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13世紀の世界史コミュの[管理]イタリア

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●ベネツィア共和国

ヴェネツィア共和国はヴェネツィアを中心にして発展した海洋国家で、強大な海軍力と交易による富を背景に「アドリア海の女王」として君臨した。

最盛期の領土は、現在のイタリア共和国のヴェネト州、フリウリ=ヴェネツィア・ジュリア州、ベルガモをはじめイストリア半島やアドリア海沿岸の都市、キプロス島など地中海の広範囲に及んでいた。

国家元首はイタリア語の現地での方言で「ドージェ」(原義は「指導者」。公爵と同じ語源。)と言う。就任式には指輪を海に落とす慣習があった。(Wikipediaより)

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●フィレンツェ共和国

アルノ川河畔に発達した市として知られる。

長期にわたりメディチ家の支配下にあった(1434年-1494年、 1512年-1527年 、 1530年-1737年)。中世からルネサンス期にヨーロッパにおいて、フィレンツェは商業および金融の重要な中心地のひとつであり、文化の中心地域としても発達し、美術、建築の傑作が数多く残されている。
●ジェノヴァ共和国

ジェノヴァ共和国はジェノヴァを中心にして発展した海洋都市国家。

10世紀中頃を起源としてヴェネツィア、ピサ、アマルフィなどの他の海洋都市国家と対抗しながら地中海において繁栄した。中世には、コルシカ島、カッファなどのクリミア半島南岸諸都市、コンスタンティノポリスの金角湾北部、イスラーム統治下のイベリア半島諸都市などに植民地あるいは商館を築くなど、地中海の覇権をヴェネツィアやオスマン帝国と争った。(Wikipediaより)
●エステ家

エステ家(Este)は中世以降のイタリアの有力な貴族の家系である。学芸の保護者を生んだことでも知られる。

起源はおそらくランゴバルド族で、名前の由来はパドヴァ付近のエステ伯であったことからと思われる。 エステ家は1240年にフェラーラのシニョリーア(僭主国家体制)を確立。およそ400年にわたって統治した。15世紀後半からモデナ公も兼ねる。(Wikipediaより)
●ローマ教皇領

教皇領は歴史用語で、ローマ教皇あるいはローマ教皇庁の支配していた領土である。最終的には国家としての体裁を持ったため、教皇国、教皇国家とも呼ばれる。

西ローマ帝国滅亡後、都市やその領土等のローマ教皇への寄進によって教皇のものとなっていた領地というものは存在したが、本格的に教皇領が世俗の国家のように成立するのは、8世紀にフランク王国の国王ピピン3世(小ピピン)によって領土が寄進されてからである。精神的な存在であるはずのカトリック教会の中心ローマ教皇庁が領土をもったことは教会の世俗化につながった。

962年にオットー1世(大帝)がローマで戴冠する際、教皇領を保障したが、その後、神聖ローマ皇帝やシチリア王がしばしばイタリア支配を目指して教皇領に侵攻することがあった。1254年に教皇の意を受けたフランス王ルイ9世の弟シャルル・ダンジューが神聖ローマ帝国ホーエンシュタウフェン朝を滅亡させると、それ以降は教皇領は安泰となったが、1309年から1377年の教皇のアヴィニョン捕囚時に教皇領の支配は弱まり、各地を支配する代官が僭主(シニョリーア)として独立君主のように振舞うようになった。(Wikipediaより)
●シチリア王国

11世紀の終わり、フランスのノルマンディー地方から兄弟と共にイタリアにやってきたノルマン人の騎士、ロベルト・イル・グイスカルド(Roberto il Guiscardo)はイタリア半島の南を占領。1071年、弟のルッジェーロ1世(Ruggero I)はシチリア全島を占領した。この功によりルッジェーロ1世はロベルトからシチリア伯位を与えられた。

1130年、子のシチリア伯ルッジェーロ2世は対立教皇アナクレトゥス2世から王位を得てオートヴィル朝(俗に言う「ノルマン朝」)シチリア王国が成立した。

1189年、時のシチリア王グリエルモ2世が後継者なく死去し、神聖ローマ皇帝ハインリヒ6世妃である伯母コスタンツァと伯父の庶子であるレッチェ伯タンクレーディが王位を争ったが、外国の支配を嫌う諸侯の支持を得てタンクレーディが王位についた。しかし1194年のタンクレーディの死後、幼少の息子グリエルモ3世が王位につくが、侵攻してきたハインリヒ6世にパレルモを制圧され、ノルマン王朝は終焉を迎えた。

妻コスタンツァがノルマン朝のルッジェーロ2世の娘であったため、シチリア王位はホーエンシュタウフェン家の神聖ローマ皇帝ハインリヒ6世の手に渡った。しかし、1197年ハインリヒ6世は死去。幼少のフェデリーコが王となり、コスタンツァは摂政となったが、彼女もまた翌年世を去った。

1220年、フェデリーコは神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世になったが、シチリア生まれのフェデリーコはドイツ王というよりシチリア王であり、ノルマン朝の後継者であった。フェデリーコはイタリア半島の支配に乗り出したため、ローマ教皇と激しく対立し、何度も破門を受け、対立王を立てられた。

フェデリーコの死後、シチリア王国は息子達が後を継いだが、ローマ教皇に要請されたフランス王の弟アンジュー伯シャルルによって征服された。

シャルルはカルロ1世としてシチリア王位に就いたが、シチリアの民衆には不評で1282年にシチリアの晩祷事件が発生し、シャルルはシチリア島を脱出した。

シチリアの晩祷事件により、シチリア王国は半島側のナポリ王国とに分裂した。シチリア王位はアラゴン王ペドロ3世が獲得した。1302年、分裂状態の2国に「カルタベッロッタの和」が成立し、シチリア島はトリナクリア王国となった。フェデリーコ2世はローマ教皇やナポリ王国によるシチリア併合の企てを阻止した。(Wikipediaより)

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