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境界と侵犯コミュの死者/ゾンビ・妖怪・異人/生者

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ジジェク『斜めから見る』とボードリヤール『象徴交換と死』と赤坂憲雄『異人論序説』と大澤真幸『戦後の思想空間』と竹田青嗣『エロスの世界像』と松木真一『無の克服の思想』とネットで見つけた論文(修士、博士)の引用と改造です。
ゾンビ・妖怪・死者の帰還と言っても実際に存在するとは思っていなくて観念での話です。



死の観念的出来事は想像界のものである。
死者の帰還は象徴的儀式、すなわち象徴化の過程が乱れていることを示す徴候である。
死者の帰還は、伝統のテクストの中にはその死者の場所がないということを意味している。
精神分析では、意識に上らない、意識的な表象の中に現れない事実を説明する二種類の心の操作があると考えられているんです。一つは排除、一つは抑圧です。抑圧と排除はどう違うかというと、もちろん排除のほうがより一層徹底しているわけです。つまり、抑圧というのは心の中の表象として記述されるんだけれども、その上で記述したことを無意識のほうに圧しやるという操作です。それに対して排除というのは、記述すら起こらないんです。きちんとした表象の中に記述すら起こらない。
グロテスクなものは疎外された世界である。
グロテスクなものは不可解な、非人称的なもの(エス)の表現である。
バタイユのエロティシズムについての考察には、それまでには見られないひとつの興味深い特質がある。
それは、人間のエロティシズムの欲望の根には「死」の問題がつきまとっているという洞見である。
エロティシズムにおいては単に美を求めることではなく、美の「神聖」をけがすことが目指されている。
美を犯しけがすこと、それが意味しているのは、美という禁じられたもの=「聖性」のしきいを踏み破ることだ。
そしてまたこのことは、じつは、恐るべき虚無としての「死」ではなく、聖化された領域としての「死」に、一瞬触れることを意味している。
このことによってエロティシズムの欲望は、「死の不安の乗り越え」の幻想を人間に与える。
「犠牲の中の死と同様に、性交の醜さは死の不安を呼ぶ。しかし、その死の不安が一層大きくなれば(略)制限を乗り越える意識は一層強く、それが熱狂的な喜びを決定的なものにする」、と。


規律権力とは、単に法の順守を要求するにすぎない法的権力と違って、生産性とか安全性といった観念を用いて社会全域の規格化を実現するものである。
規格化された国民同士が価値観を共有し、規格化されていない個人を共同体から排除するような圧力を作り上げる。
象徴の宇宙はまた、様々の格を様々の現象に割り当てることによって、ヒエラルヒーを定義づける効果を持っている。
こうした格付けの中で普通と異なる人間に人間外、或いは人間以下という烙印を施し排除する。「内側」の秩序を確認するために「人間以下」が強調されるということになる。
河童のイメージにはさまざまな属性がありまして、そのすべてがそれからきたとはいえないと思いますが、かなりの部分が「川の民」つまり周囲の人びとから「非人」「河原者」として賤視されてきた人びとについてのイメージからきているのではないだろうかということなのです。人間と動物の境界を侵犯する名付けられざるモノ、つまり異形の身体が、河童という民族的名称をあたえられて排除される。排除されるべき生け贄=<異人>の周辺に妖怪イメージを惹き寄せる。
妖怪というのは人間集団の外部に、「われわれ」集団の外側にいるもので、妖怪は「われわれ」集団の外側にいる「かれら」集団もしくはカテゴリーを形成しているわけです。妖怪とは内側の存在ではなくつねに外側の領域の存在なのです。
他者性というのは外集団あるいは外の領域に属していて、「われわれ」の仲間ではないということです。
たえまなしに再生・反復される共同性の深部には、ただひとつの例外もなく、社会・文化装置として<異人>という名の“排除の構造”が埋めこまれ、しかも、同時にその存在自体がたくみに秘め隠されている。
端的に危機であるとは、その由来に即した意味、特に分離とか分断の意味において理解される。即ち、死に直面した生は、死に直接に面するところで、分離され分断される。生は、どこまでも生であることのそのままで、死に面して死の側に引き離され引き裂かれる。そのような裂け目が、生自身のうちに生じてくる。
実存がその正体を顕わにする場は、言うまでもなく実存が絶えずそれ自身としてある、という自己同一性のところである。実存は、そうした自己同一性を保つために、自己同一性を壊すもの、従って実存を脅かし否定するものをまさに排除する。実存を脅かし否定するもの、即ち死とか無をまさに排除する。排除するということが、自己同一性を保つ方法である。
古ゲルマン社会では、宗教上の犯罪や謀反などのために、共同体の内部における友愛関係を失った者は“森の放浪者・人狼”として共同体の境域外に追放された。かれら制外者はヴァルクとよばれた。
この言葉は、制外者・平和喪失者の意味をもち、本来の語義は絞首刑執行者・狼であったという。
ヴァルクという呼称はまた、罪人を絞首刑にあたいする人狼に変身させる呪術=法的な、宣告の言葉であった。共同体をおわれたヴァルクは、親族ないし血縁共同体のすべての義務・紐帯をとかれ、社会的な真空地帯である荒野や森をさだめなく漂泊する者となった。この狼の顔をもつ<異人>ヴァルクは、古ゲルマン共同体の人々によって、反社会性・疫病・破壊などあらゆる「悪」の体現者とみられていた、という。実際、原生林や荒野といった人跡もまれな社会的真空地帯は、「匪賊」たちの跳梁する空間であった。
ヨーロッパにおける賤民の系譜は,古代世界を別にすれば,初期中世の〈人間狼(人狼)Werwolf〉までさかのぼることができる。人間狼とは,氏族団体(ジッペ)の平和を乱す人間が,氏族団体から追放されるとき(平和喪失)に呼ばれた名称である。平和喪失を宣告された者は死者とみなされ,その妻は未亡人,子は孤児とされる。氏族団体から追われた者は人間世界のなかに住むことを禁じられ,森のなかに入ってゆくが,彼らすべてが森のなかでのたれ死したわけではない。狼の皮を身にまとい,似たような運命の者が集団をなして暮らしていたとみられる。後の伝承によると,十二夜ZwÅlften のころに狼の皮をまとった人々の群れが夜中に村を訪れるという。村人は戸口に塩や食糧を用意して戸をかたく閉じて彼らが通過するのをまつ。中・近世の〈荒野の狩人 wilde Jagd〉の伝説は,死者の軍勢とされているが,彼らも人間狼の後裔とみられる。
氏族団体構成員は,本来自分たちだけを〈人間〉とみなし,氏族団体の外部の者を人間とはみなさなかった。氏族団体から追放された者をも死者として扱ったのである。こうして死を媒介にして〈人間〉から差別される存在が生まれたのである。
死者と生者の連合をくじき、生と死との交換を破壊し、死から生を分離し、死と死者を禁制でうちのめすこと、それこそまさに社会的管理の出現のための第一の要点である。死がもはや自由にされず、死者たちが、未来の死刑を待ち受けながら監視下におかれる場合にはじめて、権力は可能になる。これは根本的な掟であって、権力はこの掟の門の守り手である。根本的な抑圧は、死の抑圧であり、社会的なものである。権力は生と死との間の障壁であり、生と死の交換を中断する命令であり、両岸の間の通行税や検査所である。

コメント(6)

浅田は「構造と力」の中で「異人」を「言葉の通じない者、血のつながらない者」としているけど、民俗学で言う「異人」とは外国人という意味ではなく、「「われわれ」集団と異なるから共同体から疎外された者」という意味であり、言葉が通じて、血縁関係があったりしても「われわれ」集団と異なるから疎外されたり追放されたりした者、という意味。
2ちゃんねるでの拾い物ですが、この人は小野不由美の『屍鬼』を読んでいると思われます。

もしも自分がゾンビ映画の世界の住人だったら・・・
129 :名無シネマさん :02/08/17 04:46 ID:Sni+dmgA
ゾンビを支配して現代のネクロマンサーとして生きようとするやつも出てくるはずだ。
ゾンビに行動パターンや法則があるというのならそれをいち早く読むことが出来る奴が勝利者。
一方その頃、俺は家族とともにシェルターの中にいた。
おやすみ。
163 :名無シネマさん :02/08/20 17:59 ID:E5epoHh5
 ロメロが描いたゾンビ世界では、死者が蘇り始めた「運命の日」から3ヶ月で事態に収拾つかなくなり、危険な都市部からピーター達はヘリで脱出した。
 >>162氏が言っている様に、確かに一日10人程度の死者ならばあっという間に撲滅できる数ではある。しかしこのスレの上でも書かれていたが、問題は死者が人間を襲い、襲われた人間もゾンビと化してしまうという現実を人間が認識出来るかどうか。その不条理な現実をなるべく早い段階で認識し、死者の頭を破壊もしくは胴体から切り離すという最も有効な処理を特別措置として国が地方団体へどのくらい早く命令できるかどうかに掛かっているね。
そこにはかなりタイムラグが生じるのではなかろうか?
 死者が蘇り始めた初期段階では、死体が安置されている病院を中心としてゾンビが蔓延するとみた。医療関係者が犠牲になる被害が全国で拡大するだろうね。
http://tv.2ch.net/test/read.cgi/movie/1026401210/
スラヴォイ・ジジェク『斜めから見る―大衆文化を通してラカン理論へ』から
死者たちはなぜ戻ってくるのか?ラカンが出した答えは大衆文化に見出される答えと同じである。すなわち、彼らが正しく
埋葬されなかったからである。つまり、彼らの葬式はどこか間違っていたのである。死者の帰還は、象徴的儀式、すなわち象徴化過程が乱れていることを示す徴候である。死者は、未払いのままの象徴的借金を取り立てるために戻ってくるのだ。これが、ラカンが「アンティゴネー」や「ハムレット」から引き出した基本的教訓である。
死者/ゾンビ・妖怪・異人/生者

異界/境界/共同体
死/カオス/象徴秩序
現実界/想像界/象徴界
が当てはまるように思います。

ジジェクの解説本では
三階級からなる階級制度を考えるとき、じつはわれわれが直面するのは<現実界><想像界><象徴界>というラカンの三つ組みなのではないか?
という言葉が出てきますが、これはぴったりかもしれません。
民俗学(文化人類学)関係の人でこういう主張をしている人っているのでしょうか。専門外の知識まで手を出す人って少ないから案外いなかったりして。
2ちゃんねるからの拾い物です。

境界
1 :天之御名無主 :2001/01/24(水) 19:22
彼岸と此岸を隔てるものとは、一体なんだろう?
3 :天之御名無主 :2001/01/24(水) 21:41
この話題おもしろい。きっと膨らみますよ
29 :15:2001/01/29(月) 13:52
>>16=27
お話はわかりますけれども、それと「山の頂点を境界とする」という御自身の
説とは、少し関連性が薄いように感じられるのですが……

「地点」を境界とするとしても、山のふもとの神社などが境界と考えられなくも
ありませんし、また、「山に踏み入る=異界に踏み入る」であったと考える方が、
自然と思われます。なぜなら、説話に「山に踏み入って異形のものと出会う」
ものは多く見られても、「山の頂上を越えると異形のものと出会う」というものは、
わたしの勉強不足かもしれませんが、あまり聞いた覚えがないからです。

これは差別の歴史などに詳しいお方にお聞きした方が良いとは思いますが、
山に定住する職の人たちを余所者、人外の者として差別した事例はなかったで
しょうか?(いわゆるマレビトなど)
つまりそれは、中世、山そのものが、人間の住む場所ではなく異界で
あったことの印だと――唱えられていたと思います。ソースがなくて申し訳ありません。

……すみません、民俗学で語り尽くされていることだったとは思うのですが(^^;
37 :29:2001/01/31(水) 04:44
>>34
視界に入っていることと、実際に「此岸」として認識することは違うと思いますよ。
「異界=目に見えない地帯」ではなく、むしろ視界に入り、なおかつ踏み込むことが
できないからこそ山を異界として認識するわけです。
わたしの「あの山の向こう」という言い方も短絡的で悪かったのでしょうが……

映画「もののけ姫」でもありましたが、開拓・植林という人の手が入る以前の山は、
基本的に人間の住む場所ではなく、人間は山には(狩猟・採集は別として)立入らずに
棲みわけを行ってきていました。
「もののけ姫」は、棲みわけていたはずの人間が、産業の発達によって、山という異界を侵し、
神殺しを行う話なわけです。
映画の中に登場する「獣の皮をかぶり獣に成りすます地回り」などは、当然、異界と
こちらの世界を行き来する人間ということで、差別や嫌悪・畏怖の対象になったでしょうね。
57 :1:2001/02/02(金) 20:35
「境界」というのを、あくまで物理的なものとして
考えていたもので、こんな風にスレッドが展開していることに
驚きと喜びを隠せないでいます。
61 :続き:43:2001/02/03(土) 02:02
これが、>>51で、
>実は、実際にはこんな単純には言えないですよね。
>時間、空間、あちこちにいろんな意味の境界があるわけですから、
と、書いたことの詳細です・・・。

お断りですが、実は
「境界」というテーマはそれだけで本が何冊も書けてしまう分野なんです。
だから、正直、知ったようなふりして
こんな短い文章でここまで大胆に言ってしまう自分が
ちょっと恥ずかしいです・・・。

>大学時代は中古国語学という、もっとも役に立たない学問をかじっただけでして……

僕自身、もう圧倒的に勉強不足の人間なんで、
(専門ですらあやしいのに、専門外はちんぷんかんぷん)
これからもいろいろご指導いただければ幸いですm(_ _)m

・・・・また長くなっちゃったょ・・・(笑
デムパオナ・・・・。
125 :天之御名無主 :2001/08/23(木) 00:11
門の外は恐いよ。知らない世界なんだから。
ずっと内側にいれば安全が保証される。
門の外側である異界は混沌とした危険に満ちた世界だけど
同時に新たな創造力を秘めた世界でもある。
236 :天之御名無主 :02/08/15 03:02
先日、深夜の海を見に行きました。

曇天で月も星も見えぬ夜の浜辺で、
灯りの連なる海岸線が途切れ、暗黒としか形容の仕様の無い沖の辺りは
自分の居る場所とは明らかに違う世界が存在しているとしか思えませんでした。

街灯など無い昔に措いては、境界などそこら中に存在していたのでしょうね。
244 :天之御名無主 :03/01/13 14:12
境界と言うのは「こちら」と「あちら」という分断された世界の「あいだ」ではないと思います。
どちらの世界も重なった部分ではないでしょうか。
言い尽くされたことだと思いますが。

>>234
絶対的な境界の場、というのはないと思います。
けれど、我々の意識には確かに共通した「境界」の意識があります。
そこんとこもう少し誰かお話してほしいなー。
331 :天之御名無主 :2005/05/19(木) 22:41:10
マージナルマン参上!
またの名を山口昌男。
「文化と両義性」は読んだ?
348 :天之御名無主 :2005/11/01(火) 00:15:49
鉄塔

非常階段

廃墟
349 :名 :2005/11/13(日) 00:02:33
小松和彦「異界と日本人」
なぜ境界が重要なのだろうか。それはそこが「人間界」でもあり「異界」でもあるという両義性を帯びた領域だからである。人間が異界に赴くときはその境界を越えていかねばならないし、神や妖怪などの「異界」の住人が「人間界」にやって来るときもこの境界を超えてやってくるのである。したがって、境界をさ迷っていると、神や妖怪に遭遇する可能性が高く、また境界に住む者は、人間界と異界の双方の性格を帯びた者としてイメージされることになる。そして、通常の人間が行くことができるのは、この境界までであり、その先は、特別の能力を備えた者、選ばれた者しか行くことができなかったし、多くの人は行こうともしなかったのである。したがって、異界をめぐる物語の多くは、この境界をめぐる物語でもあった。
350 :名 :2005/11/13(日) 00:24:47
赤坂憲雄「異人論序説」
マージナル・マン marginal man にはふつう、境界人・周縁(辺)人・限界人といった訳語があてられる。古典的な定義によるマージナル・マンは、二つ以上の異質な社会文化のマージン(境界・限界)にたたずむ人間を意味するが、広義には集団の成員としての資格や機能を十分に果たしていない人間をさすものとして使われる。混乱をさけるために、わたしたちはとりあえず前者を境界人、後者を周縁人とよぶことにする。
これについて、上野千鶴子がつぎのような興味深い指摘をしている。
 周縁性は境界性 marginality とは少し違っている。境界性とは、ジンメルの異人論以来、多元的な価値体系の「境界」にいる状態をさす概念であり、そこでは複数の価値体系間の競合が問題である。これに対し周縁性は、統合の中心からの距離、統合度の低さを意味する。境界人の心理的機構は葛藤であるが、周縁人のそれは、むしろアパシーや逸脱などのアノミックな態度である。(『構造主義の冒険』)
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/min/980331763/
リンク先は
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/min/980331763/l50
に変更です。

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