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林 竹二 先生コミュの森有礼とあるキリスト教の系譜

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以下、最近自分の頁の日記に整理のために綴ったものです。せっかくですのでこのコミュにも載せておくことにしました。
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 特異な哲学者でかつ教育学者であった林竹二(1906-1985)は、晩年に教育行政に苛烈な批判を浴びせ、荒廃する学校に対して全く独自の実践により教育の再生を求めが、僕は、その軌跡をかなり詳細に追ったことがあった。なるほど、林の専門はギリシャ哲学ことさらソクラテスの原像に迫るものであったが、その基底にあるのは、かなりラディカルなキリスト教神秘主義ではなかったかと僕には思える。以前、林が書いた森有礼に関する考証を読んでそのことを確信した。何故、林は森有礼に興味をもったのだろうか?

 初代文部大臣森有礼(1847-1889)は、キリスト教徒であったことでも有名だ。しかし、その改宗の仕方はまったく独自である。森有礼は全く霊的な雰囲気が漂った中で精神形成を行ったキリスト者であった。森は如何にしてキリスト者になったのか。一般的な教育史では長年、森は国家主義に基づいた教育政策を推進した教えてきた。林の考証はこの通念を粉砕するものであった。森がキリスト者になったことと大きな関係を持っている。

 幕末の英国艦隊の砲撃戦に端を発した薩摩藩留学生団の一員として、慶応元年、森は英国に留学する。このとき森は19歳である。この留学の目的は西洋の兵用技術を学ぶことであった。ところが森はあるきっかけで、英国滞在中の米国のある神秘家に邂逅することになった。スウェーデンボルクの流れを汲むキリスト教神秘主義に基づき、米国内で「新生社」(The Brotherhood of the New Life)という宗教結社を運営していた心霊主義者トマス・レイク・ハリス(Thomas Lake Harris: 1823-1906)である。この邂逅は決定的であった。森は、仲間ら数名とともに、米国に渡り、新生社に入り、ハリスのもとで、宗教生活を行うことになる。新生社は、葡萄園や葡萄酒工場を共同で運営し、信者は四六時中仲間と無報酬で労働に従事する一種の共産主義的コミュニティーであるが、キリスト信仰を通して宗教と社会の改革を求めるものであり、既成教会のキリスト教は徹底的に否定された。森は1年弱このコミュニティーで「神の奴隷」として、労働に従事した。彼ら留学生をハリスに引き合わせたのは、英国初代駐日公使オルコックの秘書として来日滞在中に水戸藩浪士に襲撃されて重傷を負った経験があり、帰国後英国で代議士を勤めつつハリスに従学していたローレンス・オリファントであった。林竹二は、ハリスとオリファントとの往復書簡を綿密に調査し、森有礼を初めとする幕末留学生と彼らとの交流を卓抜に考証している。ところで、このハリスとはいったい何ものか。僕の手元にあるコナン・ドイル卿の"The History of Spiritualism, vol. I, II"及び、Nandor Fodorの"Encyclopaedia of Psychic Science"によれば、苛烈な性格の持ち主でどこかデモーニッシュなところがあったようである(ドイルの記載などを読むと見方によっては山師のようにも思えてくる。)。霊媒でもあるらしく、そのような霊的能力を用いて自動書記による詩も書いたらしい。既成の世俗化したヨーロッパのキリスト社会を堕落形態として、それに対する再生と改革を提唱していた過激な人物だったらしい。森が出会ったキリスト教は、欧米社会のtypicalなそれではなく、そのような欧米社会の超克を目指したラディカルなそれであったということになる。

 ハリスとオリファントは、日本人留学生を好意をもって受け入れたようだ。彼らとの交流から日本人の若者たちの誠実な精神に触れ、新生社で精神修養をした彼らが変革の時期にあるこの小さな島国において、大きな役割を果たすことに期待するようになる。ハリスとオリファントは日本変革のプロジェクトといったようなものまで考えていたらしい。日本という極東の島国を覚醒させて、腐敗した欧米社会を変革する発信基地とすることを真剣に考えていたらしいのである。ハリスに勧められて、森は仲間の一人とともに王政復古後の日本に帰国する。明治元年六月のことである。それ以降、森は国家の担い手となって新しい日本のために生きることとなる。しかし、森の頭からハリスのもとで学んだ精神が離れることはなかったらしい。キリスト教を通して、森はラディカルな人道の人となった。そうした森が拘り続けたのは人間の魂の覚醒に関する教育問題であり、古い因習にとらわれ続ける日本人を如何に解放するかということであった。国家の教育政策に関心を持ち続けた所以である。帰国後、森は日本政府に起用され、明治三年から六年までの駐米代理公使を含めて、外交官生活を送った後、明治十八年伊藤内閣成立とともに初代文部大臣に就任している。

 このような軌跡をもつ森有礼の思想と当事主流を占めていた儒教ないしは国体思想に基づく教育観が相容れることはないのは当然である。保守的な国家主義者たちは森の文部省就任を阻止しようと画策していたらしい。森は、文部大臣に就任するや、周囲を取り巻く国家主義者たちを押さえ込みにかかった。従来の天皇の意向を汲んで文部省が編纂した君臣関係を根底におく「修身」の教科書を一切禁止し、自他並立の個人主義に基づいて森が編集した「倫理書」を使用した。また、教育の全国普及を目指す政策を取り始め、師範学校を整備し、帝国大学を設立した。森は日本を救うために日本の人間を作り変えてしまうことを目指していたという。だが、改革は悲劇で終わる。明治二十二年帝国憲法発布式典の当日、森が伊勢神宮に不敬の振舞いに及んだというデマを信じた狂信的な国粋主義者によって暗殺されてしまう。林竹二は、「森が仆れたということは、実は明治十二年の「教学大旨」と十三年の教育令改正によって解き放たれた保守と反動の勢を身をもって阻止しようとした勇敢な戦士が仆れたことを意味している。彼の後には、もはや彼の志をつぐものはいなかった。反動の流れは復活し、さらに勢いをましていった。」(「森有礼とナショナリズム」)と述べており、森の暗殺に至って教育の歴史では明治維新は終焉すると規定している。森有礼の死後二年も経たずして、国粋主義者の巻き返しが図られ、教育勅語が発布されるのである。

 ところで、森有礼は、明治三年に駐米代理公使として二度目の渡米時に、数名に交えてまったくの私費でひとりの従者を従えて行った。仙台藩出身の二十五歳の武士・新井常之進、即ち若き日の新井奥邃(1846-1922)である。新井は戊辰戦争で仙台藩が降伏した際に脱藩、榎本武揚らとともに函館に渡り、その地でロシア宣教師を通じてキリスト教に触れた。森が新井を渡米させたのは、ハリスの教団に送り込みキリスト教を学ばせることであった。新井はハリスの教団のコミュニティーに入り、約三十年間そこで「キリストの志願奴隷」として信仰と労働によって生活した。新井は明治三十二年に忽然と身一つで日本に帰国する。そうして狗のような流浪の生活を続けること三年、自らの役目を直覚し、東京巣鴨に謙和舎という宗教的コミュニティーを設立した。以後、森とはまったく対照的に国家制度とはまったく無縁に弟子たちひとりひとりと向かい合って、聖書の教えを労働を通じて実践する生活を続ける。労働の中でしか真の信仰は見えてこない。「聖書は仕事師の手帳である」といったのは新井奥邃である。新井の写真はほとんど一枚もないという。少なからぬ知識人に影響を与えたといわれるが、名声には一切関心を見せず、無名で、生涯独身であった。新井の友人である田中正造の足尾山鉱毒問題に関する執拗な取り組みの背後には新井の信仰の教えがあったともいう。ちなみに、林竹二によれば、新井はこんな言葉を残したという。「自らの判断だけで動くな。時の熟するのをまて。しかし、時は熟したがっている。人の働きかけをまっている。酵母のように、おのれから発酵するのをまて。キリストとともに時のいたるまで隠れよ。」

 ところで、新井奥邃の弟子の中からひとりのダンテ学者が生まれることになる。山川丙三郎(1876-1947)である。山川がいつ新井の謙和舎に出入りしたのかはよくわからない。七年程米国に留学したらしく、帰国後直ちにダンテの神曲の翻訳に取り掛かり、他には一切目もくれず、日本ではじめて原典からの直接訳で神曲を訳し終えた。文学的名声などには一切関心がなく、ダンテを訳すことだけが神の御心に応える道であると確信していたらしい。山川が訳出したダンテの神曲は、大正時代に警醒社という本屋から出版されたが、外国文学者らしく翻訳の苦労話を添えるでもなく、ダンテに関する年譜や解説を差し挟むわけでもなく、ただ巻頭に師である新井奥邃の手になる文章を掲げたという。現在岩波文庫に入っているダンテの『神曲』は、山川丙三郎が生前地獄変まで進めていた改訳版である。岩波文庫下巻の跋文に見られるとおり、この原稿を戦後岩波書店に持ち込んだのは、東北学院時代の山川の弟子であった林竹二であった。林が戦後に森有礼や新井奥邃及び田中正造に邂逅したことはいわば宿命であったのだ。

コメント(3)

青い鳥さん、ありがとさんです。

 今、初めて読ませてもらい、「林竹二・天の仕事」や著作集を読み返してみようと思っています。

 前から林さんの生き方ととシュタイナーさんの生き方に共通する何かを感じていて、その一つは「いのちに対する畏敬の念」であるようには考えているのですが、キリスト教神秘主義も一つのキーワードなのでしょうね。

 一度そのへんの青い鳥さんの考えておられるところをゆっくりと聴かせてもらえればありがたいとおもっています。
ハブ様

コメントありがとうございました。
書き込みをいただいていたのをすっかり見逃しておりました。

林竹二がシュタイナーから影響を受けたかは分からないのですが、きっと読んでいたのではないかと思います。

僕のほうももう一度ゆっくり著作集を読み返してみたいです。
 おはようさんです。

 今、もう一度読ませてもらって、林さんの学問のすごさを感じています。

 ところで、私の感じではシュタイナーさんのことは直接には林さんの視界には入ってなかったような感じがしています。

 林さんに関する資料は、宮教大の図書館の二階の一室に保存してあります。一度観させてもらいました。

 時間が取れたら又行ってみたいと思っています。

 私は林さんのように、丹念にコツコツと資料を調べるのは、今のとこ苦手なんですが、青い鳥さんでしたら有効に利用していただけるんではないかなんて、勝手な推測をしてるとこです。

 森有礼さんについてももう一度読んでみようと思っています。

 ありがとさんです。これからもよろしくです。

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