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島津武将列伝コミュの島津歳久

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【島津歳久】(しまづとしひさ、1537〜1592)
島津家16代当主、貴久の三男。祖父忠良からは「始終の利害察するの智計並びなし」と称される。名は又六郎、官は左衛門督、号は晴蓑。

天文23(1554)年、岩剣城の戦いにおいて初陣を飾る。永禄5(1562)年の横川城の戦いでは自ら城門を破り、また菱刈・相良氏連合軍に包囲された兄義弘を救援に向かうなど、九州統一戦において父貴久、兄義久を助け活躍する。

天正15(1587)年、豊臣秀吉の島津征伐が始まると、家中でただ一人降伏を進言する。しかし開戦後は徹底抗戦の構えを見せ、義久降伏後もゲリラ戦を展開して抵抗を続ける。義久の説得により降伏するも、秀吉が義久と面会した泰平寺から陣を移すため自領を通過した際に秀吉の駕籠に矢を射掛ける。また病を理由にした朝鮮出兵への不参加、朝鮮出兵に反対し挙兵した梅北国兼の反乱に家臣が参加していたなどの理由から秀吉の不興を買い、兄の義久に歳久を討つ命が下る。

歳久は竜ヶ水まで逃れそこで自害しようとしたが病により果たせず、追手の一人に首を討たせる。懐には書状が残されており、「病に侵されていたため太閤殿下の前に出ることができなかっただけであり、やましい所はございません。しかし疑われた以上は島津家のために切腹しようと思います。家臣たちが納得しないので武士の本分を貫くため戦いましたが、兄義久に対して弓を引こうとしたわけではありません」と書かれていたという。享年57歳。

歳久の首は京都の涙橋に晒されていたが、従兄弟の忠長によって取り戻され京都の浄福寺に埋葬(遺体は帖佐の総禅寺に埋葬)された。秀吉の死後、竜ヶ水の地に心岳寺が建立され歳久の霊を祭っている。現在は心岳寺の跡地に平松神社が建てられている。

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