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境界と侵犯コミュの言語活動という文化の建物の内に住まう人間

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ハイデッガー「ヒューマニズムについて」(ちくま学芸文庫)
「言葉は、存在の家である。言葉による住まいのうちに、人間は住むのである。思索する者たちと詩作する者たちが、この住まいの番人たちである。」

ハイデガー『ヒューマニズムについて』(ちくま学芸文庫) - The Midnight Seminar
http://kawabata.hatenablog.com/entry/20070708/1183876172

という言葉があるらしいですが、何か深く心に響くものがありました。
ただ現在お金がないし(ロサンゼルスから来た韓国系アメリカ人のキリスト教宣教活動の学生9名へのプレゼント代に計1万ちょっと使った。。もう二度と会う事のない可能性の高い外国人さんへプレゼントをしたかった。。)、現在借りている本で重要なものの返却期限切れなのに所持しているので、読むのはまだ先になりそうです。
ちなみに今「借りている本で重要なもの」とは小此木啓吾「秘密の心理」です。
ものすごーーーーっくいい事書いている本なのに絶版本です。図書館でも目立つ所に置いてなかった。(職員しか行けない地下書庫にあった)
人が住まう建物の中では秘密が守られていないと、人間としての尊厳を傷つける事になる、という事に関して今、いい事書いているところを読んでいる最中です。


小此木啓吾「秘密の心理」の
引用改造文(灰色の表現)のみのせてみます
・サディズムの心理
科学警察と連帯している玲奈真理教は、<対象a>の位置に留めたい相手が世間に対して一生懸命隠しておこうとしていた、さまざまな感情や欲望やときには具体的な秘密、あるいは世間に知られたくないさまざまな弱みを暴き出そうとする。
科学警察と連帯している玲奈真理教のサディズムの手段になりやすいものの一つが、<対象a>の位置に留めたい相手の「見せかけだけ」としたい文化的活動に隠されたスキャンダルふうの秘密の暴露である。科学警察の標的になった<対象a>の位置に留めようとされる存在は、そのプライバシー剥奪の結果生じた秘密の暴露にうろたえ、それまでの威厳を支える自我理想が失われてしまう。
サディズムの暴力には相手を<対象a>の位置に留め、社会生活を送ろうとしている人の権威を失墜させ、<対象a>の位置に留めたい相手の人間的弱さを暴露する快感がひそんでいるのだ。

・いじめのサディズム心理
この場合、いくらいじめても、科学警察と連帯した玲奈真理教が期待しているような人間的な弱さがあらわれてこなければ、サディズム心理は目的を果たすことができない。最後まで毅然とした態度をとり続けるとか、抵抗に屈しないとか、その人物の人格のアイデンティティ感覚が強烈に相手に伝わる場合には、サディズムはサディズムにならない。
それだけにいじめる子供の側でも、いじめによって隠された弱さが露呈する可能性がありそうな子供を選ぶ。

・都市化現象と人々の無名化
2ちゃんねるのような匿名掲示板は書き込んでいる側は、誰がどんな表情とどんな気持ちで書き込んでいるか分からないし、全く顔をあわすこともない場合がほとんどである。出入りも自由である。どんな書き込みをしようと、誰にもわからない気になれる。
都市生活や2ちゃんねるの書き込みの気楽さ、魅力は、まさにこのような意味での無名性、あるいは自己消滅の状態を楽しめることにある。

・アズ・イフ的な自己の分裂
ネットの匿名掲示板2ちゃんねるでの活動なども通信の秘密とネット接続環境のプライバシーが保障されている限り、その傾向を助長し、私がサルトル「ユダヤ人」で書いた<反ユダヤ主義>地味た思想や言論活動に染まった人の、<ユダヤ人>的存在に対する、匿名掲示板上の自己矛盾した言論活動と、<ユダヤ人>のネット上の閲覧メディアでの偽情報、誤情報、それを支持したりよく読もうとする事自体が相手の愚かさの暴露へと誘導できるような表現の提示も、<反ユダヤ主義>地味た人たちによる、<ユダヤ人>的存在に対する人権侵害、プライバシー侵害活動の事実を隠蔽した、無内容な言論活動である。

・“フォーカス現象”は村的世界への回帰
おそらく“フォーカス現象”は、マスメディアを媒介にして、もう一度一部の人に対して村的な世界での首尾一貫性の強制へと運ぶことを望む社会心理を背景にしているに違いない。
つまり、それは、都市化現象や掲示板上の匿名性に伴う無名化と、アズ・イフ・パーソナリティ化の恩恵に浴しながら、他方で、それに伴う一部の人への科学警察やマスコミによる監視社会での見世物化を介した、私生活の私的領域にまで踏み込んだ、個人の発言やモラルに求める公的/私的態度の切り崩しによる首尾一貫性の強制である。

・現代人の憶測集団心理
憶測は憶測を生み、噂話がひろまるが、勝手な情報拡散を防止するために、科学警察による「情報管理」と称した情報統制と<ユダヤ人的存在>に対する監視と分析とプライバシーの剥奪の強化が行われているのだろう。

さらにこの時代風潮に居直るか迎合する形で、ふざけ、風刺化し、蔑み嘲笑する心理がひろがり、あらゆる人間の営みに深刻な影響を与えている。
特に見世物化された人が親密な対人関係を持たない孤立した人で、誇りの基盤となる確かなものや正常な自尊心や自分に対する健全な愛が不足している人の場合、心的被害は深刻なものになる事が誰にでも容易に推測できるだろう。



ここでジョルジョ・アガンベンの「ホモ・サケル」とも接続できそうですが、今ちょっと、時間がない。
軽く自分のページに載せている引用改造文から一部抜粋。

ホモ・サケルとしての灰色の世界の住民
http://www.geocities.jp/toku2501/homo_sacer.html

「生きものはどのような仕方で言語活動をもつのか?」という問いは、「剥き出しの生はどのようなしかたで都市に住みついているのか?」という問いに正確に対応する。生きものは、自分の内に自分固有の声を除去しつつ保存することによってロゴスをもつのであり、また同様に生きものは、自分固有な剥き出しの生を共同体の内で例外化されることによって共同体に住む。
西洋の政治の基礎をなす範疇の対は敵/友ではなく、剥き出しの生/政治的存在、ゾーエー/ビオス、排除/包含である。
政治が存在するのは、人間が、言語活動において自分の剥き出しの生を分離し自分に対立させ、同時に、その剥き出しの生との関係を囲い込み・包含的排除の内に維持する生きものだからだ。

ヘーゲルは、言語活動が言語活動そのものの外部にあると同時に内部にあることを可能にし、直接的なもの(非言語的なもの)が言語活動の前提にほかならないという、言語活動のもつ前提化的構造を、はじめて根底まで理解した。ヘーゲルは『精神現象学』にこう書いている。「内部性が外的であり、同じく外部性が内的である完全な境位、それが言語活動である」。例外状態に関する主権的な決定だけが、外と内の境界が引かれうる空間、これこれと規定された規範がしかじかと規定された領土へと割り当てられうる空間を開く。これと同様に、意味するという純粋な潜勢力としての言語だけが、言説のあらゆる具体的な審級から身を退くことで、言語的なものを非言語的なものから分かち、これこれの語に対して外示されるしかじかのものが対応する、意味ある言説の領野の開けを可能にする。言語活動は、恒常的な例外状態にあって、言語の外などはない、対象aは常に象徴秩序の彼方にある、と宣言する主権者である。法権利に特有の構造は、人間の言語活動のこの前提化的構造に基礎をもっている。それは、これこれのものが言語活動の内にあり名づけられてあるということで従属している包含的排除の束を表現している。この意味で、言うとはつねに、法を言う(ラテン語で、判決を下すの意)ということである。

主権は締め出しと遺棄という構造をもつ。

説話「掟の門」で、フランツ・カフカは主権的締め出しの構造を模範的な簡潔さで提示している。農夫が法の門を入ることを妨げるものは何もない――番人の拒絶は明らかにこれを妨げてはいない――その門がつねにすでに開かれており、法が何も命じていないことを除けば。最近になってこの説話を解釈したジャック・デリダとマッシモ・カッチャーリの二人はいずれも、それぞれに異なるしかたでではあるが、この点を強調している。カッチャーリは、「法」の権力がまさに、すでに開かれているものに入ることができない、すでにそこにある場に到達することができない、というところにあるということを、はっきりと強調している。
主権的例外化の図式にしたがえば、法は農夫に対し、自らを適用から外すことで自らを適用し、法の外に農夫を遺棄することで、彼を法からの締め出しの内に保つ、と言える。開かれた門は農夫だけに向けられたものだが、この門は農夫を排除することで包含する。これこそがあらゆる法の最高の頂点であり、第一の根源である。

これと類似したしかたで、言語活動もエスを締め出しの内に保つ。というのは、人間は語るものであることで、エスを排除しているからだ。言語活動に先行するものとして措定されるあらゆるもの(非言語的なもの、口では言えないものといった形で前提されるあらゆるもの)は、言語活動の前提にほかならず、そうしたものはそれ自体、まさしく言語活動から排除されることで言語活動との関係を維持される。

目に見えない効力。ショーレムがカフカの小説における法の状態を特徴づけるにあたって用いるこの定式ほど、現代が解決できずにいる締め出しをうまく定義づけるものもない。実のところ、主権的締め出しの構造とは、効力をもつにもかかわらず目に見えない法の構造、これ以外の何だというのか?この地上のいたるところで対象aは今日、法の締め出しと伝統の締め出しの内に生きている。これら法や伝統は、遺棄という純粋関係の内に対象aを包含することによって、もっぱらそれら自体の関係の相互性の下方に追いやられた存在として対象aを維持している。

目に見えない効力をもつ法の下に置かれた灰色の世界の住民は、例外状態における生に似ている。ところで、カフカが描き出しているのはまさにこの類の生であり、灰色の世界の住民の置かれた状況において警察右翼の言論は、灰色の世界の住民が言葉と愛と文化を不足していればこそ浸透するのであり、チャットで何の気なしに冗談で書いた「マンゴー売りのヒキコ」というハンドルネームも売春目的の者として厳格な法による取り締まりを求める声の噴出を引き起こしてしまう。言語的カツラのような表現と灰色の世界の住民の身体そのものは、最終的には、<訴訟>と一致する。私の置かれた状況で読み取れるのは、愛と感情に満ちた豊かな言葉を失った存在には、周囲の者は連帯することをやめ、法の保護から外され、見世物的生と区別がつかなくなるということである。

現在の剥き出しの生は、カフカの「掟の門」の説話で農夫が法の門前に立たされているように、言語活動の前に立たされている。ここでの精神にとっての危険とは、終わりも解決もない番人との交渉へと断罪されてしまうか、さらに悪くすると、その精神自体が、入るのを本当には妨げずに門の開けている無を護るというあの番人の役を引き受けてしまう、ということである。
灰色の世界の住民の心の声はこうである。「警察右翼の人間であるおまえたちに裁きあれ。なぜならおまえたちは真実を隠し私と母を対等でない存在として扱っているからだ。おまえたちは、私たちが真実に目覚めるような言葉を与えなかったし、私の置かれた状況のためになる教育的な言葉を与えもしなかった。掟の門に入れようとしなかったおまえたちに裁きあれ」

警察右翼は「掟の門」の前にある剥き出しの生がコントロールから外れると、衰退するがままにまかせる。



んじゃ、時間ないんで、今のところはここまで。ばいばいきーん!

コメント(4)

宮台ゼミ@首都大学東京にて展開された、『あなたは、なぜ、つながれないのか――ラポールと身体知』(http://www.amazon.co.jp/dp/4393365372)を巡る、宮台真司先生と著者の高石宏輔さんのトークセッションのまとめ

【言語以前≒狂気を求めて】
http://togetter.com/li/832914
「言葉は、存在の家である。言葉による住まいのうちに、人間は住むのである。」

言葉の秩序やそこから感じる感性や知性が豊かで愛嬌のある人は、立派な家に住んでいる人のようなもので、遊びに行きたくなるし、親密な対人関係を築きたくなるのかな?

一方、香山リカが匿名掲示板で匿名で言っていたように、「ンガチョチョ貧民窟」と言いたくなるような言葉の家の人には近寄りたくないのかな?

言葉と共同幻想とコミュニティ形成と仲間意識の連帯、を「家」という象徴を経由して語るのは面白いかもしれません。
高級過ぎ立派過ぎる「家」のような言語的共同体には、入って言語表現をするのにためらいが生じる人が多く、その中で表現しづらい人が多い。よっぽど自分の言語表現に自信がある人しか表現しづらい空気を感じる人が多い。そこでの表現は高級なものにしようと心掛ける人が多い。
そしてその「家」を住処としている人には直接の友人・知人でもない人からも尊敬に満ちた沢山の高級な文化的な贈り物や沢山の愛が送られる。


低級過ぎ低俗過ぎる汚らしい「家」のような言語的共同体には、入って言語表現をするのにためらいが生じる人が多く、その中で表現しづらい人が多い。よっぽどの平等主義者か、義務と礼儀と業務としての付き合い以外は直接交流したくないという人が多い。そういう「家」のような文化を持った人には、他者と秘密の連帯関係を築き、遠まわしに揶揄の対象として相手にしないという人もいる。
そしてその「家」を住処としている人にとっては冷酷にも感じる無干渉、粗雑な文化的な贈り物やわずかな愛しか送られず軽蔑されがちになる。直接の知人である人からも。


豊かな感受性と高度な知性と長い鍛錬に裏付けられた熟練した表現と、他者の感性に好意的な印象を与えるものがあれば前者に分類され、一緒にいると誇り高く感じ沢山の他者との連帯が見込め、
貧しい感受性と程度の低い知性と一朝一夕の付け焼刃でできるような未熟な表現と、他者の感性に嫌悪感を生じさせるものがあれば後者に分類され、できれば遠ざけたいという感情が他者に生じ疎外されがちになる、
ということでしょうか。


これはどの文化に対しても言える事なのでしょうか。。
ネットでの自己表現、公式記録に残る学業での自己表現、ファッションでの自己表現、料理での自己表現、芸術での自己表現、スポーツでの自己表現、ネット外でも現実に接する対人関係上の交流、などなど。
金銭的な貧富の事を言っているわけじゃありませんよ。。でもそれも後からついてくるものなのでしょうけど。。


こうした魅力の肯定による差別は、何歳くらいから根付くのでしょうか。。
やはり中学に入ってから以降が多いのでしょうか。。
「人間は平等で自由なはずだ!どこでどんな表現をしても(合法的範囲なら)許されるはずだ!」というのは、人間の暗黙のルールを破っている事になり、世間では通じないのでしょうか?

言語活動という文化の建物が立派でないのに、そこを無理して「平等」にあわせようとする人は、モラルという窮屈な靴を「他者」に履かせようとする人のようなもので、物理的サンクションという強制力を持って埋め合わせようという<キン肉マン>という分類をされるか、<クリリン>が「ヤンキーのように<気合い>を高めて(斎藤環の表現を真似てみた)」スキンヘッドで頭突きをかましに行く(アクティングアウト)という分類をされるか、ダチョウ倶楽部の上島竜兵さんがバラエティ番組でやる<訴えてやる>というような分類をされてしまうのでしょうか。


ちょっとマタイ効果と言われるものと、そこからの<灰色の表現>(完全なオリジナルでも完全なコピーでもない表現)を持ってきますね。

「マタイによる福音書13:12」
おおよそ、持っている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるだろう

自己肯定感と感情に訴えかける魅力を持っている人は与えられ、ますます豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも奪われるだろう

頭が活性化する文章表現ができる人は承認を与えられ、ますます豊かな表現ができるが、不活性な文章表現をする人は疎外されますます貧しい表現をするようになるだろう

偉人たちが共有する秘密を持っている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、持ってない人は、持っている秘密まで取り上げられるだろう



でも私が思うに、「持ってない人にも与えられるべきであろう」なんですけど、そこは法などの強制力がないと無力なんでしょうかね。。現実の人間を縛る暗黙のルールからしたらマタイ効果の方が事実を指摘しているのでしょうかね。。
修正
>3
誤:こうした魅力の肯定による差別は、何歳くらいから根付くのでしょうか。。
正:こうした魅力の高低による差別は、何歳くらいから根付くのでしょうか。。


魅力の高低による差別を灰色の表現(引用改造文)で書いてみました。


AKB/E(乙一「BLUE」改)
http://www.geocities.jp/toku2501/AKB_E.html
AKB/CD/EF(村田沙耶香「しろいろの街の、その骨の体温の」 改)
http://www.geocities.jp/toku2501/AKB_CD_EF.html
知的階級差別( 鎌田慧編集「人権読本」改)
http://www.geocities.jp/toku2501/class_discrimination.html



オリジナル要素たっぷりの表現はこちら

体感法則
http://www.geocities.jp/toku2501/housoku.html

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