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境界と侵犯コミュの幻想我/現実我 私的幻想/共同幻想

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岸田秀「ものぐさ精神分析」から(「種族保存」はスルーで)
・まず、ナルチシズムは人間に特有の現象であり、感覚運動器官がきわめて未熟な状態で生まれてくるという人類の特異な生物学的条件に由来すると思う。生まれおちたとき、人間の幼児は、現実を知らず、対象を認識できない。現実と非現実(幻想)の区別、自己と対象の区別は存在しない。あるいは、現実は非現実の、対象は自己のなかに含まれ、渾然一体となって不分明な全体を形成していると言ってもよい。この状態が、ほとんどそのままの形で、生後ほぼ一年間つづく(不完全な形では、ある意味で一生つづくと言える)。
長期にわたってこの状態がつづく結果、人間の衝動生活と人格構造に、永久に消えない特殊な歪みが生ずる。すなわち、人間においては、そのナルチドー(別に新語をつくる趣味はないが、精神分析には、性本能のエネルギーを呼ぶのにリビドーなる用語があるけれども、個体保存本能のエネルギーを呼ぶ適当な用語がないので、かりにナルチドーと呼んでおく)は、まずはじめに、(現実と区別されていない)非現実の幻想のなかの(対象と区別されていない)自己と結びつく。本来なら、現実的自己(以下、現実我と呼ぶ)の保存のために使われるべきナルチドーが、非現実的自己(以下、幻想我と呼ぶ)の保存の方向へ逸脱する。わたしは、ナルチシズムを、幻想我の保存にナルチドーが向けられている状態であると定義する。それと対比して、ナルチドーが現実我の保存に向けられている状態がエゴイズムである。
・エスの幻想は私的幻想である。エスの幻想の世界に住んでいるかぎり、各人のあいだにいかなるつながりもあり得ない。その状態は、いわば、それぞれ勝手な空想に耽って自慰をしていて、おたがいに相手には無関心な男と女のようなものであり、さっきの譬えをもう一度使えば、それぞ酔っ払って自分だけの内的世界に閉じこもり、てんでんばらばらな夢を追っている兵士たちのようなものである。このような男と女に、種族保存へとつながる性行為の形式を強制しなければならない。この兵士たちをまとめて、あの高地を奪取する統一作戦に向かわせなければならない。しかし、エスは現実から遊離してしまっており、二度とふたたび、現実との完全な矛盾なき一致に戻ることはない。本能にもとづく男と女の関係、親と子の関係、家族の関係、集団の関係はもはや失われてしまった。だが、これらの関係を何とかして維持しなければ、人類は滅びるのであった。
ここに文化が発生した。文化は、矛盾する二つの要請を同時に満たすものでなければならない。一つは、曲がりなりにも現実の個体保存または種族保存を保証する形式を提供するものでなければならない。もう一つは、できるかぎり各人の私的幻想を吸収し、共同化し、それに満足を与えるものでなければならない。文化は、前者の意味において、本来の現実の代用品、つまり作為された社会的現実、擬似現実であり、後者の意味において共同幻想(集団幻想と言ってもいいが)である。
かつては本能に支えられていた人間のつながり(男と女、親と子など)は、今や共同幻想に支えられることになった。
・いずれにせよ、人間集団は不安定である。集団は無限に拡大しつづけることはできないし、それを支える共同幻想は各人の私的幻想を完全に吸収することは決してできない。各人に分有された共同幻想は超自我および自我となり、共同化されずに残った私的幻想はエスを構成する。このエスが、共同幻想にもとづく集団の統一性を内部から危くする重大な要因となる。
精神病者は、その私的幻想のほとんどを共同化し得なかった者である。彼は、自分の住む社会の共同幻想をいったんは外面的に受け容れるかもしれないが、それは彼自身の私的幻想と何の内面的つながりのないものであり、彼はそこに彼自身の私的幻想の共同化を見ることができない。また彼は、彼と同じくその私的幻想を社会の共同幻想に共同化し得なかった人たちと組んで別の共同幻想をつくるということもできない(それができれば、彼は、成功するにせよ失敗するにせよ、革命家となるであろう)。彼の私的幻想は、彼一人 の自閉的世界のなかで増殖し、一応適応している偽りの外面をついに突き破って躍り出てくる。はたから見れば、それが発狂である。発狂は、ある意味で、私的幻想の、失敗した共同化の試みであると言える。彼の私的幻想が妄想と呼ばれるのは、他の誰一人としてそこにひとかけらの共同性を見なかったからである。一般の人びとが精神病者を気味わるがり、閉じこめておこうとするのは、彼が危険だからというより、彼らがあまりにも当然のことと信じている共同幻想をまるっきり無視している者を彼のうちに見、彼らの共同幻想が実は幻想なのではないかとの疑いを起こさせるからである。

コメント(7)

自己表現の試行錯誤の中、他者から承認を得る事で培われるのが現実我(自尊心)、他者からの承認と関係無く自己に対する誇大感で満ちているのが幻想我(根拠の無いナルシシズム)、というようにも解釈できるかな、と思ってます。
ひきこもりという現象は、他者との摩擦での自尊心の傷つきに対する恐れや、他者からの承認の供給不足から現実我を放棄し幻想我に固執する現象ではないか、と考えてます。

竹田青嗣「自分を知るための哲学入門」から
ひとは、自分で自分に意味を与えることはできず、ただ他人の視線によって自分の何であるかを決定される。
ひとは誰でも「内面」のうちに他人の知らない「ほんとうの自分」をひそかに抱いているが、生活のリアリティは、いつもこの自分の中のもうひとりの自分を無化するのだ。そこでは自分とは、単に他人が見たところの何ものかでしかなくなる。

個人の中の内的な信念、「正しさ」は、それ自体として生き延ばされても何の意味も持たない。それは、具体的な人間の関係の中でつねにその妥当を試されるときにだけ、またそういう努力の中でだけ、はじめて人間的な信念として意味を持つ。そのように現象学は教えるのである。

自分自身が聴く自分の歌は、他人が客観的に聴いているその歌よりいつもうまく聴えているものだ。これが人間のロマン的幻想のありようである。

竹田青嗣「哲学ってなんだ」から
ヘーゲルによれば、人間の「自己意識の自由」(私への欲望)には一つの逆説がある。それは、「私への欲望」は自己価値への欲望だが、しかしそれは「他者の承認」ということを通してしか実現しない、ということだ。

人間は「自己価値」を、「他者の承認」によってしか、つまり社会的な「承認のゲーム」を通してしかつかむことができない。

人間関係は基本的に「承認のゲーム」である。他者たちから一定の承認を得ることで、はじめて人は自己価値を確認できるし、また一定の社会的地位を実現することができる。どんな人もこのことを暗黙のうちに知っているので、自己のルールと他者のルールを調整しながら生きている。

簡単に言って、人から愛される資質と能力や才能をもっている人は「承認ゲーム」でまずうまくやっていける。これは不公平な現実だが、いまのところこれに文句を言ってもはじまらない。他者との関係でなざかうまくいかない人は自己自身と折り合っていないことが多く、自己了解を試みてみる理由があるわけだ。

他人の声の中でつねに自己のあり方を配慮しつつ進むということが人間の「承認ゲーム」の内実であり、したがってそこに「関係のエロス」の源泉があるということだ。

友だち関係は「承認ゲーム」という性格を強く持つ。親子関係は親のほうからの一体性の幻想があるので、いわばできない子ほど可愛いといったことも起こる。しかし友だち関係はある意味でフェアな承認関係であるから、さまざまな能力がつねに評価の対象になる。なんでもできる子どもはみんなから一目置かれるが、そうでない子はバカにされたり差別されたりする。

友だち関係はつねに「自己価値」を確認しあい、またそのことに挫折する領域でもある。つまり友だち関係は、楽しさを交換しあうエロス関係であるとともに互いの価値を認めあう承認ゲームである、という本質をもっている。
自分のblogに書いて幾つかブックマークされていたのでここでも載せます。


ひきこもり・ニートにありがちな特徴(独断と偏見)
1、積読本(難解系)が多い
2、どんな本や人(難解系)を知っているかという事を示したがるが、自分のそれらに対する具体的な感想はほとんどない
3、学問のどんな分野にも手を広げる(本を積む)がどの分野の知識も初心者どまり
4、mixi で加入しているコミュニティは難解系の人物がずらりと並ぶ
5、はてなアンテナではネット論壇系の人達がずらりと並ぶ。自分の知り合いは含まれておらず、片思いの相手ばかりが並ぶ
6、根拠の無いナルシシズムを生き延ばせようとしている、でも実力を付ける為に努力しない
7、論壇系知識人の追っかけをやっている。(講演会やイベントには参加せず、論壇系の人の新しい出版物が出たらそれに飛びつく、でも感想なし)
8、大学には行ってないが、そこらの大学生より頭がいいと思っている
9、言葉遣いが不自然、感情の豊かさを感じない
10、疎外された経験があり、それで結構傷ついている
11、親に見捨てられたと思った経験がある。子供の頃に親から充分な承認を与えられていないと思っている
12、心の病を患っている人に比べると、心の深い傷らしきものが見当たらない
小此木啓吾「自己愛人間」から
自信があり、優越感をもつ人の方が、自信を失い、劣等感にとりつかれた人に比べて強気だし、頑張るし、ものごとを達成する力を発揮する度合いが高いのは確かです。歴史上、英雄、芸術家、学者で天才的といわれる特別な才能を発揮し続けた人物には、こうした人並はずれて巨大で、しかもその自己愛をみたすために、理想的な自己を実像たらしめようと異常な努力と自己修練を積み重ね、人一倍の仕事を達成したというタイプの人がいます。
たとえばフロイトは、ゲーテの幼児期の記憶の分析の中で書いています。「確実に母親のお気に入りになっていた人間は、一生勝利者の感情を抱き続け、しばしばこの感情が本当の成功を引き起こす原因になり、自分は成功するのだという確信を持ち続ける」と。
――――――
和田秀樹「自己愛の構造―「他者」を失った若者たち」から
アメリカ精神医学会が1994年に発表した精神疾患の診断マニュアルであるDSM−?によると、この自己愛が病的に強い状態とされる自己愛パーソナリティ障害の基本的特徴は、「誇大性、賞賛されたいという欲求、共感の欠如」である。
いずれにせよ、自分にたいする誇大な感覚をもっていたり、あるいは人一倍注目されたいと感じていたり、他人に同情や共感ができないという場合、自己愛的といわれるのは、当然なことである。これは精神科医の理解であると同時に一般の理解でもある。
そして、自己愛の時代といわれるのは、このような誇大的で賞賛を求め、しかも他者に共感できない人が増えているということなのだろう。
増えているかどうかはともかくとして、現代アメリカでは、このような人が往々にして成功者になる。それに見合う能力があれば、誇大性はパワーの源泉になるし、むしろ誇大的でないと、アメリカンドリームの体現者になれないだろう。また他人からの賞賛を人一倍得たいと考えるのはビジネス成功のための秘訣といってよいものかもしれない。さらに他人に同情していては、この厳しい市場原理、競争原理の社会では勝ちぬけない、といわれることも多い。
誇大的自己愛的な成功者たちのおかげで、アメリカは経済繁栄をなしとげた。
――――――
斎藤環「生きのびるためのラカン」から
どうやら「去勢」は子ども時代に経験する一回限りの出来事じゃないんだろうね。その原型は、たしかに幼児期にあるかもしれないけれど、去勢的な体験は、人生において何度も反復されるんだろう。思春期や青年期なんか、とくにそうだよね。自分の幼い万能感に酔いしれたかと思うと、他人の言動であっさり自信をなくしたり傷ついたり。その意味では、他者によって去勢されるという幻想は、生涯にわたって繰り返されるものだ。
第1信  「価値のクオリア」は存在するか?(斎藤環)
※※斎藤環→茂木健一郎※※
ラカニアンにとっての「クオリア」なる概念は、典型的なナルシシズムの徴候、ということになります。証明ができず、「あるとしか言えない(糸井重里)」場所にこそ、ナルシシズムは強く滞留するでしょう。

クオリアという概念が自己愛的に見えるのは、そこに徹底して「他者性」が欠けているからではないでしょうか。

茂木さんが言語の地位を相対的に低く見積もっておられるのは、学説としては一貫性があるのでしょうが、私が感ずる違和感の源泉もまた、ここにきわまるといってもよいでしょう。
http://sofusha.moe-nifty.com/series_02/2007/06/1_108a.html#more

私は茂木健一郎がクオリアの概念を掲げて一般向け科学本の世界に登場しだしたのは、研究者としてナルシシズムの傷つきがあったからではないか、というように考えてます。
東野圭吾「手紙」から
「君たちがどんなにがんばっても、人々のハートを揺さぶることなどできない。なぜだかわかるかい。答えは簡単だ。人々には君たちの曲が届かないからだ。聞いてもいない曲で感動などできない。音楽に大切なものは、それを聞く人間だ。彼等がいなければ、自分たちでいくら納得したものを作っても、それは名曲ではない。いやそれ以前に音楽ですらない。やっていることはマスターベーションと一緒だ」


コピペ改造
「君たちがどんなにがんばっても、人々のハートを揺さぶることなどできない。なぜだかわかるかい。答えは簡単だ。人々には君たちのアートが届かないからだ。鑑賞してもいないアートで感動などできない。アートに大切なものは、それを鑑賞する人間だ。彼等がいなければ、自分たちでいくら納得したものを作っても、それは名作ではない。いやそれ以前にアートですらない。やっていることはマスターベーションと一緒だ」
竹田青嗣「自分を知るための哲学入門」
キルケゴール、ニーチェ、ハイデガーには、人間の共同的な生活世界が、基本的に人間の本来的な自覚、本来的な生の発露を妨げるような“構造”を持っているという感覚があった。
とくにニーチェやハイデガーには、都市の市民社会における大衆文化に対する批判の観点がある。ニーチェは「蓄群」という言葉を使い、ハイデガーは「世人」という言葉を使った。彼はこの「世人」=「頽落」の“構造”を、「空談」、「好奇心」、「あいまい性」という三つの言葉で説明している。
「空談」とは、さして切実なことでもなくとも人々は互いにいつもおしゃべりし合うこと。


ハイデガーは「死の現存在分析」から、人間の「頽落」(=共同的なものの中へのとり紛れ)というあり方を引き出し、ついでそこでの人間の自己了解を「非本来的」な了解と呼ぶ。そして「死への先駆」(=死の自覚)によって人間はこれとは違った「本来的」な了解のありようを持ちうる、と説く。


ハイデガーによると、死の不安をよく自覚すること、これは共同的な理解の枠にとどまっている自己了解の可能性を拡げることになるのである。「本来的」な自己了解とは、うその了解に対してほんとうの了解ということではなく、共同的な自己了解の限界を取り払うことなのだ。
岸田秀は、
私的幻想(集団のエス)/共同幻想(自我および超自我)
というような事を書いてますが、
私的幻想(エス、想像界、理想自我)/共同幻想(自我理想、超自我)
になるのではないかと私は思っています。

http://www.geocities.jp/toku2501/kousiki.html

友だち同士の集団や群れを形成したりできるのは、相手の中に自分の理想とする美徳や憧れを感じるからなんだと思います。

ディディエ・アンジュー「集団と無意識―集団の想像界」という本を最近見つけて気になっているのですが、読んだ人はいないでしょうか。
いないと思うし、いたとしても感想を書いてくれる人がこのコミュニティにはいなそうですけど。

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