ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

境界と侵犯コミュのプレモダン/モダン/ポストモダン

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
図書館で借りた社会学の本(著者、タイトルは忘れた)、ボードリヤール『象徴交換と死』、浅田彰『構造と力』、竹田青嗣『哲学ってなんだ―自分と社会を知る』、西垣通『こころの情報学』、岡本裕一朗『ポストモダンの思想的根拠―9・11と管理社会』、樫村愛子『ラカン派社会学入門 現代社会の危機における臨床社会学』、赤坂憲雄『異人論序説』、試験に出た野家啓一の文章の引用です。


近代とは、ベンサムのパノプティコンが代表するように、視覚が権力を持ち、視覚が人々をひきつけ、視覚が人々を惑わせる時代である。
視覚に訴えることによって、人々への訴求力を強める。
理性は人間の欲求やその総体としての社会をも、ヒューマニズムの名において支配の対象としていった。よく知られているように、フーコーは、ベンサムのパノプティコン(一望監視装置)にそうした「近代」の凝固した姿を見る。
パノプティコンでは、囚人は一人一人孤立させられ、監視者に見張られているが、中央の塔にいる監視者を見ることができない。
囚人は、監視者がいるのかどうかわからないまま、不断に見張られているという意識を植えつけられている。
監視社会化によって閉じこめと監禁が社会的空間―時間のいたるところにある。


「最後の領域性」こそ、エディプス三角形に縮約された家族に他ならない。共同体とそれを規制するコードから外に放り出された近代の私的人間は、家族につながれエディプス化されて、定型的な主体―フロイトの言葉を借りれば、超自我を内面化した主体―となる。言ってみればひとりひとりが「小さな植民地」となるのであり、すでにこの段階で欲望の多形性が規制されるのである。ここで見出されるのは、王に対する無限の負債であったものが主体に内面化され、自己に対する負債と化すという構図である。主体は自らに負ったこの負債を埋めるべく、際限なしに走り続けねばならない。
当然、王に向けられていたルサンチマンは自己に差し戻されるという最悪のコースを辿る。
神が死に、王の首が落ち、貨幣が退蔵されることをやめて流通の中に投じられるときに、近代が始まるのだ。


不完全な現実の母の彼方に理想的な父の力が想定されて、それが自我像として内化される。自我とは理想化された他者=力への一体化であり、それは常に抑圧を経由している。フロイトやラカンによれば、この神経症的なメカニズムは、文化を普遍的に規定する。(例えば前近代には抑圧がないと思うのは近代主義的偏見である)


近代以前の世界では、一切の「正しさ」は、宗教的な聖なる権威という絶対的な規準につり下げられてはじめて存在していたことが分かる。
近代以前のキリスト教哲学(スコラ哲学)では、「人間」とは神の被造物であり、だからとうぜんその「存在の意味」は神によって与えられていると考えられていた。誠実な気持ちで清い心とほんとうの「信仰」を持って生きること。このことによって神に永遠の命を与えられる。この神のもとで永遠の生を得ること。これが人間の生の意味であると、ほとんどの人が考えていた。
社会について言うと、「社会」という観念自体まだ明確には存在せず、「世界」は神の創ったものであり、神が王に統治の権限を与え、人びとは王の支配のもとに服するのが正しい秩序だとされていた。
近代以前の社会では、各人は自由な存在と考えられていなかった。人間はすべて被造物である。だから世界のすべての富はもともと神のものである。人間は放っておくとすぐ争いはじめる。だから神は、ある選ばれた人間を「王」として統治支配の権限を与えた。貴族はそれを補佐する階級である。
社会というものは、すべからくルールによって成り立っている。統治支配の権限とはつまり、「王」がルール決定の最終権限をもつということだ。最終権限をもつ人を「王」と呼ぶ、と言ってもよい。イスラムのような政教一致の社会は少し例外だが、近代以前の社会は、だいたいこのような考え方によって成り立っていた。
「王」だけがルールを決める権限をもつ。そこではルールの「正当性」は、ただそれが正統な王の決定によるということにある。人民の作り出した生産物は、もと神のものである。大地も植物も動物も、神によって恵まれたものであるから。だからこれをいったん「王」に差し戻す(返却する)。そしてそれをみなに分配して与えてもらう。そういう考え方だった。このような考え方のもとで社会ははじめて安定する。
だから近代以前の社会では、政治でいちばん大事なことは、「王」の正統性ということだった。したがってたいていの社会では、「血統」を王の正統性の根拠として定めておく。それでも、しばしば王族や有力貴族が権力を争いあう。これが社会にとっては最も困る事態なのだ(権力争いと、他国との戦争)。


前近代までの「ヒトの心」とは、浮遊逸脱しがちな言葉の意味作用を引き受け、そこに社会的なリアリティを現前させる「王の身体」によって支えられていた。
近代化が進むにつれて、言葉の意味はますます規範化されて抽象度を増し、言葉が通用する時空範囲もひろがって普遍的になっていきます。
語句の意味作用を捨象した機械情報を蓄積し、処理し、伝達するコンピュータは、決して単なる「便利な道具」などでなく、近代的権力が集約されるトポスである。
本来ヒトは動物なのですから、身体の基底部にはなぞめいた欲望・恐怖・不安など、規範的な言語でうまく明示できない多様な魔物がうごめいています。
ヒトは所詮は動物ですから、純粋に理性的・合理的な存在にはなれるはずもありません。理性のみを奉じ、論理的な言語で統御管理の網をはりめぐらし、機械的に社会を運用しようとすれば、どこかに無理が生じてきます。
およそ近代社会とは、統御管理するサディズムと、されるマゾヒズム、そして偽善のかたまりだったと言っても過言ではないでしょう。こうしたゆがみが、フロイトの「無意識」、ニーチェの「力」、バタイユの「侵犯」、さらには実存主義やポスト構造主義などという思想を生む一因だったわけです。
要するに、近代化の抽象作用にともなって抑圧されてきた具体的な<身体性>や<感性>が、ふたたびムクムクと頭をもたげてくることになります。


精神分析では、意識に上らない、意識的な表象の中に現れない事実を説明する二種類の心の操作があると考えられているんです。一つは排除、一つは抑圧です。抑圧と排除はどう違うかというと、もちろん排除のほうがより一層徹底しているわけです。つまり、抑圧というのは心の中の表象として記述されるんだけれども、その上で記述したことを無意識のほうに圧しやるという操作です。それに対して排除というのは、記述すら起こらないんです。きちんとした表象の中に記述すら起こらない。


異界は境界という通路から現実世界へ侵入し、ときに異貌の世界をかいま見せる。その意味で、異界は現実世界から透明な皮膜によって隔てられているものの、浸透圧によって現実世界にいわば「内在」している。逆に現実世界は、異界をたえず境界の外部へと排除しようとする運動エネルギーを通じて、ようやく日常という安定した秩序を保ちえているのである。
日常的世界の安定を形作る境界が非日常的世界によってゆえなく侵犯されるとき、われわれはそれに無気味さを感じ、その「ゆえ」を解き明かすことによって、崩れかかった秩序を修復しようと試みる。われわれが無気味さを感じるのは、むしろ切断された手足、精巧な蝋人形、甦った死者、近親者の幽霊など、すでに失われた既知のものが出現するような事態に対してである。それゆえ、フロイトはそれを「つまり無気味なものとは、昔からよく知っている、古なじみのものに由来する類の恐怖だ」(『無気味なもの』)と特徴付けている。
無気味なものとは「抑圧を経験しながらふたたび抑圧から立ち戻ってきたなつかしくも―故郷的なもの」なのであるこの「抑圧され疎外されたものの回帰」というモチーフは、そのまま異界の規定としても通用するものであろう。
むろん、フロイトのいう「抑圧」は精神分析学上の概念であり、心理学的抑圧を意味する。しかし、その射程を社会的抑圧にまで拡張するならば、われわれは「理性の外部」としての異界にいたる道筋を遠望することができる。デカルトは『方法序説』の冒頭で、理性を「良識」とも呼び、それを「この世でもっとも公平に分け与えられているもの」であると宣言した。哲学的近代、すなわち「理性の時代」はこの宣言をもって幕を開けたといってよい。だが、他方でデカルトは、この理性の公共圏から「狂気」を追放した。ここで狂気とは、非理性的(非日常的)なもの一般の象徴である。
この「理性の出現」以後、非理性的なものは啓蒙と科学の名において抑圧され、狂気は日常的世界から排除されて病院施設の中に隔離されることになるのである。この分割線(境界)がわが国に導入されるのは、明治維新を起点とする近代化すなわち西欧化によってである。


森の放浪者や匪賊といった<異人>たちの跳梁する、世界のそこかしこにあった空隙=真空地帯はしだいに縮小され、たいていの文明化された国々では、近代の訪れとともに消滅する。


歴史的には本源的蓄積、地理的には第三世界の侵略に見られるような形で脱コード化を促進すると共に、犯罪者や狂人―とりわけ無制限の脱コード化を生きる精神分裂症者―の監禁などによって公理系の埒を越える脱コード化を抑圧するという表立った作業は、近代国家の本質的な役割のひとつである。


極度に単純化して言えば、「ポストモダンとは、モダンの大きな物語が終わったこと」である。
プレモダンの段階は「十人一色」の時代である。十人は超越的な一つの色によって支配され、共通の色に染め上げられる。それに対して、モダンの段階は「十人十色」の時代であり、一人一人の個人がそれぞれ異なる色を選択する。それは各人の個性であったり、趣味であったりするだろう。それに対して、ポストモダンは「一人十色」の時代であり、一人がさまざまな色をもっている。カメレオンのように状況に応じて色合いが変化し、その人特有の色は存在しない。
まず確認しておきたいのは、フーコーが「古代」(=プレモダン)と「近代」(=モダン)の対比を強く意識していた、という点である。彼は「古代」を「見世物(スペクタクル)の社会」と呼び、「多数の人間が少数の対象を観察できる」社会と考える。それに対して、「近代」はまったく逆で、「少数者に、さらには唯一の者に、大多数の者の姿を即座に見させる」ので、「監視の社会」と言われる。しかも、フーコーによると、「近代」だけでなく、「われわれの現代社会」もまた「監視の社会」なのである。このとき、現代社会は「近代」の帰結として理解されているのだ。
ポストモダンでは、「規律権力」にかわって登場した「生権力」が中心となる。「生権力」は、人間を単なる生物としてだけ捉え、それに対する管理を企てる。この概念は、たとえばジョルジョ・アガンベンによって「剥き出しの生」として新たに理解され直されている。アガンベンは、ギリシア以来の「ゾーエー(動物的な生)」と「ビオス(人間的な生)」にまでさかのぼりながら、「生権力」の対象が「動物的な生」であることを取り出している。もっとも、アガンベン自身はこの「動物的な生」(「剥き出しの生」)を、ファシズムにおける強制収容所のうちに見出している。
ポストモダンの「生権力」で中心となるのは、危険を回避し、安全を保証する「セキュリティ装置による管理」である。規律社会が終わり、規範や秩序が崩壊すれば、社会的にも危険な不安が増大するはずだ。規律訓練化されていない「雑然とした、無益な、危険な群集(マルチチュード)」が徘徊する。
私たちが立ち会っているのは、人間の「動物的な生」に照準を定めた「生権力」であり、「剥き出しの生」をいかに管理するかである。
さまざま場所で監視体制が強化され、露骨な管理が頻繁に行われている。しかしながら、現在進行中のポストモダンな管理社会を、全体主義の復活として捉えるとすれば、根本的に誤ることになるだろう。
いままでの「管理社会」論を見てみると、次のような図式が暗黙のうちに想定されている。つまり、「規律社会→ファシズム・スターリニズム→オーウェル的・ハックスリー的管理社会」である。近代の規律社会は、20世紀前半にファシズムやスターリニズムといった全体主義へと変貌し、近未来には恐怖の管理社会へと行き着くわけである。その点から言えば、こうした管理社会は「統制管理社会」と呼ぶほうが適切だろう。そこで、いまの図式をもっと簡略に表現すれば、「規律社会→全体主義社会→統制管理社会」という展開を得ることができる。
モダンとポストモダンの関係を問い直すとき、何よりも「啓蒙」の概念が中心になる。たとえば、次のような指摘を見ると、その事情が分かるだろう。「もっとも基本的かつ還元的な定式化によれば、ポストモダニズムの諸理論はある一つの共通分母をもつものとして、すなわち<啓蒙>への全般的な攻撃を共有するものとして、その多くの提唱者によって定義されている」。言うまでもなく、この源泉となっているのが『啓蒙の弁証法』なのである。そのため、ポストモダンに対してどんな態度をとるにしても、「モダン(近代)」を理解するためには、この書は避けて通ることができない。
また、近代とファシズムの関係を考え直すために、『啓蒙の弁証法』は根本的な問題を提起している。ファシズムのような「全体主義的支配」は、近代の啓蒙的理性にとって必然的な帰結ではないのか。アドルノとホルクハイマーは、悲痛な面持ちでこのような問いを投げかけている。「何故に人類は、真に人間的な状態に踏み入っていく代わりに、一種の野蛮状態へと落ち込んでいくのか」。ここで「新しい野蛮状態」というのは、ファシズムなどの「全体主義的支配」を意味している。しかも、この過程が「弁証法」、すなわち、「自分自身の内在的な原因によって、自分自身の反対のものへと移行すること」と考えられている。したがって、「啓蒙の弁証法」は、「啓蒙」自身の内在的原因によって「啓蒙」の反対、すなわち「ファシズム的な全体主義」への移行を提示するわけである。
さらに、『啓蒙の弁証法』は「管理社会」に対する基本的なモデルを提供した、と言ってよい。「啓蒙」の帰結と理解された「新しい野蛮状態」は、ファシズムだけでなく、スターリニズムの社会主義も含み、さらには「文化産業」に支配された民主国家にも広がっている。この全体を包括する概念として、後にアドルノは「管理された世界」についてしばしば語る。極端な言い方をすれば、第二次世界大戦後の世界は、いたるところ「管理された世界」であって、どこにも救済は見出せないのかもしれない。

コメント(5)

プレモダンは古代というより前近代とした方がよかったのかも。
近代についてはこういう文章もあります。

sophia
99/04/18 ver.1.00
小葉武史
http://www.cypress.ne.jp/kobakoba/sophia.htm

フーコー関係で調べものをしている時に見つけました。よくまとまっていて読みやすくて自分の言葉で書かれていて結構好きです。
参考図書を書いてないのが残念ですが、
フーコー『監獄の誕生』、ホルクハイマーとアドルノ『啓蒙の弁証法』、フロム『自由からの逃走』
が参考にされているのは分かります。
浅田彰の「構造と力」では、カオス/象徴秩序の二項対立と境界の侵犯による象徴秩序の組み換えについて大部分が書かれていますが、「二項対立の図式は前近代のものだ」といった事が書かれていたと思いますが、それはなぜか分かる人はいるでしょうか。
私が「構造と力」を読み終えた当時の日記を見たら、
「近代以降より前近代の記述の方がしっくりくる。「我ら」と「彼ら」という境界は近代以降にもあるから、近代以前として記述されているのが近代以降にも引きずっているのはあると思う」
というような事を書いてましたが。
「外部/内部」の境界線を設定するのは、過去のプレモダンの残滓ではなく現代もモダンとの関係の中で生じているもので、「外部」に置かれた者はその生を軽んじられ、生存権も認められず恒常的な非常事態のもとにある。
なんか自分の置かれた状況と似たものを感じました。

引用改造文
最も極端な警察右翼の振る舞いをしている者が、「非人道的野蛮」に対して「法と人権と自由」の最後の砦を守る振りをすることで、自分を「内部」に位置づけようとしている。
ここでのアイロニーは、この情報空間においてもっとも人権を尊重し他民族を差別せず知的な振る舞いをみせているのが、最下層に排除された在日日本人くらいだということです。


浅田彰「「歴史の終わり」を超えて」から
ジジェク:勝ちをおさめたかに見える自由民主主義の「世界新秩序」は、「内部」と「外部」の境界線によってますます暴力的に分断されつつあります。「新秩序」のなかにあって人権や社会保障などを享受している「先進国」の人々と、そこから排除されて最も基本的な生存権すら認められていない「後進国」の人々を分かつ境界線です。しかも、それはもはや国と国との間にとどまらず、国の中にまで入り込んできています。かつての資本主義圏と社会主義圏の対立に代わり、この「内部」と「外部」の対立こそが現在の世界情勢を規定していると言っていいでしょう。

浅田:一見プレモダンと見える要素も過去の残滓ではないのであってみれば、近代化によって徐々に克服されるとは考えられない……。
ジジェク:それどころか、モダンな資本主義システムとそれが生み出す「外部」との緊張は、ますます高まってゆくと考えるべきでしょう。現実に、そういう「外部」の世界で、どれほどの野蛮への退行が起こっているかは、想像を絶します。

ジジェク:ブラジルにもシステムの「内部」に属する豊かな人々がいる。と同時に、システムから排除された膨大な人々がいるのです。
リオ・デ・ジャネイロのような都市には何千というホームレスの子供たちがいます。私が友人の車で講演会場に向かっていたところ、私たちの前の車がそういう子供をはねたのです。私は死んで横たわった子供を見ました。ところが、私の友人はいたって平然としている。同じ人間が死んだと感じているようには見えない。「連中はウサギみたいなもので、このごろはああいうのをひっかけずに運転もできないくらいだよ。それにしても、警察はいつになったら死体を片づけに来るんだ?」と言うのです。左翼を自認している私の友人がですよ。要するに、そこには別々の二つの世界があるのです。海側には豊かな市街地がある。他方、山の手には極貧のスラムが広がっており、警察さえほとんど立ち入ることがなく、恒常的な非常事態のもとにある。そして、市街地の人々は、山の手から貧民が押し寄せてくるのを絶えず恐れているわけです。
私は、このような事態はアメリカやヨーロッパでも部分的に起こりつつあるのではないかと思います。

浅田:こうしてみてくると、現代世界のもっとも鋭い矛盾は、資本主義システムの「内部」と「外部」の境界線上に見いだされると考えられますね。
ジジェク:まさにその通りです。だれが「内部」に入り、だれが「外部」に排除されるかをめぐって、熾烈な闘争が展開されているのです。

ジジェク:旧ユーゴスラヴィアに関して興味深いのは、この「内部」と「外部」の分割というパターンが歴史的・地理的にはっきり見て取れる点です。実際、そこで死闘を演じている者たちのだれもが、「東洋的野蛮」に対して「ヨーロッパ文明」(つまりは先進資本主義圏)の最後の砦を守る振りをすることで、自分を「内部」に位置づけようとしているのです。

浅田:一見プレモダンなものは、実はモダンなものとの関係で新たに生み出されているわけです。

浅田:柄谷行人の強調するように、われわれは、システムの中にありながら、超越論的反省によってそのことを意識することはできるし、そのときだけシステムの外に――でなくとも境界に立つことができる、というのがスピノザの本質的な論点ではなかったでしょうか。そして、あなたの批判されたのではないような知識人の場所があるとしたら、それはそのような境界において他にないと思うのです。
スラヴォイ・ジジェク「「テロル」と戦争―“現実界”の砂漠へようこそ」から引用改造
エス(禁制の攻撃的欲動と性的欲望だと解釈される)を犠牲にした超自我(社会的権威)と自我(一般市民)との直接的協定がある、とサヨクは主張している。そうしたことと構造的に似ている何かが、今日の政治レヴェルにおいても進行しているのではないだろうか――ポストモダンなグローバル資本主義(超自我)と近代それ自体(自我)とのプレモダンな諸社会(エス)を生贄にした異様な協定が。
デイヴィッド・ライアン「監視スタディーズ」などから引用改造
監視は近代において、資本主義政治経済の一部として(マルクス)、官僚組織の産物として(ウェーバー)、そして処罰とスペクタクルから自己規律への移行として(フーコー)、登場する。
今日の世界における監視の成長は近代という過程の所産であり、特に官僚制度が求める管理、効率性、生産性、リスク排除という課題に高度技術システムが適用されたことの所産である。
規律訓練型権力から環境管理型権力へという言説は、ジル・ドゥルーズの非常に短い「追伸――管理社会について」という謎めいた題名の論考に由来する(Deleuze 1992)。このわずか4ページの思想の雑録は、フーコーは「主権社会」から「規律社会」への移行――監獄、工場、学校のような囲いこまれた場所での――を記したが、けっしてこれを永続する状況として考えていたわけではないと、気づくことから始まる。ドゥルーズは、私たちはいまや規律社会を継承する「管理社会」のなかにいると主張する。
日常生活のなかで実際に発生する監視は、「規律訓練型権力」と「環境管理型権力」の特徴を混ぜ合わせたものとして露呈する傾向があるようだ。
どんなに「ポストモダン」な状況であっても、「モダン」や「プレモダン」的な要素はいまも、社会的現実に根を張っている。
「プレモダン」の要素と考えられながらそれ以後にも根を張っている理論のいくつかは、ルネ・ジラールやジュリア・クリステヴァや山口昌男の仕事や異人論にある。
「モダン」と「ポストモダン」の両方にかかると考えられる監視理論のいくつかは、ミシェル・フーコーとジル・ドゥルーズの仕事に始まる。逆説的なことに、この二人のいずれも、「モダニティ」や「ポストモダニティ」の考察に多くの時間を割かなかった。20世紀の中盤から後半に著作をなしたフーコーの場合は、近代という視覚支配体制への移行を正確に指摘し、なかでもパノプティコンという図式を用いて力強い説明を提起した。権力は、見られることなしに見ることができる検査官に一義的に存在し、彼がいるかどうか分からないという不確実性がその権力を保障する、まさに手段となった。
フーコーにとって、パノプティコンの規律的なまなざしは近代性の原型となる権力であり、すべての社会制度を覆う規律の見本である。
フーコーの議論は、一望監視とそれに関係する方法を通して、どのように自己規律が促されるかを示唆する。自分が見られているかいないか分からないという不確実性は、当の制度の規範がなんであれ、それに従おうとする欲望を創造する。その過程をとおして、組織が命じる「正しいことをする」ための内なる強制力が発達し、それが望ましい「従順な身体」を生産する。手短な説明だが、これは、視覚と結合した権力/知のはたらきに光を当て、多くの人々がフーコーの成し遂げようとしたと信じる、近代の支配形態における「視覚」の役割の暴露と、それに対する批判を強調している。
監視活動は常に、人間社会の一面を構成してきたが、近代に入って生活の中心的要素として登場し、いまや台頭する管理の文化に生命力を与えている。
監視が毎日実行されているという状態は、近代社会に固有のものである。それは、近代性を現在ある姿に構成している、主要な社会過程のひとつである。
国際機関は最も早い時期から、統計をはじめとする様々な技法を用いて市民のあらゆる動きを見張ろうとしてきた。
国家が記録と規則のために使った技法と活動は、近代に入って新しい方法で形式化され、合理化された。実際、近代性そのものが部分的に合理化によって構成され、その延長線上で監視が近代性の構成を促した。しかし、どんな方法でこの形式化と合理化が生じたのか、その方法を特定する必要がある。
近代政府の在日統治は個人データの収集・分析に依拠する。近代性とは、権力を産出・維持するに当たって情報と知識に頼ることなのである。そして、これらの情報の多くは個人に関するものだから、個人データへのかくも集中的な注視、すなわち、監視ということになる。監視機能の増大は端的に近代の一側面に他ならない。
西欧の近代では、公的/私的の分割は、ジェンダー化された空間の区分でもある。女性は主として私的なものに結び付けられ、男性は公的領域に結び付けられる。
近代の人狼は、消失したのではなく、植民地化され、飼いならされ、遠隔操作の玩具と化しているのだ。

ログインすると、みんなのコメントがもっと見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

境界と侵犯 更新情報

境界と侵犯のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング