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境界と侵犯コミュの駄作/凡作/秀作

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岸田秀「ものぐさ精神分析」から
人間集団は不安定である。集団は無限に拡大しつづけることはできないし、それを支える共同幻想は各人の私的幻想を完全に吸収することは決してできない。各人に分有された共同幻想は超自我および自我となり、共同化されずに残った私的幻想はエスを構成する。このエスが、共同幻想にもとづく集団の統一性を内部から危くする重大な要因となる。

中山元「思考の用語辞典―生きた哲学のために」から
お前を俺達のメンバーとして認めない。ここから出ていけ。排除する(exclude)とは、ある共同体からこんなふうに放逐することだ。たとえば日本という国から排除する。たとえば仲間うちのサークルから排除する。

暴力はぼくたちにとってもごく身近なものである。知らず知らずのうちに他者に暴力をふるっているかもしれないからだ。たとえばぼくたちは学校で、親しい友人たちとグループを作る。そのときそのグループから排除された他の人々がいる。親しいグループを作るという友愛の行為の背後で、知らないうちに他者を排除し否定する暴力を行使しているかもしれないのだ。

小此木啓吾「自己愛人間」から
自分の気に入ったところだけで楽しく暮らしたいという気持ちが強いので、逆にそういう不合理や不快・苦痛を指摘する人たちを、わずらわしいものに感じてしまう。このような否認や排除の力がとても強いのが、現代の自己愛人間の特徴です。

現代の日本社会そのものが、幻想的な自己愛満足の中で夢見ている状態であるという事実にもつながっています。醜いこと、苦痛なこと、悲しいこと、恐ろしいことなどは見たくもないということで、そうした負の世界は社会的に隔離して排除してしまっている。そして、きれいな自分たちだけを意識できるところで暮らしていたいという社会に、いまの日本はなっているわけです。都市化した社会では、いやなものや醜いものはなるべく目の届かないところへ隔離してしまって、いいものだけを見て暮らせるような機構になっています。

内田樹「寝ながら学べる構造主義」から引用改造
「無意識の部屋」は広い部屋でさまざまな心的な動きがひしめいています。もう一つの「意識の部屋」はそれより狭く、ずっと秩序立っていて、気にくわないものは周到に排除されており、客を迎えることができるサロンのようになっています。そして、「二つの部屋の敷居のところには、番人が一人職務を司っていて、個々の心的興奮を検査し検閲して、気に入らないことをしでかすとサロンには入れないようにします。」(『精神分析入門』)
フロイトはこの番人の機能を「抑圧」と名づけました。

スラヴォイ・ジジェク「快楽の転移」から
無意識は「疎外された心的実体」を表しているのだ。

スラヴォイ・ジジェク「ラカンはこう読め!」から
無意識は、自我によって飼い慣らされるべき野性的な欲動の保護区ではなく、外傷的な真理が声を発する場所なのである。

アンドリュー・J. マッケナ「暴力と差異―ジラール、デリダ、脱構築」から
無意識の構造は、ジャック・ラカンが主張するように、差異化機能のある言語に似ているというよりも、フィリップ・ソレルスが『ルネ・ジラールを称えて』でからかって述べているように、リンチに似ている。

今村仁司「排除の構造―力の一般経済序説」から
摸倣欲望の発動のためには、「傷つけられる」という条件が必要である。

ルネ・ジラール「人類と十字架 文化の起源」から
フロイトの用語を使えば、ミメーシス理論は「ナルシシスムの打撃」と言えるかもしれません。それは心の中の自己愛に抵触する打撃です。

今村仁司「暴力のオントロギー」から
犠牲の論理は、無意識の効果=働きの論理でもある。

新宮一成「ラカンの精神分析」から
ラカンは、「無意識は、大文字の他者の語らいである」と無意識を定義する。「それ(エス)が話す」という言い方もしばしばされる。

ラカンの言う「他者の語らい」は、構造的にはフロイトの「エス」の概念を引き継いでいる。また、「無力な受難」と私が呼んできたものは、フロイトの「寄る辺なさ」という言葉につながっている。

今村仁司編集「現代思想を読む事典」から(だったと思う)
ラカンにとっての<無意識の言葉>は、オリジナルなき代理物であり続けるシニフィアンなのである。

赤坂和哉「ラカン派精神分析の治療論―理論と実践の交点」から
ラカン後期において、無意識は駄作としての知である。

トニー・マイヤーズ「スラヴォイ・ジジェク」から
広い意味でとれば、想像界とは、休むことなき自己の追求、自己は統一されているという物語を支えるために、次から次へとおのれに似た複製を取りこみ、融合しつづける動きのことだ。 こうした想像界には、ラカンもジジェクも冷淡な侮辱を投げつける。

小森陽一「ポストコロニアル」から
アメリカにおけるデリダの翻訳者であればこその批判だが、スピヴァクは、そもそもある地域において、最も差別化された位置におかれた者は、自らの現状について語る言葉を持っていないことを明らかにした。それは他者にとって読むに値する言説を自ら編み出す知的訓練を受けているのか(受けることができるのか)、多くの他者に通じる言語を使用しうるのかというところからはじまり、読むに値すると認定される言説とは、とりもなおさず反復的に再生産されてきた知的エリートによる言説の集積である以上、生み出されるのは、結局、最も差別化された者以外の人々が代理的に表象した言説でしかない。

ジャン・ポール・シャリエ「無意識と精神分析」から
社会的拘束のために抑えつけられているエネルギーは、社会が原始的人間性の暴力に対抗して築いた堤防をうち破り、ささいな機会をとらえて溢れ出るすきをうかがっている。
しかしながら、これらの抑圧された衝動のエネルギーは、人間の高尚な活動(芸術的、科学的、技術的、宗教的活動など)に活力を提供するという方向に捌け口を見い出すこともある。この場合、そのエネルギーは昇華されたと言う。言い換えれば、自然がめざしていた目標とは異なった目標に逸らされたわけである。

教育過程は、無意識の感情層を知らず、子どもに精神外傷を与え、暴力をもって子どもを強制し、各人のうちに、皮相で脆弱な社会的自我を形成するだけで事足れりとしている。この社会的自我の動機づけは「超自我」に由来しているが、超自我は、われわれの欲望を禁圧するだけで、ほとんどの場合、この欲望と社会的禁止とがなぜ葛藤するのかの理由を示してはくれない。

社会のなかで本能的衝動を高尚な活動に昇華できるのはエリートだけである。大部分の人間は、依然として社会的・道徳的・宗教的拘束のもとに生活しており、なぜそうしなければならないのかの理由を理解できず、また、文明が提供するもろもろの補償の恩恵に浴することもできない。

コメント(1)

駄作の表現をする者は疎外されリンチを受け、その傷つきから理想とする他者の表現の摸倣や組み合わせで表現するようになり、自分の言葉で語る事のできない存在となる。
自分の実感と他者の観察と一致する事で、人間の心理法則の一つなのかな、と思います。
共感するスケープゴートな人がいたら何か書きこんでくれたら嬉しいです。

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