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死刑廃止コミュのうちのゼミで福岡事件について11月1日の大学学園祭で発表しました。その発表原稿をアップします。ぜひご覧ください。石井健治郎さんにはご冥福を祈ります

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誤判わが怒りを天に雪つぶて―誤った裁きと処刑・福岡事件の真実

関東学院大学法学部の刑事法ゼミナールは,学園祭の「蒼浪祭(そうろうさい)」で,毎年,その年どしにテーマを設定して,研究報告会や裁判劇を行ってまいりました.第1回は1996年,当時問題になっていたオウム教団に対する破壊活動防止法の適用に疑問を持った学生達の発案で,4つの刑事法ゼミが合同でシンポジウムを開催いたしました.その後,裁判劇の形で,盗聴法や少年法改正問題,脳死状態の人からの臓器移植や精神障害者に対する刑事手続きの問題,戦争犯罪に対する国際法廷や,死刑と裁判員制度の問題など,いずれも幾つかのゼミが合同で研究成果を発表してまいりました.

<死刑大国ニッポン>
今年は,単独企画となりました.テーマは「福岡事件」です.死刑制度の廃止が国際的な潮流となるなか,わが国は現在もなお死刑を存置しています.死刑の是非については,廃止の理由と存置の動機が対立し,両者の溝は簡単には埋まらない状況ですが,殺人事件が戦後最少となるなか,昨年は死刑判決が46件と増加傾向を続け,死刑確定囚として身柄を拘置されている人の数も100人を越えています.死刑存置国でも,死刑執行数は年々減少し,現在の死刑大国は中国の数百人,38州が死刑を存置しているアメリカ合衆国で約40件(その半数は,ブッシュ大統領のお膝元テキサスです),そして日本というところでしょうか.日本の死刑執行は,89年から約4年間執行がなく,10年間執行なしという,いわゆる「事実上の死刑廃止国」への仲間入りが期待されましたが,93年に執行を再開し,それ以降は毎年執行されています.特に,鳩山邦夫法相の就任以来,約2ヶ月に1度のペースで死刑が執行され,今年の執行数は既に13人となり,93年の執行再開以来はじめて10件を超えました.

<死刑存置の論理と倫理>
死刑廃止については,1989年に国連死刑廃止条約が成立しています.しかし,わが国は,日本は特殊な国であり,死刑存置の特殊な事情があるとして,この条約の批准どころか,署名さえしていません.国連でわが国の政府が主張した死刑存置の理由は次のようなものでした.
  「わが国の刑事裁判では,死刑事件においては特に慎重な手続きを踏んでいるので,特に死刑事件に限っては,誤判はありえない.」
これが,死刑存置の理由になるかどうかは別論として,その後,世界でも例をみない,4件の死刑再審無罪事件が明らかになりました.死刑事件に誤判はないという政府の見解は,事実に反していたのです.免田・財田川・島田・松山の死刑再審無罪4事件の後,政府見解は,次のように変わります.
  「わが国は死刑の執行においても究めて慎重な手続きを踏んでおり,死刑の執行の後で,誤判であると判明した事件は未だ1件もない.」
 この主張に対して,会場全体からブーイングが起こったそうですが,現在もなお,無実を叫んでいる死刑囚がいます.袴田事件,名張事件など,いまだ再審請求が認められていない人々です.有名な帝銀事件の死刑囚,平沢貞路も無実を叫びつつ,死刑囚のまま在獄38年の後に病死しました.

<福岡事件とは>
 今年のテーマ,「福岡事件」は,1947年5月20日に発生した事件で,7人の被告人のうち,2人に死刑判決が下されたものです.GHQ占領下における,戦後最初の死刑判決でした.2人の死刑囚は,他の共犯者とともに強盗殺人を計画・共謀したとされ,一人が主犯,一人が実行犯とされて,第一審福岡地裁で死刑を言い渡されます.2人は控訴・上告して高裁・最高裁まで無実を争いましたが,その主張は認められず,死刑が確定しました.
被害者が戦勝国人の中国人であり,旧日本軍の拳銃が凶器であったため,GHQも関心を持ったこの事件は,当時の政治状況もあって,公正な裁判による裁きとは到底いえないものでした.

<無実の叫び>
死刑確定後も2人の死刑囚は無実を叫び続け,他の共犯者も一貫して,強引な捜査による虚偽自白の強制や,裁判での誤った事実認定を主張しました.帝銀事件や後に再審無罪となった免田事件などとともに,戦後間もない特殊な死刑事件として,特に再審の必要性が国会で問題になったこともありましたが,事件から28年後の1975年,2人の死刑囚はその明暗を分かつことになりました.同年の6月17日,実行犯の石井健治朗の恩赦が決定したその日,主犯とされた西武雄の死刑が執行されたのです.

<古川泰龍とシュバイツァー寺の人々>
この事件の不可解さを今日なお,私たちが知ることができるのは,一人の死刑教誨師のおかげです.シュバイツァーの遺髪を託された生命山シュバイツァー寺代表の古川泰龍です.古川泰龍は,福岡事件の二人の死刑囚の教誨師として,二人の話しを聞くうちに,二人の無実を確信し,単身困難な雪冤運動に身を投じます.神戸大学の宗教哲学者塩尻公明など,熱心な支援者を得たとはいえ,それは光の見えない孤独な戦いでした.
当時は今以上に,再審は「開かずの門」でした.家族をも巻き込んだ,精神的にも経済的にも困難を極めたこの戦いの最中,西武雄が処刑されたのでした.この絶望の中にあって,古川泰龍はなお,再審を求める戦いを続け,99年,その思いを達せぬまま,この世を去りました.古川泰龍の宿願は,家族に引き継がれ,弁護士や学生の支援を得て,2005年第6次再審請求を果たしました.

<人間の問題として>
私たちは,福岡事件の真実を広く伝えるためのお手伝いとして,古川泰龍の著した,原稿用紙2000枚に及ぶ福岡事件の『真相究明書』をデジタルデータ化いたしました.
何より,私たちが福岡事件の問題に取り組みたいと思ったのは,実際に元死刑囚石井健治郎に会ったこと,そして,五十年以上にわたって,再審運動に取り組んでいる古川さんご一家の人々に会ったからです.再審問題は,理論や理念の問題ではなく,私たちにとって生きた人間の問題になったからです.

<裁判員制度を前にして>
福岡事件の再審が実現し,無罪が確定すれば,死刑執行後の誤判が判明するはじめての事件となります.福岡事件は,誤判の構造的な問題も含めて,死刑制度の問題を今でも私たちに突きつけています.裁判員制度の導入を目前にした今,日本の刑事裁判の現実を知る必要は,以前にも増して高まっています.福岡事件は,死刑再審無罪4事件と同じく,この国の刑事司法の現実を映す鑑なのです.

1.福岡事件と古川泰籠
「私はわらじがぬがれない。わらじをはいて十年、無実の死刑囚を救うため、私はひとりひとり、町を、村を、訴え、叫び、歩き続けた。一億もの人間がいるのだ。無実の死刑囚を孤立させてはならない。ニ十年先か、三十年先、いつかみんなが知って救い出してくれる。私はそれを信じて、今日も、明日も、歩く、あるく、生涯歩く。たった−人のいのちすら守れない世の中を、私は信じることができない。無実で死刑にならない世の中を、私は信じたい、証明したい。でなければ、私は救われない。生きられない。私はわらじがぬがれない。」
 これは、福岡事件の二人の死刑囚の無実を信じ、再審請求運動に身を投じた故・古川泰龍の言葉です。この言葉通り、古川泰龍はわらじに靴底のゴムを縫い付け、二人の無実を訴えるため、全国を行脚したのでした。

福岡事件の経緯
 福岡事件は、1947年、終戦直後の事件です。当時貴重品だった軍服の闇取引に関与した二人のブローカーが死体で発見されました。警察はこれを強盗殺人事件と断定し,その計画の首謀者として、西武雄,被害者二人を撃った実行犯として石井健次郎他五名を逮捕しました。西は、被害者の二人が軍服の闇取引の相手方であり、被害者から手付金八万円を受け取っていたことは認めましたが、自分は現場にも赴いておらず、殺人が起ったこと自体もあとでわかってびっくりしたくらいで強盗はもちろん殺人とは全く無関係であるとして無実を主張しました。一方石井健治郎は二人を射殺したことは認めたものの、相手が自分を殺そうとしているものと誤信し、これに反撃するために射ったにすぎない。金を奪ってもいないし西とそんな相談もしていない。西から分け前も貰っていない。だから強盗殺人ではないと主張しました。
 しかし、被害者の一人が、戦勝国の中国人であったため,中国の立場に配慮したGHQの圧力もあり、裁判による事件の早期解決が必要な状況でした。その結果は、強引且つ不当な判決でした。拷問その他の違法な捜査と,それによる虚偽自白を有罪証拠とされたのでした。1948年、福岡地裁は西武雄を強盗殺人の首謀者とし、石井健治朗を主たる実行犯としてこの2人に死刑判決を下し、他の共犯者には懲役刑を科しました。1951年、福岡高裁,1956年、最高裁でも,西武雄、石井健治郎の上訴がそれぞれ棄却され,2人の死刑判決が確定しました。

 西の叫びとハンセン病患者の交流
 二人の死刑囚は、死刑執行の影におびえながら,逃れがたい孤独の中、西武雄は、写経と仏画に没頭し、石井健治郎は点字翻訳に打ち込みながら、無実を叫び続けました。西は「自分が写経や仏画に打ち込むのは、被害者への謝罪の気持ちからではない。私は無実であり、人が私の叫びを聞いてくれないので、仏に向かって叫ぶしかないのだ」と語ったといいます。「誤判、我が怒りを天に、雪つぶて」このシンポジウムの標題ともなったこの句は獄中で西が詠んだものです。そこにはいくら叫ぼうと叫び足りないほどの怒りと、無念とが謳われていました。
「叫びたし、寒満月の、割れるほど」これも西の獄中の句ですが、割れそうであったのは、無実のまま死刑囚となった西武雄の心だったのかもしれません。
 当時のハンセン収容施設、「星塚敬愛園」には、西武雄が仏画を売った収益で贈られた梵鐘が残っています。いわれなく人生を奪われたハンセン病患者と、無実で死刑囚となった西という互いの境遇が、強い共感を生んだのでしょう。

古川泰龍という「光」
 2人の絶望の闇に,光をもたらしたのは,教海師,古川泰龍でした。1961年、西と石井との出会いから10年という歳月を経て,古川泰龍は二人の無実を確信します。こうして古川泰龍の、一家を挙げた再審運動が始まるのです。二人の無実を訴えるため、助命嘆願の署名を集め、全国を行脚して托鉢をし、更には、自ら原稿用紙二千枚にも及ぶ「真相究明書」を著しました。
 「九千万人のなかの孤独」という副題をもつ、この「真相究明書」は、高裁判決や、各被告人の証言を綿密に検証しました。
 古川泰龍は、この「真相究明書」を、膨大な資料に埋もれながら書き上げ、謄写版印刷で三百部を刷り上げました。その出版費用を托鉢で集め、法務大臣が変わるたびにこれを送り続けたのです。この著作は現在、古川家に一冊と、国会図書館、静岡県立大学の他に、石川大学に所蔵されているのみです。
 この真相究明書は二人の無実を雄弁に物語るものであり、福岡事件再審請求運動への小さな一助として私達はこれを電子データ化致しました。本日は謄写版のコピーと、私達が打ち直したワープロ原稿を展示してあります。ぜひご覧ください。

明暗
 古川泰龍の渾身の努力と、西・石井の魂の叫びにもかかわらず,1975年,事件発生から28年後,2人の死刑囚はその明暗を分かつことになります。
 福岡事件は,戦前の刑訴法によって占領下で裁かれた事件でした。帝銀事件や免田事件とともに,当時の刑事裁判は,誤判の可能性が高いとされ,国会においても,特別に再審をみとめようとの議論が起こりました。いわゆる「再審特例法案」が提案され,再審の門を広げるべきだという意見が高まったのです。
 時の法相・西郷吉之助は法務省の強い要請を受け、再審の門を広げることは刑事司法制度の根幹に関わるので、これを認めがたいと主張し、しかし、「問題の死刑囚には恩赦を積極的に活用する」と約束するに至りました.
 こうした状況のもとで、まずは二人の命を救うため、古川泰龍は恩赦請求による助命運動を続けていきます。恩赦を待つ2人の運命はしかし、過酷なものでした。1975年6月17日、2人の射殺を認めた実行犯・石井健治郎に恩赦決定が下されたその日、一貫して共謀の事実を否定し,無実を訴え続けた、西武雄は処刑されてしまいます。獄中29年、西武雄の無実の叫びは,無残な形で潰えたのでした。「叫びたし 寒満月の 割れるほど」「誤判 我が怒りを天に 雪つぶて」この西の思いは,法相や司法関係者には,蚊のなく声ほどにも響くことはなかったのです.
恩赦によって無期懲役に減刑され,死刑の恐怖を脱した石井健治郎は、1989年12月8日に仮釈放されました。在獄43年、石井も、齢(よわい)73歳を迎えていました。古川泰龍の再審運動28年目のことでした。石井の在獄期間は、帝銀事件で病死した死刑囚・平沢貞通の38年を抜き,我が国の身柄拘束の最長記録です。
 福岡事件の再審運動は現在も続いています。老齢の石井健治郎はもちろん、西武雄の届かぬ叫びを、今でも受け継ぐ人々がいます。古川泰龍は2000年・この世を去りましたが、その長男・古川龍樹さんをはじめ,古川家の人々がその遺志を受け継ぎました。その間、福岡事件再審弁護団が初めて結成され、デッドマンウオーキングの原作者シスターヘレンプレジャンの協力を得るなど、多くの協力者も現れ、2005年、西の処刑後初の再審請求に至りました。その後,「福岡事件再審を支援する学生の会」も結成され,支援の輪が広がっています.

2.誤判の構造的問題
 福岡事件は,西と石井の2人の死刑囚に過酷な運命をもたらしましたが、2人の有罪の証拠とされたのは、強制され、軽造された虚偽自白や、共犯者の自白でした。 
古来より、「自白は証拠の女王」だといわれますが、この法格言は、残念ながら、現在でもなお日本の刑事司法を支配する原理でもあります.

死刑再審4事件
 しかし、魔女裁判や異端審問の歴史が示すように、強制自白による有罪判決は、多くの冤罪・誤判を生み出す原因となります。
 また、自白偏重型の裁判は、捜査機関による自白追求に拍車をかけることにもなります。
わが国も、この点では痛恨の経験があるのです。免田・財田川・島田・松山の4事件です。
20世紀も半ばを超えて,この4つの死刑確定事件が、彼の再審で無罪とされました。
 これら4つの事件に共通する問題は次の通りです。
 見込み捜査と別件逮捕、代用監獄での長期の身柄拘束と自白の強制、そしてその自白を証拠とする死刑判決でした。こうした自白採取型捜査と、自白調書による裁判は、日本の刑事司法の国際的孤立の典型とされるものです。
 国連人権委員会(当時)や拷問禁止委員会は,このような刑事司法のあり方を,「密室司法」「人質司法」「調書裁判」と批判し、早急な改善を勧告しています。鹿児島の志布志事件、富山の氷見事件は、記憶に新しいことですが、これらの事件は、このような日本の特殊な刑事司法が現在もなお温存されていることを示しています.

密室司法・人質司法
 テレビドラマでおなじみのように、「自白」の採取はたいてい、警察の取調室で行われます。取り調べには勿論弁護人の立会いも認められず、その全過程を録音、録画しているわけでもありません。警察取調べには、第三者機関による監視もなく,文字通り密室なのです。そこでどのような取調べが行われているのか、肉体的・精神的暴力はないのか、それが明らかでないことが問題なのです。福岡事件でも、西、石井のみならず、他の共犯者も、警察で暴行を受けたことを証言しています。密室で記録もない取調室での暴行があっても、これを証明する手段がないのです。
 しかも、この過酷な取り調べは長時間にわたります。逮捕された共犯者のうち、一人は、「朝早くから、夜が明けるまで取り調べられた」と証言しています。死刑冤罪事件の免田事件、財田川事件などでも、十時間を越える取調べがあったといわれていますが、密室であれば、その真偽を証明することができないのです。国際的には、被疑者には取調べを受ける義務はない、というのが常識です。自白の強制どころか、取調べの強制そのものが、国際的には「拷問」なのです。
 自白は、この「密室司法」によって採取されています。それが、わが国では最も有力な有罪証拠とされているのです。
 このように被疑者の身柄拘束は自白獲得を目的として行われます。国際的には、無罪推定の法理によって、保釈は被疑者の権利とされますが、わが国では、被疑者段階の保釈制度がそもそも存在しません。刑事訴訟法では被疑者段階での身柄拘束は最長23日間となっており、国際的にみても非常識な長さです。更に再逮捕、再拘留を繰り返せば、この期間を無限に延長することも可能です。事実、過去には100日以上拘束を続けた記録もあります。例えば福岡事件のような否認事件では、起訴後も権利保釈は認められません。つまり否認している限り身柄拘束が続くのです。こうした実務が我が国では常態化しているのです。いわば、身柄拘束を武器として、黙秘権を空洞化しているわけです。このような身柄拘束のあり方自体、国際的には「拷問」だといわれます。

代用監獄
 この「密室司法・人質司法」の温床となっているのが、警察留置場、いわゆる「代用監獄」です。取り調べ目的のための身柄拘束は違法であり、これを許さないため、国連規約では、捜査機関による身柄拘束を禁止しています。身柄拘束は、警察や検察とは別個独立の機関が行わなげればならないのです。わが国では、法務省管轄の拘置所が各裁判所に付属して設置されており、代用監獄ではなく、拘置所に身柄を拘束すべきなのです。
 警察は、当然に被疑者を「犯人」と考えて逮揺するわけですから、その取調べは苛烈を極め、被疑者に対する人権侵害の危険もそれだけ大きくなります。国際的には,このような危険を回避すべきことが主張されているのですが、「代用監獄」は、この考え方を、真っ向から否定する制度であるといわねばなりません。
 代用監獄での取調べは,外部との交通を遮断して、被疑者を完全に警察の支配下に置き、かれらを心身ともに追い詰め、「自白」を強要するために行われるものです。裁判所が、「自白」を最も有力な有罪証拠とすることの原因となっているのです。
自白偏重裁判
法律の規定では、自白を含む「供述調書」は、特に高い信用性があると認められる場合にのみ、有罪証拠とすることができるとされています。しかし、わが国では、自白調書をはじめとするあらゆる調書が証拠として採用され、国際的には「調書裁判」として批判されているのです。調書裁判の危険は、調書内容の真実性に対する反対尋問がなしえず、その虚偽性を排除できないことにあります。
福岡事件においても、西武雄に対し、白紙の調書に捺印させ、検察官が「自白」を担造したといわれています。
 福岡事件では、別の問題もあります。法律では、自白が唯一の不利な証拠である場合、それを根拠とする有罪判決は許されないとされています。とすると、西の場合、その自白のみでは有罪とすることはできないわけです。西の場合、強盗殺人の計画と共謀が立証対象ですから、まさに「自白」と共犯者の自白が問題となるのです。
 わが国の判例では、共犯者の自白は、被告人の自白に当らず、共犯者自白が被告人の自白の補強証拠とされています。誤判の危険という点では、被告人自身の虚偽自白より。寧ろ、共犯者自白による他人の巻き込みの危険が一層大きいと思われます。そうである限り、判例のこの立場は、やはり疑問と言うべきでしょう。共犯者自白によって、多くの人が無実のまま火刑(火あぶり)に付された魔女裁判の歴史を想起すべきです。
 以上の通り、わが国の刑事司法は、密室司法・人質司法という批判を免れず、裁判所も之を追認しています。いわば、司法自体が誤判構造を内包しているのです。六十年以上前の福岡事件と、現代における菟罪事件の本質的問題は、なんら変わることがありません。我が国の刑事裁判は、公正で信頼のおけるものではないという現状を、私達は直視しなければなりません。

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3.再審要件の問題
 再審という制度は、文字通り、誤った裁判のやり直しを認めるものです。但しそれは、誤って無罪とされた裁判に改めて有罪判決を下すものではなく、誤って有罪とされた冤罪被害者を救う制度なのです。

検察主導の再書                                                                                                       再審請求は、平均して年に十数件といわれ、そのほとんどは身代わり交通事故や、氏名冒用の判明などを理由として、検察側から請求されています。これに対して、有罪確定者からの再審請求が認められることはほぼ皆無です。

狭き門
 刑事訴訟法において、再審の要件について定めているのは、第435条であり、その中で、冤罪事件の実質的な再審要件は第6号です。無罪を言い渡すべき「明らかな証拠が新たに発見されたとき」、これがその要件です。問題は、この「無罪を言渡すべき明らかな証拠」の意味です。
 従来、この「明らかな証拠」とは、その証拠1本で,有罪確定者の無罪を証明するものでなければならない、と厳格に解釈されていました。そのため、米谷事件、弘前事件のように、真犯人が逮捕されたにもかかわらず、そのこと自体で被告人の無罪を証明する証拠にはならない、とされたこともあります。もとより、弁護士や獄中の受刑者には、強制的・組織的な捜査権限などあるはずもなく、彼らが、こうした「無罪を言渡すべき明らかな証拠」を発見することなど、到底不可能なことです。我が国では警察、検察による証拠の全開示の制度も存在しないため、裁判中に明らかにされなかった証拠の中に、被告人に有利な証拠があったとしても、それを再審で利用することもできません。まさに再審とは「狭き門」、「開かずの門」だったのです。

白鳥決定
 しかし、「再審の門」を広げる画期的な最高裁決定が下されました。西の処刑の約1ケ月前の、1975年5月20日、最高裁の「白鳥決定」です。「疑わしきは被告人の利益に」というのは刑事裁判の鉄則ですが、この鉄則は、再審開始決定においても貫徹されるべきだという決定でした。
 具体的には、「無罪を言渡すべき明らかな証拠」の範囲を拡大し、その証拠1本ではなく、裁判中に提出された証拠とあわせて、有罪とするには疑問が残るという程度の証拠であれば、再審を開始すべきであるという基準を示したのです。
 この白鳥決定によって、真犯人が名乗りを挙げた、先ほどの米谷事件や弘前事件も再審無罪となりました。また何より、死刑再審四事件の免田・財田川・島田・松山の各事件も、この決定により、再審が開始され、無罪を勝ち取ったのです。
 しかし、白鳥決定が、福岡事件に再審の門を開くことはありませんでした。西武雄に死刑が執行されたのは、75年6月17日、この白鳥決定からわずか一カ月後のことだったのです。

再び「狭き門」へ
 現在では、ひとたび広がった再審の門も、再び閉じられようとしています。最近では、袴田事件、名張事件、狭山事件など、誤判の可能性の高い事件が、相次いで再審請求を棄却されています。また、一度地裁で再審開始が認められながら、検察の即時抗告によって、再審開始決定が取り消された事件もあります。また、再審が開始された事件でも、横浜事件のように、有罪無罪の判断を回避し、司法が冤罪の責任を負わないという恥ずべきケースもあります。再審という制度自体、もはや絵にかいた餅と化しているのです。
 検察、裁判所は、再審の門を広げると,確定判決をゆるがせ、法の安定性を損ね、延いては三審制という現在の裁判制度を崩壊させかねない、と主張しています。再び再審が「狭き門」となっているのには、このような司法権力の論理と心理が背景にあるといわれています。「無罪を言渡すべき明らかな証拠」を狭く解釈し、「白鳥決定」は事実上棚上げされています。その帰結が、先ほど述べたような再審請求棄却だというわけです。
 なお,2008年10月31日、横浜地裁で横浜事件の再審開始決定が出されました。拷問による自白強制を認め、それは「無罪を証すべき新たな証拠」だと判断したわけです。再審法廷では、今度こそ有罪・無罪を判断し、司法の戦争責任も含めた判断を期待したいものです。
4.福岡事件の再審の問題点
 福岡事件の再審において特徴的なのは、既に西武雄が処刑されているということです。免田、財田川、島田、松山の各事件は、二十年、三十年の時間が必要であったとはいえ、再審無罪を勝ち取り、生きてその無実を晴らすことができました。しかし、誤って無実の人間を死刑にしたとあれば、回復不能の刑罰という死刑制度の根幹に関わる問題が浮上し,死刑の存在自体を揺るがす事態が生じます。そのため、再審開始決定を勝ち取るには、従来のこれら4つの事件以上の困難が予想されます。

福岡事件における再審の問題
 また、この福岡事件は、別に真犯人がいるという事件ではありません。問題となるのは、西、石井らの間に、強盗殺人の計画があったか否かです。血痕鑑定や凶器の特定といった新証拠による無罪証明はできません。新証拠として提出できるのは、石井健治朗や他の共犯者の証言しかないのです。
 しかも、事件発生から既に60年以上が経過しており、事件関係者の中には、既に他界した者も多く、石井健治郎も既に91歳という高齢であり、事件そのものが風化の度合いを強めています。場合によっては、事件関係者の死亡によって終結させられるかもしれないのです。福岡事件の公判記録は,2006年に発足した、「福岡事件を支援する学生の会」によって電子データ化されています。しかし、裁判官の悪意的な事実認定や、強引な訴訟指揮に対する西・石井らの異義は、恐らく意図的に削除されたようであり、そこから新証拠を見出すのは,不可能ではないにせよ、きわめて困難なようです。

福岡事件における「新証拠」
 今回の再審請求において提出されている新証拠は大きく分けて二つです。一つは、供述の信用性です。「西との間に共謀はない」という石井健治郎と、他の一人の共犯者の証言のほか、事件全体の供述を心理学的に分析した、供述心理学の権威、奈良女子大学教授・浜田寿美男の鑑定意見が提出されています。
 いま一つは、手続の違憲性です。九州大学教授の内田博文は、この裁判が憲法に違反する手続きであったという事実を指摘し、この事実が「無罪を証すべき新たな証拠」だと主張する意見書を提出しています。これは新証拠の地平をひらくとともに、裁判所の憲法の理念に対する姿勢を問いなおすという意味も持っています。
 福岡事件は、戦後初の死刑判決でした。その誤判の可能性が高いことに象徴されるように、この事件の再審は、死刑制度の是非、冤罪を生み出す司法の構造といった問題点を含み、あらゆる再審請求と同じく、司法の犯した過ちの責任を問うものなのです。福岡事件は、決して六十年前の過去の事件ではありません。現在もなお続くわが国の刑事司法の病巣はなお治癒されておらず。福岡事件は、未来にも再現されるかもしれない重大な事件なのです。
最後に なぜ、福岡事件なのか?
 わが国の刑事司法は「精密司法」を誇り、その有罪率は99パーセントを超えています。この数字を、皆さんはどう思われるでしょうか?これがこの国の絶望的な司法の状況を物語るものだとは、私達も考えてはいませんでした。

福岡事件との出会い
 私たちが福岡事件を知る直接の契機となったのは、一年前、刑事法入門の講義でした。「福岡事件を支援する学生の会」代表の九州大学大学院生の大場さんによる、福岡事件の再審問題に関する講義でした。それを聴いた私たちの関心は、様々でした。ある者は死刑という刑罰について、またある者は、再審という制度について、それぞれ考えさせられました。
 それから半年。刑事法ゼミナールに所属した私たちに、その考えを深めさせることになったのは、先生の一言でした。「学園祭で福岡事件について、研究発表をしてみたらどうか。」そのとき,私たちはまだ、先生の呼びかけの意味を理解していなかったのです。「とりあえず知っているから、福岡事件もいいか」、「じやあ、やってみよう」。それが、この頃の私達の偽らざる思いでした。福岡事件に対する現実感や、深刻さ、無実の死刑囚・西武雄や、石井健治郎、また、生涯をかけて再審請求運動に取り組まれてきた古川家の人々の思いなど。それらは私達にとって現実の問題ではなかったのです。
 その後、夏休みを前に、ゼミ生の一人が現地での合宿を提案し、2008年9月、三泊四日の福岡事件、現地ゼミ合宿を実施しました。

人間の問題として
 私たちはそこで、石井健治郎と会いました。彼の姿を目にし、その肉声を耳にしました。すでに91歳という高齢の身を車いすに乗せて現れた彼は、瘠せ衰え、写真やVTRで見た姿とは、大きく異なっていました。既に数回に渡り脳出血のため手術を受け、弱りきっている中、意識が判然としないのか、それとも自責や後悔からなのか、「貴方が人を撃ったのは本当ですか」という問いに、彼は沈黙を続けていました。しかし、私たちが「西武雄」という言葉を発したとたん,即座に口を開きました.不明瞭ながら、強い口調で、「西君は関係ない」「西君はなんもしとらんのに、死刑にされたのは、不思議でしょうがない」「何でこんなことになったのかわからん」。「西武雄」という言葉が発せられるたび、石井健治朗は、何度も、何度も、そう繰り返しました。別れ際、震えるその手を握った時、私たちは、この福岡事件を人間の苦しみの問題として、「これを伝えねばならない」という思いを禁じえなくなったのです。
 死刑とは何か。再審とは何か。冤罪とは何か。福岡事件とは一体何なのか。それは理論や学問だけの問題なのか。いや、西や石井にとっては、人間の孤独や苦しみや絶望という現実であり、古川家の人々にとっては、人間の良心と誠実さという現実の問題だったのです。
 今日、メディアの冤罪報道にはこの事実、現実問題の報道がすっぽりと抜けおちています。冤罪・誤判は、特殊な事情によって生じたかのように報じられ、それがこの国の司法に内在する構造の問題であるということは、明らかにされることがありません。精密司法による99%を超える有罪率の裏側には、多くの冤罪・誤判の可能性が隠されています。その一つ一つが、人間の苦悩と孤独と絶望の問題なのであり、それを正すことは人間の良心と誠実の問題なのです。古川泰龍が述べたように、我々は、「たった一人のいのちも救えない、無実の者が死刑になるというこの社会を、信じることはできない」のです。
 そもそも、裁判が人の営みである以上、冤罪・誤判が絶無となることはありません。再審がその救済手段である以上、論理としても、倫理としても、司法はより謙虚に再審の訴えに耳を傾けるべきでしょう。我が国では、未だに死刑制度が存置されています。死刑事件を裁く裁判員制度の導入も間もなくです。死刑冤罪という問題は、それだけ一層、私たちに重くのしかかる問題なのです。それを引き受けることが、人間の孤独と苦悩と絶望を救うことに繋がります。それは私たち一人一人の誠意と良心の問題なのです。福岡事件は、あらゆる死刑事件、再審事件と同じく、人間の良心と社会の良心という現実問題なのです。この、人間の良心なくしては、「私たちはこの社会を信じる」ことはできないことなのです。
企画代表 挨拶
「私はわらじが脱がれない。……たった一人の無実の人間を救うことの出来ない社会を私は信じることが出来ない。」
 古川泰龍が、わらじを着けたままなお歩み続けようとした道は、もちろん冤罪死刑囚の無実を晴らし、彼らを生きて私たちの社会に取り戻すことでした。西武雄が処刑されたとき、古川泰龍は「わが身の半身をもぎ取られた」と慨嘆したことからもそれは明らかです。 確かに、再審請求運動は苦難の道でした。しかし、古川泰龍の歩もうとした道は、ただそれだけだったとは思えません。古川泰龍は、西の処刑後、強制連行により奴隷労働を共用されその命を失った中国の人々の慰霊碑建立に力を尽くし、その法要を営んだほか、南京大虐殺の被害者の法要にも赴きました。西武雄や石井健治郎の無実の叫びが、人々には「蚊の鳴く声ほどにも聞こえない」と嘆いた古川泰龍にとって、西と石井は無実の死刑囚という過酷な運命に見舞われた被害者であるというだけでなく、社会から見捨てられ、放り出され、忘れ去られた人だったのではないでしょうか。それは、「真相究明書」の「九千万人の中の孤独」という副題にも示されています。その一点で、強制連行中国人や、南京大虐殺の被害者と、西・石井は、古川にとって「社会が救う」べき人であり、私達が見捨て、放り出し、忘れてはならない人だったのではないかと思われるのです。
 「たった−人の無実の人間」とは、孤立し、苦悩し、絶望のふちに追いやられた人の謂いでしょう。その「たった一人の人間」を社会は見捨ててはならない、古川は、自らが生きるこの社会が、決して「たった一人の人間」を見捨てる社会ではないということを確信していたがゆえに、そのわらじを脱ごうとはしなかったのです。自らの確信の誤りなきことを、その目で見ることを一番願っていたのは、ほかならぬ古川自身に違いありませんが、その思いは、ついに叶いませんでした。
 「叫びたし 寒満月の 割れるほど」
 無実の死刑囚というわが身の不条理を、冴え冴えとした月も割れんばかりに叫びたいといった西は執行直前の処刑宣告に対し、取り乱すこともなく、静かに落ち着いて処刑場に向ったそうです。遺骨と遺品は古川先生にゆだねたい、また、石井健治朗には「無実を晴らせ」と伝えて欲しい、これが最後の言葉だったいわれています。
 この西の諦念が、絶望のゆえなのか、在獄28年の日々のなかでの覚悟だったのか、自らには光であったろう古川への絶対的な信頼の故だったのか、もはや私たちの想像を絶しています。
 無実のままにくびり殺された西は、「石井を許すことは出来ない」とも語っていたそうです。その石井に「お前の無実を晴らせ」と西は言い残しました。その心が、ともに社会から見捨てられ、放り出され、忘れ去られた者としての共感だったのかどうか、それも私たちの想像の及ぶところではありません。
 石井健治朗が、「西」という言葉を聞いて、ほとんど反射的に「西君は関係ない」「西君は気の毒だった」というのも、自責の念なのか、やはり同じ境遇にある者への共感や責任感の故なのか、その答もわたしたちにはまだわかりません。
「死刑は、あるいは再審は、人間の問題なのだ」 私達にこの思いはありますが、まだ私達は、この言葉を「雪つぶて」とすることも出来ず、「寒満月の割れるほど」に叫ぶことも出来ません。
 死刑はやはり残酷です。しかし、死刑をもつこの社会は、西や石井に過酷な運命を負わせ、彼らを見捨て、放り出し、忘れ去った、残酷な社会なのです。いま私たちが生きている社会は、犯罪者に対するむき出しの敵意と憎悪を、被害者感情とシンクロして、あからさまに表出する社会です。この残酷な社会で、西と石井の無実を晴らすことは確かに困難を極めるのかもしれません。しかし、そこに細い道を拓くのは、私たちが見捨て、放り出し、忘れ去った人々への共感でしかありません。それは、私たちが知っているのに気付いていない自分自身の罪・この社会の罪を自覚することにほかなりません。死刑事件の一つ一つ、再審事件の一つ一つが、その実践だと思うのです。その限りで、私達は、「死刑は、あるいは再審は人間の問題である」と訴えたいのです。
 本日は長時間にわたって、私たちの企画にお付き合いいただき、感謝を申し上げます。また特に、熊本県玉名から、わざわざお越しいただいた、古川龍樹さんに改めて、御礼を申し上げます。『死刑囚最後の日』を読んだときの感想を、自分達の叫びたい思いに昇華させてくれたのは、何より、古川さんご一家との出会いであり、石井さんとお会いしお話をしたという経験でした。あらためて、お礼を申し上げます。
とてもいい研究と発表でしたね。狩魔様isペリカン便さん、ありがとうございました。教わるところが多々ありました。

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