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哲学ノートコミュのスピノザの幾何学的方法

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ヘーゲルはスピノザの哲学の方法を以下のように批判する。

「スピノザの数学的な論証の方法は、形式にかかわるだけの単なる外的欠陥にすぎないように見えるが、スピノザ主義の観点を総括的に特徴づける根本的欠陥なのである。」(ヘーゲル 哲学史講義p144)

スピノザの哲学は、知をあらかじめ絶対的な始源に従属させる主張であり、始源的な定義から出発するやり方は、数学的な方法であって、哲学的な方法ではない。(ヘーゲルの根源的な批判)

哲学は概念の創出であり、概念によってとらえられているものであり、概念の包括的な叙述の後に、そのことがすんでから、再発見するもの(内容そのものの論理学=新しい論理学)

■スピノザの幾何学的方法へのヘーゲルの批判

哲学の幾何学的方法とは「言葉主義/ベルバリズム」である。
言葉による定義から進める方法から結果する知はまったく相対的。絶対的ではない。
言葉は、相対的であるから。たとえばエチカでは、まず実体とはなにかを定義する。
実体とは、知のすべての始まり、存在することのことだった。スピノザはそれをまず幾何学的方法で基礎づける。けれど、その基礎は絶対的なものではない、というのがヘーゲルの批判。

■ヘーゲルの新しい論理学の要請

知をあらかじめ絶対的な始源に従属させる主張に対してヘーゲルは非難する。

前提条件なしに定義される、「スピノザの定義」

この方法(手続き)には、つねに本質的に、相対的な価値が、恣意的に、抽象的に保証される。(だからスピノザの方法は駄目なのだ)

概念の現実的な運動が、絶対知。(問い続けること)それが、方法の必然性をおのずと表示する(ヘーゲルの論理学)

「純粋な学の内容をなしているのは、まさにこの客観的思考なのだ。それゆえ、この内容は、形式的であるどころではない、つまり実在的で真なる認識のための質量を欠くどころか、むしろ絶対的に真なるものである。あるいは、質量という言葉を用いたければ、この思考の内容こそが真の質量なのである。しかもその形式が自己にとって何か外的なものでもあるようなことのない質量をなしているのだ。つまり、むしろそれ自体が純粋な思考であり、したがって絶対的な形式であるような質量をなしているのだ。」(ヘーゲル「大論理学」序論)

「この学の内部にあって肝腎なのは、有限な思考をその学の歩みの中で認識することを覚えることであり、この学は自分の前提された対象に合致すれば正しいのだ」(ヘーゲル「小論理学」第20節)

「方法とは、全体の構造がその純粋な本質性においてたてられるもの以外の何ものでもない」(ヘーゲル「精神現象学」)

方法は、知の展開がなされる瞬間に、その展開の具体的必然性において把握された展開のこと。「真理は自分自身に即した自己運動」。形式というドグマの全能が消える。
数学と哲学の区分。

これによってスピノザ的な方法の企ては、崩壊したかに見える。

「スピノザ主義は、反省と反省が多様に規定する作用とが外的思考である点で欠陥のある哲学である」(ヘーゲル「大論理学」本質論)


■認識の基礎が、真なる観念によって成り立っているということがいかにして可能か

「方法というものは、反省的な認識、すなわち観念の観念にほかならないのであり、まず初めにある観念なくしては観念の観念もない以上、初めにある観念なくしては方法もないということになる」(スピノザ「知性改善論)

真の観念を把握する諸条件を(形式的に)再認識すること以前に、真の観念を生み出していなければならない。(所与の真の観念)

デカルトはまったく逆で、真実にかつ秩序に従って認識する前に、そのような認識の諸手段が与えられなければならない。言語体系やら数学体系やらの諸規則にならって、真理を再認識するすべを知らねばならない、と。けれど、言語体系やら数学体系を使って、真なる観念を問えるのか?
言語体系やら数学体系が真であるという前提がどこにもないから。それを問うと無限背進に陥る。

■スピノザの方法
言語体系やら数学体系やらの諸規則があるのは、はじめに観念があるから。(所与の真の観念)

真なる観念の問い自体は、観念の観念(反省的認識)によるものなので、それはもはや問えない。(反方法序説。上のデカルトの方法とまったく逆。)

すでに真の観念が与えられているというスピノザの前提は、観念の観念(反省的認識)によって導かれざるを得ない。(デカルトと違って、そのことにスピノザは自覚的だった)

スピノザは観念の観念(反省的認識)によって、真の観念が与えられているという認識に至る。これこそがスピノザの「方法」だった。真の観念が与えられれば、そっから定義して、どんどん定理が出てくる。(オートマトン、自動機械)

これは、ヘーゲルの「方法とは、全体の構造がその純粋な本質性においてたてられるもの以外の何ものでもない」と同じことがわかる。

真の観念が与えられていると前提にすることは、後から後から証明していくことだ。

アプリオリに真の観念が在るのではなく、逆に知性によって認識する過程において、真の観念がすでに在るということを発見していく。このことを見出す発見の過程、認識の過程こそがヘーゲルの絶対知のことで、スピノザもじつはそれと同じことをやっている。

知性によって認識する過程は、ものの特徴として、人間が認識する手がかりとして人間にすでに与えられたもの、すなわち自然そのものだ。

認識とは、まだけっして始まることは無い。認識はすでに始まってしまっているから。
つねにすでに観念が存在する。その問いの前提にたって、すでに人間は思考しているのだ。

コメント(2)

■ヘーゲルは知を絶対的なものとする。主体として、自己に即して自己のもとに復帰し、自己を実現しつつ全実在性をわがものとするようなものとして思考をとらえる。

『そのため、いっさいの合理性の基礎にある本質的な原因性が目的論的前提として定義される。』

■スピノザは、思考を実体の一つの属性にすることによって、思考の運動を絶対的に客観的なものとして構成しており、思考の運動を主体へのいっさいの顧慮から解放しているので、

『いっさいの合理性の基礎にある本質的な原因性が目的論的前提なしに定義される。』


ヘーゲルの「主体的論理学」は、ヘーゲル自身が踏み込んだ弁証法の倒錯。

スピノザの思考は、それを批判するものなのだ。(「ヘーゲルかスピノザか」p88)
■スピノザの方法 ーー スピノザが念入りに作り上げた認識の戦略

スピノザの幾何学的方法は、真理を必然的で客観的に規定された過程として示すようにしむけている。

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