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哲学ノートコミュの悪について

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スピノザにおいて、悪はなにものでもなかった。

「もし、どうしようもない、おろかしい、生きるに値しないような人間、あるいは犯罪者が、人間の本質に属しているのならば、それは純然たる徳であるというほかはないだろう。だがまさしく問題は、本質に属するとはどういう意味なのかということである。本質に属するのは、つねにひとつの状態、いいかえればひとつの実在性、完全性であり、これは一定の力能や、触発に対する一定の変様能力を表現している。(ドゥルーズ「スピノザ」)」

ここでスピノザがいうのは、本質的に悪い人間というのは存在しないということ。悪は本質に属さない。本質というのは、その本質がとる状態しかもちえないし、他の本質に変わることもない。石に視力が無いのは石の本質だけれど、それが悪であるということにはならないように。

誰かが悪であるとか、不幸であるというのは、その人間のとる変様に応じてのことではなく、彼のとらない変様に応じての事なのだ。とる変様(能動的)と、とらない変様(受動的)という、二つの差異の間にだけ、悪は存在する。ではなぜ、彼ら(どうしようもない人たち)はとらないのか。不幸なのか。

「外発的な状態が私たちの力能の減少を含む場合には、その状態は連鎖的に他の非十全で従属的な状態へとつながってゆくことしかできない。(中略)まさにその意味で、存在(現実の生)は試練である。しかしそれは、物理的・科学的な実地の試練であり、実験であって(道徳的善悪による)<審判>とはまるでちがう。(ドゥルーズ「スピノザ」)」

外発的な状態とは、生まれが貧しいとか、体に障害があるとか、金がないとか、頭が悪いとか、そういう自然的な物理状態、外部との関係性における自己のこと。自分の能力は、どこまでも外部に位置づけられている。それは、外部との関係性において生じるものでしかないから。そのような外部との関係性において、人間は受動的で在らざるを得ない。すべての人間的不幸がここにある。極端な例で言えば、上から石が落ちて死ぬとか、自動車に轢かれるとか、外部にあるものによって、つねに人間は変様させられる。

貧困や飢えなどの外部にある物理的諸関係によって、人間は受動的で在らざるを得ない。ドゥルーズのいう生存が試練であるというのは、そのような外部から受ける受動(わるい)をいかに能動(よい)に変えていけるか、そういう意味での試練なのだ。

外部からくるものを、人間がその時、どのように処理するか。問題の解決に向かって、とる変様(能動的)と、とらない変様(受動的)の比較においてのみ、駄目なもの、悪は存在している。したがって、悪いこと自体は、人間の本質に属していない。本質的に駄目な人間、悪い人間など、この世のどこにもいないのだ。

ここでいう外部との関係性について、もっといえば、物質的諸関係としての他者の意識も外部だ。どのような正しい教育を受けた人間であっても、強盗殺人をしてしまう人間はいるだろう。それは、盲人に視力がないのと同じで、道徳が本質的に備わっていない人間、反社会的な人格障害の人がいることは、いろんな形状の石があるように必然的。(★唯物論者としてのスピノザ http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=46615902&comment_count=4&comm_id=140576

そのような他者と触れ合うという事は、自動車にぶつかるのと同じで、外部との悪い出会いの関係にほかならない。悪い出会いは、歩いていて落雷に遭遇することが否定できないのと同じで、いつでも起こりうる。いつだって、街で狂人に刃物で襲われ殺害されることは否定できないのだろう。

そのような天災的な事象は、事情がわかれば、なにも不条理ではない。人間は、この天災による因果連鎖が理解できないゆえに、たたりや神の意志に変える。妄想の世界、観念的な世界に入って行く。これこそが表象であり、観念論の始まりだった。唯物論的に世界をとらえるというのは、すべての事情(因果連鎖)を知れば、「怨恨とやましさ、憎しみと罪責感」から解放されるということを意味している。(天災に怒る人はいない)

天災を受けて、天災に怒る人がいれば、それはどこまでも『受動」であり、天災を受けて、天災を乗り越える為に行動する人は『能動』。

『受動』である限り、どこまでも悪く、『能動』である限り、どこまでも良い。

したがって、良いと悪いは、誰かが超越的に判断、裁量、断罪することではなく、事物(たとえば天災)や自然との交渉のなかで、どれだけのことが能動的に出来たか、あるいは受動的であったかによって、決まる。

しかもその決定は、自分自身が受ける「喜び」あるいは「悲しみ」によって必然的に決まる。(当たり前だけど悪いものと出会わなければ、悲しい感情にはならないように)

この「決定」の根拠はあやうい。なぜなら、喜びと悲しみの基準は人によって違うから。スピノザは、これについて何が喜びの根拠になっているかを『共通概念』によって示す。(★別項目「共通概念」)

スピノザは、すべての隷属的な反動の源を、怨恨とやましさ、憎しみと罪責感と規定した。怨恨とやましさ、憎しみと罪責感の源は、事態の因果連鎖を正当に認識できない知性の力にあるとした(知性改善論)。

知性が増大すれば、それだけ多く認識し、それだけ多くのことを為せるので(能動)、喜びもそれだけ増大するので、それは善であるということになる。(第3部のテーマ)

コメント(2)

「欠如とは欠如をもたらす行動ではなくて只単に或ることがらが欠けている状態であ
り、これはそれ自体では無なのです。欠如とは我々が物を相互に比較する時に形成す
る理性の有或いは思惟の様態にすぎないのです。例えば我々は、盲目者を目して彼は
視力を欠いていると言います。これは我々がとかく彼を視る者として表象するからで
す。この表象は、彼を目の見える他の人と比較することから、或いは彼の現在の状態
をまだ目の見えた彼の過去の状態と比較することから起ります。そして我々がこの人
間をこのようなふうにして考察する時、即ち彼の本性を他の人々の本性と比較するか
或いは彼の過去の本性と比較して考察する時、視力が彼の本性に属すると考え、そし
てそのため我々は彼が視力を欠如していると言うのです。しかし神の決裁とその決裁
の本性を考察する時、その人間が視力を欠如していると言い得ないのは石が視力を欠
如していると言い得ないのと同様です。なぜならその時期にはその人間には石に視力
が属していないと同様の当然さで視力が属していないのですから。つまり、その人間
には神の知性と意志に依って賦与された以上の何物も彼のものでないのです。ですか
ら神は石が見えないことの原因でないと同じようにその人間が見えないことの原因で
はないのです。この場合、見えないということは単なる否定にすぎないのです。・・・・・
結局欠如とは或る物の本性に属すると我々の判断することをそのものについて否定す
ることにほかならないし、否定とは或る物の本性に属しないところのことをそのもの
について否定することにほかならぬのです」(Ep21[邦訳128頁])。

「或るものが善いと言われるのは、それほど善くない或る他のもの、或はそれほど我々
に有用でない或る他のものに関係してのみ言われるからである。例えば、或る人間が
悪いと言われるのは、より善い人間と比較してのみ言われるのであり、或る林檎が悪
いと言われるのも、善い或はより善い他の林檎と比較してのみ言われるのである。す
べてこうしたことは、比較してそう呼ばれる他のより善きもの或は善きものが存しな
かったとしたら言われ得なかったであろう。従って或る物が善いと言われるのは、そ
れがそうした物について我々の有する普遍的観念〔一般的観念〕と一致すると言う意
味にほかならない」(KV 1/10[邦訳107頁])。

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