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境界と侵犯コミュの理想自我/自我理想/超自我 小文字の他者/大文字の他者/現実界?

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・理想自我=想像界=小文字の他者=内在的な他者
=こう見られたいと思う自分のイメージ、ナルシシックな自己イメージ
・自我理想=象徴界=大文字の他者=超越的な他者
=規範的な判断の究極的な帰属先=理想化した親のイマーゴ
=象徴的父の表象であり、制度であり、掟
=私を監視し、私が憧れ、現実化したいと願う理想、かくありたい自分
・超自我=現実界?
=残虐で非道徳的で反倫理的?


ジジェク「ラカンはこう読め!」(一部改造)
フロイトは、主体を倫理的行動に駆り立てる媒体を指すのに、三つの異なる術語を用いている。理想自我、自我理想、超自我である。フロイトはこの三つを同一視しがちだが、ラカンはこの三つを厳密に区別した。
理想自我は主体の理想化された自我イメージを意味する(こうなりたいと思うような自分のイメージ、他人からこう見られたいと思う自分のイメージ)。
自我理想は、私が自我イメージでその眼差しに印象付けたいと願うような媒体であり、私を監視し、私に最大限の努力をさせる<大文字の他者>であり、私が憧れ、現実化したいと願う理想である。
超自我はそれと同じ媒体の、懲罰をともなう側面である。
この三つの術語の構造原理の背景にあるのは、明らかに、<想像界><象徴界><現実界>というラカンの三幅対である。理想自我は想像界的であり、ラカンのいう「小文字の他者」であり、自我の理想化された鏡像である。自我理想は象徴界的であり、私の象徴的同一化の点であり、<大文字の他者>の中にある視点である(私はその視点から私自身を観察し、判定する)。超自我は現実界的であり、無理な要求を次々に私に突きつけ、なんとかその要求に応えようとする私の無様な姿を嘲笑する、残虐で強欲な審級であり、私が「罪深い」奮闘努力を抑圧してその要求に従おうとすればするほど超自我の眼から見ると、私はますます罪深く見える。見世物的な裁判で自分の無実を訴える被告人についてのシニカルで古いスターリン主義のモットー(「彼らが無実であればあるほど、ますます銃殺に値する」)は、最も純粋な形の超自我である。これらの厳密な区別から、ラカンにとって、超自我は「その最も強制的な要求に関しては、道徳意識とは何の関係もありません」。それどころか超自我は反倫理的な審級であり、われわれの倫理的裏切りの烙印である。


丸山圭三郎「言葉と無意識」
象徴界
これは主体に先立って存在する他者であり、具体的には父性(生物学上の父であるとは限らず、むしろ民法上もしくは象徴的父の表象)であり、制度であり、掟である。クリステヴァのサンボリックとも重なる概念であろう。フロイト用語の超自我にあたるという。


大澤真幸「電子メディア論」(だったかな?)
自己同一性を規定する内在的な他者と超越的な他者。
理想性と模倣可能性を有し自己にとって好ましく、自己の同一化の対象となるような内在的な他者。
理想性を規定する規範的な判断の究極的な帰属先として現れる超越的な他者。
内在的な他者が想像界の他者(理想自我)、超越的な他者が象徴界の他者(自我理想)。


斎藤環「戦闘美少女の精神分析」
超越的な他者によって成立させられるのは自我理想、つまり「かくありたい自分」ということになる。いい大学に入りたい、知的で高収入の職業につきたい、そういった社会的価値観によって成立する自己イメージ。いっぽう内在的な他者によって成立するのは理想自我の次元である。これは社会的な価値判断はひとまず措いて、とりあえず「自分であることは素晴らしい」「生まれ変わっても自分になりたい」、そういったナルシシックな自己イメージをさしている。


岡田尊司「自己愛と誇大妄想」
コフートは、自己愛に二つの発達ラインを想定する。一つは「誇大自己」であり、もう一つは「理想化された親のイマーゴ」である。誇大自己は万能感に満ち、すべてを思いどおりに支配することを期待する存在である。一方、理想化された親のイマーゴは、万能感が対象に投影された全能対象であり、そこには畏怖の感情を伴う。万能感が主体として姿をとったものが誇大自己であり、対象の側に映し出されたものが全能対象だが、両者はパラレルな関係にあると同時に、異なる性質をもち、特性が正反対ともいえる病理を発展させる。
理想化された親のイマーゴは、万能感が対象に投影された全能対象であり、そこには畏怖の感情を伴う。
「理想化された親のイマーゴ」は、健全に発達すると、自我理想や良心、他者に対する尊敬や慈悲へと成熟を遂げる。しかし、不幸にして、理想化されるべき親があまりにも過酷であるとか、失望を味わわせるようなものとして体験された場合、親のイマーゴは過度に理想化されたものとして本人を強く支配するか、逆に発達不全を起こして、何人に対しても尊敬や信頼を感じられなくしてしまう。
さらに、不幸な場合には、親のイマーゴは、本人を支配する操作者や圧制者、さらには迫害者に姿を変えて感じられるようになる。その行き着く先は、妄想という形をとるが、もっとも典型的な現れ方は、被支配、被迫害、被影響という被害妄想や迫害妄想、作為体験の様相をとることである。本人がとらえられている気分の基調は、「自分をどうにかさせられる」という恐怖と「何も信用できない」という不信感である。

コメント(4)

浅田彰「構造と力」(引用改造)
歴史的には本源的蓄積、地理的には第三世界の侵略に見られるような形で脱コード化を促進すると共に、犯罪者や狂人―とりわけ無制限の脱コード化を生きる精神分裂症者―の監禁などによって公理系の埒を越える脱コード化を抑圧するという表立った作業は、近代国家の本質的な役割のひとつである。

密室に介入し、禁止の言葉によってそれを外の社会に開く存在は、父をおいて他にない。父に対するエディプス的な同一化によって、子供は密室から外の社会へ出て行くのである。先の卵の比喩に戻って言えば、父は卵の片割れとしての幼児に人工的な殻―Sujet の似姿としての sujet の規格―を投げ渡してやることになる。それが中身と完全にフィットすることは決してありえないが、中身同士が激突して飛び散る双数性の矛盾を克服するのに、他に道はない。

注意すべきは、ここで言う父があくまでも「象徴的な<父>」だということである。父の否は、実存の父でも、主体と双数的な関係に入りうる父の像でもなく、「<父の名>」によって発せられるのである。実際、<他者>といい父といっても、それは何か実体的な中心なのではなく、法の場であり言語の秩序である象徴界を集約的に表現するフィギールに過ぎない。

「最後の領域性」こそ、エディプス三角形に縮約された家族に他ならない。共同体とそれを規制するコードから外に放り出された近代の私的人間は、家族につながれエディプス化されて、定型的な主体―フロイトの言葉を借りれば、超自我を内面化した主体―となる。言ってみればひとりひとりが「小さな植民地」となるのであり、すでにこの段階で欲望の多形性が規制されるのである。ここで見出されるのは、<父>の無限の負債であったものが主体に内面化され、自己に対する負債と化すという構図である。主体は自らに負ったこの負債を埋めるべく、際限なしに走り続けねばならない。
他のトピでも書いたことですが、自分なりのまとめです。

■無意識=エス=過剰なエロスとタナトスが奔騰するカオス
=非差異、無差別、連続=差異の抹消=相互暴力状態=怒号と喧嘩の音
=自らの望みを言うことができない、統一した意志をもっていない存在=小児的な集団のエス
=沈黙するもの=神の恩寵から見放された状態としての孤独=寄る辺ない存在
=無力な受難として他者の語らいを身に受けているだけの存在=サバルタン
=社会的あるいは象徴的に交換されなかった大文字の他者の語らい
=オリジナルなき代理物であり続けるシニフィアン
=疎外された心的実体=外傷的な真理が声を発する場所
=快感をもたらす可能性のまったくない過去の体験を再び喚起する反復強迫
=完結した交換体系の根源にある、相互性ではなく一方的な排除の対象
=相互性の平面の下方に放逐された過剰な欲動の場=バタイユのいう「呪われた部分」
=植民地化された地域の周縁化された存在=ほかで許されないことが許される別世界
=スケープゴート=異人=主権国家から排除され、保護の対象から外された人であるホモ・サケル
=ファシズムにおける強制収容所の収容者
=日常においては禁止され構造から排除されている部分=構造内で最下層に抑圧された者=排除される第三項
=警察権力が市民生活の内に泥足をつっこむまでに専制的な強制力を発揮する場=秩序創成暴力の対象
=一般市民より下の階層の者であり、愚か者の範疇に入っており、隠している愚かな事物を暴いても重大視されない

■理想自我=想像界=小文字の他者=内在的な他者=生物的な世界
=意味とイメージの世界=クオリアの世界
=ナルシシックな自己イメージ=自我の理想化された鏡像
=自分の気に入っている、まさに自己愛そのもののような自己像
=マスコミやカタログ文化でつくり出された美化・理想化された自己イメージ
=他人からこう見られたいと思う自分のイメージ
=仏教でいう我執といわれるような自分への執着の対象
=「傷つけられる」という条件により発動した摸倣欲望
=私の理想の自我としてはたらく私の同類の模倣
=自己をそれとして措定してくれる言葉をもつ代弁者の探索にとらわれている状態
=自己の統一を預けることのできるような相手を探してさまよう、鏡像としての他人の中への囚われの関係
=動物のルアーへの反応をモデルにして語りうるような直接的な関係
=休むことなき自己の追求、自己は統一されているという物語を支えるために、次から次へとおのれに似た複製を取りこみ、融合しつづける動き

■自我理想=象徴界=大文字の他者=超越的な他者=社会的な世界
=言葉だけの世界=シニフィアンが織りなす複雑なシステム
=文化の秩序、象徴秩序、言語的秩序としての構造
=ファルスを中心にして構造化された言葉のシステム
=エディプス期につくられる=父、母、子どもの三者関係の中ではじめて成立する一つの小社会
=掟に従って自己愛が去勢によって一度否定され、その掟を守ることで成立する秩序と理念をもった世界
=個々人の欲望や自己中心的な感情を一度克服してはじめて、確立されるような世界
=自己中心的な個人的な自己愛を一度否定したところから成り立っている
=万能感を捨てて入っていく世界=個人の実質、個人の存在全体の基盤
=象徴的秩序の匿名的メカニズム=私に最大限の努力をさせるもの=神性
=社会性をもった道徳的価値規範を取り入れたところで成立するもの
=現実の社会的義務・責任の遂行と繋がるもの
=社会的絆であり、信頼を保証し、義務の支えとなる基本的な象徴的契約
=人が自分を社会化するために選ぶ標識=美徳のもとになる秩序
=規範的な判断の究極的な帰属先=理想化された親のイマーゴ
=言語的、父権的な中心ないしコード=象徴的父の表象であり、制度であり、掟
=私を監視し、私が憧れ、現実化したいと願う理想、かくありたい自分
=共同体=言語的に構造化されている共同主観的な世界

■超自我
=現実界?=物理的な世界
=社会的権威を精神内部に延長したもの
=自我理想と同じ媒体の、復讐とサディズムと懲罰をともなう側面
=無理な要求を次々に私に突きつけ、なんとかその要求に応えようとする私の無様な姿を嘲笑する、残虐で強欲な審級
=非道徳的で反倫理的な審級であり、倫理的裏切りの烙印
人は自我理想・美徳・魅力が感じられる存在としか友好関係を結ばないのかな
とりえがない・花がない存在は軽んじられ孤立しがちになるのかな
スラヴォイ・ジジェク「「テロル」と戦争―“現実界”の砂漠へようこそ」から引用改造
エス(禁制の攻撃的欲動と性的欲望だと解釈される)を犠牲にした超自我(社会的権威)と自我(一般市民)との直接的協定がある、とサヨクは主張している。そうしたことと構造的に似ている何かが、今日の政治レベルにおいても進行しているのではないだろうか――ポストモダンなグローバル資本主義(超自我)と近代それ自体(自我)とのプレモダンな諸社会(エス)を生贄にした異様な協定が。

まるでありふれた風景を見たかのような通行人の無視、それが警察右翼による在日に対する嫌がらせが普通の出来事として受け容れられる素地を作りだす。直接的で野蛮な攻撃であればありそうにもないことが、ここでは可能になってしまうのだ。他者をホモ・サケルとして扱うようになるとき、それと似た無視、ある種の倫理的エポケーが動員される、と私は主張したい。

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