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哲学ノートコミュの石原慎太郎を粉砕するために

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「日本人のアイデンティティーは我欲。この津波をうまく利用して我欲を1回洗い落とす必要がある。やっぱり天罰だと思う」

いよいよわれわれは、石原が古くからそうであったように、大衆に対する嫌悪の感情の出処をはっきりさせる必要があるだろう。上のような発言が、問題として根深いものがあると同時に、それが大衆にすんなりと受け入れられていく過程を捉えなければならない。これについて、三浦小太郎氏が的確に書いているので引用する。

「しかし、石原氏は戦後を民主主義の到来としてではなく、むしろあらゆる伝統、道徳、社会規範が崩壊した、「空虚な自由」の社会と認識した。これは文学者として決して間違ったものではない。むしろ、戦後をアメリカ民主主義礼賛やスターリン幻想に囚われた左右の文化人よりも、石原氏の方が、「民主主義がファシズムに勝利した」という美名の元で行われた、原子爆弾と大量殺戮の第2次世界大戦が生み出した戦後精神の闇を深くとらえていたともいえるのだ。そして、この様なニヒリズムは、家族制度や地域共同体の崩壊を向かえた現代社会を預言していたとも言える作品である。

 石原氏自身は、おそらく公的、意識的には、「完全な遊戯」の非道徳的社会を否定しているはずだ。だが、無意識の部分で、石原氏は全く国家であれ、伝統であれ、又人間であれ、基本的には信じていないのではないかと思う。現代社会では、人間はほうっておけば非道徳的なエゴイスト以外のものにはならない、という石原氏なりの確信が、現実のマジョリテイの一面の真理を捉えていることは否定できないのではないかと思う。国旗、国歌への忠誠を求める姿勢は、石原氏の「右翼的側面」ではない。

 むしろ、人間は「国民国家の一員」であることを強制的に教育しなければ決して国民意識など持たないのだという、実は逆「左翼」的思想なのだ。日本国民は伝統的に祖国を愛し、皇室を敬愛する、日本文化は自然に受け継がれていくという「性善説的保守」と石原氏では、たとえ結論は同じでも全く意識的には逆なのである。ある討論会で、石原氏が国旗、国歌を「メタファー」と呼んだ時、私は全く無意識のうちに石原氏の本音を見た思いがした。

 このような石原氏が時として発する問題発言は、実はマジョリテイに内在する差別意識、もっと言えば、「平等」「弱者保護」といった建前の背後にある偽善性への強い反感を結果的に代弁している事がある。問題発言の指摘が必ずしも石原氏支持の低下にはつながらないことはここに根本的問題があるのだ。差別意識は、単にそれを「悪だ、無くすべきだ」と指弾するだけで解決することはできない。現代社会の先に述べたニヒリズムとエゴイズムの中では、「差別反対」という言葉や運動に対し、むしろその中の偽善的(と、マジョリテイに写る印象)側面が、差別発言そのものよりも反感を引き起こすこともあるという現実が在るのではないか。誤解を恐れず具体的に提起すれば、この傾向は特に北朝鮮問題と在日コリアン問題、及び同和問題を巡る現象に象徴的に現れている。」

三浦氏の発言は概ね的を射ているので、ここからさらに論を進めて、この石原慎太郎という特異な人物の、大衆嫌悪の感情を捉えきり、その政治の転換点としたい。
戦後民主主義の虚無というのは、三島由紀夫などにも極端に現れているし、それがあらゆる意味で「幻想」であり、非科学的な立場であるというのは、自分でも精神主義という言葉で自らの文学を表現しているように、自明なことである。石原も文学者である。そういう意味で、石原の系譜は「戦後民主主義の虚無」に連なっている。石原の虚無感というのは、戦後民主主義的な価値観への虚無であり、敗戦により信じていたものが崩壊してしまったという虚無なのだ。敗戦という思想の転換点にたって、石原は坂口安吾のように落ち切ることができなかった。安吾は、もともと国民意識などというものを信じていなかった。そして、天皇や国土そのものを批判していた。少年であった石原はもっと純粋に、戦争や天皇や国家を信じていたのである。それが敗戦によって価値観が崩壊したときに、人々が180度価値観を転換させたその変り身の速さに、彼の中で大衆への嫌悪が芽生えた。あらゆる俗物、エゴイスト、大衆的なものへの嫌悪。そして、そんな大衆への不信、嫌悪によって、いつも自らの特異性を浮かび上がらせてくるのが石原だった。

ニヒリズム、虚無主義というのは、完全な無のことではなくて、無いものを有るかのごとくありがたがっている人間のことをいう。敗戦によって、虚無を抱えた石原にとっての神とはなにか。それこそ、国民意識であった。石原は一度だって、国家によって国民意識を植えつけられなかった。彼は自らの意志によって、主義(ism)として、国民国家の価値観を選択したのだ。国民意識というものは無い。無いけれど、それを共有すること、無を共有し、無を立ち上がらせ、無のなかで生きていこうとする態度こそ、まさに虚無主義なのだ。言い換えれば石原は「無」を選択したわけだ。だからこそ、石原は根っからの虚無主義者なのだ。ニーチェはそのような虚無主義を乗り越えるためにヨーロッパに於いて「神は死んだ」と宣言しなければならなかったし、そのような生き方こそが「超人」なのだといった。そして、それ以外の生き方はニヒリストなのである。「国民意識の共有」=虚無であり、無を共有するニヒリストどもの群れが現代社会の実相である。それは、選挙で石原を支持している数に象徴されている。

つづく




「コンクリートの、鋳鉄の、セラミックスの、グラスファイバーの鳥居を建てるように、妄想は国土を生み出していく。大蛇や出歯亀といった考えつく限りの碌でも無い物が入り込んだ祠の神威に囚われて、好色さや貪欲さに血迷い不毛な徘徊を続ける事が、家郷の建設であり、文人の「くらし」であり、国学の学びである。」

コメント(1)

国民国家というイデオロギーが虚無である。このことはマルクスがイデオロギー批判を行うまでもなく、スピノザやニーチェがはじめから語っていたことである。虚無の上に、大聖堂を建てようとすることが、政治であり、芸術であり、国家建設であり、あらゆる思想的営みであった。それが虚無である理由は、たとえば近代国家というものが、あらゆる局面で、アメリカ民主主義礼賛やスターリン幻想に彩られていたように、ようは施政者たちのそのときの状況、都合に過ぎない。つまり権力の運動に過ぎない。だから、そこにあるものは権力なのだ。自然状態において、権力は特殊な役割を果たす。力によってそれが国家状態を生じせしめ、社会状態へと移行する。その移行とは、権力の変形にすぎないのだ。

国民国家(あるいは中世であれば宗教)という虚偽意識に基づいたイデオロギーにすがっている人間は、科学的、唯物論的に見て、搾取対象であるという事実に基づいてみれば弱者である。けれども、その搾取される圧倒的多数者であり、ニヒリストである国民を、イデオロギーのもとで統合し、自らの権力の源泉としている者がいる。それが、フーコーがいうような「司祭型権力」のことだ。国民をイデオロギーのもとに統合し、そうすることで自らに権力を生じせしめる。

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