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境界と侵犯コミュの自己愛/対象愛

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ジークムント・フロイト『エロス論集』ナルシシズム入門
・誇大妄想は、対象リビドーの擬制によって生じたものであろう。外界から撤収されたリビドーは、自我に供給され、これによってナルシシズムと呼べるような態度が生まれるのである。しかし誇大妄想は目新しいものではなく、すでに存在していた状態が拡大され、明瞭になったものにすぎないことは、周知のことである。そこで、対象への補給を自らに引き込むことによって生じたナルシシズムは、二次的なナルシシズムとして把握したくなる。これは、一次的なナルシシズムの上に構築されているのである。さまざまな影響のために、この一次的なナルシシズムというものが存在することが、理解しにくくなっているだけなのである。
・人間の心がそもそも、ナルシシズムの境界を乗り越え、リビドーを対象に割り当てるようになる必然性は、どこから生まれるかという問いである。われわれの思考の道筋からは、自我へのリビドーの補給が一定の水準を上回った場合に、こうした必然性が生じるという答えが出てくる。強いエゴイズムが存在すれば、発病を防ぐことができる。しかしいずれにせよ、病気にならないためには(他者を)愛することを始めなければならない。欲求不満のために(他者を)愛することができなければ、病気になるのである。*
* 欲求不満は、通常はリビドーの鬱積によって生じる事態として理解されるが、フロイトにおいては、他者の拒絶によってリビドーの鬱積が生じる場合と、主体の拒絶によってリビドーの鬱積が生じる場合の両方が含まれている。欲求不満によって他者を愛せないという本文の表現は、強いエゴイズムのために自我リビドーを他者に補給することができないことを意味する。


エーリッヒ・フロム『自由からの逃走』
ナルシス的人間は、表面的には自分自身を非常に愛しているようにみえるが、実際は自分自身を好んでいないのであり、かれらのナルシシズムは―利己主義と同じように―自愛が根本的に欠けていることを、無理に補おうとする結果である。フロイトは、ナルシス的人間はかれの愛を他人から斥けて、それを自分自身にさしむけていると指摘した。この説の前半は正しいが、後半は誤っている。ナルシス的人間は他人をも自分をも愛していないのである。


和田秀樹『自己愛の構造―「他者」を失った若者たち』
・フロイトの定義するところのナルシシズムとは「自我へのリビドー補給」である。補給ということばは、難解な精神分析用語の一つだが、フロイトは心のエネルギーを、ある場所からよその場所に移しかえられるものだと考えていたので、(ある量の心的エネルギーを)その場所に(これは対象のこともあれば、自分の体の一部であることもある)結びつけたり、充当することを補給と呼んだ。補給ということばは、充当とおなじような意味だと考えてもらってさしつかえない。
リビドーというのも、よく聞かれる精神分析用語だ。これは、フロイトが仮定したエネルギーの一種で、19世紀からすでにこのことばを用いている。リビドーを性欲と同義に使う人がいるが、その根底にあるエネルギーと解するべきである。そして性欲を精神分析的に正確に呼ぶなら、リビドー的欲動ということになる。
形のないエネルギーであるから、昇華されて芸術をつくる原動力になったり、それがうまく解放されずに心に貯まると神経症の症状を引き起こしたりする。さらにフロイトが死の本能の理論を打ちだして以来、生の本能にまつわるエネルギーのことをリビドーと呼ぶようになった。性欲のことをリビドー的欲動と呼ぶのにたいして、死の本能にしたがった欲動は、攻撃的欲動というわけである。
要するにナルシシズムとは、性的なエネルギーが自分の外の対象ではなしに、自我に向かう状態ということになる。
・「ナルシシズム入門」では、対象を自分自身とみなすことで人を愛する自己愛的な対象選択についても、フロイトは言及している。
(自己満足が生じるような美人の女性の場合)男性が彼女を愛するのとおなじような強さでもって自分自身を愛しているにすぎない。彼女が求めているのは愛することなのではなくて、愛されることであり、このような条件をみたしてくれる男性を彼女は受け入れるのである。
・ 私自身の観察は、別個のほとんど独立した二つの発達経路を想定するなら、実り多く、かつ経験的なデータとも一致する、という確信へと私を導いたのである。その一つの経路とは、自体愛から自己愛を経て対象愛へと至る道である。もう一つの経路は、自体愛から自己愛を経て、自己愛のより高度なかたちへの変形へと至る道である
この二つの発達ライン論は、基本的には自我にリビドーが向かうと、その分、対象にリビドーが向かわなくなるというフロイトのエネルギー経済論への反駁である。つまり、自己愛的になると対象関係が欠如する方向性に向かうことなどはないという明確な主張なのだ。コフートにいわせると、自己愛的な心的生活を送っている人でも対象関係は保たれていることはめずらしくない。共感を用いて内的生活を観察してみないと、その人の対象関係などはわからないのである。
 こうしてみると、自己愛の反対は、対象関係でなく、対象愛である。したがって、社会分野の観察者の眼には、ある個人が対象関係に満ちていたとしても、その裏には自己愛的な経験様式が隠れているかもしれない。逆に、ある人が一見、孤立して孤独だとしても、そのことがかえって、豊かな対象補給の舞台になっているかもしれない
 対象関係は対象愛とは同じではありません。他者を愛することと無関係なばかりか、自己愛的な目標に役立つような、そうした対人関係だってたくさんあるのです。
・1977年に発表した『自己の修復』においては、「愛の対象が同時に自己-対象でないような成熟した愛は存在しない、と主張することに私は躊躇しない」と明言している。つまり純然とした対象愛などというものは存在しないと断じているのである。
このようにコフートは、自己愛を高度なかたちの自己愛に変形させるという治療あるいは発達の方向性を明確に打ちだした。
・では高度なかたちの自己愛とはどういうものなのだろうか。
コフートは当初、自己愛の変形あるいは昇華に重点を置いていた。
 自己愛の構造の再成形が起こり、それらがパーソナリティの中へと統合されていくようになる。
 すなわち、理想が強化され、ユーモア、創造性、共感、英知といったような健康な自己愛への変形が、ごくわずかでも達成されてくる。
コフートにいわせると、芸術家や科学者の創造性も、自己愛補給によってエネルギーを与えられている。この見解を裏づけるように、彼が分析してきたいくつかのケースで、分析がうまくいきだすと、自己愛補給を創造的な活動に向けるようになったのが観察されている。それによって、非社会的だった自己愛構成体が意味ある芸術的、科学的創作意欲に究極的に変形していくのである。
・コフートは、この『自己の分析』のなかでは、自己愛の変形を、もう少し緻密に定式化している。小さな子どもは、自分は完全で世の中は自分の思い通りになるものだと感じているが、母親がすべて自分のニーズを満たしてくれるわけではない(ほしいときに母乳をくれなかったり、自分を抱いていてほしいときに抱いてくれないなど)ので、それまでの完全性を二つの形で置き換える。
一つは、「誇大的で顕示的な自己のイメージ、つまり誇大自己を成立させることによって」(「私は完全である」という機制)、もう一つは、「理想化された親イマーゴにそれまでの完全性をゆずりわたすことによって」(「あなたは完全であるが、しかし私はあなたの重要な部分である」という機制)、である。
コフートにいわせると、この二つの自己愛構成態は、「最初から併存しており(略)ほぼ独立的なその発達の道筋はそれぞれに分けて検討してもさしつかえない」。
そして、前者は至摘な条件下では、顕示性と誇大性が徐々にやわらぎ、だんだん成人のパーソナリティのなかに統合されたり、野心や活動の喜び、あるいは自分がだめだと思うような局面での自己評価の糧を供給するようになる。後者のほうも、理想化された超自我として取りいれられて、生きる指針を我々に与えてくれる心的機構の重大な構成要素となる。
そして、このような形で自己愛構成態が発達したり、変形することなく、子どものままの形でいるのが、後述する自己愛パーソナリティ障害の基本型であるというのがコフートの当時の結論だった。
・『自己の分析』は一冊全体が、この自己愛パーソナリティ障害の治療論に費やされているが、それがアメリカ精神科エキスパートの選ぶ名著の三位に入っているのだから、自己愛パーソナリティ障害の治療がいかに重視されていたかわかるだろう。
・4 自己愛パーソナリティ障害(軽蔑にたいする過敏性や心気症や抑うつという自己変容的症候という形をとってあらわれる自己の一時的崩壊)
5 自己愛行動障害(性倒錯や非行などの外界変容的症候という形をとってあらわれる自己の一時的崩壊)
4と5が、コフートが『自己の分析』では、自己愛パーソナリティ障害として扱っていた、広い意味での自己愛パーソナリティ障害である。このうち、5の自己愛行動障害のほうが、誇大的で共感能力に欠け、傍若無人な態度をとるという点で、一般的に自己愛パーソナリティ障害と考えられるものに近いだろう。4の自己愛パーソナリティ障害は、自己愛の傷つきをおそれ、むしろ対人関係からひきこもる場合もある。この場合は、外から見ると、スキゾイドの患者とそう変わらなく見えるかもしれない。
・私の留学中は、会話が下手なこともあって、つねに(周囲と同等の)「人間でなくなった」という感覚に苛まれていたが、コフートも自らが適応の呪縛から逃れたとき、重い自己愛パーソナリティ障害の患者が語る「人間でない」という感覚を理解できるようになったのだろう。こういう患者に、コフートは自分もおなじ人間だと感じさせることを通じて、「他の人間のなかにいる人間である、という感情の確証」を与えるのが精神分析の仕事だと気づいたのである。
・コフートが自己分析と、自らの臨床体験と、そして自らの人生体験からたどりついた最後の結論は、精神分析とは、あるいは精神的治療の本質的ゴールとは、自然な「人間」であるという感覚のもてない人に、おなじ人間であるという確証を与え、人間として自然に生きていていいのだという感覚をもう一度もてるようにしてやることだった。それが、コフートが私を魅きつけた最大の原因なのだろう。

コメント(2)

「補給」と書いているのは「備給」の間違いだと思います。
ヘルマン・ヘッセ「荒野のおおかみ」から
彼の全生涯は、自分自身への愛なくしては隣人愛も不可能だということを示す実例、また自己憎悪は、どぎつい利己主義とまったくおなじものであり、結局はまったくおなじ恐ろしい孤立と絶望を産み出すものだということを示す実例となりました。

エーリッヒ・フロム「愛するということ」から
他人にたいする態度と自分自身にたいする態度は、矛盾しているどころか、基本的に連結しているのである。これを愛の問題に重ねあわせてみると、他人への愛と自分自身への愛は二者択一のようなものではないということになる。それどころか、自分自身にたいする愛の態度は、他人を愛することのできる人すべてに見られる。原則として、愛は、「対象」と自分自身とのあいだのつながりという点に関していえば、分割できないものである。

斎藤環「ひきこもりはなぜ「治る」のか?―精神分析的アプローチ」から
自信とは、自分に対する肯定的感情です。つまり愛の一種です。では、どうすれば自分を愛することができるでしょうか。がんばって立派な社会的地位を得ること?そうではありません。それは過程にすぎません。自分を愛せない人が、それでも自分を愛するためには、まず他人から愛されなければなりません。そして他人から愛されるためには、他人を愛さなければなりません。自分を愛することができない人は、しばしば他人を愛することもできない。ならば、どうすれば他人を愛することができるのでしょうか。難しいことですが、決して不可能ではありません。愛すべき他者との出会いを遠ざけないようにすることです。他者との親密な関係抜きでは、なかなか安定した自信は回復できません。

村上春樹「1Q84 BOOK2」から
「僕には一人の友達もいない。ただの一人もです。そしてなによりも、自分自身を愛することすらできない。なぜ自分自身を愛することができないのか?それは他者を愛することができないからです。人は誰かを愛することによって、そして誰かから愛されることによって、それらの行為を通して自分自身を愛する方法を知るのです。僕の言っていることはわかりますか?誰かを愛することのできないものに、自分を正しく愛することなんてできません」

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