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東淀川ウォーカーコミュの江口は難波江口

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 江口は難波江口
 寂光寺の前に碑があり、「この地は平安時代のはじめ、淀川と神崎川とが結ばれてから、交通の要地として栄え、特に鎌倉時代寂光寺は江口の君と西行法師との歌物語で、文学上にも聞こえる」と記されています。
 「日本書紀」の推古天皇の16年6月15日条などにみえる「江口」「難波江口」を東淀川区の江口とみる説があります。
 淀川を上下する川舟に、瀬戸内海を往来する海船から乗り換える場所でした。
 淀川はここで大きく南に曲がっているので、西風を防ぐのに都合の良い碇泊地だったと思われます。
 また古書に「大河尻ともいふ」とあるので、河口だったことは明らかです。
 菅原道真は、「川尻の江口に立ちて芦鶴の 鳴くなる声を我に聞かせよ」と詠んでいます。
 紀貫之の『土佐日記』にも、「七日、けふは川尻に舟入り立ちて漕のぼるに河の水ひてなやみ煩ふ。八日、なほ河のほとりになづみて、鳥飼の御牧といふ辺りにとどまる」と誌されています。
 推古天皇16年(608)に随の使節が来朝した時、30隻の船を仕立てて賑やかに江口で迎えさせたとあるので、大昔から利用されていたことがわかります。
 その頃は三国川(現、神崎川)はまだ淀川とつながっていなかったので、外国の要人は天満川を遡って江口へ着いたのでしょう。
 桓武天皇延暦4年(785)に、江口から新庄までの運河が完成、干満激しく無数の小島が散乱し、波の荒い、本当に難波にふさわしかった大坂湾から天満川へ出る困難は解決され、貨物の増加もあって江口は大いに繁栄しました。

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 寂光寺
宝林山普賢院、日蓮宗妙経寺末寺、本尊釈迦多宝二仏、通称江口の君堂は南江口町3丁目にあります。
 寺伝では出家した妙こと妙前光相比丘尼が、元久2年(1205)3月14日、普賢菩薩に様を変えて西に傾く月と共に白象に乗って去ったので、弟子の尼僧たちが屋敷跡に宝塔を建てて改め、宝林山寂光寺と命名したことになっています。
 時に妙は80歳だったそうですが、これが正しいのなら西行と歌問答した時は42歳になります。
 元弘、延元の乱で焼失しましたが、明応年間(1492〜1501)に赤松丹波守が重体の折、焼け残った普賢菩薩像を信仰すると、奇跡的に平癒したので信者は多くなり、正徳年間(1711頃)普門比丘尼が再建、それまでの天台宗を日蓮宗に改めました。
 複層方形造りの本堂はその時のもので、600坪ほどの境内には約40種の樹木が茂り、代々尼僧が住持してきたせいか、佇まいは市内にまだこんな情緒が残っていたのかと感嘆するほど優雅な寺院です。
 寺宝の「江口の君縁起」巻物は、『撰集抄』を拠り所に江戸時代に作られたものらしく、本堂には日蓮上人像、右に江口の君像、左に鬼子母神像があり、鬼子母神像は出産、育児の神として信仰されています。
 江口の君像は尼僧姿の座像で、穏やかで福々しい面相と緩やかな線はみごとです。
 他に狩野元信が描いた「妙の前」という肖像画もありますが、これはどうみても遊女に見えません。
 戦国時代の武将の夫人像のように気品に溢れています。
 また西行真筆の色紙、妙の前自筆和歌色紙、多くの著名文学者の色紙等もあります。
 渡しまつ江口となりぬ枯尾花 奇渕
 やどれとは御身いかなる一時雨 梅翁
 白象となるや江口の船の雪 宗貞
 初秋や江口の後の門徒衆 百里
同寺蔵の西行真蹟歌は、次の通りです。
 山ふかくさこそ心はかよふとも すまであはれは知らむものかは 西行

西行・妙の歌塚
境内に建っている大きな角柱の碑で、正面に「南無妙法蓮華経」というお題目が独自の髭文字で肉太に刻まれ、両側に西行、妙の贈答歌が実にいい書体で記されています。
 もとは歌塚と呼ばれて中津川堤に建っていましたが、明治三十九年の淀川改修の折ここに移しました。
 元の場所は今は川底ですが、ひょっとしたらその辺りが妙の本当の侘住まいの跡だったのかもしれません。

西行・妙の供養塚
本堂左の小さな二基の五輪塔が西行・妙の供養塚です。
 右の高い方が妙の墓で、小さい方が西行の墓です。
 元久二年(一二〇五)三月一四日の字刻がありますが、大正六年(一九一七)七月に建立したものです。

江口の鐘
鐘楼にあるのがそれで、淀川を往来する川船は、この美しい音色に諸行無常を感じ、思わず襟を正したといいいます。
 鐘というのはもともと龍宮城にあったが、仏性を持たせるため仏が持ち出したといわれ、その音色は邪念妄想を払い、報恩感謝の善根功徳を誘発します。
 遊女の里であっただけに江口では、いっそう人々の胸奥を打ったことでしょう。 戦時中供出させられましたが、昭和二十九年八月再鋳、江口の君八百年法要を兼ねて再び楼に納まりました。
 鐘面に次の七俳人の句が刻まれています。
   くまもなき月の江口のシテぞこれ  虚子
   菜の花も減りし江口の君祭    夜半
   梅雨茸も小さく黄に君の墓    木国
   早乙女の笠預けゆく君の堂    青畝
   十三夜ともす君堂田を照らし   若沙
   鳥威しきらりきらりと君堂に   素十
   冬鵙や君の堂へと水に沿ひ    年尾 

常磐津塚
 境内の鐘楼前に常磐津塚があります。
 常磐津というのは浄瑠璃節の一つで、大阪では竹本義太夫の義太夫節が有名ですが、東京では常磐津が盛んです。
 この流祖を文字太夫といい、彼は京都の出身で宮古路豊後掾の弟子でしたが、江戸に下り、豊後節が禁止されてから大変苦労して39歳頃新しいリズムをもった常磐津を創造しました。
 半ば語り半ば唄うわかりやすいもので庶民にも愛好され、舞踊にも適し、歌舞伎とも結びついて大流行しました。
 大正の末頃七世文字太夫が見台を阪地に進め、大阪でも隆昌していきます。
 昭和32年は七世文字太夫の7回忌に当たるので、彼の功績を顕彰して建立した格好の良い塚です。

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