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哲学ノートコミュのスピノザ『エチカ』における目的論とコナトゥス 大塚淳(京都大学)

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4. コナトゥスと倫理学
http://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/handle/2433/24333

こうして、各個物は自らの本性の能動的な作出原因の働きによって、目的指向的に、す
なわち自らの存在の維持をより良く保つような作用を選択的に行う。しかし結局、こうした「選択」は、第二節で確認した自由意志の「選択」とどう異なるのだろうか?すでに見てきたように、コナトゥスであろうと自由意志であろうと、(前者は本性、後者は行為者の意志というかたちで)その最終的な根拠は同様に行為者の内に求められるのであるし、また自由意志説においても、大抵の場合において意志は自らにとって善いものを選択するはずであるから、結局両者の「選択」は、少なくとも結果の上では同じ意味を持つことになるのではないだろうか。

この両者を分かつのは、法則的必然性である。「各人は、その善あるいは悪と判断するものを自己の本性の法則に従って必然的に欲求しあるいは忌避する」(ET4P19、強調引用者)。

つまりコナトゥスは、個体そのものの作用を規定する本性の法則、すなわち作出原因の作用をその内側から指示する因果法則によって定められており (12) 、そこから生じる結果すなわち自己維持への努力に基づく選択は必然的である。一方において、自由意志説は選択原理を非決定なままにとどめておくのであり、したがって原理的には、我々は意志の絶対的な力によって、自らの利益を求めることを保留したり、さらにはそうしたものをあえて避けることも可能であるとされる (13) 。つまり行為の選択基準すなわち目的は、いかなる内的法則に縛られることもなく、そのたびごと個別的かつ恣意的に立てられるのである。

ところがスピノザにとっては、こうした選択原理の非決定性こそ、十全な倫理学の構築
を妨げるものであった。スピノザの考える倫理学とは、最高善という目的を達成するための「手段がどんなものであり、またこの目的が要求する生活規則がどんなものであるか、更にまたこの目的からいかにして最上なる国家の諸基礎並びに人間相互の生活規則が導き出されるか」を研究するものである (14) 。したがって我々が普遍的かつ確実な倫理学を求めるのであれば、まずその前に、そこから道徳的諸規則が導かれる礎としての最高善すなわち目的が確定していなければならない。しかし自由意志説は、その非決定性によって、かえってこうした「確実な目的」を不可能にしてしまう。もし行為の目的がその人ごと、その時ごとに恣意的に決められるのであれば、我々はいかにして全ての行為に共通する普遍的な目的を定めることができようか。さらにたとえそうした目的を定めようとしたところで、その根拠と確実性はどこから得られるのであろうか。
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それに対してコナトゥスは、普遍的で確定した目的性を人間に与えることによって、倫
理学に十全な基礎を与える。そうした目的の必然性によって初めて、そこから導出される道徳法則もすべての人間にとって共通の法則となりうるだろう。自由意志を道徳の不可欠な条件と考えるブレイエンブルフの主張に対し、むしろ逆に万物の必然性が理解されないうちは道徳的な問題は決して理解されないとスピノザが答える(EP27)のは、まさにこうした理由によっている。つまりスピノザにしてみれば、人間の最高目的が「永遠の相のもとに」認識され、その行動パターンが法則的に規定されない限り、倫理学を一つの確実な学問として構築することは不可能なのであり、それを可能にするのが万物を必然性のもとに示す彼の形而上学的自然観なのである。

コメント(5)

コナトゥスが自由意志ではなく、本性の必然性であるという主張は、存在についてもあてはまる。ここでは、「真に存在していること」や「コナトゥスが選択可能である」ということが虚偽であるということが証明されている。

(存在について)

「存在させない原因もなければ存在させる原因もないというケースの留保は、そのケースが実は事物にとって必然も不可能も意味していないということから説明できるだろう。すなわち、存在させない原因もなければ存在させる原因もないなどとして、その事物が存在しているか存在していないかがわからない、あるいは存在するかもしれないし存在しないかもしれないと言うのは、それを必然的なものにしているか不可能なものにしているかの原因ないし理由を知らず、その存在を「虚構」しているだけのことにすぎない。実際、「もし外的原因に依存するその必然性あるいは不可能性が我々に識られたとなると、我々はそれについて何ごとをも虚構することが出来なくなる」(TIE§53)。

「確実な倫理」への、相対的な問いが虚構である限り、 「確実な倫理」とは普遍的かつ絶対的なものになりうる。
自らの存在の維持の努力(コナトゥス)が、スピノザの倫理の基礎であり、真に倫理的であるというのは、正しい。

けれども、コナトゥスの正しさが、全体主義的要素をはらんでいるというレヴィナスの指摘は、深く考えなければならない。

「『自己保存の努力 (Conatus sese conservandi) は、徳の第一のそして唯一の基礎である』というスピノザの命題〔E/IV/22C〕は、全西欧文明にとって正しい格率を含んでおり、この格率のうちに、市民層の間の宗教上、哲学上の論争=差異 (Differenz) は収まる」が、「自己保存」が持つ生きるか死ぬかの究極的な二者択一という強制的性格から「論理的法則の排他性」が生じ、それが「人間の物象化」と「支配の不可避性」という全体主義を暖める思想的基盤を用意すると指摘している (レヴィナス『啓蒙の弁証法』 35-38)。
「啓蒙は、感情を『線や面あるいは、物体を研究するのと同様に〔E/III/Prae, TP/I/4〕考察する。全体主義的秩序は、これを大真面目に受け取った。 ― 中略 ― ファシズムは、定言命法に反しながら、それだけ一層深く純粋理性と一致して、ファシズムは、人間を物として、行動様式の核として取り扱う。」(レヴィナス『啓蒙の弁証法』93)
コナトゥスの正しさ、論理的法則性とは、コナトゥスに導かれた群衆の力(マルチチュード)としての運動が、物質の運動として、かつてファシズムを引き起こした歴史が証明しているのである。

「ファシズムは、定言命法に反しながら、それだけ一層深く純粋理性と一致して、ファシズムは、人間を物として、行動様式の核として取り扱う。」(レヴィナス『啓蒙の弁証法』93)

行動様式の核としてのコナトゥスが、戦争や全体主義を乗り越えるためにはどうすればよいのか。
スピノザというのが、西欧文明に忌み嫌われたのは、倫理学を再建するという目的の中に、倫理学の破壊がはらんでいたからではないかと思わせる。

あらゆる生成原因の目的や意味を排して、自然主義、徹底した決定論と唯物論であったからこそ、「それだけ一層深く純粋理性と一致して」倫理を破壊してしまうほどの、圧倒的な「事物の語り」の次元に到達してしまう。

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