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去年マリエンバードでコミュのホテルに存在する人は?

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ホテルに実際に存在する人は誰?
夫らしき人だけ!で、
女の人が微妙で、
愛人の男性は亡霊!だと思うんですが、どうでしょうか?

コメント(112)

loppy*さん
「コレクション対象」ってのも、嫌な現象ですね。
私自信、模索しながら資料を集めてますが....


evianさん
そう仰られても....
私も、見掛けた事有りませんです。


実はもう一枚ぼろぼろに破れたチラシを以前入手して居りまして、
それは体力がもう少し回復しましたら書き込む事に致します。

もうしばらく、御待ちください。

(コミュの写真がそれです。
      /よく見ると破れているのが分かるかも)
1977年の「プロビデンス」のパンフレットが出てきました。
その中で、仏文学者の岩崎浩氏が寄稿してました。
「レネとロブ=グリエ」ー映画と「ヌーヴォー・ロマン」ー

2ページに渡ってますのでポイントだけでも書きますが、
私ももうしばらく、お待ちください。
2007年07月03日に紹介した『ぼろぼろのチラシです』近いうちに文章を写したいと思います。
何しろ観た通りの代物でして...
触るのも怖い訳ですよね。
u.n.c.l.e.さん

そのチラシ、教科書のように赤線入ってますねえ。
何かものすごく重要そうなことが書いてありそうな!

楽しみです。気長にお待ちしています。
2007年07月19日23:27の写真の「映画のプレス」が
オークションに出てます。
今、出品されている物は比較的きれいの様です....
欲しい.....どうしよう。

と、ポスターも出品されてます。

初めて見ました。

感激です!


世の中に未だ存在するんですね。
u.n.c.l.e.さん

ポスター私も初めて見ました。カラーですねー!
ほんと、よくあったものです。
YAHOO! 
見てきましたよ。映画プレスもポスターも。
うーむ、コメントが難しい。
でも持つべき人の手元に落ちる事を。

マリエンコミュで競いあうのはナンセンスなので、ポスターに参加される方がないなら、行きます。

でも管理人u.n.c.l.e.さんが優先です。
悩んではいますが、ポスターその物に興味は有りません。
しかし....(初)が気になるかな....


それよりも、僕のには『失われた文字』が何カ所か有るから「映画プレス」が欲しいかな。

未だ時間が有るので、動向を見る事にします。
状態はあまり良くなさそうですが、額に入れたらなかなか素敵なインテリアになりそうなので、ポスター入札してみます。
>loppy*さん。がんばれなかったよー。

3,200円から競いましたが5,000円ですごすご退散しました。
相手は自動入札で、どうしても欲しいみたいです。

その方、マリエンコミュにお誘いしたい。
かいせつ
「夜と霧」「二十四時間の情事」などで、映画芸術に新しい世界を開いた鋭才アラン・レネが、”アンチ・ロマン”の旗手と言われる、異色作家アラン・ロブ=グリエ「不滅の女」(62)と協力して完成した記念すべき作品である。

ロブ=グリエは、とある宏壮な情感を舞台に、ある男の愛の情念を、その”主観的”な時間の中に浮き彫りにする緊密な構成を書き上げ、それをもとに、アラン・レネは美しい映画作品をつくりあげた。
この映画が発表されると同時に、ヨーロッパ中の映画界は、文壇から注目を浴び、”映画のみならず、これからの芸術に大きな影響をあたえるもの”として絶賛を博した。
61年のベニス映画祭でも、他の優秀作をしのいでグランプリを授けられる栄誉に浴したのである。
撮影のサッシャ・ピエルニー、音楽のフランシス・セイリッグはいずれも新進の技術者たち。編集を担当したアンリ・コルビは「夜と霧」「二十四時間の情事」などの編集にも携わり、つづいて「かくも長き不在」を監督してルイ・デリュック賞を受けた俊英であうる。
主な主演者は舞台経験の豊かな異色女優デルフィーヌ・セイリッグ、「エヴァの匂い」のイタリア俳優ジョルジョ・アルベルタッツィ、それに、「スパイ」などに出演していた性格俳優サッシャ・ピトエフの三人である。
(十巻  一時間三十四分)


つづく
ロブ=グリエと映画      清水徹
1955年頃を中心として、フランス文学の世界に一群の作家があらわれ、一見した所明瞭な筋書きも無く、主人公の性格・職業・経歴もよくわからず、外界の物事の描写がむやみと詳しい小説を書いた。実はそれらの小説は、それぞれ、小説というジャンルに新しい息吹を取り戻させようとする作者たちの
緻密な方法意識の所産であり、企図するところもたがいにかなり異なっていたのだが、大まかな特徴だけで総括され、”アンチ・ロマン”あるいは”ヌーヴォー・ロマン”と名付けられた。『去年マリエンバードで』のシナリオを書いているアラン・ロブ=グリエは、そうした作家の一人である。

実際、ロブ=グリエの『消しゴム』『嫉妬』などの小説は、ものの描写に満ち満ちている。対象の色、形状、寸法や人物の行動についての綿密な記述に多くのページがあてられ、しかも、伝統的な手法で作中人物を人間的膨らみをあたえて描き出そうとする努力が払われていないために、かれの小説は人間を否定する純粋客観の文学と見なされた。だがそれは、全くの誤解だった。ロブ=グリエの小説の中で、一見きわめて客観的な精密さで記述されるものは、じつは、それらを眺める眼と、それらを再検討する思念と、それらをデフォルメする情念との三重の影響下におかれているのだ。一切の外界は、ある人間の見たもの、想像したものとして記述される。つまりロブ=グリエの小説は、絶対的な客観性の仮面をかぶった完全な主観性の文学なのである。
例えば小説『嫉妬』では、熱帯のバナナ園と、そこに住む二人の男女の動作が、精密に描かれる。だが、その記述は、妻の不貞を怪しみ、真相を探ろうとしてすべてを嫉妬ぶかく見つめる夫の視点よりなされたものであり、客観的描写と思われかねぬのは、夫がバナナ園に現存しながら、物語の表面には全く姿を現さないからである。うちに嫉妬の情念を燃やす夫は、なにものも見落とさない。いかなる映像も夫の網膜にはっきりと焼き付けられる。というか、かれの知覚も記憶も想像も幻覚もすべてが視覚的イメージと化してしまう。このように、夫の意識の上にイメージとして浮かんだものを、その成立の順に記述していったのが小説『嫉妬』なのである。そこでは、断片的な記述が情念の秩序に従って排列され、そうした断章の綜合が、日常的な時間の流れを消し去り、代わりに、めくるめく様な新しい空間と新しい時間とを現出させている。

ところで、意識の上に点滅するイメージを文学によって記述するのが、ロブ=グリエの小説の手法だとすれば、そのイメージをそのまま映像化することによって、同じく『めくるめくような新しい空間と新しい時間』を産む映画が作れるではないか。しかし、小説においては知覚と想像上のものとを等価たらしめる為に描写の精密さが要求されたが、映画における映像とは何より一つの現存だから、その点は遥かにうまくゆくだろう。こうして小説家ロブ=グリエは映画に接近するのだ。

アラン・レネとの協力の相談をうけて、それを快諾した理由は、彼が「シネの作品のなかに、伝統的な原因、結果の連続や、挿話の展開の仕方などにはあまり煩わされずに、純粋に心的な空間と時間を作り出そうとする企てを見出していた」からだと語っている。


男が女に或る過去を突きつけて、彼女を口説く。ーーーこうした関係にある男女の主観を、つまり彼らの知覚や思い出や絶望や苦悩を、すべて主観の秩序に従って映像化した作品。『去年マリエンバードで』とはこうした映画である。だからそれはいわば、主観性のパノラマである。映像が現実のものか想像上のものかを区別する手がかりは、たとえば例えば女の服装などいくつかあるが、いずれにせよこのパノラマ自体は多くの解釈を許すだろう。
だがそれらの解釈のどの一つも決して十全ではあり得ない。そして作者ロブ=グリエが望んでいるのは、ストーリーを抽出しようというような態度をすて、この三角関係−−−女、おそらくその恋人らしい男、おそらくその夫らしい男−−−−という永遠の主題を成立させている「純粋に心的な空間と時間」を感じる事なのである。
(国学院大学助教授・仏文学)
「去年マリエンバードで」について     菅野昭正
例えば、アントニオーニの映画について、ストーリー優先主義を追求し、映画の文法を破壊したという風な評価がしばしばおこなわれている。しかし、この「去年マリエンバードで」に比べる時、アントニオーニの文法を破壊などまるでなまぬるいものでしかない。ロブ・グリエ=レネの緊密なチームワークから生まれたこの映画は、まさに徹底的<反映画>的で或る所に最大の存在理由があるのだ。

もちろん此処にもストーリーらしきものがないわけではない。ある古い城館の跡の豪華なホテルに未知の男が現れ、ひときわ美しい人妻らしい女性に向かって、昨年恋愛関係をもったはずだ))と言い寄る。二人でどこか遠い所へ出((かける))((約束をしたはずだ、彼女は初めは夫以外の))
言葉を拒み、よそよそしい態度を示し((たが))
、やがて奇妙な幻覚の迷路に引きずり込まれて幻想の愛の世界へと旅だってゆくことに((なる。)).....話はただそれだけの事であり、しかもこれはストーリーというよりは、
むしろ映像を展開する為の枠組みとでもいったほうが適切なのだ。

作者の意図を簡単に要約すれば、愛の情念......理性的に割り切る事の出来ない不思議な複雑さを秘めた内部の情念の世界を、映像として
提示する事をめざしているのだと言っても差し支え有るまい。

いいかえれば、アルベルタッツッの演ずる未知の男は突然に襲ってくる不合理な衝動を、セイリッグの役純粋な愛を、ピトエフのそれは愛の情念を制御するものを表しているのだ。この映画は徹底的に<反映画>的である所以外は、普通の映画作品が人間たちのあいだの外的関係のドラマを描いているのに反して、内的な情念の核とでも言うべきそういう深部の葛藤を映像化した点に、眼に見えぬ心理的現実の真相を映像化した点に有ると思われる。人物たちの職業、年齢、身分等々について、いっさい説明が省略されているのもその為である。

内的葛藤を描く映画である事として、此処では画面は始終「心理的現在時」に従って構成されて行く。心理的現在時と言うのは、もちろん時計の針に示される<いまこの瞬間>のことではない。我々自身の内部に成立する現在のことである。それは必ず人物がいま存在している場所において、いまこの瞬間に持続するものでありながら、それらの枠をはるかに飛び越えて、無限の領域を駆け巡る事ができる。時には希望、欲望、幻想、不安といった形で未来を先取りする事も有れば、また追憶、悔恨、反省、幻滅といった形で過去が逆流してくる事もある。要するに、われわれの内部においては、現在、過去、未来が混沌と溶合う心理的現在時がいつも持続しているのだ。

つまり、この映画は未知の男の心理的現在時を映像化した画面から成り立っている。彼が語る去年の思い出に応じて(言い換えれば、彼の内部の追憶という現在時に応じて)作られたシーン。あるいはまた、彼の欲望から生まれたっ幻想を描き出すシーン。心理的現在時は暦の上での時間の進行とは全く別のものであるから、これらの画面の順序も実際のの出来事の順序とは著しく食い違っている。心理的現在時にしたがって従って作られた画面を、もう一度再構成し直して、なにが起こり、どういう経過を経て、どんな結末に辿り着いたかを見分ける操作は観客の一人一人が自分で行わなければならないのだ。
p3
心理的現在時を表す画面は、この映画ではほぼ二つの範疇に区分する事が出来よう。まず(a)は未知の男が喚起する「記憶の映像」である。未知の男は女に向かって去年の思い出をささやきかける。それにつれて、彼の意識に現前する記憶(言い換えれば、現在の意識の中に流れ込んで来た過去)が画面に定着されるわけである。そして(b)は彼の意識を占有する愛の欲望を映像化した画面。女に対する愛の執念に捕らえられた彼の意識には、まだ起こらぬ架空の情景として、欲望が実現した瞬間の幻影が浮かび上がってくるのだ。つまり、その時彼の心理的現在時は不確定の未来の中に侵入している事に成る。これは無論大雑把な分類であって、(a)(b)ともにさらに詳細な小区分をほどこす必要が或るはずだが、最小限この二つの範疇を忘れては成らないと思われる。

ともあれ、「去年マリエンバードで」は、愛の情念と心理的現在時に即して映像化した作品なのだ。様々な点で、この映画はじつに多様に解釈出来る作品である。例えば、未知の男は女の愛を勝ちとる為に、勝手な幻想を吹き込んでいるのだと考える事も可能だし、すべては彼の幻覚の所産で、事実は何事も起こらなかったのだと見なす事も出来る。また例えば、彼は既に死んだ人間で、生前女と知り合う機会のなかったこの死者が、いま愛の執念に憑かれて彼女のもとを訪れたのだとも解釈出来る。作者は一定の解釈を観客に押し付けて、その想像力を縛る事を極力避けようとしているのだから、こうした多様な解釈が生まれルノは当然の事である。芸術作品とは観客を積極的に作品に関与させ、観客の自由な想像力の働きの中で初めて完成に達すべきものなのだ。だから、これが愛の情念の映像化であり、一遍の美しい恋愛詩で有るという基本的な低質さえ認めれば、あとは観客の各々が自由にそれぞれの解釈を楽しめば良いのだと思う。なぜなら、フランスの評論家アド・キルーが述べている様に「これは無理強いに受け入れさせようとするのではなく、提示する映画である」のだから。そしてまた、そこにこそ<反映画>の新しさと未来性が潜んでいるのだから。

(明治大学助教授・仏文学)


(())内は、多分このように書かれているだろう予測文章。

疲れた!
>u.n.c.l.e.さん

長文、お疲れ様でした。

「プロビデンス」のパンフレットはもうしばらくお待ちを。

「去年マリエンバートで」(初)ポスター
12,220 円で落札されました。
(僕じゃ有りませんよ)

ひ、ひぇ〜!!!!。
u.n.c.l.e.さん 遅くなりました。

テキストアップありがとうございますーお疲れさまです。
読み応えあるー

ポスターもすごい金額で落ちたものです。あの方ですか?
evianさん残念。

ところでオークションに出ている映画プレスの表紙
かっこいいですね。
こんなのも有り。
差して新しい事項なし。
映画プレス、大分前に読み終えていたのですが
感想が遅くなりました。

清水徹さん『ロブ=グリエと映画』

正直ロブ=グリエって今まで興味があまりなかったんですが、
これを見たら小説も読んでみたくなりました。
ロブ=グリエとレネの出会いってすごいことだったんだ。
(と、映画ができて半世紀近く経ってから気づく…)
お互いが自分の表現の可能性を、
それぞれ相手側の表現手段の中に見出したわけですよね。

それと、“主観性のパノラマ”という表現が心に残る。
パノラマ、かあ。確かに。
時間的に映画の中のすべての出来事の序列がないとすれば
(これが後の人の言うところの「心理的現在時」ってやつかな)
それはパノラマってことですよね。



菅野昭正さん『「去年マリエンバートで」について』

u.n.c.l.e.さん、違ってると意味がまったく変わっちゃうところ、1箇所発見です。
4段目の この映画は徹底的に〈反映画〉である所以外は、……
というところですが、ここ
 この映画が徹底的に〈反映画である〉所以(ゆえん)は、……
じゃないでしょうか。
もし合っていたらすみません。また、細かい所をすみません。

「心理的現在時」ですよね、この言葉、簡単な事象を
わざとむずかしく言い回して高尚にみせてる気がする(ちょっと批判的)。
でも、うまく言えているとは思います。

あと、これも一つの見方なのかもしれませんが、
“未知の男(X)”が主体となってなっていますね。
映像化のすべては、男の意識から成り立っているようなことを言っている。
女性(A)の主観がないのは気になるのだけれど、それよりまず心理的現在時を
「記憶の映像化」と「愛の欲望の映像化」の二つにきれいに二分しているところが気になった。自分では、これらは浸食し合ってるんじゃないかと感じるんです。
そうして次元を広げるとこんな風にも言えるのでは。
…観客の判断も心理的現在時に含まれている。男にとってのある「記憶の映像」を、見ている観客も、積み重ねられていく映画という経験の中のどこかに置こうとする…

要するに、観客がパノラマの配置順序を決めるということ。
だからこの映画は“今”(観客が映画を見ている今このとき)の映画なんだと思う。
“去年”って何なのでしょうか。
どこにも所属しない概念のブラックホール…?
(真夜中でもないのに少し暴走しました。)
oppy*さん
読んで頂いてありがとうございます。
がんばって、キィーボード叩いた甲斐ありです。
感謝しております。


お尋ねの件ですが、
『まさに徹底的<反映画>的で或る所に最大の存在理由があるのだ。』は、

正確には
『 まさに徹底的に<反映画(アンチ・シネ)>的であるところに最大の存在理由があるのだ。』

(写真1)

微妙なニァンスですが、ご指摘ありがとうございます。
(確実に一字脱落)
何しろキィーボード叩いただけでヘトヘトでしたから〜
チェックもままならず、すいませんでした.....。

尚、この先の文章は[写真3]でもお分かりの様に、私が所有している資料は一部破損をしていますので、
『表現が異なるのでは?』と思う疑問箇所は指摘をお願いします。
(写真2は破損箇所が写っている別のプレスの写真/未所有)

先日書いた2007年08月16日01:01『「去年マリエンバードで」について     菅野昭正』は、
loppy*さんより指摘のあった次の文章(改行2)「もちろん此処に〜枠組みとでもいったほうが適切なのだ。」は写真2、3から推測しての構成に成っています。
特に((.....))で括られた文字は
パズルを逢わせる様に文字と文章を合わせ完全欠落部分で推測です
〜微妙に違うかもしれません。


誰か正確な資料をお持ちでしたらお知らせください。
u.n.c.l.e.さん

お疲れさまでっす。
あの、、、、、、大変言いにくいんですけれど、、、、
場所がちょっと違うかなーなんて思ったりしますけれど、
皆さんもそれぞれで理解されていると思いますので
多分大丈夫。

私も、自分のコメントの引用部分で
“的”が抜けてたり、閉じカッコの位置が違ってたりで
わかりにくくて申し訳ございませんでしたです。

欠落の多い文章をテキスト化するのは大変でしたよね。
改めて感謝します。u.n.c.l.e.さん!
loppy*さん
改めて、訂正!
『所以』です。

本当、すんません、
お恥ずかしい。

loppy*さん、凄いわ!!!!。
去年マリエンバートで
日本公開当時(1962年)の劇場予告編テクスト
    (アクサン記号全く付いていません、ご了承下さい)



1961年ヴェネチア映画祭グランプリ
LA PLUS HAUTE RECOMPENSE DU CINEMA MONDIAL
LION D’OR VENISE 1961
去年マリエンバートで

豪壮な城館---
広大で バロック風
豪奢で冷い装飾の館を
未知の男がさまよい
一人の女性を求め
無限回廊を彷徨する
男は女に
「去年会った」と告げる
憶えてるね
二人は去年
恋に燃えた
その時の約束で
男は 今 女を
連れ去りに来た
女は彼を知らない
嘘です 会ったことは
ありません
女は 会わないと言いはる
あなたと同室したことなどありません
思い出さぬのは
怖れからだ
この写真も憶えてないのか?
女は劣勢になり
未知の男は確証を積み重ねる
どちらが嘘なのか?
男は誘惑者か 錯乱者か
人違いなのか
去年 何が起こったのか
答は 観客(あなた)が決定する
注意ぶかく
物の
動作の
装飾の
態度の細部をご覧あれ
デルフィーヌ・セイリグ
映画至上初めて
観客が共作する映画
映像からあなたが物語を編む
それぞれの感性 性格
習慣 過去の違いで
それぞれ
映像が選択され
嘘と真実が決定される
想像か 現実か
現在と過去が決定される
光と音の運命を
あなたが支配する

真実に関するほんもののゲーム
venez JOUER le VRAI “JEU de la VERITE”

Venez GOUTER…
あなたが体験する
未知のセンセーション
…cette sensation NOUVELLE

立体映画より立体的な体験
MIEUX qu’avec le CINEMA en RELIEF
シネラマ映画より大きな体験
MIEUX qu’avec le GRAND ECRAN

VOUS SEREZ
この映画を観る
あなた自身が
VOUS-MEME
物語の主人公だ
le CENTRE

それはあなたが見たことのない恋物語
…de cette histoire D’AMOUR comme vous n’en avez encore JAMAIS VU…
それはあなたが生きたかもしれない恋物語
…mais comme vous en avez peut-etre VECU…

「夜と霧」「二十四時間の情事」で映画理念を
Un film d'Alain RESNAIS
根底から覆した
アラン・レネと

Alain ROBBE-GRILLET
ヌーヴォー・ロマンの旗手ロブ=グリエが放つ
不滅の映像世界

「去年マリエンバートで」
L’ANNEE DERNIERE A MARIENBAD

去年マリエンバートで
フランス映画社提供 バウ・シリーズ作品
loppy*さん
ありがとうございます。
すばらしいです、映像を是非みたいです。


写真1へ行ってきました。
名称を付けた人は誰なんでしょうね!
原作本を入手しました。

ドキドキものの、ワクワクものです。

古いので汚れは有りますが、気にしません。
存在事態が素晴らしいです。
mixiが揺れ動いてますね
事前処置としまして、
大変申し訳有りませんが、
今月中にコメントの一部を削除させていただいたいと思います。
(記事として貴重と思われる方は、ペーストを御願いします)

主に
著名人の方の文章をそのまま紹介したモノ(復元?したモノ)、私個人の考えや意見でなく著名人の方の文章を引用してコメントが構成されているモノです。



「もしも」のトラブルを避けての処置です、ご了承下さい。

此れからもコミュ「去年マリエンバードで」を宜しく御願いします


u.n.c.l.e.

解りました。ほんとmixiは何を考えているんだろう。

こちらこそよろしくお願いします。
おっ久しぶりです!
と思ったら何か大変なことになってます!?
私がアップしたものも引っ掛かりますか?
すぐ上の予告編とか削除した方がいいでしょうか。

またぼちぼち参ります。
今後ともよろしくお願いします!
注意:ネタバレ有り....

この映画が難解なのは、プロットのせいである。
正確に去年何が起こったのか?、今何が起こりつつ有るのか?、それをはっきりさせれば、この映画の大半を解いたとも言える。

この映画の形式・構造は、記憶の働きの形式・構造で、これらを分析するには、何が主題なのか、記憶は何に働きかけているのか、正確に知らなければ成らない。


『1年前、男Xと女Aとが共に招かれたマリエンバードのある城館で出逢った。XはAの夫Mの前でAと情事に耽る。XはAに一緒に逃げようと何度か説得した後Mに脅かされる。MはついにAを殺し、Xは一人残され悲しみに浸る』


物語は直接には映画の中では語られない。
何故なら、ナレーションがXの心の内部の過去を極めて主観的に再構築してゆく。三人の登場人物が現実あるがままに描かれているか!確信は出来無い。

物語はXのによって回想される。
Aは死んでおり、彼女の<語り>は無い。語っている様に見えるのは、Xが、彼女ならどう語っただろうか?、事実どう語ったか?を想像したり、回想したりしているに過ぎない。彼女が語る部分はどこにも無い。
シーンの大部分は、彼が状況を描写し、私達は彼女が、彼の描写通りに演技するのを観るだけである。


私達(観客)が、画面で見るのは、Mの現実を正確に移したモノでなく、Xの感情の投影かも知れない。
(出淵 博 氏の著書より抜粋)

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