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東淀川ウォーカーコミュの法華寺

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 柴島にある法華寺にいきました。
<法華寺1>
 天平勝宝山法華寺は、741(天平13)年聖武天皇の勅願寺だったこと、尼僧10名が常住し摂津法華滅罪之寺と呼ばれたこと、全盛期には七堂伽藍に十二坊、舎利塔が建ち並び本尊が釈迦如来であること、聖武天皇の次の孝謙天皇が田畑40畝を寄進した記録が残ることなどから、摂津国分尼寺の跡とされています。(写真1は阪急千里線柴島駅近くの法華寺です。)
法華寺の境内は、東門は毛馬、南門(楼門)は北野、西門は東淀川区西町に及ぶ広大な寺域を占め、七堂伽藍はもとより十二坊、舎利塔、放生池などもあったらしい。いまこの遺跡として薬師堂町の薬師堂(現在は柴島中学校裏門前)と寺内に石経を埋蔵した石の五重塔と当寺の伽藍の礎石三個が存在しています。 その後、長い年月の間に衰退しました。そして一旦廃絶したのを1406(応永13)年に了庵彗明が再興し、禅宗に改宗しました。『言経卿記』天正4年(1576)4月の条には「摂州柴島法花寺」の霊宝である聖武天皇の御影・綸旨・武家奉書などを禁裏で見たとあります。1639(寛永16)年吉田忠次が字法華寺にあったのを字北寅に移し再建しましたが、1914(大正3)年柴島浄水場建設のため三分の一に縮小されて、字惣作から現在地に移転しました。しかし、戦災に遭い、その後、再興の本堂もジェーン台風にて倒壊しました。
(写真2は境内に移された塔心礎と礎石)
 現在、法華寺境内に塔心礎と礎石(造出の柱座を持つ)3個があります。また、 爪引地蔵は地蔵堂に鎮座しています。高さ1.8m、幅1m、厚さ50?ほどの不整形な花崗岩の自然石に線刻されています。弘法大師が爪で刻まれたといい、顔を左に振り向け、錫杖を右肩に担ぎ、法衣をなびかせた「見返り姿形」です。これは地蔵が民衆を救済するため町中に出かけたところ、誰も気付かず、仏の救済にももれた気の毒な人をみつけ、思わず振り向いて手を差し伸べようとする瞬間の動きを表現しているそうです。鎌倉時代の作とみられ、淡路にあったのを信者吉田忠次が寛永16年(1639)法華寺再興の折、移したものです。なぜか眼病に霊験あらたかといわれました。(写真3は摂津国分尼寺を示す標石)

コメント(1)

(法華寺2)
 1945年6月7日の空襲はこのあたりの淀川両岸を火の海にしました。本堂裏にある歴代住職のお墓も大火の跡を示しています。
 法華寺は、昔は広い土地に七堂伽藍をはじめ十二坊をもつ大きな寺でした。淡路駅の近くに東淡路公園がありますが、ここは西心坊池だったところで、昔西心坊というお寺がありました。また、天平年間に行基が開いたと伝え、薬師堂村の村名の由来ともなった薬師堂は摂津国分尼寺の一院ではなかったかと推定されています(写真は柴島中学付近にある薬師堂。薬師堂廃寺ともいう)。

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