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公開書簡コミュの公開書簡とは何だったのか

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 公開書簡というぐらいですから、これは手紙なのです。
 私は、ものを細かく分類します。そうした性癖もあるのですが、分類がきちんとできていないと、何でもありになってしまうのです。野球をするには野球のルールが必要で、野球なのにボクシングもありってわけにはいかないわけです。それでは、ただの乱暴者になってしまいます。
 ですから、私は、文章も、たいへん細かく定義しています。詩と作詞は分けていますし、詩と散文詩もはっきり分けています。告白手記と日記、エッセイと小説なども、かなり明確に分けて考えています。そうして分けて行くことによってルールが一定になるからなのです。読む人にも分かりやすくなるわけです。今自分が観ているものがボクシングなのか柔道なのか分からないと、まあ、格闘技通の人にはいいかもしれませんが、普通の人には観ても面白くないわけですよね。文章も同じなのだと私は考えています。
 小説だから、このように書くのだ、とか、ルポだから、こうした書き方なのだ、と、分かっていたほうがいいわけです。その上で、小説なのに、この書き方はやや失敗だな、とか、今回のはきちんとしたルポになってないな、と思ってもらったほうがいいのです。何度も書きましたが上手か下手ではないのです。失敗か成功でもないのです。何を書いているのかが、まずは、明確になっていることが大事なのだと私は思うわけです。
 さて、手紙とはそうした分類で定義するなら、何になるのでしょうか。私は、手紙というのは特定の個人に宛てて書いた文章のことだと考えています。
 ここでは、山猫さんという、たった一人の人に対して語りかけているわけです。
 どうして、それを公開する必要があったのか。
 この理由はかんたんなんです。
 こうした性異常の問題、文学や哲学の問題、精神の問題というのは、一般論は難しいわけです。そうしたことを述べても、分かる人には分かるけど、分からない人には、まったく分からないという話しになってしまうわけです。ばかみたく学者の名前を羅列してものを書いている人をよく見ますが、ラカンが、なんて言ったところで、ラカンなんか知らない人には意味ないわけです。
 手紙というのは、読み手を固定していますから、それはないわけなんです。読み手の教養とか知識とか興味というものを十分に意識して書くことになるからです。分かりやすいわけです。質問も楽だし、答えも楽なんです。何しろ、一般論ではありませんからね。
 SMにおける精神分析とは、なんて話しを手紙で書くのはいささか異常です。手紙なら、私は露出だってSMの中に入れていいと思うのですが、どう思います、と、やるわけですよね。
 話しはものすごく個人的でいいし、具体的でいいわけです。公開というところで、最初は慣れませんが、慣れればものすごく楽な議論ができることになるのです。
 皆が公開でそうした手紙のやりとりをすると、いろいろなことが分かってくるわけです。個人は集団につながっていますからね。そうしたことを私はやりたかったのです。
 何故、手紙でなければいけないのか。
 それは、一般論では、他人を傷つけるからなのです。
 私は公私を区別しています。公とは、私の場合、相手の様子の把握しきれない範囲ということで、五人から十人ぐらいまでの集団を私的な場所としています。あいつ退屈してるなあ、とか、あの人は怒っているなあ、とか、彼女は楽しそうだなあ、と把握できる範囲ですね。
 ですから、こうしたmixiのようなところは、私にとっては公の場なのです。私はいい加減で乱暴ですから、私的な場では、けっこう差別的だったり、無法だったりするわけです。しかし、相手の感情を把握できる範囲なら、それでもいいわけです。悲しませたとか怒らせたと具体的に分かるからホローできるわけです。
 それができないところでは、悪戯に他人を傷つけるわけです。
 書き手が、そんなつもりで書いたのではない、と言ったところで、公の場では遅いのです。すでに自分が把握していない多くの人に情報が伝わるからです。公の場では好きなことを書いていいわけではないのです。
 公開書簡とは、手紙という私的なものを公にする面白い手法なのです。
 山猫さんが、そこで「私は包茎は男して失格だと思う」と、書いても、これを読む相手は私しか想定されていないわけですから、これを読んで、包茎男に対する差別だ、などと言うほうがおかしいわけです。しかし、他の場所やコメントでこれをすれば、これは一般論です。差別だと言われても仕方ないわけです。この違いは大きいのです。私は最初から、好きなことを書けばいいというものではない、常に、読む人のことを考えて書かなければいけないと書いてきました。読む人のことを考えないでものを書くというのは、日本刀を振り回しながら商店街を歩くようなものなのです。
 読み手が私だけを想定している手紙なら、たとえ「包茎」と、書いても、これは私をバカしただけになります。私が傷つけばいいわけです。そして、そうしたケースでは私を傷つけるために書かれるわけです。それはそれでいいのです。私たちの歴史がそれを許容しているからなのです。
 一年近く前、私は一度だけ、あなたを叱ったことがあります。礼儀をわきまえなさい、ということを言ったのだと思います。それは、こうしたことだったのです。つまり、あのときには、私はあなたを把握できないし、あなたは私を把握できないので、これは私的ではなかったわけです。今は、あなたは私に「この包茎野郎」と言ったぐらいでは、私が喜びこそすれ傷ついたりはしないだろうと予想ができています。かなり私的につながれたといことなのです。相手のことが予想できるなら、礼儀はあまり要らないのです。ベッドの中でも敬語を使うというのは私の好むところではありませんからね。
 手紙か論文かエッセイか小説か、その分類。私的な場なのか公的な場なのか、その分類。そうしたことを考えて文章は書かれなければなりません。悪戯に人を傷つけないためにもね。
 とくにmixiは、新しいメディアなので、この公私が混同しているわけです。危険なのです。公開書簡は、そうした公私混同に対する警鐘として、はじめたものなのです。
 皆が、公開で手紙のやりとりをすることは、楽しいはずだったのです。
 しかし、公的にこのやりとりが非難されましたので、これは、終わりにしましょう。公的な場である以上、たった一人でも、それを非難する人があれば、それを閉じるべきだというのは私の信念なのです。

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