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「名もなき詩人」同好会コミュの最高裁上告にあたっての申し立て書

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平成26年(う)第168号事件上告にあたっての申立て書 全ての司法者の皆様へ
                           名もなき詩人こと関千尋

このたび控訴審の判決を受け上告するにあたり、申し述べておきたいことがいくつかあります。まずは、控訴審の費用を免除していただいたことには感謝を申し上げます。何かと制約的なしがらみに囚われ、憲法には明記されているものの、独立した良心をもって判断することが非常に困難な裁判官様の実情において、ささやかながらも精一杯の良心を示していただいたものと感じております。私はこの裁定を「私には荷が重いのでパスします。だからお金は取りません。もっと上で審議してください。」というメッセージだと受け止めました。最高裁は日本の最も崇高な正義が存在している場所であると期待しています。全国の大勢の人々がこの裁判を見守り、裁判官様の良心の発現を心から待ち望んでいます。なにとぞ、国民の期待を裏切らぬようにお願いします。
意見陳述や控訴趣意書などで何度も述べているように、私はこの裁判を私一人のものとは考えておりません。私は、この文を読んで下さるあなた方司法者だけでなく、この時代に生きる全ての方に、決意すること、選択することを要請したいのです。今や地球は愚かで破滅的な人類の諸行で汚れ傷つき、環境汚染は生存不可能な状況に急速に向っており、このまま無策に自暴自棄的に現在の社会システムを継続して行けば、人類滅亡がいよいよ現実的になっていくでしょう。本当にそれでいいのか?私は世界中の全ての人に問いかけたいのです。私たちは心を通じ合わせ、愛と喜びを分かち合って、地球環境を改善し、正しい人類進化の道を進むことができる知恵と力を持っているのに、それを使わずに、このままこの愚かでくだらない世界を継続していくのですか?
こんな問いかけをすると、多くの方は、「自分は生きることに精一杯でしかも無力だ。協調的で希望のある世界はもちろん心から望んでいるが、それは私の力ではどうにもならない」と、あきらめ顔で言います。多くの人々は、自分の可能性というものをすっかり忘れてしまっているのです。それは、それぞれの人の人生が、いかに辛く苦しく、喜びも希望もないものかということを、自ら暴露しているようなものです。絶望は、自分の可能性に気付けないほど実りの少ない人生を生きてきた証しなのです。人生はそんなものだ、それ以外に選択は無いのだと、教育を通じて、テレビや漫画雑誌を通じて、仕事や対人関係や政治政策を通じて、宗教を通じて人々は思い込まされています。私はそんな人々の目を覚ましたいのです。さあ早く目を覚ませ!あなたが眠っているから、あなたが良心を眠らせているから地球は悪くなっていくのだ。目の前に喜びが見えているのに、なぜあなたは選択しないのだ?なぜ喜びに生きる決意をしないのだ?と。

先日、父が保存していてくれた私の小学3年の時の宿題ノートを見ました。今から四十年も昔のものです。そこには、国語の書き取りで「この地球上で人類だけが自然を制御し利用する力をもっている」と書かれていました。こんな傲慢な思い上がりを私たちは子どもの頃からすり込まれていたのです。「人類は自然を制御できる」などと、東日本大震災を経験した今、臆面もなく言える者など一人もいないでしょう。しかし、「人類はそれが判らないほど馬鹿なのだ」と言われれば、多くの人は腹を立て、目を吊り上げ「そんなことはない!人類は賢いのだ!」と言うかもしれません。
「人類はいつか火星に住めるようになるくらい賢いのだ」という信念に人生を捧げている人がいます。私は絶対に無理だと助言させていただきます。それは簡単に言えば、臓器移植と同じ理屈です。たとえば、不治の病を患う人がいて、心臓だけどこか他の場所で生き延びさせたいと考え、他人の体に移植したとします。この心臓は生き延びられるでしょうか。というか、これまでの環境を離れてしまって、快適さを維持できるんでしょうか。まあ無理でしょう。「人類はいつか火星に住めるようになる」という人は、自分が地球そのものであるということをすっかり忘れているのです。そこに気付いていなのです。
残念ながら、この気付きに達している人は今のところさほど多くはないように思います。人類の歴史を見渡せば、それは自分と世界とを切り分け、他者としての自然を思い通りに制御しようともがく人類の悪あがきの繰り返しでした。たとえばこんな話はいかがでしょう。
「津波を制御しよう。そうすれば海辺に近づいて生活できるから漁や貿易が便利になる。」そう考えた人類は防波堤を築きます。でも防波堤は限界がありますし、時間とともに崩れて行きます。「もっと高くしよう、頑丈にしよう。」人類は躍起になって防波堤の改修を続けます。それをあてにして、多くの住民が水際に住み始めました。もう後には引けません。人類はさらに躍起になって、自分のやりたいことも投げうって、ついには防波堤を守るために人生の大半を捧げることになります。「防波堤を造る作業員に何か見返りを」そう言ってお金が発明されました。「お金を分配したりするルールを造る人が必要だ」そう言って政治家が生まれました。
一事が万事、ざっとこんな感じで現代文明は進行して来たわけですが、果たしてこのような生き方は、生活の質という点でいかがなものでしょう。便利さを求めて海辺であくせくするよりも、最初から小高い場所に住んでのんびり生きたほうがずっと幸せだったのではないでしょうか?縄文時代、私たちはそんな生き方をしていました。地球と和解した生き方とでも言いましょうか。果たして当時の人類と、現代人とではどちらが賢いと言えるのでしょうか。現代人は日々発生する大量のゴミの山を抱えながら、完璧なエコロジー社会であった縄文時代を「科学の遅れた不便な社会」だと揶揄します。増え続けるゴミこそが現代文明に未来が無いことの明らかな証拠なのですが、多くの人々は、ゴミが目前から見えなくなると、いつか魔法のようにゴミが全部なくなってしまうかのような思考停止に陥り、悠長な忘却に浸るこの瞬間にも刻々と自然環境はゴミに変わっていきます。
現代文明は、人類のやみがたい試みではあったと思います。人はやってみなくては気の済まない生き物です。「とにかくどこまで自然を制御できるか、やってみよう」そんなチャレンジ精神は理解できます。「やれるとこまでやってごらん」と応援もします。でも今、この社会を冷静に見回して、私は「もうやめたほうがいいんじゃないか」と勧告するべき時が来たと感じます。政治家たちは言います、「いやまだ大丈夫だ、経済は成長できる!それしか道はない!」それを受けてマスコミも騒ぎ立てます、「経済成長はできる!できる!それしか道はない!」それを見て大衆は内心のあきらめを押し殺し、「まだやれる!それしか道はない!」と思い込みます。私は、そんな社会のありさまにカルト宗教と同様のおぞましさを憶えます。こんな感じで、人類は愚かさを反省することなく、それでいて自分達は賢いのだと慢心し続けます。気がつけば人類は、自分が何のために生まれたのか、何のために生きるのかをすっかり忘れてしまいました。大抵の現代人は人生とは防波堤を守ることなのだと信じ込んでいます。
なぜこのような愚かな世界に生まれてしまったのか。私は自問自答します。そしていつも同じ答えにたどり着きます。それは、人々が目覚め、自分の可能性をはっきりと自覚し、慢心の病から立ち直り、喜びの時代を迎える決心をし、歩き始める姿が見たいからです。多くの人が自分から率先して始めることを避け、一体誰が始めるのかと周囲を伺っています。全くもって、世の中は腰抜けばかりの集まりです。強く清らかな日本民族の心、大和魂を錆付かせてしまっています。まさしくそんな弱腰な態度こそが、宗教や教育といった、この社会のあらゆるくだらないものに自立心を明け渡し、意識の進化を怠ってきた結果なのです。臆病な人々に私は勧めます。あなたも大麻を吸いなさい。大麻は神の草です。日本民族の美しい魂を呼び戻すための最高の薬です。地球の恵みです。

人々の目覚めを促したいならば、自分自身がまずその姿を体現しなければなりません。昨年7月、一時停止を守らなかったと、パトカーが私の運転する車を停めた時、私は漠然とながらも現在の境遇を予測していました。自分に役目が回ってきた。そう感じました。所持している大麻を隠すこともできましたが、その気は全く起こりませんでした。しかし、心は震えていました。最後まで勇気を持って、清い心のままで役目を成し遂げられるだろうか、いつか後悔するような羽目にならないだろうかと心配でした。しかし今、逮捕、拘留、ハンスト、裁判、控訴という経過を終え、改めて思い返すと、あの時と比べて自分の輝きがますます強まっていることを感じます。私の選択は正しかったと断言できます。大麻はまさしく神の草であった、今までそしてこれからもずっと、私を助けいつ何時も勇気付けてくれることを、私は全く疑っていません。
もしも私が人並み以上に輝きに満ちた人生を歩んでいるとするならば、それは偶然でも、特別な力を持っているからでもありません。ただ、みなさんより自分自身を生きることに熱心なだけなのです。私の生き方に大きな影響を与えた1冊の書があります。「神との対話」という題名です。この書は、筆者が心の中の神に問いかけ、神は筆者の筆を通して答えるという手段で書き上げられました。そんなこと信じられないと、カルト宗教的な印象を覚える方もいるようですが、私はそう思いません。なぜならば、たった今書いているこの文章も、私の心に宿る神のようなものからインスピレーションを受け、それを記しているに過ぎないからです。心に宿る神、それこそが「自分」の正体です。心にある神の声に素直に応じて生きて行けば、誰でも次第に人生が輝きを増すのです。
「神との対話」の中に、こんな一説があります。
「人生の目的は、真の自分についての、最も壮大なビジョンの最も壮大なヴァージョンに向かって、毎瞬、次つぎに新しく自分を再創造することなのだ」
この言葉に出会い、私は六ヶ所村長選挙のための供託金を集めるため「お金のいらない世の中を実現するカンパCD」を作り、実際に目標額を集め、立候補したわけですが、未来は待つものではなく、引き寄せるものだということを身をもって確信できた出来事でした。未来は、自分自身を生きる者にこそ、開かれた道を用意します。それが私たちに命を与えてくれたこの星の摂理なのです。
残念なことに、人類が作り上げた宗教は全く正反対のことを教えています。仏教を日本古来の信仰だと勘違いしている方も多いようですが、所詮外来の信仰です。仏教徒は、教祖である仏陀がヒッピーのように長髪であったことを知っていながら、頭髪を剃り不本意な姿で自分を欺き、「禁欲が尊いのだ」「自分を滅し他に尽くすことが善だ」と言います。それを聞き人々は、欲望を正直に素直に表すことを控えるようになりました。本来なら最も美しいはずの異性に対する欲望を卑屈に歪めてしまったのは仏教をはじめとする処々の禁欲的な教義に責任があります。おかげで、この社会には心から愛し合っている夫婦というものが見当たりません。禁欲信仰の罠にはまり、内心では相手を見下していたり、憎んでいたり、愛というものを全く理解しないまま時間を浪費している方々ばかりです。全身全霊で自分を生きることを意志した私から見れば、こんな歪んだ教えを信じているからこそ、人々は本来持つ命の力を発揮できずに、自分を可能性の無いちっぽけな存在としてしか感じられないのです。
キリスト教も同様に古い時代の教えです。天地創造の件で神は人間にこう言います。
「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」
聖書は人類が他の生き物の上に君臨することを許す教えです。「所有」という観念は、ここに原点があるのだと感じました。人々は本来誰のものでもないはずの土地を指して、「これは俺の財産だ。俺だけが勝手に使えるのだ」と言いますが、こういった思想の土台が聖書だということです。「所有」という人類の身勝手な思想は、地球上のあらゆる争いごとの根源です。「約束の地」という言葉があります。モーゼが民衆を引き連れ、異教徒から逃れたどり着く場所のことです。聖書を読むまで私は、そこはきっと、愛と幸に溢れ、そこに住む人々は祝福をもってモーゼらを迎えるのだろうと勘違いしていました。実際に聖書を読んでみると、モーゼは罪無き人々から土地を略奪したに過ぎません。はるか昔紀元前に始まったこの醜い土地の奪い合いは21世紀の今日も絶え間なく続けられ、この宗教によっていかに人類が愚かしく進化の歩みを閉ざされているかが判ります。聖書は、数百人もの妾を抱える男(ソロモン)を英知と讃え、圧政者に自分の妻を差し出す男(アブラハム)を聖人と讃えます。私には、なぜこのような愚かな教えが世に蔓延っているのか、全く理解できません。
仏陀やイエスが悪かったのではないはずです。彼らは人類の中でも最も神聖な方々です。ただ、それを継承する人々が知恵を引き継げなかっただけなのです。これらの信仰は、新しい時代にふさわしくありません。それよりも私は、「日月神示」という書の中に、ずっと多くの共感する言葉を見つけることができます。これは、日本古来の八百万の神々の教えを継承する教えだと思います。そこには、こんな一説があります。
「衣類も家も土地も、みな神から頂いたので無いぞ。預けられているのであるぞ。人民に与えられているものは食物だけじゃ。日の恵み、月の恵み、地の恵みだけじゃぞ。」
この教えに比べれば、神が地球の所有を人に許したという聖書は、レベルがあまりに低すぎます。おそらく、キリスト生誕以前の旧約聖書と呼ばれるものは、神の心から最も遠い者によって、イエスの教えに巧妙に添い合わされ、全く違う信仰のものでありながら、同じものとして世界に広まったのだと思います。「日月神示」に関して、私は特に教えを研究したわけでも、一字一句忠実に信仰しているわけでもありませんが、将来人類が、無事に新たな時代を選択し、その道を進む決意をした時、道標になるのはこのような日本の心、大和魂に依拠する教えであろうと思います。ちなみに、「日月神示」には、新たな時代はお金も司法も警察も無くなると記されています。

 宗教と並び、人類の意識的進化を歪めてきたものは教育です。学校教育ほど、自由を妨げ、心を歪めるものはありません。子供の頃、人は誰でも優れた「没頭する力」を備えています。好きなこと・やりたいことがあれば、何時間でも熱中できます。教育は授業や宿題で子ども達から時間を奪い、遊びを取り上げ、生きる上で全く無意味な知識を詰め込むことに子ども達を向かわせます。遊びに未練のある子どもは「集中力がない、落ち着きがない」などと叱られます。そして知識詰め込み競争の勝者を偉人として褒め称え、そういった人生を手本とするべきだと教えます。そんな毎日の中で、子ども達は次第に「没頭する力」を失い、要領よく世の中を渡り、損得で行動を考える、つまらない大人へと成長して行きます。そんな大人たちが退職後、「さあこれから好きなことをやるぞ!」と思っても、没頭する力を磨いてこなかったため、何をやっても集中できず興味を持続できません。おそらく、学歴社会・競争社会を長く生き抜いてこられた方ほど、そのような傾向があるのではないでしょうか。
自分自身を生きる能力は磨かなければ萎んでしまいます。そしてそれは学校教育と対極にあります。「アリとキリギリス」という寓話では、最後に笑うのは社会の歯車として忠実な人生を生きるアリということになっていますが、現実は正反対であるように私には思えます。つまらない勉強や仕事に見向きもせずに、やりたいことに没頭するキリギリスは、アリには想像も及ばない喜びを、一瞬ごとに鮮烈に感じながら生きることを選択したのです。アリが一生かけて手に入れた地位も名誉も富も、キリギリスの目には色あせて見えます。キリギリスは没頭することが楽しすぎて、アリの関心ごとになどかまっていられません。それに比べ、アリはいつも周囲が気になって仕方ありません。「俺はアイツより勉強ができる」「アイツより仕事ができる」自己の存在証明を他者との比較に求めてきたアリにとって、自分自身だけで満ち足りるということが全く実感できないのです。これは、アリを志して生きてきた人全てに当てはまる病状です。自分を生きられないことは病気なのです。「人間以外の生き物は考える能力がないから下等だ」と、人々は言いますが、それは違います。生き物達は自分自身であることに忙しくて、つまらない考え事などしたいと思わないのです。人間はむしろ、生き物達を見習うべきです。どの生き物も植物も鳥も虫も魚たちも、自分自身を精一杯生きています。そして、その生き方こそが地球環境と調和し、美しい喜びの歌を響かせることができるのです。自由つまり自分自身を生きていない人間だけが、地球の調和を乱し、苦痛に表情を歪めます。人類はがんばりました。がんばって防波堤を守り続けましたが、もう十分じゃないでしょうか。防波堤のことなど忘れて、さっさと小高い場所に住処を見つけ、勝手気ままに好きなことをやって暮らしてみてはどうでしょうか。始めれば、私の言葉が嘘でないことがきっとわかるはずです。
加えて、あなた方はできるだけ早急にアリ的人生を切り上げたほうが懸命だということも申し上げておきましょう。あなた方が選んだアリ的な生き方は、今後急速に人々の支持を失い、次第に時代遅れな生き方として廃れていくはずです。なぜならば、アリ的人生を支える資本主義経済が破綻し、政府は人々のモチベーションを持続することができなくなるからです。日本政府に忠義立てするのも結構ですが、あなた方が守ってきたものなど誰も褒めない時代が来ます。その時あなた方は、人生には勝ちも負けもないことに気付きます。人生にあるものは、喜び、もしくは退屈。それだけです。目を覚ましなさい。
 それでもやはり、アリとして生きてきた人にとって、キリギリスを生きることは難しいことのように思えます。周囲の人々や家族は「裏切り者!」とか「恥を知れ!」などと、あなたを非難するでしょう。人目を気にしながら生きてきたアリにとって、これほど身にこたえる制裁はありません。しかし、これらの非難は、実は内心のうらやましさの裏返しなのです。あなたを非難する人の本心は「抜け駆けは許さない!」という気持ちです。なんのことはない、あなた方は新たな時代を誰かが始めることを期待しながら、一方でその先駆者が自分でないことが許せないのです。そして社会は愚かさを堅持しながら進行していきます。「俺はもう年だ、遅すぎる。」あなたは自分にそう言い聞かせ、再びアリで居続けようと考えます。
 あなた方の多くは人生を長さとして捉えます。人生の目標は長生きすることだと本気で考えています。そして体を存分に怠けさせ毒を食べ、活力を手放していながら、老化や病気は宿命なのだと思い込み、老境に差し掛かると自分に時間が残されていないことを嘆きます。しかし、自由を知る者は人生を瞬間として捉えます。頭の中が真っ白になるほどの喜びの瞬間、とめどない涙、そんなものが大切なのです。自由を生きる者にとって、遅すぎるなどということはありません。輝きは次の瞬間、もしかしたら家のドアを開いた先に転がっているかもしれないからです。それほど未来は不可知で可能性に満ちています。だから、自由を生きる者は老いを恐れません。死の床に伏しても希望が消えません。老いを嘆く人、病気に屈服している人を見ると、私はいたたまれなくなります。そんな人にこそ大麻が必要です。中でも、何も判らないくせに、「大麻は有害だ」とすり込まれた知識でものを言う、あなた方司法者は最も大麻が必要な方々です。自由を持たない者ほど人の自由に厳格です。自由は憲法によって私たちに保障されていながら、あなた方はご自分の人生のみずぼらしさを哀れみ、人を妬み、良心を発揮しようとしません。あなた方は本当に愚かです。今この瞬間にも目の前に自由が広がっているのに拾おうとしないからです。
 あなた方は自分に言い聞かせます。「俺は大麻なんか知らなくてもいいんだ。今まで守ってきたこの生き方を貫いて、人々の尊敬の中で死んでいくつもりだ」と。あなた方は心というものを侮っています。そんなタテマエ的な言い訳に心が納得すると思っているのですか?無駄な抵抗はいたずらに時間をつぶすだけです。自分自身を生きるのなら早いほうがいい。私はあなた方の心の封印を解きました。あなた方はあなた方自身の命に対して、心の導きに従って大麻を体験する責任があります。人はやってみないと気がすまない生き物なのです。素直になりなさい。大麻を体験すれば、きっとあなた方は自分の罪深さを反省し、人類進化を妨げていたことを後悔するでしょう。心は人それぞれが内に持つ地球です。私たちは心で繋がっています。さあ地球と和解しなさい。
 以上が、私が上告する理由の説明です。私は人類の英知を信じます。あなた方の中に勇気を持つ方、良心を理解し活かすことのできる方が現れ、必ずや大麻合法化の扉を開いてくれることでしょう。

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 次に、控訴審の判決文に対し、いくつか反論を述べておきます。最高裁ではぜひともこれらの反論に誠実に対応していただくことを希望します。

(1)『所論は,大麻が精神的薬理作用を有するとしても,それを超えて人体に有害であることが具体的に証明されていないから,本件罰条は憲法13条に違反する旨主張する。
 しかしながら,大麻が精神的薬理作用を有し,かつ,それが人体に有害なものであることは公知の事実である。すなわち,大麻は,これを摂取することにより陶酔的になったり多幸感をもたらす反面,衝動的あるいは興奮状態や不安,恐怖状態になったり,妄想や幻覚の発現,パニック反応などが生ずることもあり,特に多量に摂取した場合には,幻視,幻聴が現れたり錯乱状態になることがあるなど,その有害性が大きくなることが認められる。したがって,大麻の有害性を否定する所論は前提を欠く。』について

この判決には、担当弁護人作成の控訴趣意書が指摘する事実が無視されています。↓
「東京高等裁判所昭和53年9月11日判決(判例タイムズ369号424頁)が「大麻に従来考えられて来た程の強い有害性がない」と説示しているように、現在では大麻に強い有害性があるとの見解は裁判例上も否定されている。」
昭和53年にすでにこのような知見が示されているにもかかわらず、頑迷にそんな事実はなかったかのように、旧態依然の見識を持ち出す態度は、明らかに良心の欠如したものであり、憲法76条に違反します。また、昭和53年知見に基づき、大麻吸引を判断すれば、公共の福祉を阻害する要因はなんら見当たらないことになり、このことは大麻取締法が憲法13条、14条、31条などに違反した法律であることを示します。

 また、原判決から踏襲された「大麻が精神的薬理作用を有し,かつ,それが人体に有害なものであることは公知の事実である。」は、はなはだ不適切な表現です。
「医療マリファナの奇跡〜矢部武著」に、このような記述があります。
「マサチューセッツ州で急性リンパ性白血病と診断された十歳の少年は、マリファナを吸って地獄のような生活から生き返ったという。少年は小児病院で治療を受けた最初の4年間はそれほど苦しまなかったが、4年後に新しい抗がん剤を使用し始めたのをきっかけに激しい吐き気と嘔吐に苦しめられるようになった。抗がん剤治療の跡で吐き気をもよおし、病院から家に帰る途中の車の中で吐いたり、家につくとバケツを持ってそのままベッドに横たわることもしょっちゅうだった。(中略)そんな少年の姿を見かねて、彼の母親は思い切った決断をした。法律違反を承知でひそかにマリファナを入手し、息子に与えたのだ。効果はすぐにあらわれた。その日、少年はマリファナを吸ってから抗がん剤治療を受けると、吐き気や嘔吐が全く襲ってこなかった。そればかりでなく病院から家に帰る途中、いつもは治療の副作用でぐったりしているのに、その日は「ママ、おなかがすいたからマクドナルドに寄って」などと言い出したという。家に帰ってからもベッドに駆け込むこともなく、リビングでテレビを見たり雑誌を読んだり、母親と話をしたりした。主治医が投与したどんな鎮吐剤も少年の吐き気や嘔吐を止めることができなかったのに、マリファナがそれを止めたのだ。この事実を主治医も認めざるを得なくなり、その後、少年は医師の了解のもとでマリファナを使用し続けたという。」
抗がん剤には深刻な副作用があることを、いまや知らない日本人はおらず、こういった状況を公知と言うべきです。それに比べ日本国民の多くは大麻の有害性に関して具体的な体験が乏しく、公知であるとは言いがたい状況です。また、日本国民の多くは大麻が抗がん剤などの副作用を鎮静する作用があるばかりでなく、うつ病、ぜん息、関節炎、緑内障、多発性硬化症、麻痺その他多くの症状を劇的に緩和する働きがあることも知りません。このことから、日本人はむしろ大麻に無知であると言うべきであり、「大麻の有害性は公知の事実」という主張は、裁判官の勝手な思い込みでしかなく、これを他に押し付けることは憲法19条に保障される思想・信条の自由を侵害するものです。

 
私はあなた方の「公知」という主張が実体のない幻想に過ぎないことを身をもって証明するために、裁判日にあたる1月13日と2月3日の2回、仙台市内を「大麻解放」の旗を背負い、ギターを弾き歌を歌いながら行進し、大麻取締法の違憲性を説明するパンフレットを通行人の方々に配りました。多くの方が共感の微笑や激励をくださったと感じています。もしも私の背旗がたとえば「覚せい剤解放」などといった、公知と反する文言であったならば、このような好意的な反応は得られなかったでしょう。あなた方が世界の情勢を見ようとしない、知っていながら無視し続けるうちに、国民の認識は急須に変化しているのです。その日は警察の方々がパンフレット配布をやめるよう勧告してきましたが、私はこの活動が憲法に保障された自由に属するものだと述べ、結局は警察の方々も私の主張をわかって下さったようです。大麻解放を遮ることは、むしろ世間的な反感を買いやすいということを、警察の方々は肌で知っているのです。私は今後もこのような活動を続け、もう二度とあなた方が「公知」などという文言を軽々しく使えないように、大麻の真実をこの国の隅々にまで広める所存です。あなた方が大麻の真実を認めないかぎり、今後もこのような司法的な関わりが出てくるかもしれませんが、あなた方がいつ「公知」という文言を取り下げるのか、興味をもって拝見させていただきます。なお、行進の様子を記録したDVDを証拠として提出しますので、ぜひご自分の目で大麻解放に対する人々の反応を確認してください。
 
(2)(3)についてはこのたびは省略いたしますが、「まずは大麻の真実を知ってからものを言え」の一言につきます。この際、率直に助言させていただきますが、あなた方は一度ワシントンにでも視察に行ったほうがいいでしょう。そしてご自分の体験で大麻の真実を確かめるべきです。判りもしないのに判ったような言い方をする態度が、傍目から見ても恥ずかしさを感じてしまいます。笑い者になっている自分は理想ですか?あなたの良心はしくしく泣いているのではないですか?

(4)『その他,憲法19条違反や25条2項違反の点を含めて,所論が縷々主張する諸点を検討しても,本件罰条が違憲無効でないことはもとより,原判決が本件罰条を適用したことも違憲ではないことは明白であり,原判決に所論のいうような法令適用の誤りはない。』について

 
この判決に際しては、控訴審で棄却された控訴趣意書における記述を再度提出します。

『そのような観点から大麻取締法をみれば、これは明らかに悪法です。この法律の審議で、当時の竹田儀一厚生大臣はこの法の目的を次のように説明しています。
「大麻草に含まれている樹脂等は麻藥と同樣な害毒を持っているので、従来は麻藥として取締って参った」
果たして、「大麻草に含まれている樹脂等は麻藥と同樣な害毒を持っている」という認識は、古来から大麻を利用してきた日本国民にとって、日常的に共有していた認識といえるでしょうか。日本最古の大麻繊維は3世紀後半の古墳から発掘されており、1万年前の遺跡からは大麻種子が発見されています。「日本の建国と阿波忌部」という書には、天皇家の大嘗祭に古来から毎年変わらず大麻布を献上していた忌部氏とその末裔の歴史が記されていますが、その一説にはこのような記述があります。
「穢れを祓うという「大麻」の能力を最大限に生かし、また「大麻」に神が宿るとの神性を利用して弥生時代以降の祭祀は行なわれたと見られるが、これは、王権祭祀においても同様で、その穢れを祓う能力を持った大麻や木綿(ゆう)がなくては大嘗祭そのものが成立しなかったと考えられる」
大麻に「穢れを祓う」「神が宿る」といった信仰的な認識を持たせていたのは、紛れもなく、今日麻藥取締法によって害毒と見なされている薬理効果であり、日本民族としての古来からの認識は、むしろ大麻の薬理効果を好ましいものと感じ、神聖視さえしていたわけです。香川県の大麻比古神社にある狛犬の台座には、煙を吐く仙人らしき人物が描かれており、大麻信仰の本質が、まさしく燃焼し煙にして摂取することで得られる薬理効果にあることを裏付けるものです。
また、5世紀に中国で書かれた医学書「神農本草経」において大麻は最上級の薬草であるという評価が記されています。中国と同じ文化圏の日本民族も当然、同等の評価をしていたでしょうし、明治期にはぜん息の薬として販売もされていました。医薬品として重用し神の草として信仰さえしていた大麻を、害毒として規制すべきと考えるなど、日本民族の総意であるはずがありません。大麻信仰は日本民族のアイディンテティーであり、これを否定することは、自分が日本人であることを否定するようなものであったはずです。
まして大麻は、日本民族にとって、それがなくては生活ができない、生存さえ危ぶまれる、他に代用のできないかけがえのないものでした。「稗と麻の哀史(高橋久一著)」は東北地方の寒村の様子を記したものですが、その中にこんな記述があります。
「身につける一切のもの、生まれた赤ん坊のおしめも女たちの御腰も、親父どもの褌も、労働着も、股引きも、布団も夜着も、手拭も帯も、麻であった」
この書には、貧農の人々は麻以外の衣服は高価すぎて手に入らなかった。麻着の持ち分だけ子どもが育てられたが、麻着が足りない時には生まれた赤子を育てられず、捨てるしかなかったとも記されています。
そのような、生活になくてはならなかったものを、当時の日本国民は進んで禁止しようなどと考えるわけがありません。誰が自分の首を自分で締めるような行為をするものでしょうか。先の厚生大臣の説明では、そのような切実な世情が全く配慮されていません。法に縛られない心の目、「良心」でこの状況を見れば、大麻取締法が当時の国民に多大な悲惨を与えただろうことは容易に想像がつくはずです。それなのに、この法によって思考停止してしまったあなた方司法者は、心情的に誰でも容易に理解できそうなこの事実を見ようとしません。これを「良心」の喪失といわずして何を言うのでしょうか。』
 控訴趣意書で私が指摘したものを要約すれば、大麻は日本古来から神の草として崇め祀られ、衣服や薬,和紙、油などとして国民の「社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進」に大いに役立っていたものであるということです。この事実を知りながら、戦時下の米軍管理期を終えた現在もなお大麻を禁止し続けることは、憲法25条2項「国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。」の義務を日本政府が怠っていることを示し、かつ大麻取締法を70年にわたり存続させてしまったことは、憲法第76条2項「すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される。」に違反します。よって、大麻取締法は明らかに違憲であり、即刻法の撤廃を要求します。

上告にあたって申し述べたいことは以上です。控訴審では、正式な控訴趣意書に代わって、上告に際し添付した文書が取り上げられたという前例があることですし、ぜひこの文書もしっかりと検討いただき、誠意ある対応をしていただくことを希望します。なお、最高裁の期日などの詳細が決まった時点で、弁護人とも相談し、何か申し忘れていることなどがありましたら、改めて控訴趣意書として送付させていただくつもりですので、よろしくお願いします。

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