川北岸12ケ町村が大阪市に含まれました。
 しかし区内に新淀川があるために、行政上不便だということで、区役所出張所が設けられました。
 旧西中島町役場、今の東淀川区役所淡路出張所のことです。
 昭和15年4月に国鉄東淀川駅が開設され、同年9月には淡路商昌会(東淀川商経会の前身)が結成されました。
 昭和16年1月には下新庄町に「鳩ケ瀬児童公園」ができました。
 同年4月新学期から国民学校令により、東淡路、西淡路両国民学校が生まれました。
 同年8月、柴島警察署が淡路警察署となりました。
 昭和20年6月7日、B29が飛来し、空襲によって柴島水源地の沈殿池が破壊されました。
 送水ポンプ場や主要幹線もこわされ、市内全域の送水が止められました。
 15台の給水車が応急配給したが焼け石に水、消毒剤を配って、井戸水や貯め水を上水として使いました。
 終戦後はいち早く「映画館」や「パチンコ店」そして商店街が立ち直り、街に活気が出てきて、すさんだ人々の心に、生きる勇気の灯をともしました。
 阪急電車が淡路地区を東西に分断、地域の再開発の手も入りませんでした。
 しかし、周辺の住宅化が進み、淡路の商店街は伸びていきました。
 歴史とともに「人情豊かな庶民の街」として、今日の礎を作りあげたのです。
 鈴蘭灯もつき、商店会主催の歌謡コンクールや盆踊りが行われ、それは賑やかな街となりました。
 駅前の空地にできた青空劇場「淡路座」は、周囲に板を張り巡らせ、中央に舞台を、こんなところで毎日大入りの大盛況でした。
 商店街通りの舗装と下水道工事が同時にすすめられました。
 パチンコ機200台という大パチンコ屋が出現しました。
 駅前の角川電気店では17インチのTVが店頭に据えられ、区内で2台目(もう1台は十三に)の人気は、ものすごいものでした。
 商店街は、蛍光燈を軒並みつけて一気にそれは、それは、明るい商店街となりました。
 この頃、郷土の代表として、浪商野球部が甲子園に出場し、準優勝を果たし大祝賀会が催されました。
 昭和30年代、国次町の地番変更が進み、東淀川区役所が十三に移転、淡路地区は同格の出張所がつくられました。
 この頃、新幹線工事反対の住民運動が始まりました。
 昭和40年代、淡路東宝劇場に隣接して、スーパー「いづみや」が進出しました。
 阪急淡路駅の新しい地下道が開通し混雑か解消されました。
 「淡路まつり」東西の商店街とスーパー・市場・銀行も参加して、謝恩の催しを行いました。

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