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13世紀の世界史コミュの[管理]日本

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●鎌倉幕府

鎌倉幕府は、源頼朝が鎌倉に創設した武家政権(幕府)である。

旧通説によると、鎌倉幕府は、1192年に源頼朝が征夷大将軍(以下、将軍)に任官されて始まったとされていたが、頼朝の権力・統治機構はそれ以前から存続しており、現在ではこの説は支持されていない。また、従来「日本で最初の武家政権」とされてきたが、今日では平清盛の平氏政権をこれにあてる説が有力である。鎌倉幕府は1333年に鎌倉の北条氏が新田義貞らの軍に滅ぼされて幕を閉じた。この間の140年余りを鎌倉時代と呼ぶ。

「幕府」という政治形態は、室町幕府・江戸幕府へ継承されていく事になる。しかし、政権の名称については、『吾妻鏡』によれば、征夷大将軍の館を「幕府」と称した記述はあるが、この時代には武家の中央政権を「幕府」と呼んだことはない。政権を「幕府」というのは江戸時代の学者による呼称である。武士達は鎌倉政権のことを大抵「鎌倉殿」と呼んでいた。また、「幕府」はあくまでも将軍家の家政機関であり、公的な組織ではない。従って、当初「幕府」が政治的に影響力を及ぼすことができたのは、将軍任国である関東と将軍所領のみである。

鎌倉幕府の開設は1192年とされているが、教育委員会で話し合いが進められ、1185年に変わる予定。(Wikipediaより)

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●奥州藤原氏

11世紀末からの100年、東北地方は現在の岩手県平泉町に拠った奥州藤原氏に支配された。奥州藤原氏の祖・清衡は陸奥の実力者・安部氏の縁戚で、安部氏が前九年の役で滅ぼされると出羽の実力者・清原氏の義子とされたが清原一族に内紛がおこるや陸奥守・源義家の支援をえてこれを滅ぼし(後三年の役)、義家の陸奥守解任後は本姓・藤原氏に復帰すると同時に安部・清原の遺領を継いで陸奥・出羽の大半を支配した。彼の政権が平泉を本拠としたのは1099年のことである。

平安時代の東北地方がアジア有数の金産地であったので平泉の政権は黄金の交易を通じて京都や大陸の文物を移入した。清衡や第2代・基衡は京都の仏教文化の影響を受けて中尊寺・毛越寺を創立、独自の平泉文化を確立した。第3代・秀衡に至っては朝廷から鎮守府将軍、陸奥守に任ぜられその権勢は頂点に達した。秀衡は源頼朝挙兵で本格化した源平の抗争に際して積極的な介入を避け自主独立の立場を貫いた。

しかし平家滅亡やかつて保護した源義経が頼朝に追われて平泉に逃亡するにいたって頼朝の鎌倉政権との対立は必至となり、秀衡は義経の軍才をもって頼朝との対決を図るも1187年に病没した。第4代当主となった藤原泰衡は頼朝の強圧に屈して1189年に義経とその支持者を殺し奥州の安泰を願ったが、かえって頼朝の奥州攻撃を促す結果となり、同年の奥州合戦で滅亡して果てた。
●北条氏

北条氏は、伊豆国出身の豪族で、鎌倉幕府の執権職を世襲した一族である。桓武平氏・平貞盛の子孫で坂東平氏と称し、時方のとき伊豆介となって伊豆国北条郷(現静岡県伊豆の国市)に土着し、北条氏を名乗ったというが、詳細はわかっておらず、平氏ではなく、地元の土豪とする説が有力。

時方の子北条時政は、娘北条政子が源頼朝の妻となったことから頼朝の挙兵に協力し、鎌倉幕府の創立に尽力し、頼朝が征夷大将軍に任じられると、有力御家人としての地位を得る。頼朝亡き後もその子源頼家・源実朝の外戚として幕府内で強い影響力を持ち、初代執権となった。2代将軍頼家を追放し、修善寺に幽閉した上で謀殺した。さらに、3代将軍実朝をも暗殺して娘婿の平賀朝雅を将軍に立てようとしたが、娘の政子や息子の義時に反対され出家させられた。

2代執権義時から数代にわたって他の有力御家人を次々と排除し、執権政治を確立した。実朝が暗殺されると、義時は京都から九条頼経を4代将軍に迎え(摂家将軍)、将軍の地位を名目的なものとし、後鳥羽上皇の討幕運動である承久の乱に勝利し、幕府を安定させることに成功した。

3代執権北条泰時は御成敗式目を制定し、幕府の御家人支配をゆるぎないものにした。北条氏は、得宗と呼ばれる嫡流を中心に名越、赤橋、常葉、塩田、金沢、大仏などの諸家に分かれ、一門で執権、連署、六波羅探題などの要職を独占し、評定衆や諸国の守護の多くも北条一族から送り出した。

5代執権北条時頼は5代将軍九条頼嗣を追放し、宗尊親王を6代将軍に迎えた(皇族将軍)。8代執権北条時宗は元からの国書を黙殺して、御家人を統率して元寇と戦う。時宗の息子・9代執権北条貞時は平禅門の乱で内管領の長崎頼綱を滅ぼして得宗専制を確立する。

貞時の子・14代執権北条高時は後醍醐天皇の挙兵計画である正中の変を未然に防ぐが、後醍醐が2度目の計画である元弘の変に続いて1333年(元弘3年/正慶2年)に再度挙兵すると、御家人筆頭の足利高氏(尊氏)がこれに呼応して京都の六波羅探題を滅ぼし、上野国の新田義貞が高氏の嫡子千寿王(足利義詮)を奉じて鎌倉を陥落させる。この結果、北条一族のほとんどが討死または自害し、北条氏は滅亡する。

鎌倉幕府滅亡後に建武の新政が開始された後も、北条氏の残党は津軽や日向国、伊予国など各地で散発的に反乱を起こした。1335年(建武2年)に京都に潜伏していた高時の弟北条泰家(時興)が公家の西園寺公宗と政権転覆を計画するが未然に発覚する。公宗は後醍醐暗殺に失敗し誅殺されたが、泰家は逃亡して各地の北条残党に挙兵を呼びかける。北条氏の拠点のひとつであった信濃国で高時の子時行らが挙兵し、中先代の乱を起こす。時行軍は信濃守護小笠原貞宗を破り、鎌倉を占領する。鎌倉にいた尊氏の弟足利直義は、幽閉されていた護良親王を時行に担がれる事を恐れて殺害する。足利尊氏は後醍醐天皇の勅状を得ないまま乱の討伐に向かい、時行を駆逐してそのまま鎌倉へ留まり建武政権から離反する。その後、時行は南朝から朝敵免除を受け、観応の擾乱の際に武蔵国で再度挙兵するが、尊氏に敗れて捕らえられ斬られた。

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