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境界と侵犯コミュの境界、門、交通

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「境界、門、交通」という言葉から連想したことをいつもの引用文で書いてみます。

内田樹「寝ながら学べる構造主義」から引用改造
「無意識の部屋」は広い部屋でさまざまな心的な動きがひしめいています。もう一つの「意識の部屋」はそれより狭く、ずっと秩序立っていて、気にくわないものは周到に排除されており、客を迎えることができるサロンのようになっています。そして、「二つの部屋の敷居のところには、番人が一人職務を司っていて、個々の心的興奮を検査し検閲して、気に入らないことをしでかすとサロンには入れないようにします。」(『精神分析入門』)
フロイトはこの番人の機能を「抑圧」と名づけました。


デイヴィッド・ライアン「監視スタディーズ」から引用改造
空港は、移動と識別の手段が実践されているという意味で、おそらく最も厳重に監視されている場である。そして空港はまた、なによりもまず社会的振り分けの場所でもある。人びとが現実に空港を通過できるかには、極端な不均衡がある。空の旅のほとんどは、主に北半球からの裕福な少数者に限定されているが、この不均衡は、「好ましい搭乗者」への特権の供与と、そうでない客への過重なセキュリティ・チェックと審査という、ふたつの事柄に見て取れる。いや、むしろこの二点はつながっているのかもしれない。
いずれの場合も、空港は「データの濾過装置」としての役割を演じ、通過する旅行者を消費のターゲット、脅威となるリスクの両方として、ふるいにかける。主要な航空会社は、搭乗者を異なるクラスに明確に区分することにかけては自信をもっている。このクラス分けによって、ある搭乗者にはゲートでの待ち時間なしにラウンジからまっすぐ搭乗できるよう手配し、他の搭乗者には座席の列が呼ばれるまでゲートで辛抱強く待つように求める。セキュリティ・チェックを免除される有料カードを購入した搭乗者が、入管と荷物検査を確実に素早く通過できるよう手配している。「不審な」経歴や外見を持つ人々は通過にもっと長い時間を要し、要注意リストに掲載された人々はけっして飛び立つことができない。ここで再び、矛盾するようにみえる空港のふたつのねらいが、非常にはっきりとする。「移動性を最大限に引き上げ、かつ規制せよ」。


景山民夫はなぜ死んだのか?
294 名前:無名草子さん :02/02/07 14:40
景山氏のプライドのよりどころに、権力者の息子という他力本願なキーワードが
何度も見え隠れするのが、とても気になった。
初期のエッセイに、アメリカ留学からの帰国の際、わざとあやしい中近東ふうのベールをかぶり、
入管に身柄を拘束させておいて父親に電話を入れ、係官の慌てぶりを楽しむという
品性のかけらもない厚顔無恥な遊びを自慢していた。
死の直前のTVトークショウで、三谷幸喜にその話を嬉しそうにした時の
三谷の景山氏を心底から軽蔑した表情が印象的だった。
それはまるで、死刑宣告にすら見えた。
三谷の目は「あなたの時代は、とっくに終わってますが?」と語っていた。
番組の最後まで必死にはしゃいで1人でしゃべる景山氏。
冷めた目で、返事もしない三谷氏。

景山氏の死は、それから一年もしない時だった。
プライドの高い彼が、自殺を選んだとしか思えなかった。
宗教は、選民意識をもつ心弱い人間には劇的に効く麻薬だ。
彼は最後まで、等身大の自分を直視できなかった人だと思う。
http://book.2ch.net/test/read.cgi/books/997646319/294


大澤真幸「電子メディア論」から引用改造
法の前に門番が立っている。そこに1人の田舎者がやってきて、法の中に入れてくれと頼むのだが、門番は、「今はだめだ」と言って許可しない。結局、許可はいつまでもおりず、田舎者は死んでいく。――『法の門前』においては、田舎者は門を通過することはできない。それに対して、『田舎の婚礼準備』では、ラバーンは門をくぐり抜けることにはなる。

門番は、この門がただこの田舎者1人のためだけの門であるということを教える。
このことの意味するところは、門の向こうにあるはずの法の秘密は、ただ田舎者自身の欲望の相関物だということである。彼の欲望がそこに参入していないならば、法は空虚である。その意味で、法こそが、彼自身であるということができる。しかし一方では、彼自身(の欲望)が、法の内に自らの真実を見出しうるのは、彼が法から排除されているからである。つまり、法が彼にとって他者であり続けるからである。それゆえ、法に捉えられた田舎者にとって、法は彼自身であり、かつ他者でもある。


村上春樹「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」
そう、我々は影をひきずって歩いていた。この街にやってきたとき、僕は門番に自分の影を預けなければならなかった。
「それを身につけたまま街に入ることはできんよ」と門番は言った。「影を捨てるか、中に入るのをあきらめるか、どちらかだ」
僕は影を捨てた。
門番は僕を門のそばにある空地に立たせた。午後三時の太陽が僕の影をしっかりと地面に捉えていた。
「じっとしてるんだ」と門番は僕に言った。そしてポケットからナイフをとりだして鋭い刃先を影と地面のすきまにもぐりこませ、しばらく左右に振ってなじませてから、影を要領よく地面からむしりとった。


本上まもる「“ポストモダン”とは何だったのか―1983‐2007」から
83年の小林秀雄の没後、日本で知的な方面に関心を持つ若い世代の間で最もよく読まれ、オピニオンリーダー的存在であったのは誰かと問われれば、間違いなく柄谷行人の名が真っ先に挙げられるだろう。実際、80年代から90年代前半にかけて、「他者」「外部」「交通」といった柄谷語は、多くの批評家や学生の間に蔓延したのだった。


浅田彰「逃走論 スキゾ・キッズの冒険」から
関係の冒険。《外》との接触。こうした含意をもつ言葉を『ドイツ・イデオロギー』の中に求めるとき、ひとは「交通」という概念を見出すだろう。この概念は、いわゆる交通だけでなく物質的・精神的コミュニケーション一般を広く意味するものである。交通とそれが促進する分業とは、それらと有機的に結びついた生産力とともに、歴史を動かす主要因のひとつとして、きわめて重要な役割を与えられている。交通がなければ、つまり外部の異質なものとの出会いがなければ、歴史の展開は生じないとさえ言えよう。ここでは、歴史は、一個の主体が経験する内部的過程から限りなく遠いものとして考えられているのだ。

歴史を動かしてきたのは、構造に対するカオスの叛乱というよりも、諸構造間ないし諸共同体間の《交通》(いわゆる交通から商業や戦争にいたる広い意味で)なのだ、という認識を得ることができるだろう。

「文化の詩学」というタイトルは、文化を、あらかじめ出来上がった静的な秩序としてではなく、創造と破壊の両面を含む動的な過程としてとらえようとする姿勢を表すものだと言ってよい。
その場合、とりあえず二つの道がある。一つは、秩序と混沌、アポロンとディオニュソスのせめぎ合いに注目する道であり、もう一つは、秩序と交通、アポロンとヘルメスの関係を考える道である。
著者の理論は前者のアプローチを現代的な形で提示したものとしてあまりにも有名であり、本書においても、秩序と混沌の弁証法が、中心と周縁、内と外、同と他、文化と自然、無徴と有徴、情報とエントロピー、ディジタルとアナログ、男と女、共同体と異人などといったさまざまな形に変奏されつつ、政治から芸術にいたるありとあらゆる領域のうちに探られている。

ヘルメス的な交通こそが文化のダイナミックスの核心になることを、著者の理論の枠を半ば超えつつ示しているように思われる。


立川健二・山田広昭「現代言語論 ソシュール フロイト ウィトゲンシュタイン」から
「交通」といえば、マルクスとエンゲルスが『ドイツ・イデオロギー』(1845―46年執筆)で用いた用語として知られている。そこには、文字どおり人々や物資の「交通」の意味だけでなく、「交換」、「交易」、「コミュニケーション」、「生産関係」といったさまざまな意味がこめられている。それは、物資的な交通のみならず、精神的な交通もふくんでいる。また、戦争や性交も、交通の一種と考えられる。

「“交通”から隔離されると、その社会は凝固してしまう。(…)それは『分業の固定化』であり、変化をしりぞけるようなシステムの形成である」と柄谷行人は述べている。

コメント(1)

赤坂憲雄「異人論序説」から
はじめに、内部と外部の分割をめぐる〈神話〉について語らねばならない。とりわけて、メタファーとしての内部と外部、両者をつなぐ媒介項について。
ゲオルク・ジンメル「橋と扉」。
人間がこの地上にはじめて小屋を建てたとき。小屋を建てるとは、きれめなく連続する無限の空間からひとつの区画をきりとり、ある方向づけられた統一体へと形成することである。それはかぎりなく人間的な、人間にのみ許された固有のいとなみである。空間の一部分はそれ自身の内側へむけて同一化されるとともに、それ以外の世界全体からきり離される。いわば、人間はひとつの意味にみたされた内部を析出し、同時に、小屋の壁という境界線のむこうへ外部を疎外する。
小屋とはむろん、あらゆる構造化された秩序のメタファーでありうる。はじめて小屋を建てるとは、それゆえ、原初のカオスを一本の境界線によって劃し、ある囲いこまれた秩序の空間を創造することである。
人間は小屋を建てる。しかし、そのなかにひき籠ってしまうわけではない。窓をうがち、扉をつくり、内部と外部をむすぶ通路をしつらえる。わたしたち人間は、統合をめざしながらも分割をおこなわざるをえず、分割をせずには統合もなしえない存在である。小屋を建てることで空間を分節化しつつ、その内と外とを媒介する装置をつくりだす。この分割と統合をめぐる主題は、やはり人間に固有のものである。
窓と扉。ことに扉は、人間のいる空間とその外側にあるいっさいの事物とのあいだの関節をなし、そのことによって、内部/外部の分割そのものを揚棄する。この扉という装置は、内部と外部の媒介項のひとつのメタファーである。視線にかぎられた、しかも内から外への一方向的な運動しか許さぬ通路である点で、窓は扉にくらべれば不十分なメタファーにすぎない。
あるいは、壁。壁は空間をモノクロームにめりこめたきり、微動だにしない。が、扉は開くことも閉ざすこともできる。この自由さゆえにこそ、閉ざされた扉があたえる外界との孤絶感は、のっぺりしたたんなる壁がもたらす孤絶感よりも深い。壁はどこまでも無言だが、扉はゆたかな語り手である。
敷居と、扉または門。敷居は、空間的な連続性の廃棄をしめしている。それは移行の象徴であると同時に、その媒介物でもある(エリアーデ『聖と俗』)。そこには特別な威力が宿り、神霊の支配のもとにおかれている。扉こそは、この敷居の小さな神の具現である(パシュラール『空間の詩学』)。境界をつかさどる〈聖〉なる司祭、といいかえてもよい。門もまた、世界を内部と外部にかぎる、神聖な境界である。

そして、境界。あらゆる境界は、わたしたちの想像や夢の源泉であり、始源のイメージ群が湧きいづる場所である。世界という存在の奥底をのぞきこもうとする誘惑と、寡黙な存在をことごとく征服したいという欲望とが、そこには渦をまき、蓄積されている。
〈異人〉とは、共同体が外部にむけて開いた窓であり、扉である。世界の裂けめにおかれた門、である。内と外・此岸と彼岸にわたされた橋、といってもよい。媒介のための装置としての窓・扉・門・橋。そして、境界をつかさどる〈聖〉なる司祭=媒介者としての〈異人〉。知られざる外部を背に負う存在としての〈異人〉。内と外が交わるあわいに、〈異人〉たちの風景は茫々とひろがり、かぎりない物語群を分泌しつづける。

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