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酷評された映画たちを愛するコミュのレディ・イン・ザ・ウォーター【M・ナイト・シャマラン】

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記念すべき第一回は、M・ナイト・シャマラン監督のレディ・イン・ザ・ウォーター。

先週末(2006年9月30日)に封切られるも、ヤフーレビューで現在(10月6日)で2.63。
eiga.comには“ご都合主義”、“正直中だるみを感じた”などとまで書かれる。

この作品、もしくはM・ナイト・シャマランを語り、褒めて見るトピックです。

コメント(9)

で、とりあえずブログからコピペしてみる。

M・ナイト・シャマラン。


彼の作品は、ファンタジーとリアルの境界が魅力。

二つのパワーバランスが絶妙。 



SW(スター・ウォーズ)、LOTR(ロード・オブ・ザ・リング)は世界観、つまり背景自体がどこか遠くの架空世界である。リアルとしての直接的描写は少ない、境界なんてない。厳密にはそこにファンタジー性はないかもしれないが、ここではそれはまぁ置いといて。
 
で、ここからが微妙で、スピルバーグはどうか?たとえば未知との遭遇だとか、宇宙戦争だとか。
A.I.やマイノリティ・リポートは鼻から未来の世界、つまりSWやLOTRのカテゴリーなので、とりあえず除外。


でも、やはり彼の作品には境界の魅力はない。未知との遭遇、宇宙戦争は普通の世界に暮らす普通の民間人が、宇宙人という“本来存在しない”と思われるものと関係を持つ、というリアルとファンタジーの対立の構図はあるにも関わらず。彼の作品はもっと他の部分に魅力がある(と一応フォローは入れておく)。

でもシャマランはやはりこの境界こそが魅力。

なぜか。

多分、あられもない言い方をすると、“主人公の家からの距離”だと思う。(なんだそりゃ いやでも意外と大事

シャマラン作品を逐一見直したわけでも、隅々まで覚えているわけでもないけれど…
彼の描く範囲は、“人が日常で動く範囲”から逸脱しない。シックス・センスも、アンブレイカブルも、サインも、ヴィレッジも。サインなんて、外ではエライことが起こっててもおかしくない。のに、主人公メル・ギブソンの家から離れようとはしない。ここに身近さとリアリティが保障されいてる気がする。“外で起こったらエライ出来事”であろうことを家近辺に押し込めてしまう。そこにリアルとファンタジーの境界で起こる化学反応的おもしろさを感じてるんじゃないかな。




で、未知との遭遇はといえば、やっぱり国家権力が出てきて、主人公たちはデスマウンテン登って宇宙人とのコンタクトを眺めてて、挙句には基地に乗り込む。宇宙戦争も日常の範囲外まで移動する。
形式としては同じなんだけど、これだけスケールがでかい(日常範囲を超える)と、スケールの問題として背景がファンタジー性を帯びてくる。ここでいう背景のファンタジー性ってのは、SWだとか、LOTRだとかの“独特の世界観”的なもの。

それともうひとつは、現実とファンタジーとの境界が曖昧になっていく感覚がない。スピルバーグ映画はやっぱり人は人であって、人がファンタジーの1パーツになっていく感覚はない。人は人、宇宙人は宇宙人。

で、シャマランにはそれ(曖昧になっていく感覚)がある。サインはちょっと微妙かも知れないけど(あんまり覚えてない)。レディ・イン・ザ・ウォーターなんて典型で、人がファンタジー(寓話)の登場人物になっていくのがミソであって。

じゃ、ポルターガイストなんかはどうか? …観たのが昔過ぎて判りません(なら出すなっての)

で、ちなみにこの“境界”の魅力を感じる人がもう一人いて、そこの部分においてはシャマランと似ているなと勝手に思っている。黒沢清監督。

ただし、彼は前述した理屈は当てはまらない。回路くらいだろうか。カリスマはそもそも森が舞台だし、キュアも“どこか知らない世界”が映りこむ。しかし、それでも彼の作品にはシャマランと同じ“それ”を感じてしまう。なぜだか判らない。でも、確かに彼もどこまでリアルにこだわり、どこからファンタジーでよいかを弁えている人だとは思う。森を舞台にするのも、主人公が銃をぶっ放せるからだし。そこの辺りがヒントになるんじゃないかな。それと人がただの人ではなく、ファンタジー要素を担っていくという独特のプロットもありますしね。

回路は日常で起こった出来事が、実は外の世界でも並行に起こっているという形式だ(カメラは日常を撮り続ける)。で、サインもそうだった気がする…ただ提示の仕方が、“身の回りで起こったことが実は・・・”という、日常→外界の順でなく、日常宇宙人が来るという世界規模でエライこっちゃを身の回りの範囲で終始させる、外界→日常の提示のさせかたという意味では逆だな。


そんなイメージをとりとめもなく書いてみる。


ってか映画におけるファンタジーという言葉の意味って何ですか?(っていまさらかよっ
文学界11月号、シネマの記憶喪失で中原昌也さんと阿部和重さんがレディ・イン・ザ・ダークを絶賛しておられるようです。
なるほど、確かにそうかも。そう考えると「夢」の話に繋がってくるかも…
ちなみに夢つながりで言えば、デヴィッド・リンチはその無意識性を前面に押し出しますよね。やっぱり人が普通に住んでいる街が舞台で、そこから逸脱しない。でも、小さい謎のオヤジだけで無意識下の世界の広がりを表現してのけるという。

彼らって映画に映らない世界を見せる(想像させる)のがうまいなぁと思いますね。これがミニマリズムってやつなんでしょうか?

ポルターガイストはスピルバーグだと思ってました(恥
よく考えたらアレももろにそういう性質を含んでるか…
↑×2 訂正。ダークじゃなくってウォーターでした…

りょっださんの記事を改めて読み直してみたのですが、
冷静に読むと

>リアルとファンタジーの境界線など最初から“存在せず”

と書いてました。どうも読み飛ばしてたみたいですが、これはどういうことを意味しておられるんですか?コメを読んでいると、レディ・イン・ザ・ウォーターという作品のことか、映画というメディア自体の話なのかどっちだろうと疑問がふとわきました。
なるほど。

ところでレビューでも書いたように、輪廻ってモロそういう映画だと思ったのですが、どうなんでしょうね。

実際に優香が狂ったところが映ってるフィルムが関係者に上映されているという、一見ナゾに思えるシーンなどモロにそう感じるんですが。
追記
あ、言うことは特にないと仰ってたのにごめんなさい

あと、先日ツタヤで妖女ゴーゴンと地獄の警備員みつけてビビりました。VHSですが。日ごろ罵倒してすみませんと謝罪しました。

あと、ザッツエンターテイメントに関して。関わらないということだったので、おもわずじゃ俺が聞いてみようってTB送っちゃいました(爆 なんとおせっかい。
おとなしくしていよう…

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