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島津武将列伝コミュの樺山忠助

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【樺山忠助】(かばやまただすけ、1540〜1609)
樺山氏10代当主。9代善久の次男。名は助七・忠知・兵部大輔、官は安芸守、号は紹劔。室は川上久朗の女。子に規久(11代)・久高(13代)。

 日向穆佐地頭。弘治3(1557)年、18歳で蒲生菱刈攻めに参加。兄の忠副が戦死したため家督を継ぐ。永禄10(1567)年、父に従い平泉城の守備につく。天正元(1573)年、島津家に降伏した禰占重長が肝付氏に攻められると、援軍に向かい肝付氏の軍勢を破った。同4(1576)の高原攻めにも参加。後に日向穆佐の地頭に任命される。
 天正6(1578)年、大友氏の軍勢が日向へ侵攻した際には病気のため出陣できず、嫡子の規久が日向高城へ入った。耳川の戦いの後、代々の忠節を賞せられ穆佐・高城の地を与えられる。同9(1581)年以降肥後へ出陣。同14(1584)年の筑前岩屋城攻めに参加するも巨石に兜を砕かれ負傷している。同年の豊後進攻では本拠の穆佐を規久に任せ自らは大隅堅利に移っていたが、島津家の一大事として堅利より出陣した。
 慶長10(1605)年には『紹劔自記』を著す。同14(1609)年、出水にて病没。享年70。

 忠助も父善久と同じく和歌を好み、善久から歌道を伝授された。また弓も得意としており、犬追物ではしばしば射手として加わっている。

コメント(3)

初めて書き込みします。樺山家の人が穆佐の地頭だったとは知りませんでした。

島津久豊公は地元穆佐城の城主てことは聞いたことありますが。
 どうも、はじめまして。
私も目に付いた武将の記述を書き連ねているだけであまり詳細には調べていないのですが、穆佐はかなり様々な人が関わっているようですね。
 なんとスタートは足利尊氏(穆佐城を築城)。そこから畠山→島津元久・久豊→伊東氏→樺山氏、だそうです。樺山氏ゆかりのスポットも色々残っているかもしれませんね(^_^)
足利尊氏が建てた城だったんですか!そりゃまたびっくりしました。文献があれば調べてみよう。

島津久豊と樺山氏はやはり薩摩出身なんでしょうか?

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